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 先週は忙しなかった。
 週明け17日、軽登山を兼ねて伊豆に妻と旅行した。
 熱海駅でレンタカーに乗り継ぎ、伊豆半島を縦断する伊豆山稜線の登山口になる仁科峠へと向かった。熱海から車で二時間ほどだ。そこから妻と二人で伊豆山稜線を北上したのである。伊豆には何度となく訪れているが、観光地巡りだけで登山は初めてであった。大仰にいえば伊豆の本質に触れられた旅だった。雨が落ちてきたので途中で引き返し、車を停めてある仁科峠へと下山し、土肥温泉をめがけ車で一気に山を下ったのである。背後に山を従えた土肥温泉は駿河湾に面している。前は海。後ろは山。伊豆の海沿いにある温泉地はどこも同じだ。宿泊した宿の部屋には檜の風呂があり、心ゆくまで温泉を堪能できた。小説のネタになる部屋だった。この登山については後日、ブログに書くつもりだ(笑)。
 帰ってきてからが大変だった。翌日に草刈りの肉体労働が入り、20日と21日に通夜と告別式があったりと、疲れと寝不足の一週間だった。
 ブログで連載している小説『三月十一日の心』の続きを二年ぶりに書こうと思っているのだが、遅々として先に進まない(笑)。
 二年ぶりなのでこれまでの話を忘れてしまっている。おまけに詳細なプロットなしのぶっつけ本番で書いていたので、二年前の心境にまで降りていくのに苦労している。更に小説のデータを保存していたパソコンが壊れ、登場人物の履歴書のデータまでを紛失しているから最悪である(わたしは詳細なプロットなしの場合には登場人物の履歴書だけは作成している。履歴書を作成しながら、その人物像がおぼろげに見えてくるからであり、履歴書がないと小説の中で辻褄が合わなくなり破綻してしまうからだ)。
 それでも「一太郎2017プレミアム」を購入していたので、二年前の心境へと回帰する手助けになっている。推敲を兼ねて、詠太をフル活用しているのだ。声にして文章を朗読してくれる詠太は、作家にとっては心強いパートナーといえる。目を閉じて聞いていればいいので目が疲れないばかりか、文章のリズムに気配りができる。文章のリズムを効果的に変えることで、小説に起伏を作り出すことができるが、その手法を用いるには詠太は最適である。

 そんなわけで小説に全精力を傾注したいのだが、日本の明日を考えれば、そうもしていられない。明日ばかりか、未来までが閉ざされてしまうかどうかの政治的分岐点を、わたしたち日本人は生きているのであり、政治的瀬戸際を生きさせられているからだ。そして政治的状況は最悪といっていい。
 そこで肉体労働と執筆の合間を縫って、わたしの得意とする文学的直感に導かれるままに、安倍晋三は何処へいくのか、について素描することにする次第だ。
 わたしには常に、安倍晋三が何処へいくのかという問いと、その問いが連れてくる直感がある。だから危機意識が半端ではなくなってしまうのだ。
 日曜の朝、TBSサンデーモーニングを観たが、政治評論家と芥川賞作家が語っていることを聞いていると、わたしの危機意識との温度差に唖然とする。市民連合と野党の危機意識と、わたしの危機意識の温度差も同様である。
 日本の明日がおぞましい空気で覆い尽くされ、未来の扉が閉ざされるかどうかの退っ引きならない瀬戸際にあるという、状況判断がないとしか思えないのだ。それは、安倍晋三の本当の怖さを自覚していないことに起因するものなのだろう。本当の怖さとは、安倍晋三の狂気に由来すると言い切ってもいい。
 狂気を前にしては、理性と論理では通用しない。そして、狂気を屈服させることは不可能だ。
 が、安倍晋三の怖さの本質が狂気にあると捉えていないから、市民連合と野党は相も変わらず、狂気に理性と論理で立ち向かおうとしているのだろう。わたしからみると脳天気としか思えない。非常時にあっても、依然として平常運転であり、だから無策なのだろう。
 安倍晋三を見くびっているからだ。安倍晋三の怖さは、常識と論理とを飛び越え、脈絡と辻褄をせせら笑う狂気そのものにある。そして狂気に倫理観と羞恥心は入り込む余地はない。
 わたしは何度となく、安倍晋三は嘘と詐欺と言い訳が人格そのものになってしまっているから、安倍晋三の言動には一貫性も脈絡性も論理性もなく支離滅裂であり、そして分裂症的であり、更には人格であるから、嘘をつくことに微塵の躊躇いもなければ、心の痛みもなく、昨日の言動と今日の言動とに明らかな矛盾があっても平気の平左なのだ、と口が酸っぱくなるほどブログで語っている。
 問題は、安倍晋三の人格そのものである嘘と詐欺と言い訳が、狂気のレベルにまで変質してしまったということだ。国会で嘘と詐欺と言い訳を日常的に行使し、それが何ら問題とならない絶大な権力を握ってしまったなら、自らの自制が利かなくなり、人格的な制御不能に陥るだろうことは想像ができる。それに拍車をかけたのが異常な自己愛と、コンプレックスと裏表一体となった異常な自己顕示欲なのである。
 我が儘放題に育ったのだろう、安倍晋三には自分の欲望と衝動を自制する心が欠けている。また自分を突き放して客観的に眺めるという自省の心が著しく欠けている。その上で嘘と詐欺と言い訳が人格にまでなってしまっているのだから、そんな男が絶大な権力を握れば、歯止めが利かなくなりいつしか狂気の領域へと上り詰めてしまうのは道理だろう。ある意味では、北朝鮮の金正恩よりも危険極まりないといえる。金正恩は政治的な駆け引きと、自分の破滅を回避するだけの頭脳と自制心はもっているからだ。安倍晋三も異常なほどに自己中心的であり、自分が国民と国家よりも最優先されるべきものという自己愛の権化であり、自己至上主義者であることにおいては金正恩と変わりはないが、違いは論理的思考の欠如と視野狭窄が安倍晋三の方が一枚上手だということだろう。目先の利害にとらわれて、それが後々で自分の首を絞めることに繋がることでも安倍晋三は嬉々としてやってしまうのである。
 ヒトラーは自覚的なニヒリストであり、絶対的な力を信じており、だから自覚的に、そして積極的に自らで悪魔の道へと突き進んで行くのに対して、安倍晋三は無自覚に、そして衝動的に、嬉々として破滅へと突き進んでいく狂気を生きているのだ。もちろん、国民と国家も道連れである。

 声を大にしていいたい。安倍晋三は狂気の領域へと足を踏み入れてしまったのだ。
 そして肝に銘じるべきは、日本の政治を狂気が支配し始めたという厳粛な事実だ。
 安倍晋三の言動を観察してほしい。嘘と詐欺と言い訳の領域から狂気の領域へとジャンプしたことが見えてくるはずだ。
 が、狂気は安倍晋三の中だけで完結するはずはない。安倍晋三が絶大な権力を握っているからだ。安倍晋三の狂気は、政権内部ばかりか自民党と公明党と維新の党にまで伝染し、果ては民進党の一部にまで伝播していっている。日本の政治を狂気が蝕んでいるといっても過言ではないだろう。
 伝染といっても直ぐに安倍晋三の狂気に陥るというのではない。安倍晋三の狂気に接する中で、その狂気に慣れてしまい、狂気に麻痺してしまって、安倍晋三の狂気を狂気として感じられなくなってしまう現象が初めに起こることになる。そうした現象が高じると安倍晋三の狂気の世界へと入っていくことになるのだろう。
 こうした視点で眺めると、安倍政権の閣僚は元より、自民党と公明党と維新の党と、そして民進党の極右勢力は既に狂気の世界へと入り込んでしまったのではないだろうか。安倍晋三の狂気を狂気として感じられなくなってしまっているからだ。官僚も同様だろう。
 この視点でマスコミをみると、産経と読売は論外として、公共放送のはずのNHKは完全に狂気の世界へと突入してしまっている。特に政治部の狂気は凄まじいものがある。岩田明子がその代表格だ(笑)。
 朝日と毎日はまだ狂気の世界へと入り込んではいないようだ。しかし、安倍晋三の狂気に麻痺していることは確かだろう。
 考えてみれば、ジャーナリズムが狂気に取り憑かれてしまうことほど恐ろしいことはない。国民が事実を知り得なくなるからだ。そして情報操作によって、容易く洗脳されてしまうからだ。
 国会の審議をみれば一目瞭然だろう。学級崩壊ならぬ国会崩壊状態なのだが、学級崩壊のレベルをも飛び越えて、狂気が国会を支配し始めたと言えないだろうか。
 この狂気が支配する国会で共謀罪の審議に応じようとする野党の姿勢に、わたしは首をかしげざるを得ないのである。
 共謀罪の審議で質疑に起つ野党議員はいずれも論客揃いである。精鋭を集めたのだろう。
 しかし、狂気に理性と論理では立ち向かえないことは論を待たない。連日、共謀罪審議での異常なやりとりがツイッターで取り上げられているが、狂気が支配しているのだから驚くには当たらない。むしろわたしには、狂気が支配する国会で、理性と論理で立ち向かう野党議員がドンキホーテに見えてしまうのである。
 狂気が支配し始めた証拠は枚挙に暇がない。閣僚たちの暴言と失言が日常茶飯事である。狂気にとっては暴言と失言は当たり前の現象なのである。
 安倍晋三は北朝鮮のサリンを搭載したミサイルが飛んでくると異常なほどの危機意識を煽り、戦時下の雰囲気を社会に作り出そうと躍起になっているが、その一方で、安倍晋三夫妻はお笑い芸人と花見の宴で笑い興じているのだ。その姿は異様である。異様に思えるのは、やっていることが自己矛盾でしかないからだが、その矛盾を意に介さないのが安倍晋三の人格と心を支配する狂気なのである。
 以下、わたしの得意とする文学的直感によって、安倍晋三は何処へいくのか素描したい。

 安倍晋三は何処へいくのか、それを知るには安倍晋三が目指す目的地が分かれば自ずとはっきりとするはずだ。
 では、安倍晋三の目指す目的地とは何処なのだろうか。
 目的地を知るには、支離滅裂であり、幼児性分裂症を患い、嘘と詐欺と言い訳とが人格そのものであり、更に異常な自己愛とコンプレックスを裏返した自己顕示欲に取り憑かれ、そればかりか絶対的な権力を与えられて自己制御さえ出来なくなり、自制を失った果てに狂気の領域にまで足を踏み入れてしまった、安倍晋三の言動を観察しても見えてはこないだろう。
 安倍晋三は操り人形である。操っている組織は日本会議ではない。日本会議までがフロント組織でしかないことを暴いたのは、菅野完『日本会議の研究』(扶桑社新書)である。
 安倍晋三を操っている勢力は、闇に姿を隠し、存在を巧妙に消し去っているのである。この勢力については『日本会議の研究』を読むことをお勧めする。また、わたしは前回のブログで書いているので参照していただきたい。
 闇の勢力は「生長の家政治運動」の戦闘的分子の生き残りであり、今なお、存在しない70年代の左翼学生運動という敵と壮絶な戦闘をし続けているのである。存在しない敵であるから始末が悪い。敵自体が己の想念が作り出したものになっているのだ。そして、谷口雅春という神にも等しい絶対的な影をまとった安東巌を教祖的な存在とする、少数精鋭のカルト的組織を作りあげているのである。組織論と戦術と戦略に長け、政治的マキャベリストへと己を鍛え上げた安東巌は、自らの中核的組織の存在さえも闇へと紛れ込ませているのだ。だから、安倍晋三を背後で操っているのが日本会議だと見なす誤謬を犯すことになるのだろう。驚くべき戦術と戦略である。
 もちろん、だからといって日本会議の思想性を軽んじるつもりはないし、安倍晋三と日本会議との繋がりと影響を否定するつもりはない。が、操り人形である安倍晋三を葬りさろうとするなら、日本会議ではなく、日本会議というフロント組織まで巧妙に操っている闇の勢力こそ射程に収めなければならないはずだ。
 したがって、安倍晋三が目指す目的地を知るには、闇の勢力が目指す目的地を知ることが不可欠となる。
 その目的地は当然に「生長の家政治運動」にヒントがある。菅野完は『日本会議の研究』の中で見事なまでに暴いてみせてくれている。
 その目的地とは憲法の改悪であるが、その基本に据えられているのはすこぶるシンプルである。そして、主目的は9条の改悪にない。
 菅野は、ナチスの全権委任法に当たる緊急事態条項の追加と、家族保護条項の追加、そして自衛隊の国軍化だと指摘している。
 これが闇に姿を溶け込まして、狂気と化した安倍晋三を操る勢力の目的地ということになるのだろう。要約すれば、戦前の一神教的国家神道を核とした儒教的な家父長的家族制度の復活と、軍事独裁国家ということになるのだろう。戦前の日本ファシズム国家を彷彿とさせるものである。

 安倍晋三が向かおうとする目的地は見えてきた。
 しかし、本質的な問題はここから始まるのである。
 目的地に着いたが、ではその目的地で何をしようというのか、という問題である。わたしはこの視点こそが重要だと思っている。この視点がなければ、安倍晋三の狂気の本質的な危険性と恐怖とが浮かび上がってはこないからだ。
 日本会議には思想性がないと菅野は看破したが、菅野が言っているのは、いわゆる「日本会議」に思想性がないという意味で言っているのではない。安東巌が作り上げたフロント組織としての日本会議に思想性はないと言っているのである。
 いわゆる「日本会議」とは雑多な宗教団体や右翼団体の寄り合い所帯であるが、明確な思想はなくとも、思想性のようなものはあるだろう。中核となっているのは、安東巌が率いる闇の勢力の目的地を反映した「思想」ということになるのだが、いわゆる「日本会議」に寄り集まった雑多な宗教団体や右翼団体は、それを純粋な意味での「思想」と捉えているのかもしれないが、安東巌にとっては「思想」ではないのである。この点を見誤ってはならないだろう。
 重要な位置づけをしていることは否定しないが、安東巌にとっての「日本会議」とはフロント組織に過ぎないのである。何故にフロント組織は必要となるのか。中核である自らのカルト的組織を闇に紛れさせながら、目的地へと達するために利用するためである。したがって、安東巌においては、いわゆる「日本会議の思想」とは目的を達成するための戦術的道具でしかないのだ。菅野の鋭い眼光はこうしたことまで射貫いているのである。だから思想性はないと言っているのだろう。

 菅野のいう思想性はないという指摘は本質を突いていると思う。
 日本会議のことではない。安東巌の本質である。
 わたしは安東巌には「思想」はないと直感している。安東巌にあるのは思想ではなく目的地だけである。その目的地に辿り着く過程が、己の想念の中に生きている70年代の左翼学生運動の勢力との壮絶な戦闘なのであり、目的地に辿り着くことこそが、安東巌にとっての敵の殲滅であり勝利なのである。己の想念の中に生きている敵を殲滅し目的を達成することが、安東巌の生きている証であり、生き甲斐であり、生きることそのものなのである。
 安東巌は類い希な戦術家であり、戦略家であり、政治的マキャベリストであるといったが、目的を達成するためにはどんな手段でも躊躇わずに行使するだろう。もちろん、目的を達成するための手段に脈絡性も一貫性も論理性もあるはずはない。状況に応じて臨機応変に手段は変わってくるからだ。昨日の手段が今日の状況にそぐわないとなれば、真逆の手段を繰り出す柔軟性と悪魔性を秘めているのである。嘘も詐欺も言い訳も、裏切りもスパイ活動も、罠も誹謗中傷もデマも、仮想敵の脅威を煽ることも、戦術の一つなのである。ハニートラップの罠にはめることなど朝飯前なのである。罠にはめるのは敵だけではない。味方の弱みを握る上では有効な手段なのである。脅すことで、味方を捨て駒として自由自在に操れるからだ。
 ここまで書いてくれば、安倍晋三がもってこいの操り人形だということが分かることだろう。

 安倍政権の政策には、一貫性がなく、脈絡性もなく、相互に矛盾した要素があり、支離滅裂的で分裂症的であり、場当たり的だという指摘があるが、それは道理であり、政策までが目的を達成するための単なる手段でしかないからだ。
 アベノミクスこそが目的を達成するために国民を騙すための猫だましでしかない。あたかも打ち出の小槌のような宣伝と印象操作をしているが、実質はほとんどないに等しい。株高を演出し株価を買い支えるためだけに年金を湯水のごとく注ぎ込み、日銀が為替操作を行い円安へと誘導しているばかりか、株価操作にまで介入する始末である。そして日銀の狂気に近い金融政策は破綻に向かって突き進んでおり、国債の買い取りも危険水位を超えている。
 破綻が早いか、それとも目的地へと辿り着くのが早いか、破綻が先ではいくら何でも国民が黙っているはずはない。目的地へと向かって歩いていく速度が増し、最近では走り出したと思えるほど強引で必死なのは、その辺りに理由があるのではないだろうか。
 こうした経済政策が、政治的な目的を達成するための手段でしかないということは憂慮すべき問題である。いってみれば、亡国に繋がる政策を手段として弄んでいるに等しいからだ。早晩、破綻しないわけはないのだが、そのツケは国民がすべて背負うことになるのだろう。破局的な大問題だといえる。
 安倍晋三を操る闇の勢力は、そんなことは百も承知だろう。知っいてやっているのだから、安東巌の政治的マキャベリズムは悪魔的である。亡国に繋がりかねないことも、己の政治的目的と天秤にかければ大した問題ではないのだろう。恐ろしい限りである。
 しかし、希代の戦術家であり戦略家の安東巌の恐ろしさはこんなものではない。亡国に繋がりかねない経済政策が、巨大資本にとって垂涎の的だと知り尽くしているのだ。アベノミクス、円安誘導、株価操作は言うに及ばず、安倍政権の経済政策の悉くが、国民のための社会保障を犠牲にした巨大資本偏重のものである。巨大資本が安倍政権を後ろから後押しすることを計算し尽くしているのだろう。
 巨大資本と一体化する利点は計り知れないものがある。巨大資本がスポンサーであるマスメディアを使って情報操作を行い、国民を洗脳し、闇の勢力が目的を達成するために望ましい社会的空気を作り出せるからだ。
 闇の勢力にとっては追い風だったといえる。
 どういうことかというと、日本資本主義が末期症状にあるからだ(日本ばかりか世界規模で資本主義は末期症状にある)。
 わたしは新自由主義とは、末期症状に陥った資本主義がそれまでお面を被って隠していた、おぞましい限りの化け物の貌を露わに表に出した経済思想だと思っている。
 経済「思想」というのは適当ではないだろう。市場原理主義という宗教だというべきなのかもしれない。
 関税が撤廃され、社会構造の違いに由来する非関税障壁から完全に解放されて、世界に開かれた単一で画一化された、自由で平等で公正な市場の持つ力に絶対的な信頼を置き、その力に神の裁きをみるというお目出度い限りの信仰である。経済理論というにはあまりにもお粗末だ。こんな市場は世界の何処にもないし、作ることも不可能だろう。個別的な伝統と文化と歴史の完全な否定であり、市場の中での弱肉強食というダーウィニズムに、自由と平等と公正を見出しているところに、どうしようもない堕落と非倫理性が隠されているといえる。市場の中で競争する資本がすべて条件が同じでスタートラインも同じならまだしも、資本自体に違いがあり、優劣があるのだから、そもそもが初めから自由で平等で公正な競争などできるはずはないのである。巨大企業の都合がいい手前勝手な理論としかいえないだろう。
 それだけではない。新自由主義にはあるのは市場だけであり、理想もなければ、あるべき社会像もなく、強いていえばあるべき国家像もないのである。社会も国家も市場に従属すべきものでしかないからだ。
 市場で勝つことは、市場という神によって選ばれし者であり絶対的な正義なのであり、そのためならどんなえげつない手段も躊躇うことはしないと言える。勝つことが目的であり、どんな阿漕な勝ち方をしても、勝ったという事実は神の祝福を得たという証なのである。したがって、手段に一貫性もなければ脈絡性もない。手段と手段との間に論理的な整合性もなく、矛盾した関係性があってもどうでもいいのである。
 安倍晋三を操る闇の勢力と、新自由主義は似ているといえないだろうか。
 わたしは新自由主義へと舵を切った巨大資本と、安倍晋三を操る闇の勢力との結びつきに必然性をみているのである。
 が、安東巌は徹底している。そして狡猾である。
 安東巌が直接的に巨大資本と手を結ぶことはしない。飽くまでも闇の中に潜んでいるのだ。巨大資本が安倍晋三を神輿として担ぐように、巧妙に導いていく戦術と戦略に徹しているのである。
 安東巌に思想性がなく、その意味で日本会議に思想性がないといったが、純粋な意味での思想があるなら、極論すれば、固有の伝統と文化と歴史を否定し、国境までも否定する新自由主義と手を結ぶことなどあり得ないはずだ。

 では、闇の勢力が目的を果たしたならどうなるのだろうか。
 安東巌には這ってでも目的地に着くことがすべてであり、それが生き甲斐であり、生きている証であり、そして生きることそのものだったのではないだろうか。だから、目的地に辿り着くための戦術と戦略を練り、敵と闘うことに無情の喜びを感じていたのではないだろうか。希代の戦術家であり、戦略家なのである。勝利した後の政治には興味がない、とわたしの直感は教えてくれている。そして更に、安東巌には思想としての理想もなければ、言葉の厳密な意味でのあるべき社会像と国家像はもっていないと、わたしの直感が語っている。だから安東巌には思想性が希薄なのである。安東巌は思想家ではなく、革命家だといえはしないだろうか。
 こうして直感をなぞってくると、驚くべき結論が導き出されることになる。
 安東巌にとっては目的地に辿り着くことがすべてだとすると、安東巌は目的地についた時点で燃え尽きてしまうのではないか、という結論である。己の中に生きている想念としての「愛すべき」敵の存在が消滅してしまうからだ。
 燃え尽きた安東巌は、操り人形だった安倍晋三を解き放ち、自らは闇の奥深くへと姿をくらましてしまうのではないだろか。わたしの直感が正しければ、そうした結論が導き出されるのである
 自由になった安倍晋三は何をするつもりなのだろうか。
 この時点の安倍晋三は、平成の治安維持法である共謀罪ばかりか、憲法を改悪して、ナチスの全権委任法に当たる緊急事態条項まで手に入れているのだ。
 そして忘れてはならないのは、安倍晋三は自己制御が利かない狂気の領域に達しているということだ。安倍晋三を止めるものは誰もいない。
 そればかりではない。目的地へと辿り着くためにとった支離滅裂であり、その場限りの手段でしかなかった経済政策の取り返しがつかない代償が噴出しているはずだ。
 こうした状況で狂気の安倍晋三は何をしようとするのだろうか。
 想像するだけでも身震いする。わたしの直感は、短絡的で衝動的な安倍晋三の狂気は、経済的な破局を乗り切ろうとして、目的のない戦争へと国民を突き落とし、嬉々として破滅へと雪崩れていくと断言している。

 以上がわたしの直感の素描であるが、読者はわたしの直感をどう解釈するのだろうか。
 安東巌はスーパーマンでもなければ、神でもない。安倍晋三という生身の狂気を自由自在に操れるはずもなく、また当然に戦術と戦略に綻びが生じるはずだ。安倍晋三が安東巌の操縦から逸脱し、また安東巌の周到な戦術と戦略との綻びは、皮肉なことに、安倍晋三の独裁政治が色濃くなり、安倍晋三の嘘と詐欺と言い訳から成り立つ人格が狂気の世界深くへと分け入れば、分け入る毎に、大きくなるのではないだろうか。森友学園疑獄はその現れだったのだろう。
 本来ならば、この森友学園疑獄という綻びが発覚した時点で安倍晋三の命取りになるのだろうが、安倍晋三の独裁化は驚くべきレベルにまで達していたようだ。マスメディアをほぼ掌中に収め、森友学園疑獄の報道規制を敷き、公共放送であるはずのNHKを核にして国民の関心を北朝鮮危機へと向け、戯画的ともいえる過剰な危機意識を煽りに煽り、戦時下の空気を作り出そうと躍起になっている。
 それだけではない。国会を狂気で乗っ取ってしまったのだ。
 狂気に乗っ取られた国会で、どうして野党は大真面目に共謀罪の審議をしているのか、わたしにはその神経が分からない。安倍晋三と政権与党は端から真っ当な審議などする気がないのである。その上、狂気で国会を愚弄までする始末である。

 共謀罪と北朝鮮危機で、森友学園疑獄の報道は風前の灯火である。
 森友学園疑獄の過剰な報道は、共謀罪の成立をするためのスピン報道だというような馬鹿げた妄想を本気になって叫んでいる、いわゆるリベラル層がいたが、わたしからいわせてもらうと、政治的リアリズムという視点が欠落し、政治的状況を無視した大馬鹿野郎としかいいようがない。
 狂気に支配された国会で、共謀罪の審議など元より成り立たないのである。
 最大の問題は共謀罪を阻止することではない。そもそもが狂気が支配した国会で、共謀罪の強行採決を阻止することなどできないだろう。
 最優先すべきは、狂気の安倍晋三を即刻退陣させるしかないのである。共謀罪を絶対に阻止しようとすれば、安倍晋三の政治生命を絶たなければ無理だということが分からないとしたら、余程の脳天気であり、どうしようもない政治音痴だといえる。
 安倍晋三の政治生命を絶つとすれば、森友学園疑獄をおいてないのは、幼稚園児でも分かるはずだ。
 したがって、市民連合と野党が取るべき戦術は限られてくる。国会審議をすべてボイコットしてでも、国民の耳目を森友学園疑獄へと引き寄せる以外にはないのである。そのためには、ありとあらゆる手段を講じなければならないのは言うまでもない。
 安倍昭恵と谷査恵子と迫田前理財局長の証人喚問を求め、応じなければ、国会審議をボイコットするくらいの覚悟がなければ道は開けないだろう。
 安倍晋三の狂気との闘いの舞台は森友学園疑獄でしかないのだ。
 その舞台で闘うための演出は重要になる。相手は狂気である。正攻法でなど無理である。だからこその演出なのである。
 先ずは、国民に安倍晋三の「狂気」を広く知らしめることだろう。国会審議をボイコットするのは、国会が狂気によって乗っ取られ、正常な審議ができないことを、具体的に、そして映像で徹底的に宣伝すべきだ。稲田朋美の虚偽答弁、大臣と官僚の答弁拒否、安倍晋三の恫喝と延々と喚き散らす異常な光景等々……、材料には事欠かない。
 ここからは例え話であり、わたしの考える戦術の一例である。
 わたしは世間の耳目を集め、世間を味方につけるには安倍昭恵の存在は重要だと思っている。
 森友学園疑獄の糾明の中で、安倍陣営のアキレス腱は何か、と考えたときに、わたしは安倍昭恵だと狙いを定めている。その証拠に国会で安倍昭恵の名が出ると、安倍晋三の狂気は沸点に達し、自己制御不能に陥ることをみても明らかだろう。
 それに、安倍昭恵はこれまでの国会での追及で情緒不安定になっている。安倍昭恵は何不自由なく育ったお嬢様であり、周りから常にチヤホヤされて育った女性である。叩かれた経験がないのだ。
 安倍昭恵を徹底的に叩くべきだろう。
 それだけでは甘い。世間はこうした権力をかさに着て好き放題をする女を一番に嫌うものだ。権力を後ろ盾にどういう好き放題をし、どういう振る舞いをし、どういう非常識なことをしてきたか、詳細に調べ上げて宣伝すべきだ。Twitterでキャンペーンを張ってもいいだろう。
 えげつない戦術だなどと言っている猶予はないのである。デマは駄目だが、安倍昭恵を調べ上げれば、法律違反と税金の無駄遣いのオンパレードだろう。
 こうした事実を徹底的に世間に拡散すべきだ。世間に広まり、週刊誌を賑わせるようになれば安倍昭恵はもたないだろう。そして、安倍昭恵の証人喚問を世間が熱狂的に求めるだろう。
 権力欲の権化である女帝とはいわないが、無邪気で、脳天気な、やりたい放題のお気楽な「お嬢様女帝」くらいのイメージにはなるのではないだろうか。
 最後の仕上げに、国会審議の全面的ボイコットか、安倍昭恵の証人喚問か、を突きつけるのである。世間が拍手喝采をして絶大な支持をすることだろう。応じなければ、国会議事堂を埋め尽くす圧倒的なデモに訴えればいい。
 もう一度言う。相手は狂気だ。そして手段を選ばない。やりたい放題なのである。
 こちらが正攻法で攻めても、風車に突進していくドンキホーテでしかない。問題はこのまま放置すれば、日本の明日と未来がなくなるということを、市民連合と野党は噛みしめるべきだろう。
 市民連合と野党は憲法記念日に護憲運動の集会を企画しているようだが、この切迫した状況で、どうして安倍晋三の狂気を葬り去ることを前面に掲げないのか、わたしは不思議でならない。ほんとうに脳天気だとしか思えないのだ。
 後はない!
 そして猶予もないだ!

※『里山主義文学』という名のブログに、連載小説『三月十一日の心』を転載しました。読んでいただければ幸いです。

※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

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 月曜、火曜と肉体労働の仕事が入り、昨日は借りている畑に行ったりしていたのでて、ブログを更新できなかった。
 今日は休みだ。菅野完『日本会議の研究』(扶桑社新書)に関するブログは、今回で終わりにしたい。
 が、どうも深入りをしてしまう予感がするのである。あちらこちらへと筆が逸れて収拾がつかなくなり、肝心の菅野完『日本会議の研究』から逸脱してしまう予感である。そうなると、膨大な長さになってしまうことだろう。それだけは避けたい。連載小説『三月十一日の心』を書きたいからだ(笑)。
 前回のブログを読み返してみて、うっかり高山樗牛について触れてしまったが、恩師である橋川文三の『昭和維新試論』(ちくま学芸文庫)を思い出したりしてしまった。橋川はこの中で高山樗牛を論じている。前回のブログで高山樗牛を、ばっさりと切り捨てるようにして日本主義と断じたことを少し恥じたりしている。後の祭りである。
 橋川は『昭和維新試論』で朝日平吾をも論じている。大正十年に安田善次郎を暗殺した朝日平吾は、昭和維新に流れる心情の源流に位置する。昭和維新を語る上で朝日は重要であり、昭和の右翼的心情(左翼的心情ともいえる)を理解する上では重要である。
 しかし、朝日の問題に足を突っ込んでしまうと、それこそ深みにはまってしまうことは間違いない。
 深みに嵌まらずにはどうすればいいか。菅野完『日本会議の研究』によって、わたしの心が激しく揺さぶられた核心部分に絞って書くことなのだろう。つまり、安東巌が、操り人形としてどうして安倍晋三を選んだか、ということを論じるべきなのだろう。
 が、論じるといっても、論理的に、そして分析的に解明しようというのではない。菅野完『日本会議の研究』がわたしの中に連れてきた、直感がすべてなのである。直観と書きたかったのだが、果たしてそれが安東巌の本質を鷲づかみにできているか自信がないから、直感としたのである。
 その直感は、安東巌が安倍晋三を選んだ意味と戦略性とに繋がるものだ。そして、安東巌の組織論の卓越性と権力掌握の陰湿的な方法論にも繋がっている。安東巌の恐ろしい限りの化物性を浮かび上がらせる直感なのである。
 安東巌について語る前に、予備知識を先ずは語っておきたい。

 前回は急進的な左翼学生運動について、マルクス主義という思想と論理と、組織論との関連に触れて終わってしまったが、右翼運動に組織論が存在するものなのか、わたしは疑問である。
 そもそもが右翼運動には体系的な思想というものがあるのだろうか。
 思想はあるのだろうが、体系的な思想はない。左翼思想にみられるマルクス主義という思想と理論のような明確な核と論理性がないから、右翼の思想はつかみ所がないといえるのだろう。よく言えば許容範囲が広いといえるし、悪く言うと曖昧模糊としていて支離滅裂ということになる。
 右翼の思想のいい加減さは、任侠系右翼(暴力団)と行動右翼と呼ばれている集団をみれば明らかだ。権力によって体制を維持するために雇われ、また意図的に育成された右翼である。大正時代に社会主義運動が勢いを増し、労働争議が頻繁になると、危機感を抱いた国家権力が対抗手段として担ぎ上げたのが、任侠右翼と行動右翼だったのである。したがって思想性は著しく乏しい。
 猪野健治は『日本の右翼』(ちくま文庫)で、「これらの団体は、国体護持、赤化防止、政治革新などを看板にかかげてはいたが、内的な思想性は希薄で、一部を除いてもっぱら暴力的直接行動に終始した。行動面では、争議介入、スト破り、労働運動や部落解放運動(水平社)、社会主義者に対する暴力的攻撃がほとんどだったのである。財閥や政界、軍部は、背後あるいは側面から彼らを支援し、対左翼の民間暴力装置として利用した」と断じている。
 この任侠右翼と行動右翼は戦後になって壊滅的な打撃を受けたが、GHQの共産党への弾圧政策と呼応する形で、共産党による赤色革命に恐怖した国家権力が「二十万人の反共抜刀隊」というおぞましい計画とともに復活を遂げている(猪野健治『日本の右翼』)
 しかし、任侠右翼と行動右翼をみて右翼には思想がないというのは片手落ちだろう。
 猪野健治は『日本の右翼』で右翼の主張を二十項目に整理している。そして「過去に活動した右翼団体、現在活動中の右翼・民族派団体は、以上の項目の中の三項以上のかかわる主張を持っている」としている。猪野の右翼の規定は簡単明瞭である。「左翼に対抗する在野勢力の前衛的部分」だというのである。
 猪野の定義は面白い。左翼がいないと右翼は成り立たないというように読めないこともないからだ(笑)。この定義をそのまま受け入れがたいのだが、安東巌の思想と立ち位置を考えるときに、猪野の右翼の定義は示唆的である。この件については後述する。
 猪野は定義の中で在野勢力といっているがその理由は、「日本の右翼は、未だかつて一度たりとも政権の座についたことがないからである」と断りを入れている。戦前の超国家主義体制(=日本ファシズム)は何だったのか、紛れもない極右体制ではないか、という反論はここではしない(笑)。
 猪野の論理は、右翼の勢力が国家権力を奪取して、つまりファシズム革命によって
国家権力を手中に収め、右翼勢力が自力でファシズム国家体制を構築し、直接的に政治を遂行したのではなく、国家権力が極右思想を利用する形で、自らを、丸山真男のいうずるずるべったりとした現実追認によってなし崩し的にファシズム国家体制へと変質させていった、といいたいのだろう。
 しかし、岸信介のような北一輝の思想に影響を受けた官僚が、「事実上、満州国経営の実権を握っていた」(原彬久『岸信介』岩波新書)のであり、その経験をひっさげて、国家権力の中枢にまで入り込んだのだから、猪野の定義を鵜呑みにすることは差し控えたい(笑)。
 
 マルクス主義は体系的な思想であるばかりでなく、その思想を実践していく過程の革命論と、実践の目的である国家論とが結びついたものだ。したがって組織論が不可欠となる。
 これに対して右翼の思想は、猪野が二十項目を挙げて、その中の三項目以上が該当すると右翼団体になると指摘したことからみても、体系性はなく、団体によって主義主張がバラバラなことが分かるだろう。そうであれば、二十項目に論理的な関連性も脈絡性もないことになる。
 したがって、マルクス主義のような革命論も国家論もないし、明確な組織論もないのは頷けるというものである。
 右翼というと、わたしは真っ先に頭山満を思い浮かべるが、頭山満は常識では計り知れない人物である。破天荒というか、スケールが大きいというか、豪放磊落というか、とにかく、一つや二つの言葉では言い表せない途方もない人物なのである。頭山満以外にも右翼には個性的な人物が多い。したがって、右翼運動における組織化はそうした人物に負うところが大きくなってくる。頭山満を慕って寄り集まるという様相をみせることになる。そうした人物の個性に頼った団体が乱立し、大同団結したかと思えば、個性の違いが起因して、直ぐにまた分裂していくのだ。
 右翼の革命論と組織論の希薄性は、極論すれば、神である天皇の威光を遮っている奸臣の私利私欲が国の方向を危めているので、奸臣を暗殺すれば、遮る雲がなくなりあまねく天皇の威光が降り注ぎ国は安泰になるというような、純真なロマン主義に現れているのではないだろうか。2・26事件の青年将校の心情にはこうしたロマン主義があったはずだ。井上日召の「一殺多生」の思想もそうした傾向があるのではないだろう。自分の身を捨てて、天皇の威光を遮っている奸臣と刺し違えれば、すべてが解決するという驚くべき革命論なのである。美学としての革命論であり、ロマン主義そのものなのであろう。三島由紀夫の美学もこの系譜になるのではないだろうか。

 上述したような右翼の思想と一線を画すのは、北一輝の国家社会主義である。
 国家主義と社会主義とが合体したものだから、当然に社会主義の革命論と国家論が色濃く影を落とすことになる。
 単純には断定できないのだろうが、左翼の革命論と北一輝を代表とする右翼の革命論には決定的な違いがあるのではないだろうか。
 左翼の革命論には民衆の蜂起という視点があるが、北一輝の革命論にはそうした視点はなく、軍部を利用したクーデターといった側面が強い。
 わたしは単なる革命論の違いによるものではなく、純粋社会主義と国家社会主義との本質的な違いに起因したものなのではないかと思う。
 純粋社会主義は軍隊を、民衆を弾圧し権力を維持するために国家権力が所有する暴力装置とみている。その暴力装置を逆手にとって革命を成就したとして、依然として暴力装置であることには変わりはない。軍隊という組織にはそもそもが民主主義とは無縁である。上意下達であり、上官の命令は絶対である。つまり独裁的で全体主義的な色彩の濃い組織形態なのである。国家社会主義とは国家主権を絶対化することであり、いわば国家独裁であり、全体主義なのであり、そのためには軍隊は不可欠なのである。

 一方の左翼の革命論であるが、民衆蜂起による暴力的なものだとすれば、国家権力の暴力装置である軍隊と闘わなくてはならなくなるので、どうしてもこちら側にも軍隊的な組織が必要となってくるのではないだろうか。仮に革命が成就したとして、その軍隊的な組織はどうなるのだろうか。革命が成就した直後は権力基盤は脆弱である。当然のようにその組織は温存されるのではないだろうか。そうなると、その組織を牛耳るものが、革命によって生まれた新しい政権を牛耳ることにならないだろうか。つまり、独裁政治の始まりであり、全体主義国家の誕生へと繋がるのではないだろうか。
 わたしが何を言いたいのかというと、純粋に国民主権と民主主義が息づく国家を作ろうとすれば、暴力革命を選択した時点で誤りだということである。
 ロシア革命にしろ、中国革命にしろ、そしてキューバ革命にしても、結局は軍隊が権力基盤を支える暴力装置として重要な位置づけになっている。だから程度の差はあり、独裁者の性格の違いによって印象が変わってくるが、独裁的で全体主義的な国家になってしまうのだろう。
 結論からいうと、左翼の軍隊組織をもつ民衆蜂起という視点の革命論と、北一輝を代表とする国家社会主義という極右思想の軍事クーデター的な様相をみせる革命論とは、結果としてみれば独裁的で全体主義的な国家を生み出すという点では変わりはないのではないかと思っている。蛇足になるが、この点からみれば、日本共産党が暴力革命を否定したのは必然性があり、わたしは日本共産党のひたむきさの表出として最大限の賛辞を贈りたい。
 四分五裂してセクト化した左翼学生運動は、セクト化すればするほど過激になり、また性急になり、その上で暴力革命にしがみついているとすれば、自らの組織を軍隊化するのは頷けよう。だから組織が独裁化し全体主義化し、果ては組織内でのリンチまでが起こったりするのではないだろうか。こうした組織が存続できるためには純粋な意味での思想と論理では不可能だろう。信仰としての思想であり論理でないとあり得ないと、わたしは思う。セクト化がカルト化へと変質していく必然性を、わたしはみている。

 中国革命に身を投じ、誰が敵で、誰が味方が分からない裏切りと権謀術数と、身の毛がよだつマキャベリズムとニヒリズムの地獄を掻い潜ってきた北一輝であれば、2・26事件の青年将校のロマンティシズムと生きている世界が決定的に違っていたはずだ。その北一輝がロマンティシズムに足をすくわれたのは、歴史の皮肉としかいえないだろう。
 少し脇道に逸れるが、明治期の日本のいわゆる右翼といわゆる左翼の歴史をみると、面白いことに玄洋社に源流があることが分かる。最初は寄り合い所帯だったのである。
 松本健一は『思想としての右翼』(論創社)で、源流における右翼思想と左翼思想は、どちらも反国家権力で一致していたと言っている。右翼は西欧近代化へと大きく舵を切った明治政府に「民族」の視点で、左翼は「階級」の視点で対峙し抵抗したといっているのである。その意味で、右翼と左翼を双生児だというのだ。そして、右翼の堕落は体制に組み込まれたときに始まり、それを打破しようとして新しい右翼運動(新右翼)が生まれ、また再び体制に組み込まれていくという繰り返しだと指摘している。
 わたしは松本健一の熱心な読者ではなく、ほとんど読んでいない。恩師の橋川文三と親交があったようなので二三冊読んだに過ぎない。都合がいい記憶喪失者である安部昭恵と違って、その内容も完全に忘れている。だから批判はできないのだが、松本がいう「民族」は後出しジャンケンだと指摘したい。
 明治期に「民族」という概念は一般的ではないはずだ。歴史的社会的性格を有する民族という概念は新しい。木村時夫は『日本ナショナリズム試論』(早稲田大学出版部)で「民族が国民に代る唯一の構成要素であるとする自覚や主張が行われるのは、ヨーロッパでも、十九世紀以降に属する」と述べている。つまり、民族という概念は西欧近代主義の産物なのである。西欧近代主義の国民国家観があって初めて、それに対抗しうる民族という概念がうみだされたのだ。わたしがいっているのは、自然発生的な意味での民族という言葉ではない。
 尊皇攘夷運動にあったのは、民族という意識よりも、国家という意識が濃厚だったはずである。だから西欧を模した近代国家を促成に作ったのである。明治維新革命から自由民権運動までの過程を振り返るときに、政権内部でも政策的な対立があり、不平士族の蜂起が各地で頻発するが、松本のいうようにそこに「民族」意識が介在しているとは思えないのである。
 松本の歴史観は、左に「階級」を視点にした左翼がいて、右に「民族」を視点にした右翼がいて、真ん中に大資本が牛耳っている国家権力があって、あるときは左翼を利用し、あるときは右翼を利用して、姿を自由自在に変えてきたと捉えているのではないだろうか。
 松本は右翼が国家権力に取り込まれたときに堕落が始まるといっているが、わたしは右翼とはそもそもが国家主義であるから、国家権力と癒着する必然性があると思っている。民族意識がナショナリズムの亜種でしかないとすれば、民族意識が国家主義と不可分のものでしかないだろう。
 わたしは松本とは違って、資本主義と社会主義とは二卵性双生児であり、西欧近代主義という楕円の中の異なる二つの中心点をもつ円として捉えている。左側に社会主義の円があり、右側に資本主義の円がある。右翼とは資本主義の円の更に右側に位置するのだが、右翼の最も右寄りの勢力(極右・民族派)と、社会主義の円の最も左寄りの勢力(急進的過激派)が酷似する意味と理由を、親はどちらも西欧近代主義であり、資本主義を先鋭化した性格と社会主義を先鋭化した性格は双子だから似てくると考えている。
 松本理論の誤謬は、民族という概念を西欧近代主義に対抗するものとしている点だ。民族という概念は、西欧近代主義の産物なのであるから、本質的にいえば、民族によって西欧近代主義は乗り越えられないのである。恐らく松本は、ナショナリズムを西欧近代主義の産物、つまり西欧近代主義の国家観とともに生まれ落ちたということを認めずに、ナショナリズムを本源的なものとしてみているのだろう。
 日本において民族というものがクローズアップされるのは、玄洋社のはるか後だと思う。そしてこの民族という視点が、右翼思想と運動に、新たな方向性を見出したのだろう。つまり、反国家権力の視点と視座である。しかし、もう一度いうと、民族という概念によって西欧近代主義を否定することが、そもそもが論理矛盾であり、戦前の民族による西欧近代の乗り越えでしかない「近代の超克」と同じ過ちを犯すことになる。
 安東巌は「生長の家政治運動」を生きていたのだから民族の視点と視座があるが、いわゆる民族派ほどの思想性はなく、したがって反国家権力という意識は希薄であり、「近代の超克」という視点と視座はほとんどないと思う。民族という概念を思想として突き詰めようという拘りと姿勢がないのである。その上で民族という概念を使うのだから論理矛盾が甚だしいのだろう。例えば、櫻井よしこにおける民族を考えてみれば分かるはずだ。「近代の超克」という視点は皆無である。アメリカのネオコンとほとんど同じであり、だから新自由主義と何ら衝突することなく自分の人格の中で同居できているのである。
 安東巌に思想としての民族への執着と「近代の超克」という視点と視座があれば、日本会議の性格も変わっていたのではないだろうか。もっと厳格な思想になり、逆にいうとだから、あれもこれもの宗教団体や右翼団体が糞味噌一緒で結集できているのだろう。
 こうした安東巌の思想性を見抜いて、菅野は日本会議に思想性はないといっているのではないかと思う。
 安東巌に思想的な一貫した拘りがないことが、安倍晋三という思想的に支離滅裂な男を神輿として担げる大きな理由なのかもしれない。
 安東巌の本質的な恐ろしさは、思想になど殉教する意志はまったくなく、そんなものをせせら笑いながら、闘争に勝利することこそが生き甲斐であり、自分が生きている証だということにあるのではないだろうか。安東巌における『我が闘争』なのである。
 しかし、松本健一は北一輝に拘り続けたはずだが、わたしは松本が書いたものを読み漁っていないので何ともいえないが、北一輝を捉えていたのは民族などではなく国家であったはずである。
 

 さて、随分と回り道をしたが、菅野完が『日本会議の研究』で闇の中から、白日の下へと引っ張り出してきた安東巌についての直感を披瀝したい。
 この直感を連れてきたのは『日本会議の研究』なのだが、果たしてこの直感は直観なのか、それとも妄想の域を出ないものなのか、それを判断するのは読者であろう(笑)。
 菅野は闇に姿を隠している黒幕を求めた先に、学生時代の安東巌を熟知している証言者に辿り着く。その証言者は「よく訓練されたセクトですよ。まるっきりセクト。笑っちゃうでしょ。でもね、彼らは真剣なの。あの頃のまま、学生運動をやり続けているの」と驚くべきことを語っている。この言葉に辿り着いた菅野の嗅覚と眼力とには脱帽するしかない。そして、この言葉に菅野が、安東巌と、安東巌の世界を生きる椛島有三と伊藤哲夫が操る日本会議の本質を見つけ出さないはずはない。
 菅野は次のように締め括って『日本会議の研究』を終わっている。

「彼らは、未だに学生運動を続けている。70年安保の時代の空気をまとったまま、運動を続けている。そしてその出発点が、長崎大学正門前で、苦心して刷ったガリ版刷りのビラを踏みにじられ、左翼に殴り飛ばされたときに安東巌と椛島有三が誓った『左翼打倒』の誓いにあることを、我々は直視すべきだろう。
 そしてその誓いは、今、安倍政権を支え、『改憲』という彼らの悲願に結実しようとしている。彼らは悲願達成に向け、50年近い年月を経て培ってきた運動ノウハウの総力を挙げ、『左翼打倒』の誓いを成就する最後の戦いに挑んでくるだろう」

 安東巌と椛島有三が対峙すべき、70年代安保を生きる急進的左翼は存在しない。が、安東巌と椛島有三には存在しないはずの姿がはっきりと見えるのだろう。それは怨念と憤怒の対象であり、ある意味では自分がこの世に生きている証であり、生き甲斐なのかもしれない。存在しない敵は、自分の心の中に存在しているといえる。
 猪野の「左翼に対抗する在野勢力の前衛的部分」という右翼の定義を思い起こしてほしい。安東巌は正しく左翼という敵がいないとならないのだ。そしてその敵とは抽象的なものではなく、長崎大学正門前でガリ版刷りのビラを踏みにじり、殴り飛ばされた屈辱と苦痛なのであろう。
 この世に存在しない敵との闘争に勝利するにはどうするか。自分たちの主義主張を実現する以外にはないのではないだろうか。その主義主張とは、安東と椛島とが没入していた「生長の家政治運動」でしかない。
 面白いもので、組織とは敵に姿を似せるものだ。急進的で過激で暴力的な左翼組織がセクト化し、やがてカルト化するように、安東の率いる組織もカルト化したに違いない。核にあるのは間違いなくカルトだろう。カルト化した独裁的で全体主義的な急進的な左翼セクトとの決定的な違いは、思想と理論への絶対的な信仰ではなく、教主的な存在となった安東への畏敬の念と絶対的な帰依の心なのだろう。
 安東の組織論と戦略は卓越している。
 自らの姿を隠すことに徹している。カルトとしての組織そのものを拡大することに拘ってはいない。オウム真理教の麻原彰晃とは真逆である。麻原は教祖として自分を位置づけ、独裁的な教団を作り上げて急激な拡大を画策している。驚くべきは軍事組織まで作り上げていたことだが、いつしか国家権力をも掌中に収めようという妄想的な野心があったのだろう。結果は国家権力によって捻り潰されたわけである。
 安東は違う。中核としてのカルトの組織を拡大することを避けて、闇の中に紛れ込ませる戦略をとっているのだ。そして麻原のように自分を教祖にはしない。巧妙なことに、谷口雅春という生長の家の信者にとっては神話的な存在の影をまとうのである。先を急ぎたいので引用はしないが、菅野はこうした点を、証言者から聞き出しているのだ。
 自分が教祖にならずに谷口雅春の影をまとうとしても、それを納得させるための風格と神秘性が必要となるだろう。安東にそうした資質が元からあったことも事実なのだろうが、証言者は修練で巧みな話術と神秘性を身につけたといっているから、安東の恐ろしさは計り知れない。
 谷口雅春の影をまとえば、安東への侮蔑と批判はそのまま谷口雅春へのものとなってしまう。自分を隠す効果を知り尽くしているのだ。だから、中核としてのカルト組織をも隠す戦術に出たのだろう。
 さて、この上でどうすれば「生長の家政治運動」を実現できるのか。
 安東は長崎大学での左翼との闘争で、民衆観を憤怒をもって身体に叩き込んでいる。当然のこと、菅野の嗅覚と眼力はこれをも見逃さない。
 一般学生の日和見性と、敵にもなれば味方にも豹変するいい加減さと、非倫理性とを憤怒をもって知ったのだ。いわば民衆とは憎むべき敵以下の存在なのでる。
 こうした安東に民衆頼りで「生長の家政治運動」の実現を画策するはずはない。
 ではどうするか。
 北一輝だったら軍事クーデターを画策するのかもしれないが、三島事件は、三島由紀夫がいくら扇動しても聴衆である自衛隊員は嘲笑に等しい反応しか示さなかったことを教えてくれている。
 安東の恐ろしさと、政治的リアリズムの冷徹さは、国家権力の中枢に潜り込むことを選択したのである。
 安東の恐ろしさはこれだけではない。冷酷な政治的マキャベリストだということである。生長の家の政治運動の過程で、頭角を現した、後に一水会の創設に関わった鈴木邦男を追い落とすためにとった手段を、菅野はやはり証言者から聞き出している。自分は一切、表に現れず、裏からの工作でマンマと鈴木邦男を葬り去っているのだ。それもハニートラップを仕掛けるほどえげつないものなのである。嘘と詐欺、誹謗中傷、デマの拡散等々、手段を選ばないのだ。安東が「希代のオルガナイザー」「天才的組織人」と称されていることを菅野は書いているが、それと政治的マキャベリズムがセットになっているのである。

 国家権力の中枢に潜り込むのにもいくつかの選択肢はある。岸信介のような方法があるだろう。が、闇に姿を隠すことを戦術としている安東はさすがである。
 政治家を操ることにしたのだ。その政治家が安倍晋三なのである。
 どうして安倍晋三に白羽の矢を立てたのか。菅野が的を射た理由を指摘している。
 当選回数が少なく、大臣経験者でもない若い安倍晋三を幹事長に抜擢したのは小泉純一郎総理だが、自民党内の反対を押し切ってこの人事を断行できたのは、「公認権をはじめとする党内の人事権を執行部が独占する、小選挙区制特有の仕組みがあればこそだ」ったと、菅野は書いている。そして安倍晋三を「小選挙区の申し子」と言っている。
 その上で、小泉のあとを引き継ぐ形で、「派閥の領袖としてさえ権力基盤を構築しえないまま、安倍は総理総裁になったのだ。それまでの総理総裁と比べ、安倍の党内権力基盤は驚くほどに脆弱だ。日本会議や『生長の家原理主義者ネットワーク』をはじめとする『一群の人々』が安倍の周りに群がり、影響力を行使できるのも、この権力基盤の脆弱さに由来するのではないか。安倍は他の総理総裁よりつけこみやすく、右翼団体の常套手段である『上部工作』が効きやすいのだ」と続けている。
 鋭い切り込み方であり、本質を突いていると思う。ただ異論があるのは、「右翼団体の常套手段である『上部工作』が効きやすい」という箇所である。わたしは右翼団体の常套手段を、安東ははるかに超えていると思っている。だから「上部工作」ではあり得ないのである。明らかに安倍晋三を操り人形にしてしまっているのではないだろうか。
 安東が安倍晋三に白羽の矢を立てた理由を、わたしはもう二つ指摘したい。一つは安倍晋三が岸信介の信者だということだ。岸信介は戦前の日本ファシズムと深く関わっている。だからA級戦犯にされたのであるが、岸信介を熱烈に信仰している安倍が祖父が深く関わった日本ファシズムに親近感を抱くのは当然である。
 もう一つは安倍の資質である。
 操り人形はどういう資質が最強か、安東が権謀術数家であり、政治的マキャベリストであれば知らぬはずはない。安東が左翼に最終的に勝利するためにはどのような国家であるべきか。言葉を換えれば、「生長の家政治運動」を具現化するためにはどういう政治体制が理想か、ということになるのだろう。軍事独裁国家しかないだろう。
 独裁者は安倍晋三である。が、それを闇に紛れて操るのは安東が率いるカルト集団なのである。
 安東の思い描く独裁者とはどのような人物だろうか。ヒトラー的な人物になるのではないだろうか。が、ヒトラーは操り人形としてはあまりにも危険である。ヒトラー自身が、真性のファシストであり、独裁者だからだ。ヒトラーは操られているようにみせかけて、逆に操ってしまうほどの非情な政治的マキャベリストであり、冷徹な政治的リアリストだからだ。そして何よりも底なしのニヒリストである。安東をも飲み込んでしまいかねないのである。
 それに比べ、安倍晋三は申し分のない資質を備えている。
 安倍のファシスト的資質とヒトラーとの決定的違いについてはブログに書いている。詳しくはhttp://blogs.yahoo.co.jp/azuminonoyume/33037626.htmlを参照していただきたい。
 簡単に説明すると、ヒトラーの嘘とペテンと支離滅裂と論理的破綻と脈絡性の破壊は政治戦術的なもので、自らが生き方と真摯に向き合い、七転八倒して辿り着いたニヒリズムの結果としてのファシズムなのであるが、安倍は嘘とペテンと言い訳を幼少から性格として身につけてきたといえる。そして、嘘とペテンと言い訳が性格そのものであるから、言葉と言葉に論理的一貫性はなく、また脈絡性もなく、単なるその場しのぎの言い訳の手段か、自分を飾るための手段でしかないのだ。その上に、安倍はちやほやされて育ったから我が儘で、権力志向が強く、おだてられることが大好きな性格なのである。父親である安倍晋太郎が情がないというのだから、間違いはないはずだが、こうした安倍に人間的な情がないとすれば、ファシストとして操るには、これほど最強の人形はないだろう。
 国会答弁では平気で嘘をつき、人を貶めることにも良心の呵責は感じないし、部下に責任を転嫁して切り捨てるのなど朝飯前なのである。
 わたしが安東ならば、安倍晋三を見出したときに天恵であり、天啓だと思っただろう(笑)。

 安東の戦術が卓越なのは、安倍晋三の操り方だ。自分で直接に操ることはしない。
 安倍晋三のプロモーターとして伊藤哲夫を配しているのだ。そして、安倍晋三を援護するために椛島有三が率いる日本会議を配している。更に、任侠右翼と行動右翼を巧みに操り、在特会やチャンネル桜のような行動右翼を育成し、果てはネット工作員まで産み出しているのだから、恐ろしい限りであり、微に入り細を穿っているとしかいえない。こうした点も、菅野は余すところなく指摘している。
 更に安東の戦術の卓越性を指摘すると、フロント組織の活用である。姿を隠す戦術そのものといっていいだろう。フロント組織にあれやこれやのことを要求し、あれやかおれやの目的をもたせないこともしたたかである。だからフロント組織であることが見えなくなっているのだ。これも菅野は見落としていないのだから脱帽である。
 70年代の「生長の家政治運動」を生きている中核であるカルト組織の中枢にいる安東と椛島と伊藤らにとっては、日本会議までがフロント組織でしかないのだろう。だから、菅野は思想性はないといっているのだ。
 日本会議と「生長の家政治運動」の思想についても書きたいことがあるが、割愛したい。

 公認権をはじめとする党内の人事権を執行部が独占する小選挙区制を利用して、安倍は自民党の独裁化を果たしている。そして、内閣人事局の設置によって官僚の人事を掌握し、官僚を意のままに操れる状況を産み出すことに成功している。
 こればかりではない、任命権の行使によって司法もほぼ掌握するというゆゆしき事態にまでなっている。マスコミも例外ではない。公共放送のNHKは経営委員の任命権によって政府の広報機関であり、国民の洗脳機関にまで貶められているのである。民放も例外ではない。飴と鞭で懐柔し、言論の自由度は世界72位という体たらくである。
 圧倒的多数の議席数に胡座をかき、国会は嘘と詐欺と言い訳と恫喝によって占拠され、質疑はアリバイにまで形骸化し、当たり前のように強行採決を断行するのだ。今や、やりたい放題といっていいだろう。
 戦前の治安維持法である共謀罪と、ナチスの全権委任法である緊急事態条項を成立させれば、安東の思い描いたシナリオ通りになったのだろうが、安東に油断があったのだろうか。
 安東が油断して手綱を緩めた間隙を縫って、思慮が乏しく私利私欲だけが並外れた安倍晋三の思い上がりがあり、操縦不能に陥っていたのかもしれない。そしてそれに輪をかけて、脳天気で無邪気で無責任な安倍昭恵の無作為で奔放な政治的暴走があったからなのだろうか。
 森友学園疑獄が発覚したのは、そんな事情があったのだろうと推察している。森友学園疑獄はすべてを余すことなく暴露することになったのは、故ないことではないのである。
 しかし、森友学園疑獄の意味と問題性と、そしてその本質的な危険性がみえるようになったのは、菅野完『日本会議の研究』があったからである。だから、わたしは恐怖と危機感に震え、こんなブログを書いているのだ。
 国民にとっては、正に天恵としかいえないだろう。
 安倍晋三は森友学園疑獄で深手を負い、生死の境を彷徨っているといえる。
 見落としてはならないのは、深手を負っているのは安倍晋三だけではない。日本会議を含めた闇の中に姿を隠している勢力も同様である。
 安倍晋三だけではなく、安倍晋三を操る背後の勢力に深手を負わせられたのは、これも菅野の『日本会議の研究』があったからこそである。

 この状況で何をなすべきか。
 市民連合と野党連合は暢気としかいいようがない。
 森友学園疑獄で安倍晋三の首を取れなければどうなるか。言わずもがなである。
 共謀罪を絶対阻止し、次の総選挙で野党共闘で自民党と公明党を過半数割れに追い込んで……、などと本気で思っている人々は幸福である。そしてお目出度すぎる。
 そんな時間的猶予はないのである。森友学園疑獄で安倍晋三に逃げられれば、共謀罪の成立など屁でもないだろう。生死を彷徨った森友学園疑獄で生き延びられたのだから、それこそ怖い物なしだからだ。独裁色を強め、マスコミへの報復を決行し、徹底的な言論弾圧に走り、ナチスの全権委任法である緊急事態条項へと爆走するだろう。
 もう後がないのである。最後のチャンスなのだ!
 こうした状況判断ができずに、テーマの異なる単発的なデモを行っている主催者は何を考えているのだろうか。危機感が足りないとしかいえないだろう。
 平日の18時半に、どうやれば全国規模の動員をかけられるのか。元よりその気がないのだろう。
 韓国と同じようなデモを行い、国会議事堂正門前を群衆で埋め尽くさない限り安倍晋三は倒せないのである! 
 すべては安倍晋三を倒すことから始まるといえる。わたしがTwitterで叫んでも、残念ながら賛同してくださる人は少ない。
 日本の未来を左右する岐路に立っているのである。国民だけではない。ジャーナリズムにとっても岐路であるだろう。ジャーナリズムの存在意義が問われているからだ。ここで誤れば、戦前の大政翼賛報道という坂道を転がり落ちていくだけだ。
 もう一度言いたい。この歴史的分岐点という危機的な瀬戸際だから、菅野完『日本会議の研究』(扶桑社新書)は必読書である。そして、危機感を共有すべきだ!
 韓国の民衆に続け!
 日本国民が起つときは今をおいてない!

※『里山主義文学』という名のブログに、連載小説『三月十一日の心』を転載しました。読んでいただければ幸いです。

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 序章で、菅野完著『日本会議の研究』(扶桑社新書)を、歴史的分岐点の意味と本質とを炙り出した記念碑的な傑作とまで絶賛したが、その理由を語ることから始めたい。
 わたしは理性と知性に絶対的な信頼を置いていない。だからといって感情にも絶対的な信頼を置いていない。この件については何度となくブログに書いている。理性と感情とは対立するものではなく、背中合わせの関係にあると思っているからだ。そして、背中合わせの理性と感情の発露を操っているのが、土台としての価値観だと思っている。
 知性も同様である。優れた知性とは、優れた感情を内に宿したものであり、対立するものではあり得ない。
 したがって、安倍政治を反知性主義といって断罪し、知性主義による反知性主義の打倒を唱えている知識人と呼ばれ、またリベラルと呼ばれている陣営がいるが、深い洞察力があるとは到底思えない。だから、ブログで何度となく批判している。西欧近代主義の理性信仰に頑なにしがみついているのだ。ポストモダニズムの旗を掲げて文壇に登場し、日本文学を決定的な破滅へと導いた元凶である高橋源一郎は、あろうことか安倍政治を反知性主義だというのだから自己矛盾も甚だしい。高橋源一郎のポストモダニズムとは一体何だったのか、ただの時流に乗っかっただけにすぎないことを自らで暴露しているとしかいえないだろう。ファッションとしての思想なのである。だから、人生を賭けて思想と対峙し、掘り下げ、そして自分の血とし肉としていないのだ。

 明治維新とは、歴史的にみても、精神的にみても、そして社会構造的にみても、それまでの日本と日本人のあり方を根底から分ける地溝帯であったと、わたしは捉えている。
 保守を騙る安倍晋三といわゆる保守陣営の知識人には、こうした視点はまったくない。だから明治維新を心の故郷として慕い、日本人の精神の拠り所であり、日本の伝統と文化の神髄だと思い込んでいるのである。自称保守陣営の欺瞞性とお目出度さが分かろうというものである。
 丸山真男は『日本の思想』(岩波新書)で、キリスト教の精神的風土が息づく西欧と違って日本は、「あらゆる時代の観念や思想に否応なく相互連関性を与え、すべての思想的立場がそれとの関係で――否定を通じてでも――自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当たる思想的伝統はわが国には形成されなかった」といっているが、わたしは丸山の指摘は、明治維新以降には妥当するが、それ以前はまったく的外れの指摘だと思う。
 明治維新以前の日本は、土台としての価値観が違っていたから、理性と感情のあり方も違い、したがって思想のあり方も違っていたのである。西欧的な客観と主観とにわける二元論的な対象認識ではなく、日本においては感覚的認識が根底にある。そもそもが主観と客観の対立はないのである。時間感覚も循環を基軸としたものであり、西欧のような進歩史観ではない。
 だから、外から入ってきた思想が、日本の風土のなかで咀嚼されながら、時間とともに日本的な風土性を帯びたものへと変容しながら受け入れられてきたのである。外から入ってきた思想との緊張的な対峙と格闘がなかったのだ。
 丸山は表面の思想をみて基軸がないと指摘しているのだが、思想を生み出す土台をみれば、わたしは日本という特異な風土は、気の遠くなるような時間の堆積のなかで育んできた基軸としての精神性を作っていると思っている。
 丸山にいわせると、その基軸が問題だから、日本の思想が駄目なんだというのだろうが、だったら西欧近代主義の幕開けからこれまでの西欧の思想が辿ってきた道程をみて、西欧の思想が絶対的に正しかったといえるのか、とわたしは反論するのである。西欧の思想は出口の見えない袋小路に陥っている。ニーチェによって理性そのものの欺瞞性と限界が暴露されてしまったからだ。
 わたしの提唱する里山主義は、丸山が否定した、日本という特異な風土が、気の遠くなるような時間の堆積のなかで育んできた基軸としての精神性に可能性を見いだすものである。その意味では優れて保守主義的な思想だといえるのだろう。

 いつものように脇道へと逸れてしまった(笑)。
 脇道に逸れたのには訳けがある。『日本会議の研究』が、日本会議を扱った書物の中で、他の追随を許さない理由を説明するがためである。
 筆があらぬ方向へと逸れたのは、ついでに自分の里山主義も宣伝しておこうという卑しい魂胆が頭をもたげてきたので、しっ、しっと追い払ったのだが、籠池理事長をも凌ぐしつこさに負けたからである。
 知性か、反知性か、などという問題設定は、明治維新以降の思想史を囓っていれば、いかに陳腐な発想であり、いかに思想的怠慢であり、堕落かが分かるはずだ。
 例えば、宮川透『日本精神史への序論』(紀伊國屋書店)を読むだけでも、わたしがいっていることに納得するだろう。
 西欧から思想が津波となって押し寄せると、決まって今度は日本主義というファナティックな思想が雨後の竹の子のように生え出すのである。詳しくは書かないが、面白いことに、コンドラチェフの波よりももっと短い周期で循環することだ。
 日本主義はニーチェの思想を曲解した高山樗牛のようなファナティックで感情主義的な傾向があるから、こうした勢力に反知性主義というレッテルを貼って、翻訳でしかない西欧思想に被れた、いわゆるリベラル陣営が攻撃するという図式である。
 ついでだからいうと、丸山真男が信奉する民主主義と自由主義は翻訳されたものではない。本家本元の西欧の知識人をも凌ぐ筋金入りの思想として己の血にし、肉にしたものだ。丸山のような知識人は特異である。明治以降の日本の知識人のほとんどは翻訳された借り物の思想なのである。
 夏目漱石はそうした翻訳でしかない思想で身を飾っている似非知識人を皮肉を込めて小説に書いているが、漱石自身は最終的には、自分のなかに息づいている、日本という特異な風土が、気の遠くなるような時間の堆積のなかで育んできた基軸と、西欧近代主義との狭間で格闘したのだと思う。漱石が辿り着いた則天去私を、わたしはそう解釈している。

 知性か、反知性か、という発想から安倍晋三陣営を批判する、いわゆるリベラルな知識人は、安倍晋三陣営に反知性主義というレッテルを貼って、その陣営の本質が知性を破壊し、論理を破壊して、熱狂的な感情の赴くままに政治を動かそうとする危険性を指弾するのだが、それに対抗し、乗り越え、打倒できる有効な手段が知性だというに及んでは、わたしは唖然とする以外にないのである。
 明治維新以降の思想史の底を流れているものを見極めようとすれば、西欧からの輸入品であるリベラル思想と日本主義が背中合わせの関係性であり、本質は同じだということが分かるはずだ。
 三島由紀夫の日本主義も同様である。優れて西欧近代主義的なものでしかない。西欧近代主義の産物であることに気づけないとしたら、目が節穴としかいえないだろう。わたしと同じ橋川文三の弟子であり、橋川文三先生の名を汚した元東京都知事であった猪瀬直樹が、三島の美意識を銭湯の壁に描かれた富士山のペンキ絵だと看破したが、本質を突いている。
 言葉の厳密な意味での日本主義をいうのであれば、川端康成なのである。おそらく頭脳明晰な三島であるから、三島と川端の決定的違いを知っていたはずだ。だから結局は、日本的感覚ではなく思想へと逃げたのだろう。

 またまた筆があらぬ方向へと走り出した。
 わたしがいいたいのは、日本会議を扱った書物の中で、他の追随を許さないのは、知性か、反知性か、などという発想を当たり前として超越し、だからこそ恐ろしい本質を暴けたことである。日本会議を扱った書物の大半は、知性か、反知性かの発想に金縛りになっているのではないだろうか。
 そもそもが安倍晋三と安倍晋三を神輿として担いでいる勢力を、知性主義で倒せるなどと考えているのは、相当に頭が腐っているとしかいえないだろう。安倍晋三と安倍晋三を神輿として担いでいる勢力への侮辱であり、その本当の恐ろしさに気づいていないといえる。そのうち、安倍晋三を侮辱したという理由で、証人喚問に呼び出されることを覚悟しておくべきだ(笑)。
 知性主義で倒せるなら、疾うの昔に倒れていたはずだ。が、今や三権分立も形骸化させ、国会を狂気で占拠し、傍若無人の観さえある。
 リベラル陣営の弱点は、知性主義と理性信仰にあるといえるのかもしれない。お目出度い限りである。安倍晋三と安倍晋三を神輿として担ぐ勢力は舌を出して嘲笑していることだろう。
 こうした体たらくでは、マキャベリスティックな権謀術数を駆使する敵に叶うはずはない。
 森友学園疑獄で安倍晋三が致命傷に等しい深手を負っているのに、指を咥えてみているというリベラル陣営の不甲斐なさと、政治的お目出度さは、ここに起因しているといえる。どうして韓国のように、民衆の決起を画策し、また扇動しないのか。わたしにはまったく理解できない。
 この千載一遇の好機に、これまでと変わらぬ小規模なデモを分散的に行っているのだ。市民連合は全精力を傾けて、安倍晋三の息の根を止める圧倒的なデモを計画し、国会議事堂正門前を群衆で埋め尽くすべきときなのである。鉄は熱いうちに打たなければ、瞬く間に冷えていく。大衆とはそうしたものである。機会を見誤り、絶好の機会を逃せば後はないのだ。国会を狂気で占拠し、三権分立を破壊し、数の暴力でブルドーザーとなって、独裁政治へと地均しを始めた敵の大将を倒せるのは、マスコミと国民が森友学園疑獄で沸騰している今しかないのである。猶予はない。そして千載一遇のチャンスは二度とないのだ。それが分からないとしたら、もう言うべき言葉がない。

 菅野完著『日本会議の研究』(扶桑社新書)を読み進むなかで、わたしの恐怖と危機感は募っていくばかりだった。そして菅野完に、化け物である安東巌の姿を突きつけられたときに、わたしの恐怖と危機感は頂点に達した。
 組織の中核にいる椛島有三と伊藤哲夫という二人だけでも脅威なのだが、安東巌に至っては圧倒的なカリスマ性と呪術性を身にまとっているだけに、得体が知れない闇のような存在としか形容ができない。だから恐ろしいのである。
 この三人をみれば、知性か、反知性か、などという問題設定がいかに的外れで、子供騙しか分かろうというものである。

 菅野完『日本会議の研究』の圧巻は、「第六章 淵源」だと断言できる。
 作家としての鋭い嗅覚と眼光がないと成立し得ない章だからだ。この章によって浮かび上がってきた人物こそが、闇のなかに隠れて姿をみせない、安倍晋三と安倍晋三を神輿として担ぐ日本会議を中核とした勢力を影で操る安東巌という化け物なのである。
 作為的に闇に姿を溶け込ましているのだから、容易に姿を掴むことはできない。菅野完はその姿を闇のなかから引っ張り出してきたのだから、その執念たるや凄まじいものがある。これを可能としたのはジャーナリストとしての執念だろう。闇の存在に気づき、作為的に闇に姿を隠している化け物の気配を感じ取ったのは、作家としての希有な嗅覚と眼力と直観なのだろう。ジャーナリストにして作家。そのどちらも一級品である。それを証明しているのが、「第六章 淵源」なのである。
 作家の端くれを自認しているわたしであるから、この「第六章 淵源」が与えた衝撃は形容しがたいほど大きいものがあった。
 わたしは日本会議を思想的な側面に偏って理解していたと前回のブログに書いたが、知性主義など信じていないわたしであるから、当然に背後で操っている勢力があるだろうことは想像していたが、正直に告白すると、その勢力を大資本の論理と意志に絡めてみていたのである。だから情報操作と洗脳のプロである電通などの関与を想像していたのだが、『日本会議の研究』がわたしに突きつけたものは、そんな想像を嘲笑うほどの驚くべきものだったのである。
 思想は勢力の中心へと引き寄せていく建前と方便であり、またエネルギーであり、その思想の側面を担っているのが日本会議なのだと理解していたのだが、建前としての思想までがどうでもいいものであったという事実に、わたしは仰天したのである。
 思想らしきものはあるが、それは思想のようなものであって、思想ではないのである。安東巌の恐ろしさは、ここに凝集されているのではないだろうか。
 どういうことかというと、思想がはっきりとした論理的な形があると、組織論からいうと、組織が思想によって成立していることになる。組織よりも思想が先にあるのだ。だから、思想の解釈によって組織は四分五裂するのである。戦後の左翼運動は正しくこの典型だろう。
 安東巌の組織論は、それを知り尽くしているといえる。だから、論理的な思想ではなく、自分のカリスマ性と呪術性とを組織論の中核に置いているのである。つまり宗教に近いということになるのだろう(言葉の厳密な意味での宗教ではない。これについては後述する)。
 急進的な左翼学生運動にもカリスマ的な存在の闘士はいたが、安東巌と比べたときに、あまりにも惨めな存在でしかない。左翼運動にはどうしてもマルクスの思想と理論がつきまとう。マルクスの思想と理論がカリスマ性を薄めるように作用し、運動が壁にぶつかると戦術的な批判がマルクスの思想と理論の解釈と結びつく形で、造反と組織的な分裂を引き起こすのである。それを防ごうとすれば、組織的独裁になるしかないのであるが、それでは吸引力が急激に落ちてセクト主義に陥り、組織の拡大は不可能になるだろう。

 申し訳ない。Twitterのやり過ぎのようだ(笑)。
 頭痛に見舞われ鎮痛剤を飲んだら頭が澱んできてしまった。つづきは次回にしたい。語りたいことが山ほどある。最後に言っておきたいことは、市民連合と野党連合の陣営にとって、菅野完『日本会議の研究』(扶桑社新書)は必読書だということだ。
 安倍晋三を倒すには、敵の正体を掴むことが不可欠だからだ。安倍晋三の息の根を止める機会は、森友学園疑獄を逃したら後はないだろう。そして時間的な余裕を与えたら、安倍晋三の首は永久に取れないだろう。敵の正体を見据えれば、そう思わざるを得ない。共謀罪の成立を阻止して、次の総選挙で自民を過半数割れに追い込むなどという寝言を言っているお目出度さが許される相手ではないのだ。

※『里山主義文学』という名のブログに、連載小説『三月十一日の心』を転載しました。読んでいただければ幸いです。

※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

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 恥ずかしいことに、菅野完著『日本会議の研究』(扶桑社新書・第九刷)を今頃になって手に取った。
 わたしは学生時代に、日本政治思想史のゼミに所属していた。教授は丸山真男の弟子である橋川文三である。その影響からだろう、日本会議を思想的な側面に偏って捉えていたようだ。
 日本会議なるものの正体とはどのようなものか、おおよそはつかんでいたつもりだったが、菅野完著『日本会議の研究』を読了して、襟を正したい心境である。
 いや、襟を正すなどというのは格好をつけた自己欺瞞でしかない。正直に告白すると、穴があったら入りたいという心境なのである。
 つまり、羞恥心にさいなまれているということになる。日本会議については過去にブログに書いたが、『日本会議の研究』を読み終わると同時に、削除しなければ……という衝動が突き上げてきた。
 が、書いたものに対する責任はとらなければならない。作家の端くれではあるが、それくらいの覚悟と矜持はあるつもりだ。だから、どうにか削除することだけは思い止まった(笑)。

 菅野完氏(以後、敬称略)はジャーナリストなのだろうか。それとも評論家なのだろうか。あるいはノンフィクション作家なのだろうか。
 一つに絞る必要性はないのだが、わたしは小説を書いている。そして、作家の端くれと自認している。そんなわたしからみると、菅野完の、作家としての鋭く尖った嗅覚と、事実の背後に隠れた真実へと肉薄する眼光に拘ってしまうのである。『日本会議の研究』が、闇の奥深くに隠れてみえない時代の真相を、炙り出すことに成功したのは、菅野完の類い希な作家としての嗅覚と眼光によると確信している。
 単なるジャーナリストであり、また単なる評論家であったとしたら、時代を覆っている闇の真相をこれほどまでに鮮やかに炙り出すことはできなかっただろう。
 わたしが指摘するまでもなく、菅野完自身が自覚している。そして『日本会議の研究』が、日本会議を扱った書物の中で、他の追随を許さないという自負と矜持を、菅野完はもっている。
 その自負と矜持は正当なものである。

 証拠を示そう。
 219頁の図表19で、菅野完自身で立証している。
 わたしの日本会議の理解は、メジャーメディアの報道内容のレベルであり、学生時代に仕入れた天皇制国家の支配原理に追うところが大きい。一神教的国家神道と超国家主義と極右思想の側面からしかみていなかったことになる。上っ面を撫でただけで、日本会議の本質とはかけ離れた、明後日の方向をみていたことになるのだろう。
 菅野完は日本会議を解剖することで満足していない。
 様々な宗教団体と政治団体の寄り合い所帯であり、ごった煮状態である日本会議を、思想的に解剖し、またその政治的目的を解剖しようとしても本質には永久に辿り着くことができないことを、作家としての類い希な嗅覚と眼光が見抜いたのだろう。
 だから、日本会議の源流を求めて更に核心部へと遡っていき、椛島有三グループと、伊藤哲夫グループを炙り出すことができたのだろう。

 これだけでも大したものといえるが、菅野完の作家としての類い希な嗅覚と眼光はこれだけでは満足しないのである。
 塚本幼稚園と繋がる第三のラインを炙り出している。
 菅野完はこのラインが「塚本幼稚園の事例のように、政治の世界だけでなく、市民社会の中にあって、ファナティックな右傾化風潮を醸し出す要素の一つ」(『日本会議の研究』)であることを看破し、このラインに「稲田朋美や百地章など、安倍政権と深いつながりを持つ政治家・学者が参画し」(同上)、桜井誠の存特会、そして西村修平や山本優美子などのレイシストがおり、チャンネル桜があると指摘している。
 重要なのは、この第三のラインを産み落とし、背後で操っているのが、「生長の家原理主義運動」であり、「生長の家原理主義運動」と密接に関わる椛島有三グループと、伊藤哲夫グループなのである。

 わたしは日本は切迫した歴史的分岐点にあると思っている。
 これからの日本の未来を左右してしまうような重要な歴史の岐路に日本人は立たされていると捉えている。
 こういう認識に立ち、強い危機感を持っているわたしであるが、そのわたしからみると『日本会議の研究』は、この歴史的分岐点の意味と本質とを炙り出した記念碑的な傑作だと確信している。
 記念碑的な傑作とまで絶賛しているのには理由がある。
 上述した内容でも傑作であることは間違いないだろうが、菅野完の作家としての希有な嗅覚と眼力は、貪欲であり、凄まじいとしかいえない。
 日本会議の源流にまで辿り着いたのに、その地点で終わりとしないのである。源流の地下から湧き出す水の正体を求めて、地面を掘り進んで行くのだ。そして姿を現したのが、安東巌という化け物なのである。
 この安東巌の姿を闇の中から引っ張り出したことで、日本会議の本質が余すことなく暴露され、日本会議の正体を余すところなく炙り出すことに成功したのだ。だから記念碑だと絶賛するのである。
 何故ならば、敵の本質と正体をつかむことなく、敵を倒すことは不可能だからだ。

 今日は序章である。
 詳しくは次回に書くが、読了した直後の印象を書いておきたい。
 驚くべき「妄執」に魅せられた、驚くべき「単細胞」の勢力だった。が、妄執と単細胞であることが、政治的にはいかに強力であるか、思い知らさせた。妄執だけならこれほどの威力はない。アメーバーのような単細胞であるから、どんな形にもなれ、形があってないのだ。
 組織としては形があって形がなく、妄執というエネルギーで増殖し、しかし、それを操る冷徹でマキャベリスティックな権謀術数のカリスマがいるから恐ろしい。恐ろしさは、決して表に現れずに闇をまとって姿を隠す呪術にも似た手練手管で、裏から政治を操ることだ。
 では、どうして安部晋三を神輿として担ぎ上げているのか。
 この点においても菅野完は的を射ている。
 安部晋三の政治的基盤が脆弱だったからだと看破している。鋭い指摘である。
 わたしはこれに、安部晋三の資質を安東巌は見抜いていたと考えている。安部昭恵も利用するには格好の資質と見抜いたはずだ。

 今回はここまでとし、菅野完『日本会議の研究』を読了した感想を素描するに止めたい。次回を期待してほしい(笑)。


※『里山主義文学』という名のブログに、連載小説『三月十一日の心』を転載しました。読んでいただければ幸いです。

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 心を落ち着けるために、深呼吸を一つした。
   というハッシュタグを作り、国民の決起をツイッターで訴えていたのだが、惨憺たる結果だった。300人に満たない数だった。
 これまでに何度となく国会議事堂正門前のデモに参加したが、主催者の「総がかり」が会場と時間を変え、それが周知徹底されなかったために、国会議事堂正門前に行ったときの150名に次ぐ悲惨さだ。
 今回は会場が変わったのではない。ツイッターで拡散を協力していただいたりして、森友学園疑獄・徹底糾弾の3・12デモがあることがある程度は広まったと思っている。その上での300人弱なのである。
 デモの人数は驚くほど貧弱なものだったが、国会議事堂正門前の空気は、日本の未来を閉ざす安倍晋三を葬り去ろうという熱気に満ちていた。僅か300名に満たない人たちで作り出した空気である。
 わたしはデモに行ってよかったと思っている。いろいろと考えさせられたデモであり、日本のデモの課題と限界を痛感したからである。そして、何よりも得がたい喜びは大袈裟太郎氏との出逢いである。

 わたしは「里山主義」という思想を掲げる保守主義者であるが、一人の自由人だと思っている。わたしほど組織に縛られることを嫌がる人間は珍しいのかもしれない。だから小学校のときは学校という組織と規則に縛られるのを嫌がり、ずる休みの常習犯だった。いってきまーす、と言って家を出るのだが、途中で帰ってきてしまい野原や山で遊んでいたのである(笑)。今なら誘拐か、などと大騒ぎになるところだが、ずる休みの常習であり、電話がどこの家にもあったわけではないので、大騒ぎにならずにすんでいたのだ。
 そんなわたしであるから、政治的な組織のしがらみとは無縁である。不思議に思うかもしれないが、保守主義の思想を掲げるわたしは、熱烈に日本共産党を支持している。わたしにとっては不思議でもなく、矛盾でもない。保守主義だからこそ、日本共産党を支持しているのだ。党名で判断していないからである。
 しかし当然に、日本共産党が絶対であるのではない。現状では、わたしの思想に一番しっくりとくる政党であり、わたしの理想とする社会へと導くために「戦略的」に日本共産党を支持しているに過ぎない。また、どういうわけか、日本共産党にわたしが心引かれる議員が多いことにもよる。
 ともあれ、わたしは政治的なしがらみからも、党派と組織のしがらみからも自由である。だから、日本共産党だからといって、おかしいと思ったら徹底的に批判することを躊躇うものではない。
 こうしたわたしの立場から、3・12のデモを総括したい。
 今まではぐっと我慢して批判を控えてきたが、日本の未来を見据えたときに、そして日本が歴史的分岐点に立っているという厳粛な事実を踏まえたときに、このままのデモのあり方では道を誤ると直観したので、徹底的に批判し、あるべきデモの姿を考えてみたい。

 デモに行けば一目瞭然であるが、日本のデモの風景は幟と切り離せない。
 幟は組織を表す印なのである。労働組合の幟があるかと思えば、大学の幟があり、市民が設立した会の幟があり、宗教団体の幟がある。中には、二三人で即席に立ち上げた会の幟があるから、すべてを組織を表す印だと断定するつもりはない。が、基本的には幟は組織を表す印なのである。
 3・12のデモでわたしが見つけた幟はたった一本であった。これは何を意味するのか。今日のデモは組織的な動員がなかったということになるのではないだろうか。言い換えれば、何故か組織に無視されたといえる。
 わたしはこのことを問題視しているのではない。どうして組織が無視すると、3・12のような300人に満たない結集数になってしまうかということを問題にしているのである。
 市民連合とは何だったのだろうか。
 自由な市民が主体であり、市民の基本的人権を何よりも重視し、その地点から発想し行動する市民が「自然発生的」に呼びかけ合ってできた組織だと認識している。その意味では、組織であるようであって、組織ではないはずだ。飽くまでも主体は、自由に発想し行動する一人一人の市民だからだ。組織とは、いつかは硬直する。組織の利害で動くようになってしまうからだ。
 市民連合が誕生したのは、日本を再び戦争へと導いていく戦争法案を阻止し、その元凶である安倍政権と極右勢力に乗っ取られた自民党を政権から引きずり下ろす喫緊の必要性があり、そのためには党利党略を優先させて足を引っ張り合ったていた野党を、市民の力で共闘させようという機運が盛り上がったからだろう。そして一進一退を繰り返し、痛みを伴う陣痛の末に、選挙協力という形で具現化することに成功したのだ。
 こうして振り返ると、市民連合とは党派の垣根を乗り越えさせ、既存の組織のしがらみからからも自由になって、新しい視点から政治を発想し、そして自らの自由意志で起ち上がり行動し、その一人一人の行動によってこれまでとは違ったまったく新しい政治の風を生み出そうという潮流であったはずだ。
 そうだとしたら、いかなる党派のしがらみと垣根からも自由であり、いかなる既存の組織の垣根としがらみからも自由でなければならないはずだ。自由な発想で自分自らでものを考え、そして自由に発言し、自分の意志で政治的な行動をとるというのが本来の姿なのではないだろうか。

 わたしは組織を象徴する幟を否定しているのではない。
 3・12のデモでは組織を象徴する幟がたった一本であり、その結果が300人未満の結集数だった事実に隠れた意味を問題にしているのである。
 3・12の森友学園疑獄を徹底糾弾するデモが300人未満に値する政治的な価値と意味しかないのなら別である。こんなブログを書く必要もない。
 しかし、3・12のデモが持つ重大な意味と価値とを分からないとしたら、余程の政治音痴である。
 そういう者が中心になってデモを企画し、デモのあり方を決めてしまっているとしたら、日本の未来にとってこれほどの不幸はなく、また日本の未来を切り開く希望としてのデモにはなり得ないのではないだろうか。
 敵は政治的戦略と世論操作のプロフェッショナルを抱え、公共の電波を独占して国民を洗脳しているのである。
 政治音痴であり、刻々と変化していく政治的情勢を的確に、そして柔軟性をもって読めずに、政治的駆け引きも知らず、したがって政治的リアリズムに無縁の者が、日本の未来を決するデモを組織するなど利敵行為でしかないだろう。批判を恐れずにいえば、そうした中心的役割をしている者は即刻退場すべきだ。
 そういう者に、安倍晋三と安倍晋三を神輿として担いでいる極右勢力を絶対に倒せないからだ。
 わたしが言っているのは、政治的情勢を左右するような東京と大阪などの大規模なデモのことであり、政治的情勢をこちらの有利な方向へと引き寄せようとして意図された世論的示威ともいえるデモのことである。各地で行われている手作りのデモではない。そして、金曜日の夜に途絶えることなく続けられている原発反対などのデモではない。
 3・12のデモには幟はたった一本であり、この重要な政治的情勢と局面において、たった300名弱しか結集しなかった市民を問題にしているのである。そしてその市民は自由な地点から発想し、考え、そして起ち上がり、行動するというあるべき姿ではなく、結局は幟の発想と意志に従い、組織が企画したデモの意味と価値とを鵜呑みにして、当たり前のように参加するという組織的人間でしかないのではないか。
 一人一人の自由な市民の集合体であるはずのデモが、組織と組織が連携し、組織の意志が貫徹した組織のためのデモになっているのではないのか。そして、問題はデモを企画した組織の意志と思惑が色濃く反映されてしまうのではないか。
 3・12のデモでわたしは、日本のデモが抱えた重大な問題に気づかされたのである。
 
 敢えてその組織の名前を挙げる。
 総がかりという組織である。誤解してもらいたくないのは、総がかりという組織に個人的な恨みがあるのではない。三年前から度々デモに行くようになって、そのデモの企画のほとんどが総がかりだったのであり、どうしても総がかりという組織が企画するデモに目が行ってしまうのは致し方ないのである。
 戦争法案反対の大規模デモにおいても、戦略性を巡ってツイッターでも総がかりに批判的な意見がみられた。何故か縄張り意識が高いのである。わたしはそう感じたし、デモの渦中にあってもわたしと同様に感じている人たちを目にし、話もしている。
 デモに参加している一市民としてのわたしたちから見れば、デモを企画し主催した組織などどうでもいいのである。要は、いかに広範に国民を結集させ、結集させたからには、どうしたら政治的な意味と波及効果を最大にできるかが問題なのである。それにはデモに政治的戦略性が求められるだろうし、敵に最大のダメージを与えるための演出も必要となるだろう。
 象徴的なのは、わざわざシールズと時間を区切ってデモを主催したことだ。その意図と思惑を、当時からわたしは問題視していた。わたし一人ではない。時間を区切れば、国会議事堂正門前に結集する群衆は分散する。敵にとってはこれほど好都合なことはない。利敵行為である。
 極めつけは、総がかりの予定した時間が終わると、シールズの主催するデモがあるのに、拡声器で帰ることを促したことだ。その現場に居合わせたわたしは驚いてしまった。何のためのデモなのか、誰のためのデモなのか、その本質を垣間見た気がしたのだ。組織のためのデモなのである。そしてデモのためのデモなのだ。わたしはそう直観したのである。
 真夏である。長時間のデモは身体に響く。ましてや高齢者はそうである。デモの渦中に救急搬送される人も多い。わたしの周辺でも、気分が悪くなって座り込んだり、知り合いに抱えられてデモの群衆の中を覚束ない足取りで帰って行く人たちを何人も目撃している。
 総がかりとシールズが時間を区切ってやることが、そもそもあり得ない発想なのである。デモの主体は市民一人一人であり、国民一人一人だからだ。両方のデモに参加するとなると長時間になる。62歳のわたしでも足がパンパンになるのだ。そうしたことをまったく考慮していないといえないだろうか。デモの私物化である。無理もない、組織のためのデモであり、デモのためのデモだからだ。言葉が悪いかもしれないが、デモが商売なのかと問い質したいくらいだ。また売名行為なのかと問い質したいくらいだ。
 国民を広く結集させ圧倒的なデモを生み出そうとするなら、組織の垣根などあっていいはずはなく、すべてが組織のしがらみと思惑を捨てて連体し、全力を傾注してしか不可能だろう。野党共闘を叫びながら、デモに組織の論理を持ち込むなど本末転倒であり、権力と利害を共有する御用労働組合の連合を批判はできないはずだ。
 総がかりは3・19に大規模なデモを主催し企画している。
 そのデモのテーマは反共謀罪だというのだ。
 わたしは驚きを超えて唖然としている。まったくといっていいほど、政治的情勢と政治的局面を読み間違えているといえる。森友学園疑獄で安倍晋三があっぷあっぷの状態であり、安倍晋三と安倍晋三を神輿として担ぐ極右勢力が致命傷を負って瓦解するかどうかの瀬戸際なのに、それでも共謀罪の反対を掲げるデモだというのだろうか。驚くべき政治音痴であり、政治を戦略性から眺められず、だからこそ政治的リアリズムとは無縁なのだろう。
 デモの目的とは何か、まったく分かっていないのではないかと思わずにはいられない。
 敵にとってこれほど御し易いデモ主催者はいないのではないのだろうか。もっと悪意を込めて言うと利敵行為である。
 共謀罪が日本の未来を閉ざす悪法であり、戦前の歴史をみれば治安維持法が果たした役割がどういうものであったか、日本政治思想史を囓ったわたしであるから心得ているつもりだ。
 共謀罪の成立は絶対に阻止しなくてはならない。が、政治的情勢と局面によってはその共謀罪といえども脇に置かなければならない緊急的な事態もあるのである。
 安倍晋三と極右勢力によって乗っ取られた自民党の最終目的は、共謀罪の成立ではない。共謀罪は飽くまでも目的を達成するための手段なのである。安保法制も同様であり、目的を達成するための手段なのである。
 この事実を見誤ると、永久に安倍晋三と安倍晋三を神輿に担いでいる極右勢力を倒すことはできないだろう。つまり、戦前のファシズム国家体制へと雪崩れていくことを食い止められないのである。
 相手の手段でしかないものを絶つことが、こちらの目的となるという過ちを犯すことになり、これほど政治的愚昧といえるものはないのではないだろうか。
 安倍晋三と極右勢力の最終目的は、塚本幼稚園の国家版であり、戦前のファシズム国家体制なのである。だから、たとえ共謀罪の成立を阻止し得たとしても、第二第三の名前を変えただけの共謀罪という詐欺的な策を弄してくることは論を待たない。
 安倍晋三にとっては最終目的があるので、その目的を達成するために、共謀罪を強引に成立させることが致命傷になるとなれば、あっさりと放棄することもあり得るのである。それが政治的な駆け引きであり、戦略であり、政治的リアリズムなのである。権謀術数と嘘と詐欺と言い訳は安倍政治の十八番だ。そのためにプロフェッショナルが脇を固めているのだ。
 安倍晋三は南スーダンからの自衛隊撤収を電撃的に発表した。
 それも時の人である森友学園の籠池理事長の記者会見にぶつけてきたのである。撤収は五月末であり、理由は首都ジュバでの施設整備が一定の区切りをつけたと判断したからと、安倍晋三は説明している。戦闘が激化し、自衛隊がいつ戦闘に巻き込まれてもおかしくはない、切迫した状況だという事実を打ち消している。
 この安部の決断を、世論の力であり、南スーダンへの自衛隊派遣の反対運動の成果だと手放しで喜んでいいのだろうか。そんな単純な理由でないことは明らかだ。どうして五月末の話をわざわざ籠池理事長の会見にぶつけなければならなかったのか、雄弁に語ってくれている。
 安部は必死なのである。森友学園疑獄からまんまと逃げおうせ生き残れるか、それとも政治生命を完全に絶たれるかの瀬戸際だからだ。政治生命が絶たれたら、安倍晋三と安倍晋三を神輿に担いできた勢力の最終目的を達成する道を絶たれるからだ。
 その目的のためなら、手段としての駆けつけ警護の任務という戦争準備のための新たなステージへと上った南スーダンへの自衛隊派遣もあっさりと引っ込めてしまうのである。
 共謀罪も例外ではない。今月十日の予定だった閣議決定は延期された。
 これを共謀罪の反対運動の盛り上がりと、野党の国会での追及の成果だというに及んでは、開いた口が塞がらない。そして、引き続き共謀罪の反対運動を盛り上げ、共謀罪成立を絶対に阻止しなければ日本の未来はない、と本気でいっているとしたら、お目出度いとしか言いようがないではないか。
 そんなお目出度さでは、安倍晋三と安倍政治を永遠に葬り去ることはできないだろう。一般の国民ならばまだ許せる。これが国民的な大規模デモを主催する者の発言だとしたら、もうお先真っ暗としかいえない。
 こういうお目出度さは伝染するから始末が悪い。当たり前である。国民的デモを主催する責任者が言っているから、影響は計り知れない。
 ツイッターでよく見かける共謀罪反対のツイートがある。一度わたしは批判したことがあるが、悪影響は広範囲に及んでいるようだ。
 どういうツイートかというと、共謀罪を成立させるために、意図的にマスコミが森友学園疑獄を騒ぎ立てているというのである。共謀罪を阻止することが目的になってしまっているのだ。
 安倍晋三と安倍晋三を神輿に担ぐ極右勢力は共謀罪を目的としているのではなく、重要な手段と位置づけているのに、こちらは共謀罪を葬ることを目的としているとしたら、そもそもが政治的戦略など練ることはできないし、それ以前に政治音痴であり、子供が政治に関わっているとしかいえないではないか。政治は子供の玩具ではないのだ。
 安倍晋三の息の根を絶つことこそが、最大の目的でなければならないはずだ。安倍晋三の政治生命を絶つことで、反原発と戦争法制と辺野古新基地建設と共謀罪の問題の活路が見えてくる。安倍晋三を葬り去らなくては、すべての活路はないといえる。何故ならば、安倍晋三と安倍晋三を神輿に担ぐ極右勢力は、戦前回帰を目的とし、ファシズム国家体制を敷くつもりだからだ。
 森友学園疑獄は籠池理事長や安倍昭恵のバラエティ受けするキャラクターがおり、現にテレビのワイドショウで籠池理事長と塚本幼稚園の幼児虐待に等しい軍国教育と躾の映像を流して、面白おかしく騒ぎ立て下卑ているし、格好が悪い。それに比べて共謀罪は思想性があり格調が高く、馬鹿な国民にはこの危険性は分からない。だからデモでその危険性を国民に訴えなければならない、と本気で思っているのではないだろうか(笑)。
 頭が固く、権威的であり、自分を飾り立てる誘惑に弱い人間だと、大いにあり得るから恐ろしいのである。デモに格調と権威を求めるのだ。こうなるともう病気でしかない。
 3・12デモの悲惨さを見下ろして、やっぱり我が組織が主催しないと人は結集しない、という声をあげているとしたら処置なしだろう。

 わたしは3・12の森友学園疑獄・徹底糾弾デモの主催者ではない。また呼びかけ人でもない。
 が、わたしは党派と組織の論理としがらみなど蹴飛ばして、自由に発想し、自由に考え、政治的情勢と局面を前提にして、どういう政治的戦略が可能であり、どういう政治的リアリズムに立った政治的行動が必要なのか、追求した中で、3・12のデモの重要性が見え、ここで10万人を結集させれば、安倍晋三は即死だと確信したから、自発的に必死になって3・12のデモの重要性と意味とをツイッターで発信し、また拡散を呼びかけたのである。
 記録の意味を込めて、ツイートを引用しておきたい。わたしは3・12のデモをどう意味づけ、また政治的戦略性をみているか分かると思う。
 デモとは単なる示威でもなく、また国民的世論の可視化だけではない。政治的情勢と局面においてはデモに持たせるべき役割も当然に違ってくる。
 わたしが3・12のデモに求めたものは、国会議事堂正門前を埋め尽くす圧倒的な風景を突きつけることによって、①安倍晋三に恐怖を与えて政権を投げ出させる可能性があること、②安部の独裁組織となった自民党であるが、森友学園疑獄で安部がヘロヘロ状態であり、その上に圧倒的なデモの風景を目にすれば、自民党内部が決定的に動揺を始め、造反に拍車をかけることは必死であること、③ネット世論に急かさせてやっと重い腰を上げたマスコミが連日トップニュースとして扱うようになり、中でも東京新聞と朝日新聞は本丸である安倍晋三に迫る気迫さえみせているが、圧倒的なデモでその方向性をより鮮明にさせて、覚悟の報道へと導く必要性があること、④安倍政権の広報機関であるNHKを代表するマスコミは、すべては籠池理事長への責任に収斂するよな印象操作を行い、国有地の只同然の払い下げへの政治家Xの関与を切り離して隠し、幕引きを企てているのを圧倒的なデモの風景を突きつけることで阻止すること、⑤圧倒的なデモになれば、森友学園疑獄のデモなので当然にマスコミがトップニュースで扱うだろうから、国民の目に焼き付けることができ、一気に安倍政権の支持率を急降下させて、安倍政権の崩壊を決定的にさせる印象を社会的空気として演出できる、⑥野党の国会での追及の強力なバックアップになること、⑦自民党と公明党が拒んでいる参考人招致を圧倒的なデモの圧力で実現すること、という戦略性と政治的リアリズムである。

【必死の拡散希望】やはり、思った通り天王山は3・12国会議事堂正門前での森友学園疑獄・徹底糾弾デモだ! 膠着状態を打開し、参考人招致へと強制的に導き、マスコミが安倍晋三の追及へと雪崩れさせるには、19日では手遅れ!共謀罪の成立阻止のためにも圧倒的

【大拡散希望】  韓国民は金と欲に塗れた汚辱の政治を倒した。安倍政治は金と欲だけではない。塚本幼稚園の軍国教育と躾という名の幼児虐待は、安倍の描く理想の政治を物語っている。北朝鮮と瓜二つの独裁的な恐怖政治だ。後がない!

【大拡散希望】政治的情勢はデモの日程などに合わせてはくれない。森友学園疑獄の情勢は日々刻々と変わっていく。安倍晋三と自民党が火消しに必死だからだ。えげつない幕引きを始めた。情勢は変わった。森友疑獄の徹底糾明へとマスコミに圧力をかけるデモが急務! 

【大拡散】安倍晋三と自民・公明党は籠池の参考人招致を足蹴にした! 時間稼ぎをし、マスコミと国民の熱が冷めるのを待って、森友学園疑獄を闇に葬り去るつもりだ。許してはならない! 圧倒的なデモで、自民・公明党とマスコミに圧力をかける時だ! 後がない! 

【必死の拡散希望】日本国民は、戦前へと回帰するかどうかの歴史的分岐点で、試されているといえる。森友学園疑獄は安倍晋三の戦前回帰の野望を絶つ、千載一遇であり最後の好機! 敵は幕引きを始めた。これを放置したら最後だ。猶予はない! 3・19では遅い。

【必死の拡散希望】歴史的デモになる! 安倍晋三の政治生命を絶ち、安倍政治を日本から永遠に駆逐する千載一遇の好機! 森友学園疑獄・徹底糾弾デモに10万人が結集すれば、安倍晋三と安倍政治は即死するだろう! 日本の未来を切り開く歴史的瞬間に立ち会おう! 

  
【必死の拡散希望】思い出せ! 8・30デモで安倍晋三は震え上がり、この写真を撮らせてしまった警察関係者を怒鳴り散らした。森友疑獄で安部の精神は狂乱状態。10万人デモで安部の精神は間違いなく持たない!  本気で安部の息の根を絶つなら今だ! 結集せよ、

【大拡散希望】日本の未来を切り開くか、閉ざすかの決戦の朝だ! この分岐点で冷めた評論家はいらない。傍観者も、他力本願も論外だ! 希望の未来は自分たち一人一人の手でつかみ取るのだ! 決起せよ! 一週間で情勢はがらりと変わる。3・19では手遅れ! 

政治家の追及をマスコミと検察に期待していても無駄です。国民一人一人がマスコミと検察を動かすしかないのです。圧倒的なデモで圧力をかけるしかありません。圧倒的デモは安倍晋三を震え上がらせ、自民党内部からも造反者が次々とでてくるでしょう。決起しかない! 

【必死の拡散希望】安倍晋三と安倍政治を葬り去るには、他力本願でマスコミと検察に期待しても現状の日本では無駄だ。国民が圧倒的世論を可視化させ、マスコミと検察に圧力をかけ、動かすしかない! 野党を後押しするのも圧倒的世論の可視化だ! 安部を逃がすな! 

いよいよ明日!  日本人は歴史的分岐点に立たされている。ここで決起しなければ、安倍晋三と極右勢力は戦前のファシズム国家体制へと雪崩れていく。傍観は許されない。頼るべき他力はない! 未来を切り開くのは国民一人一人。覚悟の歴史的デモへ結集!

【大拡散希望】いよいよ決戦の朝! 政治的情勢は  が天王山であることを証明している。安倍晋三はなりふり構わず、幕引きと火消しに必死だ! 政治的空気と流れを一気に安部を葬り去る方向へと雪崩れさせるか、それとも安部に逃げ切られるか、今日が分岐点だ!

【大拡散希望】いよいよ決戦の朝! 覚悟の朝です! 大きく深呼吸して、朝の空気を体内に吸い込んで、ふっーと思い切り吐き出す。熱く燃え上がった血に染まった空気が外へと吐き出されたとき、新しい時代の空気を作り出す! 安倍晋三を葬り去る意志を抱えた空気! 

【大拡散希望】さあ、出発します。歴史的分岐点で、新しい時代の幕開けを告げるデモにしましょう! 国会議事堂正門前で待っています! 

 以上がツイートした内容である。
 わたしには、森友学園疑獄は安倍晋三と安倍晋三を神輿に担いでいる極右勢力の息の根を絶つ千載一遇のチャンスであり、これを逃しては日本は戦前へと雪崩れていくように回帰していき、それを阻止できなくなるという強い危機感がある。その意味で歴史的分岐点に日本人は立たされていると捉えているのだ。
 わたしは3・11の心が、森友学園疑獄を炙り出してくれたと本気で思っている。3・11の心が、安倍晋三と安倍晋三を神輿に担ぐ極右勢力によって牛耳られていることを悲嘆していると感じている。
 だから、3・11の心と真逆の、沖縄の宝であり、日本の宝である、美しい辺野古の海を破壊し、戦争のための基地としようとしているのである。
 安倍晋三がしていることはこれだけではない。武器輸出三原則の撤廃、原発再稼働、原発輸出、安保法制、戦闘状態の南スーダンへの駆けつけ警護の任務を負った自衛隊の強硬派遣、平成の治安維持法である共謀罪、ナチスの全権委任法に当たる緊急事態条項……、枚挙に暇がない。
 もう一度言うが、これらはすべて手段である。目的ではない。
 安倍晋三と極右勢力が目的とするのは、塚本幼稚園の国家版なのである。
 塚本幼稚園が安倍晋三の思想を可視化させ、安倍晋三が理想とする国家像を具象化してみせてくれているのである。
 このおぞましい国家へと国民を幽閉し、教育勅語で臣民としての心得を徹底的に洗脳され、国家の忠実な下僕へと人格改造しようとしているのが、安倍晋三と極右勢力であり、それこそが目的なのである。
 わたしはこの点についても次のようなツイートしている。

 塚本幼稚園が安部の化けの皮を剥いだ。安部のいう日本精神と伝統と文化は、塚本幼稚園の軍国教育と差別教育と躾の名の幼児虐待であり、安部の国家像は、国家そのものが塚本幼稚園になり、安部が独裁的な権力で、国民に絶対的服従を強いるものだ。国民はおぞましい安部の正体を知った。丸裸の安部は脆い 。

 ここまで書いてくれば、この政治的情勢と局面において、国民を広く巻き込んだデモを企画するとすれば、森友学園疑獄を徹底糾弾し、安倍晋三に総理大臣の辞任を迫るデモ以外にないのである。
 その必要性を安倍晋三が国会での醜悪で支離滅裂な答弁で如実に物語っているではないか。安部は追い込まれているのである。第二次安部政権になって初めてのことだ。なりふり構わずに必死で逃げ切ろうとしているのである。この千載一遇の好機に、的外れなデモを企画し、組織の論理を前面に出して、国民的な結集を求める規模のデモを企画する資格はないといえないだろうか。
 今からでも遅くはない。
 3・19のデモを森友学園疑獄の徹底糾弾と、安倍晋三の即時総理辞職を求めるデモにすべきだ。そして、主催者とかに拘ることなく、全国規模での国民の結集を求めるべきだろう。
 デモの主役は、一人一人の市民であり、国民である。
 強く求めたい!

 今日  で懐かしい歌を聴いた。大袈裟太郎氏の『五月のパリ』の替え歌である、沖縄辺野古新基地反対運動の歌だ! 美しい歌だった! この歌を、安倍晋三と安部政治の息の根を絶つ歌にしたらどうだろうか。沖縄に春を!
 昨日デモから帰ってきて、ツイートしたものである。
 大袈裟太郎氏のスピーチとラップに、わたしは心を揺さぶられた。彼は沖縄の心を生きている。それは間違いない。沖縄で生まれ、沖縄で育ったことのない大袈裟太郎氏が、見事に沖縄の心を体現しているのだ。
 その大袈裟太郎氏が、わたしが学生の頃に歌っていた『美しい五月のパリ』の替え歌を歌っていた。沖縄の心と、沖縄の民衆の願いを無視し、辺野古新基地建設を強行する国家権力への怒りを謳ったものだ。
 わたしはデモに国民的な広がりを作り出そうとするなら、皆で歌える歌があってもいいように思う。
 大袈裟太郎氏の『美しき五月のパリ』の替え歌こそ、それに相応しいのではないだろうか。沖縄の心と、3・11の心を固く結びつけ、沖縄の民衆と、本土の民衆の心を一つに繋げられるからだ。安倍晋三の政治生命を絶たないことには、日本の希望としての未来は永遠に切り開くことはできない。安倍晋三の政治生命を絶つことが、大切な一歩であり、それなくしては新しい未来の扉は開くことができないのだ!
 3・19に一人の自由な市民であり国民として、国会議事堂正門前に立とう!
 決起するのは、今をおいてない!

 加藤登紀子『美しき五月のパリ』

 毎年3・11には、3・11の心についてブログに書いているのだが、孟宗竹の竹藪のジャングルを伐採する肉体労働を三日間行ったり、3・12デモのツイートをしたりして書かず仕舞いである。小池書記局長の希代の質疑術についても書いていない。何よりも、連載している小説『三月十一日の心』が疎かになっていることが問題である。
 なけなしの金をはたいて、2017一太郎プレミアムのソフトを購入したのである。本腰を入れて小説を書くつもりだからだ。方言の変換ができるのも魅力的である。
 3・19以降になってしまうのだろう。
 
※追加
 悲惨な3・12デモの結果が、悪い影響を及ぼし始めたように感じ始めている。警察が用意したカマボコは相当数あった。ある程度の規模になるという予想があったのだろう。しかし、結果は惨憺たるものだったから、世論はそれほど沸騰していない。そう安倍晋三と安倍政権は胸を撫で下ろしたことだろう。先週と比べると、国会答弁をする安部は少し余裕が見られると感じるのは、わたしだけだろうか。
 マスコミに与える悪影響も感じる。世論調査に顕著に表れている。マスコミは洞ヶ峠で昼寝をしながら、さてどうしたものか、様子を窺っていたのだが、デモは300人に足らずこれでは世論は直ぐに冷めると苦笑しているのではないだろうか。その結果が世論調査の数値に現れているように思っている。3・12は市民にとって、政治的情勢を圧倒的に有利にできたのに、そのチャンスをみすみす逃してしまったと、わたしは確信している。

※『里山主義文学』という名のブログに、連載小説『三月十一日の心』を転載しました。読んでいただければ幸いです。

※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

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