滅亡せし第一次ブログ

放置&引っ越し。基本的に中学時代に書いた記事が残っております。若き日の残照、消すには惜しいゆえ骸を晒す。

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簡略版 張作霖・学良

歴史の記事を書く時、書き方は二つ。
一つは、本などを片手に、多くの情報を加えて詳しく書く方法。
上手くいけば、Wikipediaよりも面白いと自負できるような代物が出来るが、あまり詳しくない人にとってはとっつきにくい。
(なんせ長文になるし)
もう一つは、詳しさを省いて、大まかな概略と流れを書く方法。
以前、奉天軍閥の張作霖・張学良父子の記事を書いた時は、前者の手法に徹した。
(詳しくて面白い本を呼んだあとだったので、どうしても詳しく書きたかった)
が、あの時代の、そして作霖・学良にピンポイントで詳しい、もしくは興味がある人などはそうそういないだろう。
今回は、簡略さ追求してあの軍閥親子を書く。


1911年、辛亥革命が勃発。
皇帝が統治権を放棄し、清朝による中国支配は終わり、「中華民国」が成立しました。
南方で革命を起こしたのは孫文ですが、民国の総帥となったのは北方の袁世凱(清のもと実力者)です。
かといって、袁世凱の政府が中国全土を支配したわけではありません。
清が崩壊した後、地方で力を持っていた清朝時代の軍人たちがそのまま地方を支配するようになりました。
これが「軍閥」です。
彼らは一応「中華民国」帰属する形をとっていたものの、実際は勝手に税を徴収し、周りの軍閥たちと手を組んだり戦ったりを繰り返し、自らの力を蓄えることに専念していました。
「中華民国」といっても形だけ、中身は軍閥たちが内戦を繰り返す戦国時代のような状態でした。

張作霖も、そんな「軍閥」の一人です。
彼はもともと満州の一般庶民の生まれですが、馬賊(馬に乗った盗賊)となり、そのまま頭角をあらわして多くの部下を従える一大勢力になり、そのまま清に仕え、多くの配下を従える将軍となりました。
清が滅ぶと、作霖は民国の陸軍中将になったものの、その実力を駆使して満州(奉天・黒竜江・吉林の東三省)を実効支配する「軍閥」となりました。
当時、満州には日本の権益があり、日本は満州の支配者・張作霖と組むことで満州の権益を守ろうと考え、作霖に武器弾薬の支援や軍事顧問の派遣などを行い、作霖を大いに助けることになります。

日本は、作霖に中国本土の軍閥内戦に参加せず、満州統治に専念すること望みました。
しかし実力をつけた作霖は、万里の長城を越えて軍閥内戦に参加するようになります。
戦うこと数度、そして「第二次奉直戦争」と呼ばれる戦争に勝つと、作霖は中国北方の軍閥の親玉のような有力軍閥となりました。
1926年、作霖は北京で「大元帥」に就任し、自らが中華民国の国家元首であると世界にアピールしました。
もしかしたら、作霖は中国の皇帝になることを夢見ていたかもしれません。

そのころ、中国南部に基盤を置く中国国民党の事実上の総帥・蒋介石が、北方軍閥を打倒し、中国本土の統一のため軍を率いて北上を開始しました。(北伐)
1928年、作霖は蒋介石の北伐軍に敗れ、列車で満州に逃げ戻ろうとしましたが、列車を爆破されて死亡しました。
作霖爆殺を計画・実行したのは関東軍(満州に駐留する日本軍)の河本大作大佐だといわれています。
理由は、作霖を討つため北伐軍が満州にまで乱入して、満州を「中国」の一部に組み込むことを恐れたからだといわれています。

作霖の後を継いだのは、長男の学良です。
彼は、幼いときから英才教育を受け、英吾はペラペラ、軍学校を主席入学・主席卒業したほどの秀才でしたが、薬物(アヘン)と女に溺れ、贅沢な暮らしを行なうという欠点もありました。
父の権力を継承した学良は、蒋介石の国民政府に帰順しました。
学良は国民政府から「陸海空軍副司令」に任じられ、中華民国では蒋介石に次ぐ軍権を持ち、軍権では民国ナンバー2の地位となりました。

作霖・学良父子は、日本の援助を受けて勢力を拡大した一方、領内では極端な反日政策を実施していました。
さらに日本の権益を無視して満鉄(日本が経営する満州の鉄道)に並行する鉄道を作り、満鉄の経営に打撃を与えました。
しかも、満州の住民にも圧制をおこなっちました。
税の7〜8割(9割とも)を軍事費に費やし、税金を5年先まで徴収するなどもザラで、そうして得た金で贅沢な暮らしをしており、民衆にも恨まれていました。

そして遂に、満州事変が勃発。
関東軍の板垣大佐・石原中佐は、軍事行動によって満州の問題を一気に解決しようとしたのです。
関東軍は鮮やかに満州全域を征服し新国家を建国、満州の日本人は言うに及ばず、他の民衆もそれを歓迎しました。
学良は、蒋介石から「抵抗せず撤退せよ」と命じられていたため、軍隊を率いて満州から中国本土に逃げ込みました。
当時、中国本土では反日ブームだったので、中国人は政府高官から都市民衆までが声をそろえて学良を「不抵抗将軍」と罵りました。
学良は民国のナンバー2から一転して「不抵抗将軍」に転落してしまいました。
さらに、蒋介石は学良に共産党征伐を命じます。
満州から逃げてきた学良の軍の士気は低く、学良の軍事指揮も優れていなかったためか、共産党に連敗しました。
学良は、蒋介石を恨むようになりました。
「あいつは、俺を共産党征伐で使い殺そうとしている。おのれ…」

そして、学良はなんと共産党と手を結びます。
当時、共産党は蒋介石に追い詰められ、あと少しで滅ぼされるような状態にありました。
「日本野郎をやっつけろ!」と反日が主流の中国人が多い中、介石は日本よりも共産党の革命のほうがよほど恐ろしいことを知っていたため、排日よりも共産征伐を優先していたのです。
1936年、介石は、前線指揮官でありながら積極的に共産党を攻めない学良を督戦するため、西安(昔の長安)へ飛びました。
共産党と手を結んでいる学良は介石を捕え、「内戦停止、即時抗日」を迫りました。
学良は、「国のためには、内戦よりも抗日を優先しろ!」という「愛国心」を建て前として、蒋介石への恨みを晴らそうとしたのです。(西安事件)
結局、介石は学良の要求を受け入れ、釈放されます。

その後、介石は共産征伐を中止し、翌年勃発した日本との小競り合いを全面戦争に発展させました。
(介石は本心では親日でしたが、「弱腰」と批判され失脚するのを恐れてて徹底抗日を主張したのです)
日本の敗戦後、西安事件によって生き延びた共産党(戦時中、日本との戦争よりも農村に影響力を浸透させることを優先したため、強大な勢力になっていました)との内戦に敗れた蒋介石は、台湾に落ち延びて「大陸反攻」を唱えるものの叶わずに死ぬことになります。

西安事件を起こした学良は、南京に戻る介石に同行して逮捕され、裁判を受けます。
刑を受けた後、特赦されるものの監禁されます。
監禁はその後54年続き、1990年に釈放された後ハワイに移住、なんと2001年まで生きました。
享年100。

蒋介石を打ち破って「中華人民共和国」を建国した共産党は、自らを滅亡寸前の危機から救ってくれた学良を
「民族の英雄」
「偉大な愛国者」
「千古の功臣」
と讃えました。
圧政で民衆の信頼を失い、満州事変で満州を失い、「不抵抗将軍」の罵倒で名誉を失い、西安事件後の裁判で自由を失ったかわりに、張学良は共産党とその支配下の中国人から最大の賛辞を受けることになったのです。
一方、満州を奪った(?)日本は戦争に負けて海外の拠点を全て失い、学良の名誉と自由を奪った蒋介石は中国を失いました。
張学良ほど、歴史の運命の不思議さを示す人物はいないでしょう。


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