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 三年四ヶ月もの間、テロ組織から身柄を拘束されていたジャーナリストの安田純平さんが解放され、無事に帰国された。嬉しいニュースだ。
 精神的にも肉体的にも想像を絶する過酷な日々だったのだろう。やつれ果てている。が、安田純平さんの凜とした眼光と毅然とした表情には、誤解を恐れずにいうと、何か清々しさのようなものさえ感じさせられる。そして同時に、強靱な精神力に驚くしかない。
 安田純平さんの精神と肉体を支えていたのは、ジャーナリストとしての信念と矜持だったに違いない。国家を私物化し、国会に嘘を持ち込んで議会制民主主義を破壊し、あろうことか公文書を改竄し、統計データを都合良く捏造し、年金を使い、また日銀を介入させて株価操作までしてアベノミクスの成果を捏造し、後戻りのできない破局へと国民を突き落とそうとしている安倍晋三と、あろうことか定期的に会食している自称ジャーナリストたちが闊歩する日本において、赤々と燃えたジャーナリストの尊厳としての魂がまだ消えずに残っていたことに、わたしは勇気と希望を与えられた。
 しかし、安倍晋三のいう「美しい国、日本」では、「自己責任論」という薄汚い鞭で、賞賛されるべき対象であるはずの安田純平さんがバッシングされるというのだから、世も末である。美しい国などではなく、現状の日本という国が如何に薄汚れた国である改めて実感している。
 「自己責任論」とは何か、わたしの得意とする文学的直観でこれから論じてみたい。

 わたしの文学的直観によれば、「自己責任論」とは戦前の日本ファシズムを産み落とした「無責任国家体制」と表裏一体となったものだと教えている(笑)。
 明治維新政府が作り上げた天皇制国家体制の本質こそが「無責任国家」だったのであり、また「政治的無責任」を生み出す構造的本質をもっていたといえるのではないだろうか。そしてその構造的本質が、戦前の日本ファシズムへと雪崩れて行く必然性を抱えていたといえないだろうか。
 大日本帝国憲法はには天皇大権が規定されており、この権利は絶対にして不可侵の権利である。さすがに憲法では天皇を神とは明記してはいないが、明治維新政府が国家の核として虚構した「一神教的国家神道」においては天皇は一神教的神として祀られている。正しく国家によって虚構された宗教なのである。
 この「一神教的国家神道」へと国民の心を縛り付け、国家への忠誠心を醸成する洗脳教育が教育勅語であり靖国神社だったのであるが、天皇が現人神であり、憲法上は絶対的な権利をもっていたのだから、天皇大権を盾にすれば、国家権力は「政治的責任」から自由になれる。極論すれば、何をしても責任をとる必要はないことになる。軍部の暴走もこの天皇大権を利用したものだ。そして責任の所在はいつも曖昧となり、だからやったもの勝ちで、意図的に作られた現実にずるずるべったりとひきずられ、現実に追随していくことになる。

 思えば醜悪な宗教である。
 教育勅語は後期水戸学を下敷きにしたものであり「儒教」の色に染め上げられたものだが「儒教」とは決定的に違う。儒教の政治論は天命論であり、国王の後ろ盾は天命(神)なのであり、天命に外れた政治を行えば国王を倒す革命権が認められていることになる。王権神授説のようなものだ。
 が、一神教的国家神道は天皇が、キリスト教よろしく一神教的神なのである。だから絶対にして不可侵なのだ(嗤)。
 しかし矛盾した宗教だ。布教活動に「儒教」を下敷きにした教育勅語を使っているばかりか、儒教的な道徳を強制し、家父長制的世界観にどぎつく彩られているのだから、パッチワークの宗教といえないだろうか。
 こんな醜悪な宗教を、日本古来から息づいていた本質的宗教などと考えるのは、余程のバカである。明らかに明治維新政府がでっち上げたいかがわしい宗教でしかない。
 いかがわしい宗教だから、人格が破綻した安倍晋三のようないかがわしい人間が慕うのだ。
 
 狭隘でいかがわしい宗教ほど人の心を「檻の中」に閉じ込めるようになる。檻の中に閉じ込められると外の世界は見えなくなり、重傷になると、外の世界があることさえ否定するようになるものだ。
 一神教的国家神道といういかがわしい宗教は、国民の心をどのような「檻の中」に閉じ込めようとしたのだろうか。
 臣民という「檻の中」である。そして臣民としての「心得」と「責任」を叩き込まれるのである。国民としての権利ではない。臣民としての「心得」と「責任」なのである。つまり、一方的に国家に忠誠と責任を果たすことを求められるのである。
 では国家は国民に対する責任はあるのか。
 ないのである(笑)。
 だから権力者は酒池肉林のやりたい放題であり、非倫理的で不道徳を謳歌することになる。国家を私物化が始まり、外交的破綻も経済的無策も、しったこっちゃない状態にまで堕落していくことになる。そして国内的な疲弊が絶頂に達すると、安易に打開策を戦争に見出すという人でなしぶりなのである。そのツケは国民がすべて負うことになる。為政者は責任を負うことはない。何故なら最初から責任の所在が曖昧になる体制であり、また責任の所在を曖昧にするための体制だったからだ。無責任国家体制とはこうしたものを指している。

 日本ファシズムが瓦解し、敗戦が決定的になり無条件降伏を受け入れても、戦争責任の所在は曖昧のままだったといえる。驚くべきことに、当事者に責任意識が皆無だったからだ。そして「無責任国家」そのままに、戦後に「一億総懺悔」などという奇怪な言葉が一人歩きを始めたのだ。戦争の責任がどこにあったのか。それが棚上げにされたから、安倍晋三のような薄汚い無責任男がこの国の首相に祭り上げられてしまったといえないだろうか。
 安倍政権は戦前の無責任国家そのものである。そして、意図的に社会に「自己責任論」を蔓延させているのだ。「自己責任」とは臣民の道だといえる。
 国民に向かっては「自己責任」を強要し、自らは無責任を謳歌できる、そうした国家こそが、人でなしの安倍晋三の理想とする国家であり、明治維新政府が虚構したいかがわしい一神教的国家神道を核にした天皇制国家だといえないだろうか。
「自己責任論」と「無責任国家」とは表裏一体となったものなのだ。
 こんな薄汚い言葉に欺されてはならない。国家を私物化し、国民の暮らしと社会のあり方を破壊した安倍晋三には、きっちりと責任を果たしてもらおうではないか。

 安田純平さんへの「自己責任論」によるバッシングに戻るが、そもそもがジャーナリズムに「自己責任論」など入り込む余地はないのである。
 本物のジャーナリストは真実の姿を追及しようとする意識と衝動に突き動かされるものだからだ。その意識と衝動に「自己責任論」が入り込んだ時点で、その意識と衝動は汚れたものになってしまうはずだ。それでは真実に辿り着けるはずはない。
 ジャーナリズムが国家権力が国民を閉じ込めている「檻の中」で安穏とできるとしたら、それはジャーナリズムの名に値しない。ジャーナリズムとは檻の存在と対峙し、檻のない世界を常に思い、そして檻を突き破って檻の外へと出て、「檻の中」では決して見えない檻の外の世界を「檻の中」へと発信し、檻の存在を国民の心の目にみえるようにしようとする本能をもっているものなのではないだろうか。その本能こそがジャーナリズムの尊い魂であり、信念であり、だからこそジャーナリストとしての矜持を高く掲げられるのだろう。
 わたしも小説家の端くれであるが、「檻の中」で安穏としている文学を文学とは認めていない。作家だからこそ見える檻の存在を問題にすべきなのだという信念がある。「自己責任論」などというくだらないことを議論しなければならない社会は、最早正気ではない。狂った社会である。

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