滅亡せし第一次ブログ

放置&引っ越し。基本的に中学時代に書いた記事が残っております。若き日の残照、消すには惜しいゆえ骸を晒す。

辞世の句

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歴史人物の辞世とその生涯を簡略化して書いたもの。
辞世の出典、もしくはそれが本当に辞世であるのかなど信憑性は一切保証しませんのでご了承ください。
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武田信勝の辞世

あたにみよ たれも嵐の さくら花
吹き散るほとは 春の夜の夢

武田信勝(1567〜1582年)
信勝は甲信の戦国大名・武田勝頼の長男として生まれた。
織田氏の武田征伐が始まると、武田氏は追い詰められ、信勝は父・勝頼とともに戦い、自刃した。

武田勝頼の辞世

朧なる 月のほのかに 雲かすみ
晴れて行くへの 西の山の端

武田勝頼(1546〜1582年)
武田勝頼は、甲信の戦国大名・武田信玄の四男として生まれた。
母は諏訪頼重、信玄が滅ぼした信濃の武将ーの娘。
勝頼は武勇に優れ、信玄の下の数々の戦いで武功をあげた。
信玄死後、事実上家督を継ぐが、信玄依頼の重臣とは不仲だったと伝えられる。
一旦は勢力を広げたが、設楽原の戦いの敗戦で織田・徳川連合軍に大敗し、勢いは衰える。
その後も積極的に軍事行動を行ったが、武田家の財政は困窮、やがて織田氏の本格的な武田征伐が始まると武田領国は崩壊、追い詰められた勝頼は天目山山麓の田野で自刃した。

吉弘統幸の辞世

明日は誰が 草むす屍 照らすらん
石垣原の 今日の月影

吉弘統幸(?〜1600年)
吉弘統幸は、北九州の戦国大名・大友宗麟の重臣・吉弘鎮信の長男として生まれた。
父は耳川の戦いで戦死したため、統幸は家督を継ぎ、衰退の兆しを見せ始めた大友家を支えた。
主君・大友義統が文禄の役での失敗を咎められ改易されると黒田家、立花家を頼った。
関ヶ原の戦いでは、西軍につき大友家の再興を図る旧主・大友義統と合流して転戦。
だが、黒田如水の軍と石垣原で戦い、奮戦するも敗れ、黒田家家臣・井上之房に討ち取られた。

豊臣秀次の辞世

月花を 心のままに 見つくしぬ 何か浮世に 思い残さむ
磯かげの 松のあらしや 友ちどり いきてなくねの すみにしの浦

豊臣秀次(1568〜1595年)
豊臣秀吉の姉・とも と木下弥助(のちの三好吉房)の長男として生まれる。
百姓の子だが、秀吉の出世に伴って秀次の地位も上がった。
賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い(この戦いでは惨敗し、秀吉から叱責される)、紀州攻め、四国攻め、小田原攻め、大崎・葛西一揆の鎮圧など、秀吉の天下統一事業の数々の戦いに参加している。
秀吉の実子・鶴松が死ぬと、秀次は秀吉の後継者となり、関白の位を譲られるが、やがて秀吉と対立、高野山に追放され、切腹させられた。

大内義長の辞世

誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ

大内義長(1532〜1557年)
大内義長は、北九州の戦国大名・大友義鑑の次男として生まれる。初名・晴英
山口の大名・大内義隆の養子となるが、義隆に実子が生まれたため、すぐに大友家に追い返された。
しかし大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれ、義長は晴賢により大内家の当主として迎え入れられた。
だが、晴賢が安芸の大名・毛利元就に討たれると義長の家臣団は崩壊しはじめ、義長は毛利元就に攻められ、切腹させられた。

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