滅亡せし第一次ブログ

放置&引っ越し。基本的に中学時代に書いた記事が残っております。若き日の残照、消すには惜しいゆえ骸を晒す。

日ノ本の兵(つわもの)〜人物伝〜

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主に戦国武将です。
マイナー武将や、有名だけど細かい事績があまり知られていない武将、個人的に思い入れがある武将などについてまとめています。
統一感のない面々ですがご了承ください。
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玉音放送後、降伏に反対する軍人らのクーデターを鎮圧し任務を完遂した田中静壱(しずいち)大将は、8月24日、自殺した。

切腹ではない。

拳銃自殺だった。



少し時間軸を戻して…。

昭和20年8月15日未明、阿南惟幾陸軍大臣が切腹。

その報を受けた田中静壱はこういった。

「腹切るのは痛そうだな」



田中静壱は兵庫県竜野出身である。

龍野中学校(今の龍野高校)を卒業後、陸軍士官学校に入学。陸軍将校への道を歩む。

成績優秀で陸軍のエリートコースを進み

上海で実戦を経験し、憲兵司令官などを経て、東日本の本土防衛を担う東部軍管区司令官に就任した。

昭和20年3月、田中静壱57歳。



8月14日、天皇が終戦を決意したという情報が漏れる。

徹底抗戦を主張する畑中健二少佐ら一部の軍人は、静壱に面会を求めた。

彼らは、東部軍管区司令官として大軍の指揮権を持つ静壱を説得して、徹底抗戦のためのクーデターに参加させようとする腹だった。

畑中らは入室するなり、静壱に一喝された。

「馬鹿もん!貴様らの言わんとする事は、わかっとる!帰れ!」
青年将校を青ざめて、転がるように退出していった。



田中静壱に一喝された畑中らは、今度は近衛師団長・森赳を説得するものの効果は上がらず、なんと彼を殺害してしまう。
そしてニセの師団長命令を発令。

「宮城(皇居)を占拠し、玉音盤を奪取せよ」

天皇の終戦を告げる詔を録音したレコードを奪おうとしたのだ。



反乱軍は宮城を占領し、大捜査を開始。

8月15日の朝である。



この報を受けた静壱は、クーデターの鎮圧を決意。

しかし、軍を派遣しては先頭になる可能性がある。

ゆえに、なんと静壱はわずか2,3人の下士官と憲兵だけを連れて宮城に乗り込んだ。



乾門で反乱軍の兵隊に銃剣を突きつけられたが、かまわず「連隊長を呼んで来い」と命令。

兵も相手が陸軍大将なので恐縮して従った。

そして現れた連隊長に言った。



「お前のところの師団長が殺されているんだ」

今行動している事はニセ命令だ

すぐ撤兵しろ」



そうしているうちに反乱軍の将校が現れた。

静壱は「お前たちは何をしているのか分かっているのか!」と怒鳴りつけた。

相手は完全武装、こっちは丸腰にもかかわらず…。

反乱将校は、あまりの迫力に恐れをなした。

静壱「捕縛せい!」。

反乱将校はあっさりと縛につき、クーデターは鎮圧された。

丸腰で敵中に乗り込んだ田中静壱司令官の大胆と怒号が歴史を変えた瞬間だった。



クーデターを鎮圧する前に、静壱は部下に命令した。

「阿南陸軍大将とはどういう自決をされるか、聞いて来い」



部下「阿南閣下 自決はどういう方法でやられますか?」


阿南大臣「作法通り十字に切って、頸動脈を切る」


部下「介錯はどうしますか?」


阿南「そんなものはいらん。
そんなうまく人の首切った奴はいないはずだ」

そして阿南は自刃。

クーデター鎮圧後、静壱はその報告を受ける。

部下が「うちの田中大将にどうされますか」と尋ねると、かの名言が出る。

「腹切るのは痛そうだなぁ」



しかし、すでに田中静壱は自決する覚悟を決めていた。



宮城事件鎮圧後、その功によって静壱は天皇に拝謁を賜る。

その後、残務処理や最後のクーデター計画の鎮圧などの業務に追われ、九日後経つ…。



8月24日。

「俺の拳銃どこにやったんだ」

と副官の塚本少佐に尋ねたが、彼は静壱が自殺するつもりだとがわかっているため、
「あれ?どこにいったでしょうね〜?」
と、とぼける。

クーデターを鎮圧した時の勢いで静壱は塚本少佐を怒鳴るが、それでも塚本は拳銃を渡さなかった。

しかし、軍司令官の奥さんが塚本に
「可哀想だから拳銃を渡してやってください」

と言い、観念した塚本は拳銃を静壱に渡した。

そして田中静壱は心臓を打ち抜き、自殺した。



遺書

御聖断後、軍は良く統制を保ち一路大御心に副ひ奉りあるを認め深く感謝仕候。

茲に私は方面軍の任務の大半を終わりたる機会に於いて、将兵一同に代リ闕下に御詫び申し上げ、皇恩の万分の一に報ずべく候。

閣下並に将兵各位は、厳に自重自愛、断じて軽挙を慎まれ以て皇国の復興に邁進せられん事を。



辞世

聖恩の 忝けなきに 吾は行くなり

「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル
神州不滅ヲ確信シツツ 」




この遺言を残して、陸軍大臣・阿南惟幾(これちか)は昭和20年8月15日7時10分、切腹して果てた。



阿南惟幾が陸軍大臣となったのは、昭和20年4月だった。

すでに大東亜戦争の戦局は厳しく、このとき天皇から総理大臣として組閣の大命を受けた鈴木貫太郎は、自らの内閣は「終戦内閣」となることを覚悟していた。

鈴木は、陸軍に「阿南大将を陸軍大臣にほしい」と要請した。

鈴木は、誠実な人柄で人望が厚く、天皇に直接仕えた経歴もある阿南惟幾ならば、陸軍を掌握し、天皇の意思を体現して終戦に持ち込めると考えたのである。



阿南惟幾、陸軍大臣に就任。58歳。



7月、連合国、日本に「ポツダム宣言」を発表。

日本に降伏条件を提示した。(無条件降伏ではない)

日本は上から下まで戦意は衰えを知らないが、国の主導者たちはさすがに勝ち目がないことを理解しており、終戦を覚悟していた。



しかし、ポツダム宣言には「天皇をどうするか」の条項がない。

いや、草案には書かれていたが、アメリカ大統領・トルーマンが削除した。

(日本人で原爆の威力を確かめる前に降伏されては困るから)

日本は、天皇の地位の保証(「国体護持」)さえ得られれば降伏も致し方ないと考えていたにもかかわらず…。



8月6日、広島に原爆投下。

無辜の民十数万人が虐殺された。



8月9日、宮中で閣僚6人

(総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、陸軍参謀総長、海軍大臣、海軍軍令部総長)

からなる会議が催された。

ここで意見が分かれる。



「国体護持」だけを条件としてポツダム宣言を受け入れる

or

「国体護持」とあと3つ条件をつける。



阿南は後者を主張し、それが受け入れられなければ徹底抗戦を主張した。

「武装解除されてから、<話が違うではないか!>と抗議してもどうにもならない!」

と。

なにせ阿南は陸軍の代表であり、陸軍の大多数の意見は「徹底抗戦」「本土決戦」であった。

(そもそも、日本の陸軍は大陸での戦いに主眼を置いていた。

そのため海軍に振り回されて太平洋の小さな島々で敗退を重ねるのに忸怩たる気持ちを抱いており、本土で堂々たる戦いをせずに降伏するのには抵抗があったのだ)



一旦休憩を挟んでから、この会議は天皇も臨席する「御前会議」となった。

ここでも阿南は徹底抗戦を主張、閣僚で多数決をとっても3対3、会議は紛糾した。

ここで、鈴木首相は天皇の意見を仰いだ。

天皇の意見は「外務大臣の意見に賛成」、すなわち国体護持だけを条件とする降伏であった。



国体護持の条件を連合国に伝えると、その回答は「日本政府・天皇は連合国に従属する」であった。

その文面はどうにでも解釈できる。天皇の安全の保証はない。

阿南はそれを心配し天皇に奏上した。

天皇はこう答えた。

「阿南よ、もうよい。

心配してくれるのはうれしいが、、もう心配しなくて良い。

私には確信がある」



そして最後の御前会議が召集された。

阿南はなおも徹底抗戦を主張したが、天皇は「聖断」を下した。

「私の身はいかになろうとも、国民の生命を助けたく思う」

すなわち「ポツダム宣言受諾」であった。

阿南は号泣、慟哭して天皇に取り縋った。

天皇は答えた。

「阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかる。

しかし、私には国体を守れる確信がある」



天皇は「ポツダム宣言受諾」の聖断を下したが、この段階では憲法上「聖断」に拘束力はない。

阿南には、その決定をくつがえす方法が一つ残されていた。

「辞職」である。

陸海軍の大臣は現役の大将・中将でなければならず、大臣が辞職してその後継大臣を軍が出さなければ内閣を倒すことができる。

(これまでにも、この必殺技を用いて意に沿わない内閣を倒した大臣もいた)

阿南はこれまでにも徹底抗戦派の軍人に辞職を勧められたが、それを拒否してきた。



陸軍省に一旦帰った阿南のもとに、徹底抗戦を主張する将校たちが詰め掛けた。

阿南が徹底抗戦の意志を貫徹すると信じていた彼らは激しく彼に詰め寄った。

阿南は言った。

「陛下はこの阿南に対し、苦しかろうが我慢してくれとおおせられた。

自分としてはこれ以上反対を申し上げることは出来ない。

聖断は下ったのである。


今はそれに従うばかりである。



不服のものは自分の屍を越えて行け!」



再び閣僚が集合、「終戦の詔」の文案を討議し、それに署名した。

すべての手続が終わると、阿南は鈴木首相を訪ね、陸軍の意志を主張し強硬意見を述べて迷惑をかけた旨を詫びた。

「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍を代表して強硬な意見ばかりを言い、本来お助けしなければいけない総理に対してご迷惑をおかけしてしまいました。ここに謹んでお詫びを申し上げます。自分の真意は皇室と国体のためを思ってのことで他意はありませんでしたことをご理解ください」



それに対し、鈴木は阿南の苦労をねぎらい、皇室と日本の安泰を確約した。

「阿南さん、あなたの気持ちは私が一番よく知っているつもりです。

大変でしたね。長い間ありがとうございました。

国体はきっと護持されますよ。皇室はご安泰です。」



阿南は鈴木に南方から送られてきた葉巻に渡し、去っていった。

その背に一言つぶやいた。

「阿南陸相は暇乞いに来たんだよ」



阿南惟幾は、8月15日未明、ポツダム宣言受諾の返電直前に陸相官邸で割腹。

介錯を拒み、7時10分に絶命した。天皇から拝領したワイシャツを身に纏い…。

辞世。

「大君の 深き恵みに 浴みし身は 言ひ遺すべき 片言もなし」



阿南の自刃は、日本中に衝撃を与えた。首尾一貫した徹底抗戦派だと思われていたのリーダーの、天皇陛下の聖断に従って抗戦をあきらめた末での自殺の強烈な衝撃は、全軍への強烈な「ポツダム宣言受諾」の意思表示となったのである。



ある軍人曰く、

「大臣の自刃は、天皇の命令をもっとも忠実に伝える日本的方式であった」

戦国時代、山口に「小京都」といわれるほどの繁栄をもたらした守護大名・大内義隆。
謀反を起こして彼を討ちったものの、毛利元就に滅ぼされた陶晴賢。
庇護者(晴賢)を失い、やがても隣に滅ぼされる大内義長。

戦国時代の山口を舞台に、栄枯盛衰を繰り広げた悲劇の武将たちの生涯!
生涯(=生)を知るには、まず「死」から。
その「死」を率直に示すのは辞世の句である。
という信念(屁理屈?)に基づき、まず辞世の句からスタートします(^^)

大内義隆の辞世。

討つ人も 
討たるる人も 
諸ともに 
如露亦如電 
応作如是観

(私を討った人も、討たれる私も、どちらの行為・生も、露のように、雷のようにはかないものだ)


大内義隆は、1507年、周防・長門(現在の山口県)を拠点に、中国から北九州の一部にまで勢力を持ち、その上、勘合貿易を司って莫大な財力までも持つ名門大名家に生まれた。
義隆の父・義興は京都に上ったほどの実力者で、その後を継いだ義隆も軍事行動を度々起こして勢力を広げていった。
そして遂に、山陰の宿敵・尼子晴久を滅ぼすため出雲に遠征するが、逆に大敗して山口に逃げ戻った。
戦に敗れ、養子の晴持も失った義隆は、政治や軍事に関心をなくしてしまった。
もともと文化に深い造詣があった義隆は、その道を極めてゆく。
戦乱で荒廃した京都から逃れてきた公家たちを山口に招き、連日、宴や歌会、芸能に耽り、公家のような生活を送った。
そのため、「小京都」山口は繁栄を極めたが、その反映の下には領民への重税があり、その上、文官タイプの家臣を重用したため武断的な家臣たちは不満を持った。
政治を省みず遊興に耽る義隆に、家臣たちは諫言したが聞き入れられず、遂に家臣たちの不満が爆発する。
重臣・陶隆房(のちの晴賢)を中心に、家臣たちが謀反を起こした。
義隆を助けようとする家臣はほとんどなく、海路で逃れようとしたものの暴風雨で船が出せない。
天にまで見放された義隆は観念し、大寧寺で切腹した。
享年55。1551年の出来事だった。

もう一度。
討つ者も 討たるる者も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観

寺社を保護し、神仏に厚く帰依していた義隆は、、家臣に背かれた事実を受け入れ、敵も自己も客観的に見つめ、従容として死についた。
公家化して滅んだこの武士の最期は、悟りきった僧侶そのものだった。



謀反を起こした陶晴賢も、その5年後に滅んだ。
陶晴賢の辞世。

何を惜しみ
何を恨みん
元よりも
この有様に
定まれる身に

陶晴賢は1521年、代々大内家の重臣だった家に生まれた。
美男だったと伝わる彼は、少年時代、主君・大内義隆に愛されたという。(男色=ホモ的な意味で)
長じて彼は勇敢な武将となり、「西国無双の侍大将」としてその名を轟かせ、大内氏の勢力拡張を助けた。
しかし、主君の義隆が政治・軍事に関心をなくし、遊興に耽るようになると、遠ざけられるようになる。
既に義隆は大多数の家臣たちの信望を失っていたため、遂に晴賢は彼らを取りまとめて謀反を起こし、大内義隆を討った。
しかし、彼には「大内氏に取って代わる」という気はなく、あくまでも大内氏を立てていく方針だったため、九州の大名・大友義鎮の弟・大友晴英を大内氏の当主として迎え入れる。
このときから、彼は従来名乗っていた名(隆房。義隆の「隆」の字を拝領した)を捨てて、「晴賢」(「晴」を晴英から拝領)を名乗る。
晴英は名を「大内義長」と改め、晴賢は彼を良く支え、大内氏復興に尽力した。
しかし彼のやり方に反発するものもおり、大内氏は従来の力を失っていた。
そんな中、安芸(いまの広島県)に勢力を持っていた智謀の将・毛利元就は、晴賢に反旗を翻した。
晴賢は元就征伐の軍を送るが撃退され、遂に自ら元就を討つため出陣する。
晴賢は大軍(1万〜3万)を率いて出陣するが、元就の策略にはまり厳島におびき寄せられ、寡勢の元就軍の夜襲を受けて殲滅され、逃げ場を失った晴賢は自刃した。
享年35。1555年のことだった。

何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に

勇将として誉れ高い晴賢ではあるが、対元就戦において、散々、元就の謀略に翻弄された。
元就が意図的に流したウソの情報に惑わされ、優秀な部下を殺したり、厳島に大軍を上陸させたり…。
また、無実を訴える咎人を火あぶりにし、それを見ながらせせら笑ったという冷酷さを伝える逸話もある。
一方で、出雲遠征に敗れ敗走する時、自分の兵糧を部下に与えて自らは干鰯を食べて飢えをしのんだという逸話もある。
毀誉褒貶ある人物には、相反する逸話や評価がつきものだが、その総括した評価は後世の人間の判断に任せるしかない。
さあ、あなたは彼を逆臣と見做しますか?忠臣と見做しますか?


晴賢によって当主に迎え入れられた大内義長も、結局、毛利元就に滅ぼされた。
大内義長の辞世。

誘ふとて 
何か恨みん 
時きては 
嵐のほかに 
花もこそ散れ

大内義長は、1532年(?)、北九州の有力大名・大友義鑑の次男として生まれた。初名・晴英(はるふさ)。
兄は有名な大友宗麟(義鎮)である。
晴英は大内氏の血を引くため、一度大内義隆の養子になったことがあるが、義隆の実子が生まれると大友家に送り返されたという無念の過去があった。
義隆を討った陶晴賢が、彼を大内氏当主として迎え入れたいと申し出た時、どのような心地がしただろうか。
家督を継げない大友家の次男坊・大友晴英は、晴れて名門・大内家の当主となり、名を大内義長と改めた。
彼は陶晴賢の傀儡に過ぎなかったといわれ、晴賢あっての義長であった。
晴賢が毛利元就に討たれ、義長は最大の庇護者を失ったことになる。
それでも、義長は衰退する一方の大内氏を再興しようと奮励するが、やがて毛利元就の魔の手がのびる…。
晴賢を滅ぼし、誰からも認められる大勢力となった元就は本格的に大内氏を滅ぼそうと進軍する。
義長は山口を放棄し、忠臣・内藤隆世の且山城に逃れ、抗戦する。
毛利軍は、篭城する義長と内藤に、「内藤が切腹し、開城すれば、義長の命は助ける」と降伏勧告する。
義長と内藤はその条件を呑み、内藤は切腹した。
しかし、毛利は甘くなかった。
約を違え、義長に切腹を強要したのである。
毛利軍に囲まれ、万事休した義長は切腹。ここに山口に繁栄をもたらした名門大内氏は滅亡した。

やがて毛利は中国地方の大勢力となり、関ヶ原の戦いの後、周防・長戸の支配者となった。
最終的に生き残った毛利氏は正当化され、謀反を起こした陶晴賢を討った元就は、
「主君(元就は義隆に従属していた)の仇を討った」
として道義的にも賞賛されることになった。
しかし、元就はその後、大内義長を騙し討ちにしたという史実は消えない。
もちろん、乱世、戦国時代のことである。
稀代の名将・元就の悪辣さを非難することはナンセンスで、まんまと騙された義長は愚か者と見放されても仕方がないといえる。
敗者、大内義長。
大内義隆、陶晴賢に比べれば知名度も低く、キリスト教に少し理解を示したという以外に事績もない。
しかし、一度は手放した大名家当主の夢を叶え、傀儡・衰退大名ながらも必死に立て直そうとするも報われず、忠臣との逃避行、そして騙まし討ちで果てる。その生涯には歴史の醍醐味のようなものが詰まっていると思うのは私だけだろうか。

誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ

「こんな小さな島は4日で占領できる」
米軍の海兵隊師団長はそう豪語した。
しかし実際は、この「こんな小さな島」ことペリリュー島を米軍が攻略するのには、約70日を要した。
ペリリュー島を守る日本軍の指揮官は中川大佐。
彼は徹底的な持久戦を展開し、米軍に多大な損害を与えた。
寡黙で謹厳な名将・中川州男(くにお)の生涯。

1898年、中川州男は熊本で生を受けた。
中川家は肥後藩士の家で、父は西南戦争で反乱軍側として参戦した経歴を得て、教育者になった中川文次郎。
父は厳格で、「男らしさ」を求めたため、幼い州男が泣いていると川に投げ込んだという話もある。
「男は強くあれ」「弱者に優しくあれ」が父の口癖で、州男はその影響を大きく受けた。

明治天皇に殉死した乃木希典将軍に深い感銘を受け、軍人を志すようになった中川は、陸軍幼年学校、陸軍士官学校へと進み、陸軍将校としての道を歩む。
陸軍大学校に入校して専門教育を受け、エリート軍人の道を進むことよりも、部隊にあって兵と苦楽を共にすることを潔しとした中川は、陸大を受験せず部隊勤務に励んだ。
「宇垣軍縮」の煽りを受け、配属将校
(宇垣一成が行なった軍縮によって余った将校で、現役のまま中学校などに勤務させ、生徒に軍事教育を行なう将校)
を五年間も務めることになったが、その「閑職」にあっても軍人精神を涵養することに務めた。
配属将校勤務では、女子にラブレターを送った生徒を厳しく叱りつけたこともあるが、それでいて生徒からは「中ガマさん」と親しみを込めたニックネームを奉られ、生徒たちとのふれあいもそれなりに楽しんでいたようだ。

1931年、長い配属将校を経て、原隊に復帰した。
群栄勤務において、古参兵の初年兵に対するいじめや暴力を戒め、兵たちへの細やかな心配りを忘れず、兵たちの信頼と尊敬を受けた。
やがて支那事変が勃発、中川は大隊長として出征して前線で何度も活躍、自ら敵兵を2,3人斬ることもあるほど最前線で指揮をとった。
それら一連の活躍によって前線指揮官としての才能を認められ、陸軍大学の選科に推薦されて入校、一年間専門教育を受け、戦歴も専門性も兼ね備えた軍人となったのである。

やがて大東亜戦争が勃発、中川は満州の連隊で勤務していたが、戦況が悪化すると、南方のパラオ方面に赴任した。
出立する時に、妻に「どちらに行くのですか?」と聞かれ、「永劫演習さ」と答え、二度と帰ることはないという覚悟を、独特の表現で示して出征した。

パラオに赴任した中川は、重要拠点であるペリリュー島の守備隊長となった。
中川は、島に無数の洞窟陣地を設けて徹底的な持久戦に持ち込む戦略を立てて米軍に臨んだ。
ペリリュー島での戦闘が始まるまでに、中川大佐は島の住民全員を退去させたため、一般人の犠牲は一人も出なかった。

圧倒的な物量と装備を誇る米軍約5万、対する中川大佐率いる守備隊、約1万ー。
1944年9月12日より、米軍は徹底した艦砲射撃を開始。14日までに打ち込んだ砲弾は17万発にまで達したという。
9月15日、米軍は上陸を開始。
日本軍により、あらかじめ岩礁に敷設された大量の機雷が上陸する米軍の上陸用舟艇を粉砕、出鼻を挫き、再度攻撃を開始した米軍と日本軍は熾烈な戦闘を開始、米軍はかつて経験したことのない頑強な抵抗に攻めあぐみ、一時後退。
さらに日本軍は決死の夜襲を敢行したが、圧倒的な兵力の差はいかんともしがたく、米軍上陸3日目にして海岸陣地を放棄した。

しかし、勝負はここからである。
中川大佐は、無益な「バンザイ突撃」を決して許さず、日本軍は徹底した持久戦に入った。
無数の洞窟陣地に籠る日本軍は、敵が近づけば機銃や手榴弾で応酬し、夜中になれば決死の「斬り込み隊」を結成して夜襲を敢行して米軍を恐怖のどん底に陥れた。
10月13日には、守備隊司令部が把握する残存兵力は当初の一割にまで減っていたが、圧倒的優勢のアメリカ軍の犠牲も甚大で、10月30日には海兵隊第一師団は60%が死傷し「全滅判定」を受けて島を去り、司令官も悲惨な戦況の心労から心臓病を患った。
その司令官とは誰であろう、「4日でこの島は落ちる」と豪語したリュパータス少将である。

「戦はつまるところ人と人との戦いである。
戦う意志と力を持っている限り、戦いは終わらず、勝敗も決まらない。
陣地を守ることはその戦い抜くための手段の一つ。
問題は出来るだけ多くの敵を倒し、出来るだけ長く長く戦闘を続けることにある。
それには守る陣地が多いほどよかと。」

中川大佐はこういって部下を激励し続け、部下もそれに答えて奮戦した。
しかし、米軍は手榴弾や火炎放射器で陣地をしらみつぶしに攻撃する作戦に出、劣勢はいかんともしがたく、11月5日には司令部が掌握する兵力は350人ほどまでに減った。
食料も弾薬も尽き果てつつある。
ペリリュー島守備隊の奮戦に、天皇陛下は何度もご嘉賞の言葉の打電が送られ、11月5日現在、10度目のそれを受電、感涙した一同を代表して、中川の副官が最後の忠誠として「バンザイ突撃」を提案したが、それでも中川大佐は
「諸君の気持ちはよく分かる。
が、我々軍人は戦うのが務めだ。
最後の最後まで務めを果たさねばいかん。
玉砕攻撃するよりも、最後の一平になるまで戦い続けねばならん」
と首を振り、なおも持久戦を続けるように指示した。

しかし、それでも遂に追い詰められるところまで追い詰められ、11月22日、米軍は総攻撃を開始。
中川大佐の掌握する兵力は健在者50名、重傷者70名にまで減っていた。
そして米軍も肉薄し、11月24日、陣地保持不可能と判断した中川大佐は、軍旗を燃やし、「玉砕」を伝える最後の電文、
「サクラ・サクラ」
を打電し、部下に最後の言葉を残した。

「軍人は最後の最後まで死を求めず、戦うのが務めというものだ。
百姓が鍬を持つのも、兵が銃を握るのも、それが務めであり、務めは最後まで果たさんならんは、同じこと。
務めを果たす時は、誰でも鬼になる。
まして戦じゃけん、鬼にならんで、できるもんじゃなか。」

そして、生存者には各個のゲリラ戦を命じた中川は、古式にのっとって切腹して果てた。46年の生涯だった。
(死後、二階級特進して中将に。)
生き残った部下たちは、中川大佐の遺言に従い、徹底して持久戦を戦い続け、生存者34名がアメリカ軍に降伏したのは終戦から二年も経った1947年4月のことであった。


1982年に建設されたペリリュー神社には、米軍の海軍元帥チェスター・ニミッツが日本軍守備隊を讃えた詩文が彫られた石碑がある。
「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ 米太平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ」


終戦後、日本政府の支援でペリリュー島の遺骨収集が行なわれるようになり、中川大佐、特進して中川中将ーが自決した洞窟が発見され、関係者は中川の遺骨を探そうとしたが、中川の夫人はそれを望まなかった。

「まだ多くの方々がこの島に眠っておられるのに、主人は自分だけ先に帰るようなことを許さないと思います。
一緒に戦い一緒になくなった方と一緒に帰ろうと思っているはずです。
俺は一番最後でいいといっているはずです。」
と。

「男らしくあれ」「弱者に優しくあれ」という教えを守り抜き、最後まで「男」に徹した名将・中川州男大佐。
九州男児の道を貫き通したこの武人は、今もペリリューで戦友とともに眠り、護国の鬼となって日本を見守っている。

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