滅亡せし第一次ブログ

放置&引っ越し。基本的に中学時代に書いた記事が残っております。若き日の残照、消すには惜しいゆえ骸を晒す。

日ノ本の兵〜歴史論〜

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日本史です。
歴史事実のまとめや、歴史事件、歴史上の人物に対する私の解釈・見方など。
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大道寺政繁

大道寺政繁は領国統治、経済政策に類稀な才覚を持ち、合戦でも幾度も武功を立てた、北条家の名物家老であった。
だが、政繁は「名臣」としてではなく、「裏切り者」として後世に名を残すことになる、「悲劇の武将」なのである。
豊臣秀吉の天下統一の総仕上げとして、北条征伐が開始される。
大道寺政繁は北条家の領国の北方の防衛を一任された。
攻め寄せる豊臣軍は三万五千の大軍、率いるは、
小姓から身を起こし、大大名となった猛将・前田利家
天下に知られた名将・上杉謙信の後を継いだ男・上杉景勝
小大名ながら北条や徳川の大軍にも屈しなかった智将・真田昌幸
といった錚々たる武将であった。
が、大道寺は名だたる名将である。
籠城して奮戦し、敵を支えること一ヶ月に及んだ。
しかし、城の水の手を絶たれた。
もやは抗戦は不可。
最後に全軍出撃し武士の死に華を飾るか、
それとも降伏してお家を存続させ、城には籠っている兵・近隣の非難民の命を救うか…。
大道寺は降伏して城を開く道を選んだ。
降伏した大道寺は、北条攻めの「道案内」を命じられる。
「道案内」を、決して三角の旗を持ったツアーのガイドのようなものとイメージしてはいけない。
この時代の「道案内」は、勝者の軍勢の先鋒として道案内し、真っ先に敵(=かつての味方)と戦うのである。
これを行えば「裏切り者」の謗りは免れないが、家を残し、家臣の生活・領民の命をを守るのは領主の責務である。
それゆえ、大道寺は涙を飲んで降伏し、「道案内」を行った。
大道寺軍は奮戦した。かつての味方を相手に、かつて忠義を尽くした北条家を相手に…。
敵の軍勢からは容赦なき罵声が浴びせられる。
「卑怯者!裏切り者!」
「大道寺だけは裏切らぬと思うたのに!」
「それでも北条の重臣か!」
「畜生にも劣るゲス野郎め!」
しかし大道寺は、もはや感情を押し殺し、行く手を憚るものを蹂躙するよりほかなかった。
大道寺の案内で、北条の重要拠点、松山城・鉢形城・八王子城は陥落した。
ついに北条家の当主・氏直が降伏した。
良心の呵責には苛まれることになるであろうが、「道案内」の戦功を認められ、大道寺家は領主として存続することになる
…はずであった。
が、秀吉は容赦なく大道寺に切腹を命じた。
旧勢力の大身の将など、豊臣政権には必要なかったのである。
大道寺政繁は、腹を切った。享年57。

「私は、北条家に忠義を尽くした名臣として後世に名を残すはずであった。
心ならず主家に刃を向けなければ…。
しかし、我が名声がたとえ地に落ちようとも、我が存念は栄え行く大道寺家に脈々と受け継がれるであろう。
が、裏切りの甲斐もなく、腹を切らされるとは…。
後世のものは、<保身に走った奸臣の自業自得>と私を見るであろう。
俺の人生は何だったのだ?
卑劣漢として名を残すため、57年も生きてきたのか?
いや、降伏によって命を永らえた兵や民は、再びもとの生活を取り戻し、子孫も繁栄してそれぞれの生を謳歌する、
我が生は、我が名誉は、その基(もとい)のために朽ちるものと信じたい。」
てなことを考えながら、政繁は短刀を握ったのだろうか?

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大西瀧治郎中将と特攻

飛行機に爆弾を抱かせ、敵艦へDIVE!
人間が魚雷に搭乗し、そのまま敵艦へ誘導、爆破!

…日本軍が行ったとんでもない戦法、いわゆる「特攻」。
その創始者といわれるのが大西瀧治郎中将である。
実際に特攻を考案した、本当の意味での「創始者」であるかどうかは定かではないが、実際に特攻隊第一号を送り出したのは大西中将である。
大西中将は飛行機乗りあがりの海軍のエリート軍人で、日華事変で敵地爆撃の指揮をとるなど実戦経験もあり、「猛将」という評価も高かった。
学生時代から暴れん坊(?)的な逸話が多い一方、戦死者の追悼式において涙声になり弔辞が読めなくなるなど人情も厚かった。

が、戦局が悪化し、レイテ沖海戦において、大西中将は関行男大尉を指揮官とする特攻隊を送り出すことに。
そのときの訓示は以下の通り。

日本はまさに危機である。
しかもこの危機を救いうるものは、重臣でも大臣でも軍令部総長でもない。
無論、自分のような長官でもない。
それは諸氏の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。
従って自分は一億国民に代わって皆にお願いする。皆の成功を祈る。皆は既に神であるから、世俗的な欲望は無いだろうが、もし有るとすれば、それは自分の体当りが成功したかどうかであろう。
皆は永い眠りにつくのであるから、それを知ることは出来ないであろう。
我々もその結果を皆に知らせることは出来ない。自分は皆の 努力を最後まで見届けて、上聞に達するようにしよう。この点については皆安心してくれ。 しっかり頼む。

「特攻は外道の統率である」
これが大西中将の持論であるが、この不利な戦局を打破するには、「外道の統率」でもあえて行わなければならない。
自分は高級将校でありながら、戦況を好転させることができない。
しかし、まさに今、少しでも敵に打撃を与えるため、若い部下に生還不能の戦法を行わせる。
訓示には、そのことに対する複雑な気持ちが、率直に表れている気がする。
「日本の危機を救うことができるのは、高級将校ではなく、君たちのような若者である」と。

こうして断腸の思いで特攻隊を見送る。
その後、特攻は何度も行われるようになり、陸軍でも行うようになった。
特攻が恒例化するにつれて、特攻が部下を必ず死なせる非常にして非情な戦法であるということを忘れる指揮官もあらわれるようになったという。
そして、今日も明日もあさっても・・・特攻隊は散華する…。

終戦間際、大西は「2000万の特攻をすればアメリカも和平交渉に応じてくる」 と息巻いて徹底抗戦を主張した。
確かに特攻は微力ながら戦果はある戦法であったが、決定打とは程遠いダメージしか敵に与えられない。
それなのに、何故、大西はそのような発言をしたのか?
物理的に考えれば無茶と分かるはずなのに?「外道の統率」ではないのか?

大西は早期終戦を求めていた。
が、「降伏」ではなく「講和」である。
初の特攻を計画するにあたり、大西はこう述べたと言う。
「敵をレイテから追い落とせば、日本に不利な条件(満州事変以前に戻る)でも講和は可能である。
そうしないといけないほど、日本は追い詰められている。
万一敵を本土に迎えるようなことになった場合、アメリカは日本人を、かつてのインデアンやハワイ民族を骨抜きにし、日本に残るのは婦女子と意気地のない男だけとなり、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。」
「これは、九分九厘成功の見込みはない、これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
 二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。」
「大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられた時、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員たちの後を追うであろう。
もし、参謀長にほかに国を救う道があるならば、俺は参謀長の言うことを聞こう、なければ俺に賛成してもらいたい」
と。

大西中将は精神面的な理由で特攻を推進し、そして講和に入ろうと考えていた。
レイテ沖海戦の後、さらに戦局が悪化してもその考え方の軸はぶれなかった。
「2000万の特攻をすればアメリカも和平交渉に応じてくる」
という(現代人から見れば)ヤケクソとしかいいようのない発言も、極限の状況において、日本人が何千何百年もかけて築いてきた「伝統」「精神」「歴史」「国家」を守るため、それが敵わぬ場合後世に可能性を託すためー の大西なりの究極の結論だったのかもしれない。

軍令部次長として終戦を迎えた大西は、終戦の翌日、遺書を残して自刃して果てた。
軍人として敗戦の責任を負い、そして自らが死地に送り出した特攻隊の後を追うという約束と責任を果たすため、介錯もさせずに反日以上苦しみ続け、そして55年の生涯を終えた。

「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」
(自分が死んで後から百年経っても自分の評価は定まらない)
大西中将はこう語った。
そして、予言(?)どおり、今でも大西瀧治郎中将の評価は定まっていない。
責任を取って死んだことを讃える者、特攻の創始者として非難する者、徹底抗戦を主張したことを嘲る者…。
おそらく、100年以上経っても評価は定まらないだろう。
その時々の人々の価値観や考え方が反映され、その堆積物が評価となるだろうか。
私個人としては、大西中将は日本を代表する武人であると思うし、尊敬もする。

太平洋にある島国・パラオ共和国。いくつもの島々から成り立っている国である。
この国の国旗は日の丸の色違いで、水色と黄色の日の丸である。
この国旗は日本の国旗にあやかったものといわれており、その背景には日本とパラオの深いかかわりがある。

大航海時代、パラオはスペインの植民地となり、後に近代に入りスペインからドイツに売却され、ドイツの植民地になった。
ドイツはリンの採掘やココナッツ栽培を行い利益をあげたが、現地人の教育は行わず、水道や道路などインフラの整備も行わなかった。
現地人の生活を省みず、収奪するのみ。これが一般的な西欧列強の植民地支配方法だった。

第一次世界大戦でドイツに宣戦布告した日本はパラオに出兵、ドイツ軍を降伏させ占領した。
大戦のパリ講和会議で、パラオは日本の委任統治領になった。
日本は稲作やナス、キュウリなどの野菜、サトウキビ、パイナップルなどを持ち込み、缶詰やビールの工場を作り雇用を増やした。
水道、道路を整備、橋を掛け、電線を引くなどのインフラ整備も積極的に行い、パラオの住民全てに数種の疾病に対する予防接種を受けさせ、パラオの子供たちに教育を施した。
日本人も多数移住し、パラオは発展してゆく。

しかし、大東亜戦争が勃発、ついにアメリカ軍がパラオに来襲する。
パラオ方面を守るため、日本軍は満州に配属された部隊の中でも特に精強で名高い師団を派遣した。
アメリカ軍は1944年、パラオのペリリュー島に攻め込んだ。
約五万を擁するアメリカ軍は日本軍の強い抵抗を予想してはいたが、「四日で片付く」と楽観視していた。
対する日本軍は、中川州男大佐率いる一万の軍勢。
中川大佐はエリートではないが、中国戦線での戦いで実績を積み重ねた歴戦の将である。
米軍は圧倒的な兵力と物量で攻め寄せたが、日本軍は無数の洞窟陣地に籠り持久戦を展開、米軍は予想外の犠牲を払うことになった。
それでも、物量も兵力も圧倒的優位を誇る米軍に日本軍は次第に追い詰められてゆく。
日本軍は玉砕を伝える「サクラサクラ」の電報を送り、生き残り55名による最後の突撃を行い、玉砕した。
上陸開始から70日後のことであった。
勝利を得たアメリカ軍は1万を超える死傷者を出し、海軍のミニッツ提督をして「上陸戦史上最大の損害率」「(これほどの被害を出してまで)この島を占領したのは疑問である」といわしめた。

日本軍は戦いの前に全ての島民をパラオ本島に避難させていたため、住民に犠牲者を出さなかった。
このような美談もある。
ーーーーーーー
日本兵と仲良くなった村人たちは、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になったとき、仲間たちとともに日本の守備隊長のもとに行き、「一緒に戦わせてほしい」と頼んだ。
が、守備隊長は「帝国軍人が、貴様ら土人と戦えるか」と怒鳴りつけ、申し出を一蹴した。
村人は日本兵の友情は見せ掛けだったのか、と悔し涙を流しながら島を離れる船に乗った。日本兵の見送りはなかった。
だが船が沖合いに出ると、日本兵全員が浜に出てきて、手を振って見送った。
そのとき、村人たちは、すべては自分たちを無事に逃すためだったのか、と悟った
ーーーーーーーーーー
戦争が終わり、帰ってきた島民は、放置されたままの日本兵の遺体を丁重に葬り、彼らの遺族がいつ来てもいいように墓地の清掃を心がけたという。


日本が敗戦したため、パラオはアメリカの信託統治領となった。
アメリカはパラオに予想以上に日本文化が根付いていることに驚き、日本の残したものを徹底的に破壊した。
畑は掘り返され、道路は剥がされ、神社は取り壊された。二宮金次郎の銅像までも引き摺り下ろされた。
アメリカはあの手この手でパラオに根付いた日本文化・親日感情を取り除こうとしたが、かなわなかった。
1994年、パラオはアメリカから独立した。
国旗は日本の日の丸にちなんで、「黄色と水色の日の丸」。

パラオには今でも日本的な文化や親日感情が残っている。
また、日本軍のペリリュー島での奮闘を讃え、日本兵への感謝の気持ちを絶やしていない。
ある意味、パラオ人のほうが、日本人よりも「日本人」であるといえるかもしれない。

最後に、独立を記念して作られた、ペリリュー島守備隊を讃える歌、「ペ島の桜を讃える歌」をどうぞ。
(作詞者はペリリュー島のオキヤマ・トヨミ、ショージ・シゲオの両氏。)

 一
激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
オレンジ浜を血で染めた
つわもの
強兵たちはみな散って
ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる

    二
小さな異国のこの島を
死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち
弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない

    三
将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ
これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ
別れの”桜"に意味深し

    四
日本の”桜"は春いちど
見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の”桜"は散り散りに
玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に

    五
今守備勇士(もののふ)の姿なく
残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で
我等勇士の霊魂(たま)守る 

    六
平和と自由の尊さを
身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし"桜花"
今では平和が甦る

    七
どうぞ再びペリリューヘ
時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し
あつい涙がこみあげる    

    八
戦友遺族の皆さまに
永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む
桜とともに皆さまを

天皇と「人間宣言」

俗に言う「人間宣言」は昭和21年に出された詔書だが、その詔書にはタイトルはない。
その内容は、まず明治天皇の五箇条の御誓文を挙げ、その精神に沿って新しい日本を築いていこうという意志が示されている。
次に、戦災や困窮を憂いながらも国民を激励している。
その次に、君臣一体となって苦難を共にしていこうという意志が述べられていて、その文の一部に「天皇が神様、日本国民が優秀な民族として、世界を支配しようとする観念に基づいているわけではない」という意味のことが述べられている。
この部分を曲解して「人間宣言」という伝説が作られたのだ。
そもそも、天皇は「神の子孫」「現人神」である。
日本人にとっての「神」は、キリスト教やイスラム教のような「唯一神」ではなく、身近なものあちこちに神はいるという感覚で、天皇の祖先・天照大御神は(誤解を招きそうなほど平易過ぎる言い方をすれば)「神々の代表」。
その子孫にあたるとされる天皇は、神の子孫として祭祀を司り、日本、国民の繁栄を祈る存在であり、他とは違う立場。
それが天皇が「現人神」とされるゆえんであり、天皇と国民が共に国を造り上げるのが「日本」という国の性格なのである。

詔書で天皇が述べたのは、「天皇は排他的な信仰を持たれる唯一神ではない」
ということで、天皇が現人神(=祭祀を司る者として、国民とは違う立場で日本を国民と共に築く存在)であることを否定したわけではない。

言うまでもなく、天皇も生物学的には「人間」である。
しかし昔から日本人は、普通の人ではない特別で神聖な存在である「天皇」に愛着・畏敬を感じ続け、西洋の「GOD」ではなく、「現人神」として敬い続けていた。
その日本人の天皇を敬う心が消え去らない限り、天皇は「神」であり続け、日本人の心の支えとなり続けるのである。

易姓革命

「易姓革命」の思想について説明するには、シナ(中国)文明圏の「革命」について説明しなければならない。
革命とは、「(天からの)命が革(あらた)まる」ということ。
「天」とは、シナの思想で、もっとも尊い神様のようなもの。(厳密にはそのような単純なものではないが、便宜上そう考えればよい)
シナでは皇帝は「天子」と呼ばれており、天子とは「<天>から、国を治めるように命令を受けた者」ということである。
儒家は、「天は、徳のある人物に命じ、皇帝(天子)として王朝を開かせ天下を治めさせるが、その皇帝に徳がなくなった場合、徳のある人物に皇帝を倒すように命じ、その人物を新たな皇帝として天下を治めるように命じる」と考えた。これが「天命を革める」、即ち「革命」だ。
皇帝の位は同じ姓を持つ一家に継がれるが、臣下などが皇帝を倒せば姓が変わる。
「(天が)命を革(あらた)め」て「(皇帝の)姓が易(か)わる」ため、「徳のない天子を、徳のある人物が倒して自ら天子となってもよい」とするこの思想が「易姓革命」と呼ばれるのである。

一見すると、「悪い皇帝が出たら、徳のある人物が新たに皇帝になり、世界は平和になる」という、実に理に適った思想だと思うかもしれないが、これがシナの歴史を血みどろにした元凶ともいえる。
そもそも「徳があるか、ないか」の基準自体ないため、今の王朝を滅ぼし、最高権力者になりたい人物が、「今の皇帝には徳がない」「俺には徳がある。だから天は俺に皇帝になれと命じている。」と宣言して主君に当たる王を殺し、皇帝の座を簒奪して新たしい王朝を開くことも許されることになるのである。

易姓革命の思想は、「実力で君主を殺して皇帝になっても、道徳上問題がない」「自分は天に命じられたため、何もしてもよい」と解釈され、「天から命を受けた」と宣言した者が、反乱軍を率いて王朝を攻め滅ぼす。
その際、敵の城郭都市へ侵攻し、兵は城塞都市の中の人民を皆殺しにして、略奪を欲しいままにする。
そのため、王朝が滅ぶ時に人口は激減する。
人口が激減すれば農地を耕す人も少なくなると自然と食糧難に陥り、人肉を食べるために人狩りをすることもしばしばあった。
新しい王朝の治世が続き、少しずつ国が繁栄して人口が増えても、やがては官僚の腐敗、政治の乱れが表れる。
そしてその王朝の治世に不満を持った人民を配下におさめた人物が再び易姓革命を起こし、皆殺しにより人口が激減する…。
この繰り返しが中国の歴史である。

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