滅亡せし第一次ブログ

放置&引っ越し。基本的に中学時代に書いた記事が残っております。若き日の残照、消すには惜しいゆえ骸を晒す。

世界史

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

建国以来民主主義を誇ってきた国、アメリカ合衆国に君臨した、史上唯一の皇帝がいた。

その名も、ジョジュア・ノートン。

人は、彼を「アメリカ合衆国皇帝ノートン1世」と呼んだ!



ノートン1世 (1814〜1880)



彼はイギリス出身でアメリカのサンフランシスコに移住した、ごく普通の「アメリカ人」だった。

裕福な実業だったが、商売に失敗し、全財産を失ってしまった。

そして、発狂した。



彼は突然サンフランシスコの各新聞会社に手紙を送りつけた。

「朕はアメリカ合衆国皇帝である!」

たいていの会社はムシしたが、一社が面白がって彼の「皇帝宣言文」を掲載した。



サンフランシスコ市民も、何故か喜んで「皇帝」を受け入れた。

皇帝の宮殿はワンルームアパート。

従う従者は犬2匹。



皇帝に即位(?)したノートン1世は、その職務に励んだ。

その激務の内容↓

・犬の散歩

・市民生活の視察



市民生活をつぶさに視察した皇帝は、新聞に勅令を載せた。

「道には街灯をつけよ」

「汚い言葉使いは避けよ」

「クリスマスは飾りつけよ」



市民たちは畏まり、そして喜んでそれに従い、市議会も協力した。

市民に愛される皇帝となったノートン1世は、劇場に行けば皇帝特別席が設けられ、電車にはタダ乗りできた。

市議会は皇帝のために市の予算で礼服を新調し、商店は皇帝に貢物を捧げ、「皇帝御用達」の栄誉を得た。

それでも貧しかった皇帝は帝国の債券を発し、市民たちはその少額の債券を税の代わりにと喜んで買った。



また、皇帝ノートン1世は、国政にも意を払っていた。

「アメリカ合衆国議会を解散せよ」と勅令を発した。

しかし議会は無視。

議会に「謀叛」を起こされた皇帝は、

「謀反人たちを討伐せよ」と軍に勅令を発した。

がこれも無視された。



皇帝の威令は首都には届かなかったが、皇帝は西海岸で平和な「治世」を送っていた。

しかし、東海岸で内戦が勃発した。

「南北戦争」である。

帝国の中で内戦が起こっていることを憂えた皇帝は、北の大統領・リンカーンと南の大統領・ディヴィスの和平会談を実現させ、内戦を終息させようとしたが、2人とも皇帝を無視して凄惨な内戦を続け、両軍60万の犠牲者を出した。



市民に愛された皇帝ノートン1世は、内戦が終結してから十数年経った1880年に崩御した。

皇帝の棺が墓地に運ばれるとき、3万人もの市民が集まったという。

地元新聞も、皇帝の崩御を報じた。



「神の恩寵篤き合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者(注・ノートン1世は<メキシコ護国卿>でもあった)ノートン1世陛下が崩御」

(モーニング・コール紙)



「みすぼらしい敷石の上で、月のない暗い夜、しのつく雨の中で…、神の恩寵篤き合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者ノートン1世陛下が崩御された」

(サンフランシスコ・クロニクル紙)



地元にとどまらず、州外にも皇帝の崩御は報じられ、かの有名なニューヨーク・タイムズにも追悼文が載せられた。

「彼は誰も殺さず、誰からも奪わず、誰も追放しなかった。彼と同じ称号を持つ人物で、この点で彼に立ち勝る者は1人もいない」







参考文献(?)

・Wikipedia

・ニコニコ動画「アメリカ合衆国皇帝 ノートン1世」

どうでもいい自慢をさせてください。



今回の世界史のテスト、学年一位とったぜ!

キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!



世界史を覚える時、しばしば替え歌を作って覚えるという暴挙(?)をやります。



今回は、フランス革命を初音ミクの名曲「千本桜」を使って覚えましたww



その着想の理由は単純明快。



千本桜の冒頭

「大胆不敵に ハイカラ革命♪」



そのまま「ハイカラ革命」を「フランス革命」にしたらいいじゃん!?って思った。ただそれだけ。




↓その歌詞。(一番だけです)



「大胆不敵に フランス革命



ネッケル罷免に バスティーユ襲撃



封建廃止に人権宣言



ヴェルサイユ行進 10月事件



ヴァレンヌから連れ戻し 



ピルニッツ宣言 なんのその



フイヤン ジロンド ジャコバン派



(革命)戦争の随に〜



8・10事件 王権停止 



万歳の声も ヴァルミーから



国民公会 第一共和



その断頭台で処刑して



(対仏)大同盟 恐怖政治



公安委員会 恐ろしいよ



ジャコバン憲法 遥か彼方



そのテルミドールに打ち倒せ〜」







歌詞だけでは不十分なので、解説☆




・大胆不敵に フランス革命

ネッケル罷免に バスティーユ襲撃



ルイ16世時代のフランスは、大変な財政難に陥っており、平民の不満が高まっていました。

ネッケルというのはルイ16世が登用した有能な蔵相で、財政再建を図りますが、特権身分に課税を図ったことで貴族が反発、ルイ16世はネッケルを罷免します。

ネッケルは 、庶民の人気が高かったため、庶民は猛反発、遂には暴動を起こし、バスティーユ牢獄を襲撃します。

バスティーユというのは、政治犯を収容していたこともあるため、「絶対王政の象徴」と見做されており、また、暴徒たちは牢獄の武器を手に入れることに成功しました。




・封建廃止に人権宣言



バスティーユ襲撃をきっかけにフランス各地で暴動が起こり、国民議会は「封建的特権の廃止」と「人権宣言」を決議します。



・ヴェルサイユ行進 10月事件



フランスの政情不安から、パリに入る食料の価格が高騰し、パリの奥様方数千人がブチ切れ、国王が住むベルサイユ宮殿に乱入し、国王たちをパリの宮殿に連れてきました。

これが「ヴェルサイユ行進」で、「10月事件」とも呼ばれます。




・ヴァレンヌから連れ戻し 

ピルニッツ宣言 なんのその



一連の革命によって息苦しさを感じたのか、ルイ16世は家族とともに、オーストリア(妻の実家)へ亡命を図りますが、ヴァレンヌというところで捕まり、パリに連れ戻されました。(ヴァレンヌ逃亡事件)

革命が起きたとはいえ、市民たちには国王を敬う気持ちはあり、国王とともに新しいフランスを作るつもりでしたが、この事件によって国王の信用は失墜し、市民の間には

「国王なんていらんのじゃね?」

という考え方も表れだしました。



革命の影響が広がるのをを恐れたオーストリア皇帝・プロイセン王は「ピルニッツ宣言」を出しました。

その内容は、フランスの王権回復とルイ16世の救援を諸外国に求め、革命に干渉するものでした。



・フイヤン ジロンド ジャコバン派



派閥の名前。

フイヤン派は立憲王政、ジロンド派は穏健な共和政治、ジャコバン派は急進的な共和政治を主張しました。




・(革命)戦争の随に〜



当時有力だったジロンド派は、反革命的なオーストリアに宣戦布告し、革命戦争が勃発します。




・8・10事件 王権停止 



戦争のさなか、ジャコバン派は、義勇兵などに呼びかけて王の宮殿を襲い、国王を幽閉、王権を停止させました。

これが「8月10日事件」です。




・万歳の声も ヴァルミーから



革命戦争は、最初は劣勢でフランス内に攻め込まれていましたが、ヴァルミーの戦いでフランス軍は勝利を収めます。

フランス軍は義勇兵の集まりでしたが、革命の理想を信奉するフランス軍の士気は高く、軍事強国プロイセンの軍を打ち破りました。

このとき、フランス軍は「国民バンザイ」を連呼していたといわれています。




・国民公会 第一共和 その断頭台で処刑して



革命政府は、選挙によって選ばれた者からなる国民公会を作り、王権停止と共和制を定め、さらにルイ16世の処刑を決定し、国王はギロチンで処刑されました。

こうして「第一共和制」が成立します。




・(対仏)大同盟 恐怖政治



公安委員会 恐ろしいよ




過激化するフランス革命に脅威を持ったイギリスは、ヨーロッパのあらゆる国に「フランスを倒そう」と呼びかけ、「対仏大同盟」を結成しました。(要するに集団リンチ)



一方、国内では、ジャコバン派が独裁政治を行ないます。

ジャコバンの領袖・ロベスピエールは、清廉潔白で革命の理想に純粋に燃える人物であり、反対派には容赦なく、1日に平均30を処刑するほどの苛烈な政治を行い、それが「恐怖政治」です。



「公安委員会」とは、ロベスピエールが設けた機関で、事実上、フランス政府の役割を果たしました。




・ジャコバン憲法 遥か彼方



政権を握ったジャコバン派は、主権在民・男子普通選挙など、革命の理想を体現した憲法を作りました。

しかし、この憲法が実施される前にジャコバン派は勢力を失い、施工されることはありませんでした。




・そのテルミドールに打ち倒せ〜



絶大な権力を振るうジャコバン派に対して、ついに反対派が立ち上がってクーデターを起こし、ジャコバン派の独裁を打倒し、ロベスピエールを処刑しました。

これが「テルミドールのクーデター」です。(テルミドールは月の名前)




このあと、総裁政府、そしてナポレオンが登場することになります。






一応、千本桜本家の歌詞も貼っておきますww

一番だけ。



大胆不敵にハイカラ革命
磊々落々  反戦国家
日の丸印の 二輪車転がし
悪霊退散 ICBM


環状線を走り抜けて 東奔西走なんのその
少年少女戦国無双 浮世の 随に


千本桜 夜ニ紛レ 君ノ声モ届カナイヨ
此処は宴 鋼の檻 その断頭台で見下ろして


三千世界 常世之闇  嘆ク唄モ聞コエナイヨ
青藍の空 遥か彼方 その光線銃で打ち抜いて

簡略版 張作霖・学良

歴史の記事を書く時、書き方は二つ。
一つは、本などを片手に、多くの情報を加えて詳しく書く方法。
上手くいけば、Wikipediaよりも面白いと自負できるような代物が出来るが、あまり詳しくない人にとってはとっつきにくい。
(なんせ長文になるし)
もう一つは、詳しさを省いて、大まかな概略と流れを書く方法。
以前、奉天軍閥の張作霖・張学良父子の記事を書いた時は、前者の手法に徹した。
(詳しくて面白い本を呼んだあとだったので、どうしても詳しく書きたかった)
が、あの時代の、そして作霖・学良にピンポイントで詳しい、もしくは興味がある人などはそうそういないだろう。
今回は、簡略さ追求してあの軍閥親子を書く。


1911年、辛亥革命が勃発。
皇帝が統治権を放棄し、清朝による中国支配は終わり、「中華民国」が成立しました。
南方で革命を起こしたのは孫文ですが、民国の総帥となったのは北方の袁世凱(清のもと実力者)です。
かといって、袁世凱の政府が中国全土を支配したわけではありません。
清が崩壊した後、地方で力を持っていた清朝時代の軍人たちがそのまま地方を支配するようになりました。
これが「軍閥」です。
彼らは一応「中華民国」帰属する形をとっていたものの、実際は勝手に税を徴収し、周りの軍閥たちと手を組んだり戦ったりを繰り返し、自らの力を蓄えることに専念していました。
「中華民国」といっても形だけ、中身は軍閥たちが内戦を繰り返す戦国時代のような状態でした。

張作霖も、そんな「軍閥」の一人です。
彼はもともと満州の一般庶民の生まれですが、馬賊(馬に乗った盗賊)となり、そのまま頭角をあらわして多くの部下を従える一大勢力になり、そのまま清に仕え、多くの配下を従える将軍となりました。
清が滅ぶと、作霖は民国の陸軍中将になったものの、その実力を駆使して満州(奉天・黒竜江・吉林の東三省)を実効支配する「軍閥」となりました。
当時、満州には日本の権益があり、日本は満州の支配者・張作霖と組むことで満州の権益を守ろうと考え、作霖に武器弾薬の支援や軍事顧問の派遣などを行い、作霖を大いに助けることになります。

日本は、作霖に中国本土の軍閥内戦に参加せず、満州統治に専念すること望みました。
しかし実力をつけた作霖は、万里の長城を越えて軍閥内戦に参加するようになります。
戦うこと数度、そして「第二次奉直戦争」と呼ばれる戦争に勝つと、作霖は中国北方の軍閥の親玉のような有力軍閥となりました。
1926年、作霖は北京で「大元帥」に就任し、自らが中華民国の国家元首であると世界にアピールしました。
もしかしたら、作霖は中国の皇帝になることを夢見ていたかもしれません。

そのころ、中国南部に基盤を置く中国国民党の事実上の総帥・蒋介石が、北方軍閥を打倒し、中国本土の統一のため軍を率いて北上を開始しました。(北伐)
1928年、作霖は蒋介石の北伐軍に敗れ、列車で満州に逃げ戻ろうとしましたが、列車を爆破されて死亡しました。
作霖爆殺を計画・実行したのは関東軍(満州に駐留する日本軍)の河本大作大佐だといわれています。
理由は、作霖を討つため北伐軍が満州にまで乱入して、満州を「中国」の一部に組み込むことを恐れたからだといわれています。

作霖の後を継いだのは、長男の学良です。
彼は、幼いときから英才教育を受け、英吾はペラペラ、軍学校を主席入学・主席卒業したほどの秀才でしたが、薬物(アヘン)と女に溺れ、贅沢な暮らしを行なうという欠点もありました。
父の権力を継承した学良は、蒋介石の国民政府に帰順しました。
学良は国民政府から「陸海空軍副司令」に任じられ、中華民国では蒋介石に次ぐ軍権を持ち、軍権では民国ナンバー2の地位となりました。

作霖・学良父子は、日本の援助を受けて勢力を拡大した一方、領内では極端な反日政策を実施していました。
さらに日本の権益を無視して満鉄(日本が経営する満州の鉄道)に並行する鉄道を作り、満鉄の経営に打撃を与えました。
しかも、満州の住民にも圧制をおこなっちました。
税の7〜8割(9割とも)を軍事費に費やし、税金を5年先まで徴収するなどもザラで、そうして得た金で贅沢な暮らしをしており、民衆にも恨まれていました。

そして遂に、満州事変が勃発。
関東軍の板垣大佐・石原中佐は、軍事行動によって満州の問題を一気に解決しようとしたのです。
関東軍は鮮やかに満州全域を征服し新国家を建国、満州の日本人は言うに及ばず、他の民衆もそれを歓迎しました。
学良は、蒋介石から「抵抗せず撤退せよ」と命じられていたため、軍隊を率いて満州から中国本土に逃げ込みました。
当時、中国本土では反日ブームだったので、中国人は政府高官から都市民衆までが声をそろえて学良を「不抵抗将軍」と罵りました。
学良は民国のナンバー2から一転して「不抵抗将軍」に転落してしまいました。
さらに、蒋介石は学良に共産党征伐を命じます。
満州から逃げてきた学良の軍の士気は低く、学良の軍事指揮も優れていなかったためか、共産党に連敗しました。
学良は、蒋介石を恨むようになりました。
「あいつは、俺を共産党征伐で使い殺そうとしている。おのれ…」

そして、学良はなんと共産党と手を結びます。
当時、共産党は蒋介石に追い詰められ、あと少しで滅ぼされるような状態にありました。
「日本野郎をやっつけろ!」と反日が主流の中国人が多い中、介石は日本よりも共産党の革命のほうがよほど恐ろしいことを知っていたため、排日よりも共産征伐を優先していたのです。
1936年、介石は、前線指揮官でありながら積極的に共産党を攻めない学良を督戦するため、西安(昔の長安)へ飛びました。
共産党と手を結んでいる学良は介石を捕え、「内戦停止、即時抗日」を迫りました。
学良は、「国のためには、内戦よりも抗日を優先しろ!」という「愛国心」を建て前として、蒋介石への恨みを晴らそうとしたのです。(西安事件)
結局、介石は学良の要求を受け入れ、釈放されます。

その後、介石は共産征伐を中止し、翌年勃発した日本との小競り合いを全面戦争に発展させました。
(介石は本心では親日でしたが、「弱腰」と批判され失脚するのを恐れてて徹底抗日を主張したのです)
日本の敗戦後、西安事件によって生き延びた共産党(戦時中、日本との戦争よりも農村に影響力を浸透させることを優先したため、強大な勢力になっていました)との内戦に敗れた蒋介石は、台湾に落ち延びて「大陸反攻」を唱えるものの叶わずに死ぬことになります。

西安事件を起こした学良は、南京に戻る介石に同行して逮捕され、裁判を受けます。
刑を受けた後、特赦されるものの監禁されます。
監禁はその後54年続き、1990年に釈放された後ハワイに移住、なんと2001年まで生きました。
享年100。

蒋介石を打ち破って「中華人民共和国」を建国した共産党は、自らを滅亡寸前の危機から救ってくれた学良を
「民族の英雄」
「偉大な愛国者」
「千古の功臣」
と讃えました。
圧政で民衆の信頼を失い、満州事変で満州を失い、「不抵抗将軍」の罵倒で名誉を失い、西安事件後の裁判で自由を失ったかわりに、張学良は共産党とその支配下の中国人から最大の賛辞を受けることになったのです。
一方、満州を奪った(?)日本は戦争に負けて海外の拠点を全て失い、学良の名誉と自由を奪った蒋介石は中国を失いました。
張学良ほど、歴史の運命の不思議さを示す人物はいないでしょう。

遂に、学良は蒋介石への恨みを晴らすため、共産党と手を組んだ。
蒋介石は、「日本軍は軽い皮膚病、共産党は重い内臓疾患」として、多くの中国人が望む抗日よりも共産党征伐を優先した。
蒋介石はもともと日本には好意的で、日本軍の実力を良く知っているため日本と戦争することは無謀であると知っていたし、日本よりも共産主義のほうがよっぽど恐ろしいと考えていた。
蒋介石軍に徹底的に攻められた共産党は、延安に追い詰められ、滅亡寸前であった。
窮地に陥った共産党、共産征伐に使い古されるのをよしとしない学良。
双方の利害は一致し、共産党と組んだ学良は介石へのクーデターをけ起こすことを決意した。
(学良は共産党に入ることまで望んだが、ソ連のコミンテルン本部に拒否された)
さらに山西軍閥・閻錫山の元へ飛んで「容共抗日」で意見を一致させ、有力の支持者と失敗した時の逃げ道も確保した。

学良は討共を命じられているが積極的に動いていないため、蒋介石は学良を督戦するため西安に飛んだ。
共産党と結んだ学良は、介石を捕らえて「内戦停止、即時抗日」を迫った。
西安事件である。
後年の学良は、西安事件について「これは愛国心の発露である」という旨を述べ、「対日復習の義挙」として評価されているが、実際は介石への報復であり、クーデターだった。
アメリカの国務省のホーンべっく曰く、
「抗日の主張は隠れ蓑で、真実は学良個人の利益を追求するためである。古い軍閥のよくやる手口だ」
ジョンソン米大使曰く、
「阿片患者の匪賊の子が、シカゴのギャングみたいに誘拐により金で解決したのではないか」

領袖を捕えられた国民政府は、学良討伐の準備を始めたが、蒋介石は助かりたいがために学良の条件を呑み、大量の身代金を払って釈放された。
もし蒋介石が自分の意志を曲げず、徹底して容共抗日を拒否していたら、後の日中戦争・共産革命の悲劇は起こっていなかったかもしれない。
釈放された介石は飛行機で南京に戻るが、なんと学良も介石とともに南京へ戻った。しかも単身で。
「容共抗日を蒋介石に認めさせた私は、国民党では愛国の英雄として歓呼をもって迎えられるだろう」
とでも甘い見通しを持ったのかもしれない。
(ちなみに、作霖以来の配下の軍隊は置き去り。棟梁に捨てられた軍は赤化して共産軍になったり、別の国民党軍に編入されたりして雨散霧消した)

南京へ帰った学良は、当然軍法会議にかけられ、「徒刑10年、公民権剥奪5年」の判決を受けたが、特赦され無罪となった。
しかし、厳しい監視下に置かれ、その監禁は、蒋介石・経国父子の支配を経て、李登輝総統の時代(1990年)に自由を手に入れるまで54年間続いた。

西安事件は、世界史の一大分起点であった。
その結果、共産党は生き残り、本心では親日である蒋介石は失脚しないために日本と徹底抗戦し(但し、自らの直属軍は極力日本と戦わせず、米英の援助で得た金は多く着服、得た武器は共産征伐のため温存)、日本降伏後に蒋介石は国共内戦に敗れ、台湾に逃れて独裁者として君臨することになる。
共産党は中国を支配し、多くの地主を処刑し、大躍進・文化大革命で自国民を多く死なせ、チベットを侵略するなど罪過(?)を重ねたが、共産党の強力な支配で中国は纏め上げられ、近年大きな経済成長を実現し、近隣諸国に脅威を与える国となっている。
もし西安事件が起こらず、介石が共産党を潰していたら今の「中華人民共和国」の成立は無く、日中戦争は無かったかもしれない。
西安事件によって命を永らえた共産党が、蒋介石の国民党軍が日本と戦っている間に中国の殆どの農村を支配化にいれて力を蓄え、内戦に勝利して介石を追い落とした。
学良は蒋介石に捕えられ長年自由を奪われたが、結果的に、学良の「蒋介石へ報復」は成功したもといえよう。
そして、学良によって助けられた中国共産党は、学良を「千古の功臣」「民族の英雄」と評価している。
もちろん、共産党が支配する人民共和国の民も、学良を英雄視する。
学良は、皮肉にも、蒋介石の後継者として中国の領袖となって得るはずであった「英雄」「愛国者」という名誉を、全く違う形で授けられることになった。

張学良は、監禁中には明朝の歴史を研究し、釈放はハワイに移住、そして2001年、ホノルルで天寿を全うした。
享年100。

学良の評価はさまざまである。
江沢民(元中華人民共和国国家主席)は、
「偉大な愛国者」
「中華民族の永遠の功臣」
「65年前の民族滅亡の危機に際して、楊虎城将軍と共に愛国精神、抗日と民族滅亡阻止の大義を掲げ、西安事変を発動し旧日本軍に対して中国共産党との共同抗戦を訴えた。更に10年にわたる内戦を集結させ、第2次国共合作を促し、全民族の抗戦に歴史的貢献をした」
とその事績を讃えている。
一方、学良のせいで共産党を滅ぼせず、敗れた中華民国(台湾)側は「歴史の罪人」と評価している。
双方の立場を考えれば、当然そう評価されるだろう。

また、学良と直接接した日本人が評価する学良の人格は、ある程度一致している。
「狡賢いところがあるが小心者。子供っぽいところがあり。陽気」(奉天憲兵隊隊長・三谷清)
「利口で常識に富み、古い頭の作霖より現代意識を持ち、諸外国と外交しなければならないと考えていた」(町野武馬・作霖の軍事顧問)
「聡明で狡く、奉天市民は狼と呼んでいた」(矢崎勘十・陸軍軍人)
「聡明な青年」(柴山兼四郎・学良の軍事顧問)
「反抗性あり。小心にして傲慢。猫かぶるところあり」(建川美次・陸軍中将」
「我慢強くなく幼児性あり、すぐに気が変わる。
わがままで気が小さく虚勢を張る。
金銭は特に好きで放蕩、阿片、女道楽激しく小利巧なり。
作霖は二重人格であったが学良は多重人格。
アメリカに憧れ心酔している」(参謀本部支那課)
利巧で聡明、しかし放蕩で我が儘、気が小さい。
これが一致した見解である。
若くして奉天軍閥の領袖になり、権力を思うがままに行使できた貴公子・張学良は、聡明でありながらその小心さと我が儘さで見通しが甘く、全てを失った。
変わりに、中国共産党から「愛国者」の評価をを得たが、共産党政府が民主化すると、その評価をも失うかもしれない。

参考文献
・「張家三代の興亡: 孝文・作霖・学良の“見果てぬ夢”」(古野直也)
・Wikipedia

中国国民党の総帥・蒋介石によって壊滅寸前に追い込まれた中国共産党を救い、中国を日本との戦争へ、そして共産化へと導いた張学良。
運命に翻弄され、そして中国の運命をも翻弄する決断を下した、軍閥・張作霖の後を継いだ貴公子・張学良の生涯。

1901年、張学良は満州の馬賊の頭目・張作霖の長男として生まれた。
父・作霖はやがて勢力を拡大、満州を支配する強大な軍閥政権を打ち立て、奉天軍閥として知られ、「満州王」と呼ばれるまでの実力をつける。
作霖自身は無学に近かったため、その反動もあってか、嫡男の学良には大勢の家庭教師をつけてエリート教育を施した。
もともと聡明だった彼は満州王の跡継ぎにふさわしい、高い教養を身に付けた。

1919年に父が創設した軍学校に主席で入学、そして首席で卒業し、19歳にして父から陸軍少将に任じられた。
作霖は、満州から打って出て中国本土の軍閥戦争に幾たびか介入、学良もそれに従軍して実戦を経験した。
1926年になると、中国本土に進出した作霖は北方軍閥のリーダー格となるほど勢力を蓄え、北京で陸海軍大元帥に就任、中国全土に覇を唱えることを夢見た。
しかし、1928年、支那統一を目指す蒋介石(南方の国民党政府の領袖)の率いる北伐軍に敗れ、作霖は北京を捨てて満州に逃げ戻る際、電車を爆破されて死亡した。
作霖爆殺を計画・実行したのは関東軍(満州に駐留する日本軍)の河本大作大佐だというのが通説だが、裏でソ連の特務機関、もしくは学良が関わっていたという説もあり、真相は闇のままである。

学良は「満州王」の地位を受け継ぎ、父の権力、膨大な財産、軍隊を相続した。
これまで奉天軍閥は、日本と結びついて権力を維持しており、日本の要人に賄賂を贈って日本の支持を得てきた。(但し領内では日本人を迫害)
しかし、学良は国民政府の要請に応じて、これまで掲げてきた「五色旗」を降ろして国民党の「青天白日旗」を掲げ(易幟)、国民党に帰順した。
こうして、中国とは一線を画して存在していた満州は形の上では中華民国に組み込まれた。

1929年、親日だった重臣・楊宇霆を暗殺した。
また、学良は日本の権益を無視して満鉄(南満州鉄道。日本が経営)に並行する鉄道を作り、満鉄の経営に打撃を与え、さまざまな排日法(日本人に土地を売ったり貸した者を罰する、など)を制定、満州の日本人経営店が襲われても一切放置して、満州から日本人居留民が立ち去るのを望み、日本人が築き上げてきた資産を我が手におさめんとした。
満州に駐留する一万前後の日本軍に対して、自らの配下の軍は25万ほど。
日本は自分に手を出せないと見くびっていたのかもしれない。
(7月には、自らの軍の力を過信したのか、ソ連の鉄道を接収したことがきっかけでソ連と武力紛争を起こしたが大敗した)

「易幟」を行い国民党政府に帰順した学良は、国民政府内で蒋介石についで軍権ナンバー2をしめていた。
他の有力軍閥は内戦や北伐、国民政府への帰順で力を大きく減退させていたが、学良は作霖が日本の援助を受けて育ててきた精強な軍隊を維持していたからである。
「国民政府に帰順」といっても、学良の軍閥としての統治体制は変わっていない。
1930年、蒋介石に反旗を翻した有力軍閥(閻錫山、馮玉祥など)が起こした中原大戦で国民政府軍を助けた学良は、蒋介石に高く評価され、
「君は私の後継者だ。
もし日本軍があなたを脅かすことがあれば、私は100万の政府軍を満州に差し向けてあなたを助けよう」
とまで囁かれ、さらに「陸海空軍副総司令」に任じられ名実ともに国民政府の軍権ナンバー2になり、南京では介石と並んで孫文の墓に花を手向け、国民党要人の内外に向けての記者会見では介石と並んで壇上に立ち、全世界に自分は中国のナンバー2の地位にいると示した。
学良は、蒋介石の後継者となり、中華民国のトップに立ち、全中国を率いる己の姿をを夢想していたのかもしれない。
大元帥・作霖は、中国全土に君臨する夢を国民政府に潰されたが、学良は国民政府の中に入り込み、そのトップに立つことで父の夢を実現させようとしたのか…。
当時、学良は29歳。

学良は、蒋介石の「日本軍に襲われたら100万の軍を送って助ける」という言葉を真に受けたのか、さらに満州での排日政策を強化する。
当時中国において、利害関係で対立する権力者たち、さらには都市民衆に至るまでーは、反日を叫ぶことで愛国心を示すことによってしか「同胞」として団結できなかった。
学良の反日政策は、中国本土の民衆から拍手喝采を受けた。

これまで我慢に我慢を重ねてきた日本も、遂に限界が来た。
1931年、関東軍の板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐が首謀者となり、満州事変を起こした。
彼らの計画は万全で、あっという間に満州は日本軍に占領され、翌年、清の最後の皇帝を元首に招いた満州国が建国された。
これまで学良の政権に虐げられてきた日本人は言うに及ばず、満州在住の支那人や満州人も満州国建国を喜んだ。
作霖・学良の軍閥政権は、平時でも税収の7〜8割は軍事費に費やし、支出が増大すると紙幣を乱発してインフレを巻き起こした。
さらに、もともと高い税金の上に役人の不正な搾取は日常茶飯事、挙句は5年先の税まで徴収するということも堂々と行なわれ、罪無き金持ちを逮捕して保釈金を大量に分捕ることもあった。
生活を営めない貧民は匪賊となり、さらに警察は裏で匪賊と結びついて利益を得ることもザラで、治安も大いに乱れ、満州は荒廃の極みに達していた。
学良の放逐後に日本の指導で建国された満州国では、一部の役人による不正はあったとはいえ、近代的な法制度や体制を整えられたため不当な搾取はなされず、匪賊征伐が積極的に行なわれ治安は回復、学良の時代よりもはるかに住みやすいところになっており、中国本土からも多くの人が流れてくるほどだった。

学良は圧政の上で取り立てた税で放蕩を重ね、事変後、これまでの放蕩生活まで暴露された。
学良は美男で聡明ではあるが、女と薬物に極度に溺れていた。
美人の物色は並大抵でなく、親族の美人を献上した臣下には高い地位を与え、さらには上海の映画女優を換金して映画会社から抗議されると大金で買い上げるという荒業までやってのけた。
人民から収奪した富を放蕩に費やしていた学良を、民衆から「盗賊」とまで呼ばれ、その怒りは事変後に学良の邸宅に群集が押し入って徹底的に略奪するという形で現れた。

満州事変が起こると、蒋介石は約束どおり軍を送って学良を助けるどころか、学良に「日本軍に抵抗せず、軍を率い中国本土に退却せよ」と命じ、学良はその通りにして撤退すると、中国全土から「不抵抗将軍」と罵倒された。
少し前まで「中国のナンバー2」として得意の絶頂にあった貴公子は、一転して屈辱を味わい、国民政府内での栄達の道は絶たれた。
学良は敗戦の責任を取って、「陸海空軍副指令」を辞職し、アヘン中毒の治療もかねてヨーロッパを歴訪し、イタリアのムッソリーニにも会い、1934年、帰国した。

1935年から、学良は蒋介石に共産党征伐を命じられたが、3度にわたる戦役で共産軍に連戦連敗し、その名をさらに下げる結果となった。
しかも学良とともに満州から逃げてきた配下の軍は望郷の念に駆られ厭戦状態で、中には共産党の工作員の影響もあって共産主義に傾く者も表れた。
部下には学良を公然と批判する者も現れた。
「学良は蒋介石に盲従して国民党での栄達を図っているが、あなたに従って、家族を満州においてここまで来た我々はどうなるのだ!あなたは私とともに故郷に帰る気はあるのか!」と。
学良は介石に討共戦で傷ついた兵を助けるために金を求めるが、にべ無く拒否され軍資金も渡されなかった。
介石は、討共戦で学良の勢力が磨り減ることを望んでいたのである。
学良は激怒した。
「満州に日本軍が来れば軍を送って助ける」といった介石を信じ、国民政府に帰順し、介石の後継者として中国全土に君臨する夢を見たのに、その挙句が、満州を取られ、介石の命に従って撤退すると「不抵抗将軍」と罵倒され、基盤を失った今では共産征伐で使い殺される…。

後編に続く

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事