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 196回通常国会の安倍晋三の施政方針演説は、安倍晋三の歴史観がいかに我田引水的に、自分に都合がいい部分を切り取ってつなげ合わせ、歴史的事実を恣意的に歪曲して解釈したものか、如実に物語ってくれている。
 NHKが事実をねじ曲げ切り貼りし、都合が良いように編集した安倍晋三の国会答弁そのままである。
 誰が施政方針演説の下書きをしたかしらないが、幕末から明治維新までの動乱期の会津の過酷な運命を語るとしたら、山川健次郎を代表させて終わりにするなど許されるはずがない。
 勝者が敗者に科した流刑地でしかない酷寒の下北半島で、会津の民が草の根をかじりながら飢えと闘った、凄惨を極めた地獄絵を記録した石光真人著『ある明治人の記録』(中公新書)は、避けて通れないはずだ。
 安倍晋三は意図的に無視したのだ。
『ある明治人の記録』は、流刑地であった下北半島の地獄を生き抜くことで、陸軍大将へと上り詰めた柴五郎の生涯を描いたものだが、柴五郎の胸には酷寒の流刑地で虫けらのような生を生きた記憶が深く刻まれているのだ。
 柴五郎はまだ救われる。陸軍大将にまで立身出世したからだ。
 が、虫けらの生を生きさせられた数多の民は、虫けらのまま死んでいったのである。その虫けらの生へと向けられる眼差しにこそ、真の政治家と似非政治家とを分ける境界線になるのだろう。
 安倍晋三にはそうした眼差しは皆無であり、『ある明治人の記録』がこの世に存在することも知らずに、勝者の目で明治維新を絶賛するお目出度い男なのである。
 だから、本土の盾にされ、地獄絵でしかない沖縄戦を生きさせられた沖縄の人々の心へと向かう政治家としての誠と情がないのだ。
 安倍晋三はわたしと同じ年だが、あまりにも軽薄であり、社会的弱者や虐げられた人々に寄り添う人としての心と情がなく、歴史を見る目が根本的に欠落していると言える。
 2011年にmixiに『ある明治人の記録』について書いたものがあるので、安倍晋三の施政方針演説を批判する意味で、ブログに転載したい。

 
 「『学』としての歴史と文学との境」
 大そうな題だが、いつものことながら単なる思い付きを書き連ねただけのものに過ぎない。悪しからず。 

 筑摩書房『近代思想体系-昭和思想集Ⅰ』が、橋川文三ゼミにおける三年次のテキストだった。先生が選んだものだった。 
 そのテキストが終わった後だったか、それとも途中だったか記憶は定かではないが、ある日突然に橋川先生が中公新書の石光真人著『ある明治人の記録』を新たなテキストとして決めたのだった。 
 わたし達の歴史を見る目が、余りにも拙かったからだろうか。恐らくそうなのだろうとは思うが、未だに先生の真意が分からないでいる(もう訊くこともできない)。 
 歴史は常に勝者の側から書かれる。記紀のイデオロギー性を解明した上山春平著『神々の体系』・『続神々の体系』を読んでいたわたしは、そんなことは分かっている。『ある明治人の記録』なんか個々人で読めばいいんだ。橋川文三から教わりたいのは、もっと別なことだ。と、不貞腐れていたのだった。 
 しかし、橋川文三から『ある明治人の記録』の読み方を教わったことは、今のわたしには宝石にも代えがたい宝物である。歴史とは何か。歴史を読むとは何か、朧げながらも分かった気がしたからだ。 
 それは、日本政治思想史を学ぶ上で、重要な土台となるものである。 
 合わせて、『ある明治人の記録』を読み進める過程で、何故か西郷隆盛に対するある直感を得たのである。それは、いつか改めて書きたいと思っている。 

 草の根以外には食べるものとてない極寒の地での、凄惨を極めた生き様。そこは、勝者が敗者に課した流刑地でしかなかった。後に陸軍大将にまで上りつめた柴五郎は、そんな煉獄の見えない鎖を断ち切って獣のように這い上がる。 
 歴史における真実とは何か。正義とは何か。果たしてそんなものはあるのか。柴五郎は問い掛けている。 
 柴五郎は、その事実を言葉という武器を手にすることで後世に残すことができた。ケダモノとして生きることを強いられた者の怨念と情念とを、生々しく活写した。 
 倒幕運動というものと、それによって打建てられた明治維新国家というものの奥深くに潜む意味を考える上で、一つの揺るぎない歴史的証言であり、歴史的資料である。わたしは、そう思う。 

 橋川文三は『ある明治人の記録』を終える際に、ゼミ員の一人一人に感想を述べさせた。 
 わたしは、そのときに橋川文三に訊いたのである。 
「柴五郎は、曲がりなりにも陸軍大将にまで上りつめ、立身出世を遂げたひとです。確かに、明治維新を考える上では、貴重な資料を提供してくれました。 
 けれども、柴五郎と同じ境遇を生きた人たちは、柴五郎のように言葉としての証言を残すことができなかった。 
 ただケダモノのように死んでいった。その人達の情念はどうなるんですか」 

 あのときのわたしは言葉が足りなかった。ケダモノのような生き様を強いられて、ケダモノのように死んでいった者達の怨念と情念が、柴五郎の証言だけで、すべて汲み取れるとは思えなかったのだ。その怨念と情念は、どうすればいいのか。ただ、闇に葬られればいいものなのか。それを橋川先生に訊きたかったのである。 

 先生は、わたしの目を見ながら微笑んでいた。何も答えてはくれなかった。 
 後のゼミの酒宴の席で、そのときの答えを橋川先生はわたしにしてくれたのかもしれないと、今では思っている。 
「四十過ぎたら、小説を書け」 
 何故か、その言葉が答えのような気がしてならない。 
 ケダモノのような生き様を強いられ、生まれた故郷の大地を毟り取られ、はるか極寒の流刑地でケダモノのように死んでいった、武器としての言葉さえも奪い取られた者達の怨念と情念は、「学」としての歴史ではなく、文学でしか汲み取れないし、浄化することができないのだろうと思う。 

 しかし、「政治思想史家」としての橋川文三の目の光は、その言葉のない闇の地平に蠢く情念をも、確かに照射していたのだ。

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 第一章 青時雨

    3

「和真が逢生(あおい)の里を留守にしている間に、里にとっても、和真にとっても重大な事件があった」と言った哲太郎が、「なっ、瑤子」と相づちをもとめた。
「あなたにとっても重大事件だったのでしょ」
「俺にとってもか」
「しらばっくれたって、駄目」と言った瑤子が、「咲子さんがこの里にやってきてから鼻の下を伸ばしっぱなしじゃないの」と、瑤子が哲太郎を睨んだ。目元と口元に浮かび上がった艶(なま)めかしい色と光の妖しさに、和真がたじろいだ。甘噛(あまが)みの蕩けるような痛みを連れてきたからだ。嫉妬が黒々とした憎しみの針の痛みになるか、嫉妬の刷毛で心の肌をくすぐられる、愉楽の痛みの色となるか、瑤子はその分かれ目を知り尽くしているのだろうか。
 逢生(あおい)の里に通ってくるようになってから四年になる。瑤子の何気ない仕草と表情が醸し出す艶(あで)やかで妖しげな色と匂いに、和真の心の視覚と嗅覚が反応することはあった。が、甘噛みの蕩けるような痛みとなって感じたのは初めてだった。触覚を揺さぶられたのだ。そして、瑤子が操る嫉妬の刷毛で心の肌をくすぐられる、蕩けるような痛みを感じたのだった。和真は哲太郎に対するはっきりとした嫉妬を意識した。初めて味わう哲太郎への嫉妬だった。
 霧の世界で女に暴かれた、和真の中に息づく瑤子への恋心の仕業に違いなかった。瑤子は人妻だからと、これまで憧れという檻に幽閉してきた瑤子への思いを、恋心として解放してしまったから、瑤子の指で素肌に触れられ、瑤子の素肌を指で触れたいという欲望を、恋心が呼び寄せたのかもしれなかった。
 瑤子の何気ない表情と仕草の持つ意味が変わってしまったのを、和真は知ったのだった。これからは、和真の瑤子への恋心を鏡にして、鏡に映った瑤子の表情と仕草をみるようになるのだろう。何気ない表情と仕草の中にひそめた、瑤子の和真に向けた心そのままを鏡が映し出すことはないのかもしれなかった。鏡が映し出したものは和真の恋心によって歪められた瑤子の心模様になるのだろうか。瑤子の心であって、ありのままの瑤子の心ではなく、和真の恋心が描き出した幻でしかない瑤子の心なのかもしれなかった。和真の恋心が暴走を始めれば、ありのままの瑤子の心がみえなくなっていくに違いなかった。解放してしまった瑤子への恋心に翻弄される自分の姿を想像して怖くなった。
 翻弄されるのは瑤子への恋心だけではなかった。霧の世界で出逢った女への恋心に翻弄されるのは明らかだった。現に既に翻弄されていた。そして女への恋心は、文子への愛と交差するものだった。女が文子なのか、文子でないのか、謎を秘めた恋だけに、何処に連れて行かれるのか見当もつかなかった。和真は自分が信じられなくなっていた。七年間信じてきた文子の愛をかなぐり捨てて、樹海となった霧の闇を抱えた女の蠱惑の蜜に引き寄せられていく、盲目的なもう一人の自分が心に住み着いているのを、霧の世界で気づかされたからだ。
 和真が溜息をついた。
「どうしたの、溜息なんかついたりして」と瑤子が訊いた。
「俺、溜息なんかついたりしていません」
「つきました」
「ついてないと言っているじゃないですか」
 瑤子がみている。とっさに顔を背けた。
「何をすねているの、和真」
「すねてなんかいません」
 瑤子が鼻から息を漏らすようにして笑って、「今日の和真は、いつもの和真ではない」と言うと「何かあったの」と訊いた。
 和真の心の変化を、瑤子は見逃さなかった。瑤子への恋心を気づかれるのだけは避けたかった。が、避けようとすればするだけ、瑤子に見抜かれてしまいそうに思えた。「何もありません」と答えると、「重大な事件て何ですか、哲太郎さん」と話題を転じた。
「逃げる気ね、和真」
 妖しげな色を滲ませた声だった。引き寄せられるようにして顔を向けると、瑤子の視線に絡め取られていた。金縛りにあってしまったかのようだった。顔と目を動かずことができなくなっていた。蛇となって絡まりついていた瑤子の視線が、棒となった和真の視線に巻き付きながら伝っていって、和真の瞳の穴から潜り込んでいった。和真の心を這いずり回っている。蛇は直ぐに、和真が藪影にひそませた瑤子への恋心という果実をみつけ出してしまった。割れ目をのぞかせた果実の先端へと、赤い舌先が伸びていった。這うようにして舐め回すと、絡みつくようにして舌で果皮をめくった。剥き出しになった果肉からしたたり落ちる白く濁った蜜に塗れ、舌が真っ赤に濡れて光っている。艶(なま)めかしい光だった。やがてすっぽりとくわえ込むと飲み込んでしまった。蛇となって巻き付いた瑤子の視線が、棒になった和真の視線を締め付けてきた。そして、鱗で撫でながらゆらゆら揺さぶった。蕩けるような息苦しさだった。瑤子に視線で甘噛(あまが)みされている愉楽の波間を、鋭く尖った和真の恋心が、剥き出しの感覚となって漂っていた。
 口元と目元に笑みを浮かべた瑤子が、「今日は許して上げる」と言って和真の視線と心を解放してくれた。和真は崩れ落ちるようにして目を伏せた。
 瑤子に恋心を気づかれたと直観した。瑤子の視線による甘噛(あまが)みの愉楽と、瑤子の視線の鱗に撫で上げられた感触が、「瑤子はんは和真はんに好意を寄せてます」という霧の世界での女の言葉を連れてきた。それはない、と即座に和真は否定した。否定しなければ、抜け出せそうにない深みに嵌まってしまうようで怖かったからかもしれなかった。
「もう酔ってしまったのか、和真」と哲太郎が訊いた。
 和真よりもはるかに哲太郎の方が飲んでいる。心を乱してちぐはぐになった和真の瑤子とのやり取りが、哲太郎の目には酔いの仕業に映ったのだろうか。芸術家だけあっていつもの哲太郎の観察眼は鋭いものがあった。が、酒で鈍っているのだろう。瑤子への恋心を哲太郎に気づかれなかったことに感謝しながら、「酔ってます」と和真が答えた。
「一月半振りに和真と一緒に飲む酒だから、今夜の酒は美味い。俺も酔っている」と声を上げて豪快に笑った哲太郎が、「お前も酔っているんだろう、瑤子」と訊いた。「わたしは酔ってなんかおりません」
「いつもよりか、飲んでいるじゃないか」
「ええ、飲んでます。でも、酔ってはおりません」と言った瑤子が、「ねえ、和真」と訊いた。
 目を合わさずに「はあ」と曖昧な返事をした和真が、「ところで重大事件て何ですか」とまた話題を逸らした。
「本来なら今夜は、和真に野辺山咲子さんを紹介するはずだった。つまり早い話がお見合いだ」
「お見合い」と和真が反芻すると、「山桜の花がちらほらと散り出す頃だった。俺が彫った双体道祖神が祀ってある山桜の木の下に、咲子さんが立っていたんだ」と哲太郎が話し出した。
「びっくりしたよ。若い頃の瑤子そっくりじゃないか。俺は瑤子と初めてこの里でめぐり逢った時のことを思い出した。いや、あの時の瑤子が時空を超えて帰ってきたのかと思った」
「若い頃のわたしって言っても、咲子さんとわたしとは七つしか違わないじゃないですか。わたしはあなたと出逢った時とちっとも変わってはおりません」
 瑤子が「ねえ、そうでしょ、和真」と同意を求めた。
「はい」と言うしかなかった。が、嘘ではなかった。瑤子は霧の世界にいた女と比べても若さと美貌は遜色なかった。違いは女としての色香がはるかに勝っているくらいだろう。
「ほら、みなさい」と言って哲太郎を睨んだ瑤子が、「和真は正直だから好き」と付け足した。好きという言葉の針に刺されて、和真の恋心が身悶えた。
「和真が認めるんだから、そうとしよう」と言ってあごひげを撫でながら、「びっくりしたのは、それだけじゃない。瑤子が花びらがちらほら散りかけた、あの山桜の木の下でみた幻覚とまったく同じものを、咲子さんがみていたことだ」と哲太郎が言った。
「幻覚……、ですか」
「和真には話したことがなかったっけ、瑤子が満開の山桜の花影の下でみた幻覚のことを」
「話してもらっていません」
 満開の山桜の花影の下で瑤子とめぐり逢った時の光景を招き寄せているのだろうか、虚空に視線を這わせながら哲太郎が、「艶(なま)めかしくも、妖しげな、満開の山桜の花影が瑤子にみせた、めくるめく幻覚の世界を瑤子から訊いて、あの双体道祖神を彫り、瑤子をモデルにした『花影の女』という油絵を描いたんだ」と言って視線を戻し、「油絵も和真にはみせていなかったよな」と訊いた。
「みていません」
「全裸の瑤子がな、夜の闇にぼおっーと白く浮かび上がった満開の山桜の花影の下に立っている油絵なんだが、和真だからといってみせるわけにはいかない。俺は瑤子にしかみせてない。俺の最高傑作だ。が、瑤子以外の誰にもみせるつもりはない」
「夜の闇をバックにして、満開の山桜の花影の下に立つ全裸のわたしを描いた絵が『花影の女』」と独り言のようにして言った瑤子が射貫くようにして和真をみると、「ねえ、みたい……和真」と訊いた。一瞬にして瑤子の黒い瞳が、和真から自由を奪い去っていた。催眠術にかかったかのようだった。和真の心は瑤子の瞳のなすがままだった。
「瑤子」と哲太郎の声がした。明らかに怒気がこもった声だった。
「バカね、あなたは」と笑った瑤子が、「冗談よ」と言うと哲太郎をみながら、「あの絵は、あなたのわたしへの愛そのものだから、誰にもみせるつもりはない。わたしがこうして生きている証しのようなものだもの」と言い切った。濁りのない声の響きだった。瑤子の本心であり真心なのだろう。哲太郎と瑤子の揺るぎない愛の絆をみせつけられた思いがした。和真は素直に嬉しかった。哲太郎と瑤子との愛の姿に、文子との愛を重ね合わせていたのだった。憧れのような二人の愛だった。が、哲太郎にめらめらとした嫉妬の炎を燃え上がらせている自分に和真は驚き、そして戸惑っていた。
「お母ちゃん」と声がした。
 リビングのドアを開けたまま中に入ろうとしない瑤太郎の姿があった。泣きべそをかいている。
「怖い夢でもみたの、瑤太郎」と言って椅子から起ち上がった瑤子が、瑤太郎の元へと歩いて行った。
「あら、やっちゃったのね、瑤太郎」と瑤子が声を上げると同時に、瑤太郎が泣き出した。
「どうした」と哲太郎が訊くと、「おねしょ」と瑤子が答えた。
「久しぶりの寝小便か、瑤太郎」と言って哲太郎が豪快に笑った。
「さっ、お着替えしましょうね」と言って瑤太郎の手を取ると、瑤子がリビングから出て行った。
「瑤太郎も明日の和真と咲子さんのお見合いに興奮して、寝小便をたれてしまったんだろうな」と、また豪快に笑った哲太郎が、「明日はいよいよ咲子さんと和真のお見合いだ。夕方、咲子さんから明日間違いなく里に来ると、瑤子の携帯電話にメールが入ったそうだ。心がときめくだろう、和真」と言って、空になったグラスを和真に差し出し、「たのむ」と言った。
「和真と飲むのも久しぶりだ。もう少しつきあえ、和真」
「はい」と言ってグラスを受け取ると、ボトルから麦焼酎を注ぎ、アイスペールから氷をトングで継ぎ足して、哲太郎に渡した。
 和真がグラスに口をつけて麦焼酎を飲むと、「俺には文子がいます」と言って、テーブルにグラスを置いた。欅の天然木の大きなテーブルだ。天然木の素材をそのまま使っているので、縁(ふち)が直線ではなく蛇行している。長方形を歪ませたような形だった。その歪み方が何ともいえず趣があった。空き家となった古民家を譲り受けて改良したそうだが、古民家に残っていた欅の座卓を哲太郎が手を加えてテーブルに作り替えたそうだ。哲太郎は画家だった。戯れに彫刻もしているが、手先が器用なのだろう、大工仕事が趣味のようだ。テーブルの周りに椅子を並べれば十人が座れそうだった。
「分かっている。分かっているが、俺は和真が咲子さんに一目惚れするに違いないという予感がある。惚れてしまったら、どうしようもないぞ、和真」
 和真が黙っていると、「さっき話した満開の山桜の花の下でみた幻覚がどういうものだったのか、咲子さんから聞くといい。和真の心は一瞬で咲子さんに吸い寄せられていくはずだ」と哲太郎が言った。
「どうして、そんなことが分かるのですか」
「咲子さんがみた幻覚は、和真が唱えている里山主義に通じているからだよ」と言って声を出して笑った哲太郎が、「俺は瑤子がみた幻覚を『花影の女』の絵に結晶させた。和真は、咲子さんがみた幻覚を『花影の女』という小説に結晶させるんだな」と言ってテーブルを挟んで、和真の顔を覗き込んだ。そして、「どうだ」と訊いた。
「幻覚がどんなものか知らないし」と言って、女と指切りをした小指をみてから「咲子さんという女(ひと)がどういう女(ひと)かみたこともないから、何とも言いようがありませんね」と答えた。
「そんな悠長なことを言っていられるのも今夜までだ。明日になったら、和真の心は咲子さんのものだ。イチコロだよ、イチコロ。瞬殺ってやつだ」
 女と山桜の下で別れてから、雨で帰ったかもしれないが、女に言われたように時間潰しを兼ねて、和真は日下部夫妻と和久井家の老夫婦が農作業をしているだろう畑に行ったのだった。青時雨だから直ぐに雨は上がると判断して車の中で雨宿りでもしていたのだろう、畑仕事をしている日下部夫妻と老夫婦の姿があった。七才になる瑤太郎と一つ違いの姉の藍子も一緒だった。女はその隙に車で逢生(あおい)の里を後にしたに違いなかった。
 和真が逢生の里へやって来たのは久しぶりなので、老夫婦も一緒に酒宴に加わっていたのだが、酔い潰れてしまった善蔵爺さんは、お竹婆さんに連れられて家に帰ったのだった。一時間ほど前になる。
「二人きりで飲むのも久しぶりだな」
「そうですね」
「二人だと誰気兼ねなく里山主義について語れるというものだ」と、独り言のようにして言って自ら頷くと、「あれから和真の里山主義に何か進展はあったのか」と、哲太郎が訊いた。
 和真は小説を書いていた。そして、小説のテーマと方法論と密接に繋がっている里山主義を提唱していた。あるべき生き方を追い求めてきた和真だったが、あの日を生きることで、探し求めていたあるべき生き方を暗示されたのを切っ掛けに、あの日が持つ意味を考えるようになったのだった。そして結晶したのが里山主義だった。和真にとってあの日の持つ意味とは、あの日の心に等しいものだった。だからあの日の意味を考えるとは、あの日の心を生きることであり、あの日の心を自分の心にすることだった。あの日は単なる未曾有の天変地異でもなければ、単なる原発事故でもなかった。これまでの生き方が根底から転倒し、これまでの価値観と世界観が根底から覆る地殻変動のようなものだった。これまでの生き方と価値観と世界観とを根底から揺さぶるものだから、これまでの幸福感と労働観をも根底から揺さぶるものだった。
 逢生の里にきて哲太郎を知ってからは、二人は和真の唱える里山主義を巡って論争をしてきた。和真にとって幸運だったのは、哲太郎との論争によって曖昧だった部分がより鮮明になったばかりか、論理的な整合性を増したことだった。そして、哲太郎の心酔するジョルジュ・バタイユのいう蕩尽としての消費の概念が里山主義に加味されたことだった。今では、哲太郎と瑤子が里山主義の一番の理解者であり、賛同者であり、里山主義という思想の共同の創造主だった。哲太郎と瑤子が逢生の里に移り住むようになった根にあるものが、和真と同じものだったから、三人が思い描く生き方への拘りが里山主義という思想に結晶したのだろう。
 霧の薄絹を透かしてみた女の唇を思い出しながら、「今までの俺は、無意識の闇を夜の闇に重ねてみていたのですが、そうではなく、無意識の闇は霧の世界だと分かりました」と、和真が言った。
「霧の世界……」
 そう繰り返した哲太郎が、「いよいよ里山主義が神秘主義へと傾斜していくってわけか」とからかうような口調で言った。
 哲太郎は神秘主義には批判的だった。画家であり彫刻家である自分の資質の中に神秘主義的な要素があるから、その危険性を常に批判的に自覚することを自分に課していると、哲太郎が和真に打ち明けたことがあった。神秘主義に通じた里山主義を巡って論争した時だった。哲太郎が心酔するジョルジュ・バタイユの思想も神秘主義と無縁ではない。だから解釈を誤ると単なる神秘主義になる危険性がある、と言った哲太郎の言葉を和真ははっきりと覚えていた。
 グラスの麦焼酎を一気に飲み干した哲太郎が、「神秘主義を巡って和真と論争になった時に、和真が持ち出してきた国学者の契沖の神秘主義によって、俺が打ちのめされたのはいつだっけ」と訊いた。
 和真もグラスを空けた。哲太郎の空のグラスを受け取りながら、「去年の春ですね、確か。山桜の花が満開の頃だったと記憶しています」と言って、ボトルから麦焼酎を注いだ。
 哲太郎にグラスを差し出すと、「すまん」と言って受け取った哲太郎が、「あれで、意識の世界と無意識の闇に、宗教と道徳と倫理とがどう関わり、どう対応しているのか、初めて納得できた気がした。どうして西欧近代主義の意識の世界が、ニヒリズムに行き着かざるを得ないのか、分かった」と言ってグラスに口をつけた。グラスに当たって、氷が澄んだ音色を響かせた。氷の音色が連れてきたのだろうか、遠くで鳴く蛙の声が聞こえた。
 逢生の里の夜は静かだ。そして闇が深い。深夜だろうとお構いなく、ひっきりなしに聞こえてくる車の騒音がなければ、夜の闇を洗い流す毒々しい光の洪水もない。天の川がはっきりとみえた。それを好むか、忌み嫌うかは、生き方と結びついたものなのだろう。
「一瞬にみせてくれた自然の美の極致に胸を打たれ、その一瞬を絶対化し、永遠化するために、岩角に頭を打ち付けて死のうとした契沖の心は、俺も共有している。和真が話してくれたように、俺も和真と同じく、山を縦走していて一瞬に垣間見せてくれた光景に泣きじゃくった経験がある」
 話を切ると、哲太郎がまたグラスに口をつけて、「この麦焼酎は匂いがいい。何て銘柄だっけ」と訊いた。
「大分の『高吟のささやき』です」
「そうだった。瑤子が好きな焼酎だった」
 土産代わりに五本の『高吟のささやき』を持ってきたのだった。筋湯温泉の夜に何種類かの麦焼酎を飲んだが、文子は『由布岳』とこの『高吟のささやき』の匂いの虜になったのだった。ほんのりと酔いが回ってきて、潤んだ光を揺らしていた文子の瞳の妖しい影を蘇らせようとしていたら、哲太郎の声がした。
「契沖は文学的主情主義を絶対化した。儒教的道学と儒教的規範、仏教的規範、そして理と論理とを排除して、心のよりくるままという自然的な生活感情に即して詩歌を鑑賞しようとする文学的主情主義的な生き方が、帰納法的で説明的で実証的な文献学、つまり契沖のいう古学になり、一方では、神異と神国を説く非合理的で信仰的な発想を生み出す矛盾を抱えていた。この二つの矛盾するものを契沖の中で存立させているのが、文学的主情主義だった」
 和真をみた哲太郎が、「そうだよな」と間違いがないか確認した。「ええ、そうです」と和真が頷くと、哲太郎が続きを話し出した。
「文献学だから日本人の魂の源流を遡っていけば、日本最古の文献である『古事記』に行き着くのは道理だ。契沖の神秘主義的な資質が『古事記』の神話へと吸い寄せられていくのも頷ける。そして、この神話を絶対化して神と崇め、日本を神国として絶対化したのも頷ける。が、問題はだ、文学的主情主義によって、儒教と仏教の道義的教誡や規範、そして政治的規範などといったあらゆる価値基準と権威から自由になって、心のよりくるままという自然的で、優れて私的な生活感情を解放したはずが、どうして新たな価値基準へと縋り付いて絶対化し、挙げ句の果ては、国家の概念までも携えて朝鮮半島から大量に移住してきた弥生人によって打ち立てられた、律令国家を正当化するためにでっち上げられ、人の頭が作り上げたイデオロギーでしかない神話を神と崇めて、おぞましい限りの宗教にまでしてしまったのか、ということだ」
 また哲太郎が和真をみた。和真が頷くと、「契沖の神秘主義が不徹底で中途半端だったからだ、と和真は俺に言った。中途半端だから、人の言葉で作られた神話に縋り付いて絶対化することで満足した。俺は神秘主義の限界が契沖の限界であり誤謬だとみたのに、和真は契沖の限界を神秘主義の不徹底にみていた。正直、驚いた」と言って笑った哲太郎が、「契沖の限界、つまり契沖の神秘主義の限界と、その限界を超えた神秘主義を分ける境界線を、和真は意識の世界と無意識の闇の境においている。そして、意識の世界と無意識の闇で結ぶ宗教では、宗教のあり方が根本的に違うと捉えている。無意識の闇に結ぶ宗教は、端的に言えば『神さびる』という空間を生きることだ、と和真は言った。言挙げできない感覚的な空間だ。言葉に置き換えた瞬間に消え去る世界だ。しかし、これも宗教だといえないこともない。和真はこの空間に西欧近代主義のニヒリズムを超える可能性を見出し、デュルケムのいう『倫理的なるもの』を見出している。
 意識の世界で生まれた宗教は所詮は人の意識が産み出したものだから、西欧近代主義によって理性が神に置き換わった時点で、堕落の一途を辿る運命でしかない。だから、デュルケムのいう『倫理的なるもの』になり得るはずがない。その証拠が現代の腐敗し、堕落し切ったおぞましい限りの金と欲に塗れた新自由主義という化け物が跋扈する社会がある。資本主義の末期症状の社会だ。
 意識の世界における神とは、意識の世界と無意識の闇の狭間に生まれた自然的な偶像崇拝から始まって、多神教的な御利益宗教と神話を産み出し、最終的にユダヤ教から分離したキリスト教とイスラーム教という一神教を産み落とし、ついには理性が神に置き換わって、キリスト教とイスラーム教は方便となり、更にはニーチェに連なる西欧現代哲学によって理性が否定されたのだから、行き着く先はニヒリズムでしかない。ナチズムとスターリニズムの全体主義はニヒリズムが核にあるのは知られているが、新自由主義の市場至上主義こそ正しくニヒリズムであり、イスラム国はイスラームの名を騙るニヒリズムそのものだ。意識の世界の宗教だから、優れて人間的であり、その意味では人間中心の宗教だといえる。
 が、和真のいう無意識の闇に結ぶ空間は、私的な生活感情だけでは成立しない。私的な生活感情を超えて、解放されて漂い出した感覚と、自然の空気とが絡まり合って成立する、自分でもなく対象としての自然でもない世界であり、人と自然との共生と協働で産み出された里山の世界のようなものだ。循環する時間感覚と、生と死が絡まり合い、生と死を結ぶ性が息づく世界であり、死と対(つい)になった生と性だからその世界には倫理が息づき、その世界を生きることで自分の中に倫理が再生し、新しい生と性とを生きることになる。死が汚れた生と性とを相対化し、否定し、倫理の再生を促すからだ。
 和真は、無意識の闇は私的な世界ではなく、自然と他者と共有している闇としてみているんだよな。だから、西欧近代主義における対象としての客体ではないし、主体でもない。そうだろ、和真」
 頷いた和真が「何か、里山主義という思想が俺の手を離れて、哲太郎さんに乗り移った気がする」と言った。あごひげを撫でながら満更でもなさそうな顔で、「そうか」と言うと、「俺は里山主義という生き方を日々、実践しているから、頭で考えるのと違って、経験として身体にしみ込んでくるから理解も深まるのだろうな」と目を細めて、また話し出した。
「和真と前に話したときに、国学の発想が私的で自然的な人間に向かった点では、西欧近代主義の黎明期に当たる啓蒙思想の契約説と変わらない、と教えられた。それが国学の非政治的な私的で主情的な人間像が、どうして明治維新国家の天皇制的臣民像へと繋がっていって、国学の絶対随順の倫理が、天皇制国家下の国体思想の有力な支柱となったのか、西欧における絶対的超越者である神の存在と、絶対者である神を介しての自己超越による理性の発露にからめて、俺なりに考えたんだ」
 和真は興味が湧いた。里山主義の抱える神秘主義の危険性を乗り越える上で重要になると思えたからだ。
「俺、興味があります。話してください」と言った時だった。「まだ飲んでいたの」と瑤子の声がした。
「明日も飲むのでしょ。咲子さんが来るのだから」
「そうだな」と言った哲太郎が、「だが、明後日は月曜だから仕事が待っている咲子さんは、車で帰らなくてはならんだろうから、残念ながら咲子さんは飲めないな」
「ご心配なく。咲子さんは有給休暇をとるそうよ」
「今日の明日で、有給休暇をとれるのか」と驚いた顔をした哲太郎に、「咲子さんはとると言っているの」と駄目出しをした。
「顔に似合わず、いい加減なところがあるんだな」
「社畜でないのよ。文句あるの」
「ありまへん」と哲太郎が京言葉を使っておちゃらけると、「咲子さんも、和真との見合いに相当入れ込んでいるな」と言って愉快そうに笑った。
「和真ももう一日、泊まりなさい」と瑤子が言うと、哲太郎が「当然だ」と決めてしまった。

※昨年は、登山を復活させた。
 妻が山に嵌まったからだ。伊豆山稜を皮切りに、筑波山、雨引山から加波山への往復縦走(16キロ)、奥日光の半月山から社山、赤城山とエスカレートし、ついにはテント装備を購入して南アルプスの仙丈ヶ岳の三千メートル峰に登頂し、八ヶ岳の赤岳と阿弥陀岳へと向かい、雪がちらつく北八ヶ岳を縦走したのだから、人生はどう転ぶかわからないものである(笑)。
 今年は、北岳山荘のテント場にテントを設営し、そこをベースにして北岳から間ノ岳、濃鳥岳、奥濃鳥岳へと縦走するつもりだ。
 連載小説は三回目だが、どうにかして肉体労働が始まる四月末頃までに書き上げたい。悪化している前立腺肥大を手術するかどうかも迷っている(笑)。
 今週末の土曜日は、栃木県の益子近辺の山に運動不足の解消を兼ねていくつもりだ。肉体労働から遠ざかっているので、先週の山は妻のペースについていけなかった。人間の体力の衰えは驚くほど早い。

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 第一章 青時雨

    2

 青時雨(あおしぐれ)だったのだろうか、疾うに雨は上がっていた。
 雨は上がったが、深い霧が立ちこめていた。視界はなかった。足下(あしもと)の地面すら霧にかき消されていた。色を失った白一色の世界に浮いているかのようだった。風は凪いでいる。霧がゆったりとうねるようにして漂っていた。
 しっとりと濡れて和真を抱いている霧の世界が、女の心に思えてならなかった。
 これから和真をどこへ連れて行こうとしているのか、そこで何をするつもりなのか、女の心である霧に訊けば教えてくれるだろうか。
 霧は教えてはくれないだろう。女の心でありながら、女には決してみることができない、女の心の奥深くに息づいているのが、和真が抱かれている霧の世界であり、女がみているのは、曖昧であやふやな白一色の霧の世界ではなく、くっきりと物の形と色とを浮かび上がらせる光の世界でしかないと思えた。霧の世界が白く濁った液体だとすれば、光の世界は液体の表面にできた上澄みになるのだろうか。
「霧の世界と、上澄みの世界……。どちらが女を女たらしめている元始としての世界なのだろう」と自分の心に問いかけて、和真がはっとした。知らず知らずに、霧の世界を無意識の闇に重ね合わせていたからだ。
 これまでの和真は、無意識の闇を夜の闇に重ね、意識を真昼の光の世界に重ねて考えていたのだった。上澄みの世界は光の世界と置き換えることができる。が、霧の世界と夜の闇は異質だ。無意識の闇に霧の世界を重ね合わせてみるなど思いもしなかった。
 無意識の闇と霧の世界とを二重写しにしてみせてくれたのは、女のような気がしてならなかった。だから目の前の霧の光景が女の心に思えたのだろうか。
 和真が横を向いた。並んで立っている女の顔がうっすらとぼやけている。霧の仕業だった。薄絹を透かして女をみているかのようだった。白く淡い薄絹の世界で、唇だけが匂い立っていた。霧に濡れて咲く、肉厚の真っ赤な花びらだった。吸い寄せられていきそうなほど艶めかしく、色鮮やかだった。
 文子は生き別れた双子の妹ではないか、と女が言ってから、二人は押し黙ったままだった。沈黙が霧を呼び寄せたのかもしれなかった。沈黙が深くなるほど、霧が深くなっていった。
 沈黙を破って、真っ赤な花びらが開いた。
「霧で何もみえまへんな」
 和真が黙っていると、「こないに霧が深いと、里に戻るのは無理やろか」と訊いた。
「山道が姿を現すまで待った方がいい」
「和真はんとうちと二人で、霧の世界に閉じ込められてしまいましたな」
 女の口振りからは、今すぐにでも里に戻りたいという思いは感じられなかった。和真と二人で霧の世界に閉じ込められているのを望んでいるかのような声の響きだった。
「文子はんは、何処に住んではりましたの」
 女の方から文子の話を切り出すとは意外だった。文子の話題を避けているように思えたからだ。
「なあ、何処に住んではったん?」
「東京の三鷹」
「せやったら、うちのように京都言葉ではあらへんのやろ」
 女に言われるまで気づかなかったのが不思議だった。文子は標準語を話していた。女は京都弁だ。女が言うように、文子は女の生き別れた双子の妹なのだろうか。
「なあ、文子はんはうちと同じ京都言葉を使うてはりましたのかて、訊いてます」
「標準語だった」
「せやったら、うちと文子はんは別人やということにならはりますな」
 それでも女は文子だと、和真は認めたくはなかった。和真の心の上澄みの世界が、女は文子だと主張しているのではなかった。上澄みの世界は、疾うに女は文子ではないと白旗を揚げていた。それでも女は文子だと譲らないのは、和真の心の奥深くに息づく霧の世界に違いなかった。だから和真は女は文子だと信じられたのだった。
「そうでっしゃろ」と女が念を押した。
「君が何と言おうと……」と言って和真が女をみた。薄絹で隠した女の表情はあやふやだった。「君は文子だよ」と、和真が言い切った。
 薄絹を透かして、「せやから、文子はんは生き別れた、うちと双子の妹やと言うてますやないの。和真はんはうちの言うてることを嘘やと思いはるのでっか」と女の声がした。薄絹をくぐってきたからだろうか、声が妖しげに濡れていた。
 答えに窮していると、「なあ、答えなはれ」と女が催促した。答えの代わりに頷くと、「もう、あかん。何を言うても無駄や」と言って、女が幼児がイヤイヤをするように頭を左右に振った。
 どうして女が文子だと信じられるのか、その訳を女に話してやりたかった。が、女に分かるように話せるとは思えなかった。無意識の闇を話さなくてはならないからだ。そして、無意識の闇にどんな意味があり、どんな可能性があるのか、女が分かるようにかみ砕いて話せる自信はなかった。いや、和真が平易に話せたとしても、女にそれを受け入れられる下地ができていなければ、理解できるとは思えなかった。湯布院でめぐり逢ったときの文子にはその下地はなかった。和真自身がそうだった。和真が無意識の闇の持つ意味と重さに辿り着いたのは、文子と別れた後だった。女が湯布院でめぐり逢ったときのままの文子であったなら、どんなにかみ砕いて話しても、女に無意識の闇が持つ意味と重さを理解させられるはずはないと思えた。
 筋湯温泉のめくるめく夜を生きた和真は、はっきりとした羅針盤をつかみ取っていた。和真を和真たらしめる、あるべき生き方を追い求めるという羅針盤だった。その羅針盤を頼りに歩いてきた先で辿り着いたのが、心の奥深くで息づいている無意識という闇の存在だった。無意識の闇に重大な意味があり、和真を和真たらしめる生き方と深く関わっていることは直観としてつかみ取った。が、はっきりとは分からなかった。それを和真に教えてくれたのは三年前のあの日だった。二〇一一年三月十一日を生きることで、はっきりとみえたのだった。そして、筋湯温泉のめくるめく夜に文子と分け入った世界が、無意識の闇と繋がっていると気づかせてくれたのだった。
 西欧には心に当たる言葉がなく、不可解であやふやな闇を抱えているという意味での心という概念はなかったようだ。西欧にあったのは上澄みでしかない心の世界だったのだろう。そして、上澄みを作り出しているのが理性と感情になるのだろう。だから心の動きとは理性と感情の綱引きでしかなく、理性と感情との綱引きを分析すれば人の心の動きを解明できるとしたのだろう。理性的な人間がいて、感情的な人間がおり、デカルト以降の理性を絶対化した西欧近代主義におけるあるべき人間像は、理性的な人間像になるのだろうか。そして、感情までが理性によって解き明かせると考えたのだろう。理性を客観、感情を主観と置き換えれば西欧近代主義の二元論に行き着く。感情までも理性で解き明かすことができるのだから、西欧における近代的な意味での自我の外にある対象は、理性で丸裸にできる客観としての物でしかないと思い込むのは道理なのかもしれない。
 心の抱える闇という視点を西欧にもたらしたのはフロイドだといわれている。夢分析によって解明しようとした深層心理という闇だが、この闇でさえも理性という光を当てて解き明かそうとするのだから、西欧近代主義の理性信仰は徹底している、と和真は思った。そして産み出されたのが心の闇を理性で分析する心理学という学問なのだろう。和真は理性で心の闇を解明できるという発想と、理性で解き明かされてしまう闇に疑問を抱いていたのだった。心の奥深くで息づいている無意識の闇とは本質的に違うと思えたからだ。何が違い、どこに疑問があるのか、分かるようでいて分からずにいたのだが、三年前のあの日、二〇一一年三月十一日が教えてくれたのだった。
 フロイドが下りていったのは元始としての心の闇ではなく、依然としてフロイドは心の白昼の世界に立ち続けていたに過ぎないと、あの日を生きることで直観として教えられたのだった。
 フロイドのみている心の闇とは何か。昼の明るい光が当たってくっきりとみえる感情に対して、光が当たらずに影になっている感情でしかないと、あの日が和真に気づかせてくれたのだ。フロイドの心理学とは、影になった感情に理性の光を当てて、科学的に暴こうとしたものなのだろうか。この発想からは心には闇は存在しないことになる。科学によって闇はいつかは解明されてしまうからだ。人工知能と人間の心を持つロボット開発の発想もこの延長線上にあるのだろう。人の心の闇は科学的に解き明かすことができるから、人と同じ心を持つロボットを作り出せるという発想なのだろう。どこまでいっても、おぞましい理性信仰と科学万能神話から解き放たれることはないのだろうか。和真はあの日によって、西欧近代主義が抱える黒々とした闇を突きつけられた思いがしたのだった。
 人の心には、不可解であやふやで、そして奥深くて果てがない、樹海となって広がる闇がある。生命(いのち)の根源に繋がる闇だ。この闇へと眼差しを向けなければならない意味と、この闇と真っ直ぐに向き合うことで切り拓ける可能性としての未来を、あの日は直観によって和真に告知してくれたのだった。天啓のような直観だった。
 天啓はどこからやってきたのか。考えるまでもなかった。根源的ともいえる無意識の闇の中からに違いなかった。あの日を境に、和真はこの心の闇と向き合って生きてきたのだった。
文子はんと出逢ってから、七年も経ちますのやろ。せやのに、何で和真はんは結婚しはらへんのでっか」
 和真が結婚していないのを、日下部夫妻から聞いているのだろう。ありのままの心を曝け出そうかどうか、和真は迷った。が、女が文子だと信じられるなら曝け出すしかなかった。そうでなければ、女に文子だと自白させることは永遠にできないと思えた。
 女の表情に現れるどんな変化も見逃したくはなかった。目を凝らした和真が、「文子が戻ってきてくれると信じられるから」と答えたが、霧に紛れた女の顔は白くぼやけて、女の心理は読み取れなかった。
「文子はんというお女(ひと)は、幸せなお女(ひと)や。ほんで、罪作りなお女(ひと)や」
 和真の視線を避けるようにして、女が正面を向いた。そして上を向くと、「突然にいなくなってしまいはったのやろ、文子はんは。和真はんに黙って」と言った。
「そないなお女(ひと)をどないしたら信じられはるのやろ……。うちにはよう分からん」
 和真が黙っていると、「文子はんが結婚してはったら、どないしますの」と強い口調で訊いた。
「文子は俺以外の男と結婚などできるはずがない」
「断言できはるの」
「ああ、できる」
「和真はんは、文子はんしかみえへんようにならはってる。香坂文子教というカルト宗教の熱狂的な信者みたいやな」
「カルトは心の中にある白昼の光の世界でしか成り立たない。俺が信じているのは、俺の心の奥深くで息づいている霧の世界の言葉だ。その霧の世界が、文子は俺以外の男と結婚などできるはずがないと教えてくれている」
 女が言ったカルトという言葉で文子への想いが汚されたようで、とっさに和真は、女が分かるはずがない言葉を口走ってしまったのだった。狂信的で一方的な愛とみられても不思議ではない言動なのかもしれなかった。
「和真はんの心の奥深くに息づく霧の世界というんは、無意識の闇を言うてはるのと違(ちゃ)いますか」
 女に通じたのが驚きだった。和真が頷くと、「何で無意識の闇が、文子はんが和真はん以外の男と結婚できへんと分かりはりますの」と訊いた。
 女に文子だと自白させるには正直にありのままを言うしかない、と和真は覚悟した。しかし、初対面の女を前にしてどうしてそうした覚悟が生まれたのか、女が文子だと信じられるからだと自分に言い聞かせて納得しようとしたが、それだけとも思えなかった。女だから話したくなったのだろうか。
「筋湯温泉の夜に、文子と俺との感覚が解放されて絡まり合って一つになり、新しい世界の扉を開いて入っていった。その世界を花びらとなった俺の感覚と、文子の感覚とが、乱れ舞った。新しい世界とは無意識の闇と重なり合う世界だ。だから、俺の心の無意識の闇で呼吸し続けている、そのときの二人の感覚の記憶が、教えてくれる。
 感覚の記憶は俺だけのものではない。文子の感覚の記憶でもある。文子の感覚と俺の感覚とが感応し合い、交感し合って一つになった。俺の感覚でもあり、文子の感覚でもあるんだ」と、一気に話してしまってから後悔した。そして自嘲の思いが薄ら笑いへと形を歪めて心の水面に浮かんできた。とっさに「ごめん」と、自分でも予期せぬ言葉が口から飛び出していた。女に嫌われたくなかったからだろうか。自分自身のことなのに、和真は分からなかった。
「何で謝らはりますの」
「突拍子もないことを話したから、君は何を言っているか分からないと思って……」と、和真は思いついた理由をいうしかなかった。
「ぜんぶは分かりまへん。だって、小説をかいてはるから、和真はんの表現があまりにも文学的なさかいに」と言って、女がクスッと笑った。
「せやけど、だいたいは理解でけます」
 思わず「ありがとう」と、和真は言っていた。
「一つ訊いてもええですか」と言うと、和真の返事を待たずに女が、「新しい世界へと導いてくれはったのは……」と言って話を切った。口にするのをためらっていたのだろうか、一呼吸置いてから、「セックスやったのでっか」と訊いた。
 深い霧という密室に、和真と女は二人きりで閉じ込められたともいえる。その密室の中で女がセックスという言葉を口にしたのが驚きだった。あまりにも女が無防備か、和真を信じ切っているからか、女が文子だからかのいずれかでしかない、と和真は思った。それとも女が和真を……、と良からぬ思いが巡ってきたところで、慌ててその思いを振り払った和真が頷いた。
「そうでっかあ」と女も頷くと、「そないな体験をしはったから、文子はんを忘れられへんようになったのやろな」と独り言のようにして女がつぶやいた。
 少しして、「もう一つ訊いてもええか」と女が訊いた。黙ったままで和真が頷くと、「カルトは心の中にある白昼の光の世界でしか成り立たへん、と和真はんが言わはりましたやろ。もっとかみ砕いて話してくれはりまへんか」と言った。
「また文学的な表現になってしまうけど」
「ええよ」
 一つ深呼吸をしてから和真が話し出した。
「君の心の奥深くにある無意識の闇は、君の心なのに君にはみえない。君がみているのは無意識の闇ではなくて、理性と感情とが綱引きをしている意識の世界だと、俺は思っている。その世界は闇ではなく、白昼の光の世界だから君にもみることができる。
 カルトは洗脳だよ。何を洗脳して操るのかというと、君がみることができない無意識の闇ではあり得ない。理性と感情を操り、麻痺させる。そう俺は思っている」
 文学的な表現を避けてかみ砕いて説明したつもりが、あまりにも抽象的すぎた。女が納得できるように表現できないのが、和真はもどかしかった。女が理解できたとは到底思えなかった。
「理性と感情とを対立するものとしてみるのが一般的でっしゃろ。せやかて和真はんは、理性も感情も一緒の土俵いうか、同じ世界のもので、その世界は人の心の白昼の光の世界やといわはるのやな。つまり、無意識の闇ではあらへん、意識の世界やと」
 女が和真をみている。女の言ったことに間違いがないか目で訊いていた。和真が頷くと、「和真はんは意識の世界の理性を信じてへん。せやかて、感情も同じように信じてへん。どちらも洗脳からは逃れられへんさかいに。そないに思いはるのやな」
「うん」と言って頷くと、和真は分かるはずがないと思えた抽象的な話を理解してくれた女を、抱きしめるようにしてみた。驚きであり、嬉しくもあった。が、その瞬間に、女がどうしても文子でなければならないと思った。心を刺した針の痛みにたじろいだからだ。刺された傷口から亜麻色の蜜がしたたり落ちるのがみえた。愉楽の痛みに違いなかった。否定しても否定しきれない、七年間封印してきた文子以外の女へと流れ出す恋心という針の痛みだった。
「和真はんは、理性を否定してはるの」
「全否定はしていない。だけど、理性を絶対だとして信仰するつもりはない。君は俺の盲目的ともみえる文子への愛をカルトの洗脳に例えただろ。俺は西欧近代主義は宗教のようなものだと思っている。一つの宗教だから、理性も感情もその宗教の世界の中に封じ込められて、西欧近代主義という宗教の歩いて行く方向へと誘導されてしまっているんだ。
 理性と切り離せない科学が、真理に向かって突き進んでいるというのは嘘だよ。科学は資本の意志に沿ってしか進んでは行けない。だって、科学の膨大な金を必要とする基礎研究を支えているのは資本と国家の潤沢な資金だよ。金の出所が科学の進む方向を決めてしまうんだ。だから、軍需技術が目覚ましい進歩を遂げた。コンピューターは軍需技術として開発されたことをみても分かるはずだ。理性と科学が真理へと向かうものならば、この世に原子爆弾や原発は生まれたりしない
「西欧近代主義は宗教のようなもの……」と女が咀嚼するようにして和真の言葉を繰り返した。そして直ぐに笑い出した。
 和真が声を荒げて「可笑しいか」と言った後で、苦々しいものが喉の奥からこみ上げてきた。声を荒げたのを後悔したからに違いなかった。そして、文子ではないかもしれない初対面の女に心を許して、思っているありのままを吐き出してしまったのを後悔しているのも事実だった。が、和真の濁った心はそれだけではないとささやいていた。
「かんにんな。和真はんが話しはったことを笑ったのやあらへん」
「じゃあ、何を笑ったの」
「和真はんとうちの二人きりで、こないに神秘的な霧の世界にいてはるのに、二人が話しているんが、神秘的な霧の世界とあまりにもかけ離れてるさかい」
 言われてみると、霧の世界とは不似合いな会話だった。それに初対面の男と女が交わす内容ではない。が、その責任が和真にだけあるとは思えなかった。女に誘導されるようにして深みに嵌まったのも事実だった。
「和真はんと出逢えてよかった」
「どうして」
「うちが探し求めているもんを、和真はんははっきりとつかみはっていそうやさかい」と言った女が、「和真はんは、逢生の里へ足繁く通って来はるのやろ」と訊いた。うちが探し求めているもん……、と女の言葉を心の中で反芻した和真が頷くと、「うちが探し求めているもんが何か、うちに教えておくれやす」と言った。
 普通に受け取れば、女が探しているものを幸福とか恋愛とかに置き換えられるのだろうが、女が探し求めているものを既に和真がつかんでいるというのだから、単なる幸福や恋愛のようなものではなさそうだった。和真がつかみ取っているのに、女はまだつかみ取れていないものとは何か……、和真にとっては琥珀のような謎だった。琥珀中に何が閉じ込められているか、和真の心を亜麻色をした魅惑の風が揺さぶった。だからだろうか、訊いていいものかどうか、和真はためらっていたことを、訊かずにはいられなくなった。
「君は、結婚しているの」
「してまへん」と答えた女が、「何でやと思いはりまっか」と訊いた。和真が頭を左右に振ると、「和真はんと、まためぐり逢えると信じられたさかいに」と言った。
 和真の心臓が飛び跳ねた。やはり女は文子だった、と逸る心が乗り移った和真の視線をするりとかわして、女が前を向いてしまった。
「うちが文子はんやったら、そないに言うたやろな。せやかてうちは文子はんではあらへん。せやさかい、よういえまへん」
 心臓がまだ飛び跳ねたままだった。
「かんにんな。驚かせてしもうて」と女がしおらしく声をひそめた。が、直ぐに声を反転させて、艶やかな色を帯びた声を薄絹越しに響かせた。
「うちが和真はんを好きになったらどないします」
 和真の心臓がまた飛び跳ねた。
「和真はんもうちのことが好きにならはったら、どないします」
 即座に答えることなどできるはずがなかった。
文子はんへの愛を裏切らはれますか。ほんでも、文子はんを信じなはるつもりでっか」
 和真が黙っていると、「うちと和真はんと文子はんの三角関係になるのやろか」と言った女が、ゆっくりと頭を左右に振って、「和真はんの心には、もう一人住んではる」と言った。
 和真が「もう一人……」と女の言葉を繰り返すと、「瑤子はん」と言った。
「瑤子さんは人妻だよ」
「人妻やから恋愛の対象にならへんなんて、聞いたことありまへん。好きにならはったなら、どないしようもあらへん。うちと文子はんが似ていて、うちと若い頃の瑤子はんがそっくりやと哲太郎はんが言わはるのやから、和真はんが瑤子はんを好きにならはるのは自然やろ」
「憧れはあるかもしれないが、恋心とは違う」と和真が否定した。
「和真はんが気づいていないだけや。ううん、和真はんも薄々気づいてはる。和真はんの瑤子はんへの憧れは恋心や」
 否定しようとしたが否定できなかった。女がいうように瑤子への思いは恋心に違いなかった。気づいてはいたが、気づかぬ振りをして自分の心を偽っていたのかもしれなかった。女によって逃げ道を断たれ、恋心だと素直に認めろと迫られては、もう逃げることはできなかった。
「恋心なのやろ」と重ねて女が訊いた。頷くと、「やっぱりそうやった」と女が言って、「和真はんの阿呆」と付け足してから小さな溜息をついた。
「瑤子はんは和真はんに好意を寄せてます」
「嘘だ」
「嘘やあらへん。うちは女やさかい、瑤子はんの気持ちはよう分かります」
「……」
瑤子はんが誘惑してきはったら、どないしますの」
 どうなるか、和真でさえ分からなかった。
「ええかげんなお男(ひと)やなあ。文子はんへの愛は、そないなええかげんなもんやったのか」と言って女が睨んでいる。女の表情がはっきりとみえた。二人の間に薄絹となって漂っていた霧が薄れてきたのだろう。
「これから、九年間信じてきた文子はんへの愛がどないなものなんか、和真はんはうちと瑤子はんとに試されはるのやろか」
 和真が黙っていると、「七年間信じて来はった文子はんへの愛を貫き通せはれまっか」と女が訊いた。なおも黙っていると、「頼りない愛やなあ」と言って女が声を出して笑った。そして直ぐに、「かんにんな」と溜息交じりにつぶやいた。
「どうもうちは、神秘的な霧の妖しの世界にたぶらかされてしもうたみたいやなあ。初めて逢(お)うた男に、恋心のようなもんを漏らしてしもうた。ほんで、いけずなことを言うてしもうた。うちは阿呆や」と自分に言い聞かせるような口調で言った女が、「嫌いにならはりましたやろ、うちを」と訊いた。
「いいや」と、和真ははっきりと声にしていた。
「おおきに」と言うと、女は口を閉ざしてしまった。
 何故か沈黙がたまらなく苦痛だった。甘く蕩けるような苦痛だった。霧が震えている。和真の心の震えが伝わったからかもしれなかった。女から恋心らしきものを打ち明けられたからだろうか。霧の震えがうねりになり、直ぐに渦となってゆっくりと回転し始めた。
 女は黙ったままだった。話しかける切っ掛けを窺っていると、女が沈黙のカーテンを開けてくれた。
「霧が薄くなってきはりましたな」
「うん」
「霧の世界って、あらゆる色を奪い去って白一色に塗りつぶしてしまいはると思うていたら、違ごうてました」
 そういうと女が「ほら。みておくれやす」と言って指さした。
 ほんのりと薄れかけてきた霧の合間に、おぼろげに色が浮かび上がっていた。微かだが色が蘇っていた。が、物の形はなかった。
「うちは趣味として草木染めをしてます」と言った女が、「和真はんは草木染めを知ってはりますか」と訊いた。
 女の口から草木染めという言葉を聞くとは思いもしなかった。草木染めとは古くから行われていた伝統的な染色の技術だ。自然の草木から色を抽出する技術は、自然との対話を積み重ねる中で産み出されたものなのだろう。和真は無意識の闇を考えるようになって、日本人がどんな色を愛でてきたのか興味が湧いて、日本の伝統的な色に関する書物を読んでいた。そうして、日本人が愛でてきた色が日本の風土と深く結びついたものだと教えられたのだった。女が草木染めをしている。そう思うと、震えを伴って身体の底から熱いものがこみ上げてきた。
「日本の伝統的な色に興味を覚えて色に関する本を読んだりしたから、草木染めも知っている」
「ほうでっか」
 和真の心と共鳴したからだろうか、女の声が明るく弾んでいた。
 和真は、瑤子が草木染めをしているのを思い出した。七年前にめぐり逢った文子は草木染めをしていただろうか。思い出そうとしたが、三日間の中でそうした話はなかった。だからといって文子が草木染めをしていなかったことにはならない、と心の中で打ち消してみたが、七年前の文子の印象と草木染めとが結びつかないのは事実だった。女は文子か、文子でないか、草木染めで確かめたくなった。が、確かめるのが怖くもあった。
 ためらっていると、「うちが草木染めを始めたのは三年前からです」と女が言った。女が文子であるか、それとも文子でないか、謎が謎のままで残ったことに和真は安堵した。
「日本人て古くから微妙な風合いの色を愛でてきはった」と言った女が、「あそこをみておくれやす」と指さして、「なに色にみえはります」と訊いた。
 物の形はない。ふんわりとした色だけが浮き出ていた。が、その色を一つの色に限定できそうになかった。鼠色にもみえ、どこまでも淡い青色にみえ、ぼんやりと滲んだ緑色にもみえた。漂っている霧の粒子の濃度に変化があるのだろう。微妙な濃度の変化で、鼠色にみえたり、青色にみえたり、緑色にみえたりしているのだろうか。
「一つの色に絞れない。鼠色にみえたり、青色にみえたり、緑色にみえたり。霧の濃淡が変わっていく毎に、刻々と色が変わっていくように、俺にはみえる」
「うちの目にもそないにみえます。日本の伝統的な色を調べると、色と色との境目に行き着きます。ほんで、その境目が限りのう曖昧なんです。よう分からんようになる。今、うちと和真はんがみているのが、その限りのう曖昧な色と色との境目やと思います」
 日本の気候は湿潤であり、大気中の湿度がめまぐるしく変化する。その上に四季があるから、なおさら変化が複雑になるのだろう。一時も同じ姿をとどめないその複雑な変化が、様々な色を生み出す源なのだろう。そうしたことは頭では分かっていたが、色と色との境目に辿り着いた女の色に対する感性が、和真は愛おしく思えた。そして、その境目を女によって教えられ、女と二人でみていることが、たまらなく嬉しかった。
「鼠色に浅黄鼠(あさぎねず)いうんがあります。ほんのりと青緑色を帯びた鼠色なんやけど、うっすらとした青にもみえ、緑にもみえる。空色鼠(そらいろねず)に至ってはもうほとんど水色に近い」
「君が指さした色は、浅葱鼠になるの。それとも空色鼠になるの」
「どちらでもあって、どちらでもあらへん。そないにしか、うちにはよう言えまへん」
「あそこには、もっと違った色が隠れているのかもしれないな」と和真が言った直後だった。霧の中に浮かび上がった色をみていたはずの女の視線が、ゆっくりと移動するのを感じた。熱く貫き通すような視線だったから気づいたのだろうか。和真を抱きしめるようにしてみている。
「どうかした」と、掠れる声で和真が訊いた。
「もっと違った色が隠れている、と和真はんは言わはった。その表現が嬉しくて……」
 何気なく言ったつもりが、女の心の琴線を鳴らしたのだろう。女もまたそう思って、霧の中にぼんやりと浮かび上がった色をみていなければ、女の心の琴線が鳴ったりはしない。
「和真はんが言わはるように、霧の世界はあらゆる色を裡に隠してはるのや、いうんが初めて分かりました」
 女が言った言葉が、和真の胸を刺し貫いた。「あらゆる色を……」と和真がその言葉を繰り返すと、「君にはあらゆる色がみえるの」と訊いた。
 頷いた女が語り出した。
「青系統の色には、白縹(しろはなだ)いうんがあって、白なのか水色なのか見分けがつかへんような曖昧な色です。藍染めの中にも白藍(しらあい)いう色があって、ほんのりと黄色味がかった白っぽい水色なんやけど、白にも水色にもみえ、限りなく白い鼠色にもみえる、そないな色がありますのや。
 緑系統の色にもな、沈香茶(とのちゃ)いう色があって、鼠色がかった青緑色なんやけど、見方によっては、鼠色にも青色にも緑色にもみえますのや。
 うちはさっきまで霧の世界に浮かび上がってきた色を観察していたのやけど、最初は、今言うたような鼠色と青色と緑色の境目にある色ばかりやったのに、霧が薄れてくる毎に、鼠色は鼠色の中で、青は青色の中で、緑は緑色の中で、それぞれに濃淡をつけて変化してきはった。
 するとな、ぎょうさんの色がみえてきましたのや。霧の世界にはあらゆる色が隠れてはるのやなあ、と教えられました」
 沈黙していたのは、霧の中に浮かび上がってきた色を観察していたからなのだろう。それにしても女の色への拘りと、色を見分ける感性は驚くばかりだった。
「黒も茶色もみえたの」
「へえ。鼠色を濃くしていけば黒になります。茶色にはドングリで染めた白橡(しろつりばみ)いうんがあって、これも鼠色か茶色かよう分からん色合いです。
 霧の世界は物の色と形とを溶かしてしまってはるのやないやろか。霧が薄れてくると最初に現れるのはぼんやりとした色で、その色は色と色の境目にある限りのう淡いもんやさかい、どの色に当てはまるんかよう分からんようになってなはる。
 ほんで、霧の世界に形が浮かび上がるとともに、色と色との境目を彷徨ってはったあやふやな色が、はっきりとした色となって浮き出てくるのやと思います」
 噛み殺そうとした笑いが口から漏れた。和真が慌てて口を閉じた。
「うち、何か可笑しいこと言いましたやろか」
 明らかに女は怒っていた。声音が教えてくれていた。
「ごめん。君が言ったことが可笑しかったからじゃないんだ」
「せやったら、何で笑いはったのや」
「さっき君は、俺の表現を文学的だと言っただろ」
「へえ、言いました」
「君の表現だって、俺に負けないくらい文学的だよ」
「そうやろか」
「文学的だった」と断定すると女が舌を出した。そして、笑った。子供のような仕草なのに、だからなのだろうか、ドキッとするほど艶めかしかった。
 艶やかな舌の残影を追いかけていた和真の視線をすり抜けるようにして、前を向いた女が、「みてみなはれ、霧の世界が薄らいでいってはる」と言った。
 霧の世界は、女が言ったままの光景をみせていた。色と色とが溶け合って、色があって色のない、色の境目の世界から抜け出して、色自らの主張を始めていた。そして霧の中に物の形がうすぼやりとした影となって浮かび上がっていた。霧の粒子を透かしてみているからだろうか、粒子の一つ一つが色をもった点描派の絵をみているかのようだった。霧が薄れていく毎に、色が濃くなっていくのが分かった。色がわずかに強くなると形が浮かび上がり、色が薄れていくと形が崩れていくのだった。
 が、霧の世界は一様ではなかった。薄れて綻びをみせている箇所があるかと思えば、白一色に塗りつぶされた箇所があった。その姿すらもめまぐるしく変化していた。綻んだり、白の色を増したりと、霧の世界が生きて呼吸をしながら漂っている証しにみえた。
 鼠色に染まった霧の粒子と、青色に染まった霧の粒子と、黒色に染まった霧の粒子が点となって描き出した、ぼんやりとした縦に長い影は、林立するブナの幹なのだろう。漂う霧の流れと霧の濃淡の変化に合わせて、鼠色になったり、青色になったり、黒になったりしていた。緑系統の色に染まった粒子が描き出しているのは、新緑のブナの葉とクマザサに違いなかった。
 女の言ったことに間違いはなかった。鼠色にみえていた影が、霧が薄れてくると茶系統の色へと変わってみえたり、黄色系統の色にみえたりした。ブナと灌木の枝なのだろうか。
「和真はんは、日本の伝統の色に関する本を読んだと言わはりましたな」
「うん」
「せやったら、黒と赤がどないな意味を持ってはる色か、知ってますやろ」
「生きとし生けるものの生命(いのち)を生み出し育んでくれる、生きる根源のような存在である太陽が昇ってくるときの色を、夜が明けるのアケルから転じて赤となった。
 黒は、太陽の光を奪い去って物をみえなくする夜の闇であり、古代の人は死の世界に重ね合わせて恐れた。黒という語源は、日が暮れるのクレルから転じた」と話した和真が、「そうだよね」と訊いた
「そうや」と頷いた女が、「黒という色を人は何から作り出しはったかも、和真はんは知ってなはりますのやろ」と言った。
「人が火を使うようになって、炎からでる煙で天井に煤がつく。その煤から墨をとった。その墨が人が最初に作り出した黒の色になったと、万葉の色を蘇らせた染織家の吉岡幸雄の『日本人の愛した色』という本に書いてあった」
「うちの愛読書です」
「そうだと思っていたよ」
 二人で笑った。
 顔に笑みを浮かべたままで女が、「人にとって火も、太陽と同じように生きる上でなくてはならへん生命の源です。ほんで、太陽が昇りはるときの色と同(おんな)じ赤」と言って、「残念ながら、新緑の季節やからこの霧の世界には赤はありまへんな」と付け足した。
「いや、あるよ」
「どこにでっか」と言って女が辺りを見回した。
「君にはみえないよ。俺にしかみえない」
「何でですか」
「君の唇の色だから」
 ほんのりと女の頬が赤く染まったようにみえた。
「もう一つ赤い色を、さっき見つけた」
「……」
「君が出した舌の色」
 女の頬にはっきりと赤い色が浮き上がっていた。
「もう、和真はんはいけずやなあ」
 夜の闇が死の世界なら、日が昇って生まれる光の世界は生の世界になるのだろう。そして、死と生とを結びつけて循環させているものは性になるのだろうか。和真はこれまで無意識の闇を夜の闇に重ねてみていた。が、考えてみれば矛盾していた。夜の闇は死の世界だからだ。無意識の闇は生の中になければならなかった。生の世界にあって、白昼の光の世界である意識の世界と異質な世界が、無意識の闇でなくてはならないはずだ。それが霧の世界であることを教えてくれた女が愛おしくなっている自分を、和真はどうすることもできそうになかった。
 夜の闇の黒が死の世界で、白い霧が無意識の世界なら、性は何色になるのだろう、と思った和真が女の肉厚の唇をみた。赤いルージュに染まった女の唇の色でなければならなかった。
 和真は古代の祭りの意味を探求した在野の民俗学者であった吉野裕子の著作を読んでいた。そして深い感銘を受けていた。古代の祭りが性と深く結びついていることを教えられたのだった。吉野祐子は火炎の縄文土器は祭りに使われたもので、蛇のとぐろと女性器になぞらえたものだといっている。そして、性は死と生との輪廻を結びつける神聖なものであり、古代の祭りとはそうした意味があったとしている。火炎の色が赤ならば、性は赤でなくてはならなかった。だからこそ、女の唇の色でなければならなかった。
 和真は筋湯温泉の夜に文子と二人で入っていっためくるめく世界の意味を知ってほしくて、文子に吉野祐子の民俗学について語ったことを思い出した。愛染堂でのことだった。あのときの文子には、和真が言っていることが分かったとは思えなかった。が、筋湯温泉のめくるめく夜を生きた文子だから、いつかは分かるはずだと思えたのだった。
 女に話して聞かせたなら分かってもらえるのだろうか。話したかった。が、何故かまだ話すときではないと思った。性の話だから、女が文子でなかったら不謹慎だと思ったのは確かだが、それだけの理由で避けたのではなかった。だとしたら、どんな理由から避けようとしたのか。その理由は和真にも分からなかった。和真の心の中で息づく霧の世界が避けるように仕向けたのだとしか思えなかった。
 雨のしずくを吸って艶やかに赤の色を増した女の唇の色が、死と生とを結びつける性の色であり、文子と筋湯温泉の夜に分け入っためくるめく性の色だと話す代わりに、和真は無意識の闇が霧の世界だと教えてくれた女への感謝の気持ちを、素直な心で伝えるしかなかった。
「無意識の闇が霧の世界だと教えてくれて、ありがとう」
「うちが教えたのではあらへん。和真はんが気づきはったのや」
「言葉で教えてくれたのではないよ」
「せやったら、うちはどないして和真はんに教えたと言わはりますの」
この霧の世界が君の無意識の闇にみえたんだ。不思議だった」
「この霧の世界が、うちの無意識の闇に……」とつぶやいた女が、「うちにはみえない、うちの心の中の無意識の闇を和真はんに覗かれてると思うと、なんかこそばゆい」と言って恥ずかしげな仕草でうつむいた。
「そうみえたから仕方がない。そして君は、この霧の世界があらゆる色を抱きかかえていることを教えてくれた。君が教えてくれたから、無意識の闇がどういうものか、より深くみえてきた。だから、ありがとう」
「うちこそ、いろいろと教えてもろて、お礼を言わなあかんな」
 頭を下げながら女が「ほんまに、おおきに」と言った。
「うちの心の霧の世界はどないでしたか」
「行けども行けども果てがない樹海のようだった」と言って、和真が声を出さずに笑った。そして、「色をみつけたと思ったら、直ぐに違う色が浮かび上がってきた。どれが君の色なのか、樹海は教えてはくれなかった」と続けた。
「霧の世界を彷徨い歩きはったんか」
「ああ、彷徨い歩いた」
「せやかて、もう霧が薄うなったから、樹海から抜け出せはりますな」
 頭を左右に振った和真をみた女が、顔に笑みを浮かべて、「里へ戻りまひょ」と言った。
 霧はみるみる薄れてきた。雲が晴れて日差しが出たからなのだろう。霧の中を這っていく山道がうっすらと浮かび上がっていた。
「和真はん」と女が名前を呼んだ。
「うん?」と女をみた。
先に歩いておくれやす」
「どうして」
「後ろから和真はんにみられながら歩くの叶わんさかいに」
 女が和真が肩にかけてやったウィンドヤッケを、「おおきに」と言って手渡した。
「今度はうちが後ろから和真はんの心を探りながら歩かせてもらいます」
 もう少しだけ女と二人で霧の世界を生きたい、と和真は思った。そんな和真の心に忖度せずに、女が「さっ、戻りまひょ」と促した。
 歩き出そうとしない和真に女が「和真はんは、戻らへんのでっか」と訊いたが、返事をしない和真をみて、「ほなら、うちは里に戻ります」と言って歩き出した。和真は女の後を追うしかなかった。
 女の心の霧は晴れることはないだろう。逢生の里に下りれば、より霧が深くなるのが分かっていた。樹海となった女の心の霧の世界を彷徨い歩くことになるのだろうか。霧という樹海の中に女が文子であるという証しをみつけられるか、心許なかった。女が文子であるかどうかなどどうでもよくなって、火が点いた恋心が紅蓮の炎に姿を変えて、女に雪崩れていくかもしれなかった。それだけではない。女によって瑤子への憧れが恋心だと突きつけられたのだった。
 七年間、文子への愛は不動だった。その愛が揺らぎ出したのを否定はできなかった。前を歩いて行く女が、不動であったはずの文子への愛を揺さぶっているのだった。
 霧の中に木立が黒く浮かび上がっていた。木立の梢に、あるはずのない果実がみえた。文子への愛という果実だった。青々とした果実だった。その木を女が揺すっていた。揺さぶられる毎に、青々とした果実にほんのりと赤みが差した。赤がみるみる濃くなっていって、真っ赤に濡れた艶めかしいルージュの色へと上り詰めると、愛の果実が女の唇へと姿を変えていた。
 木を揺すっているのは女ではなかった。和真だった。真っ赤に濡れた唇の割れ目から覗いた舌が、熟れて割れた無花果の果肉にみえた。和真が揺すれば揺するほど、無花果の果肉から蜜がしたたり落ちてきた。その蜜が和真の顔にポタポタと落ちた。這い出した蜜が和真の唇を濡らして、和真の舌に絡まりついてきた。和真が頭を振った。幻影は霧と共に消えていった
 幻影を和真にみせたのは和真の心の闇なのだろうか。それとも、前を歩いて行く女の後ろ姿なのだろうか。どちらにしても、妖しい霧の世界を生きているからみえた幻影に違いなかった。その妖しい霧の世界を、ついさっきまで和真は女の無意識の闇に重ね合わせてみていたのだった。そうだとしたら、樹海となった女の無意識の闇と和真の心の闇が共鳴し合い、そして交感し合ってみせてくれた幻影に違いなかった。
 女の足は速かった。逢生山の頂を過ぎると山道は直ぐに分岐になる。来たときと同じ尾根筋に続く道と、直接に里へと下る近道だ。女は山桜の裏手に出る近道を下り始めた。

 あっという間に山桜の下に出た。
 立ち止まった女が身体を反転させて、和真と向き合った。
「今日あったことは、和真はんとうちだけの秘密にしてもらいまへんやろか」
 和真が怪訝な顔をすると、「二人きりで逢ったことを知られとうないのです」と女が言った。
「どうして」
「理由は訊かんといてください。いつか分からはる時がきますさかい、それまではそん疑問は和真はんの胸の中にしまっておいておくれやす」
 和真が黙っていると、「後生だから」と手を合わせて、「なっ、ええやろ」と懇願した。
 頷くしかなかった。
 女が小指を立てた手を差し出してきた。「指切りや」と女がいった。生唾を飲み込んだ和真が、女の小指に指を絡めた。
「約束やで。うちと和真はんだけの秘密や」と言って女が笑みを浮かべた。霧の世界がみせた幻影を思い出させる笑みだった。艶やかに、そして妖しげに揺れていた。
「雨が降ったさかいに、哲太郎はんたちは農作業を止めて家に帰りはったかもしれんけど、青時雨やから戻らへんかったかもしれへんな。戻ってへんかったら、うちは今日はこのまま車で帰ります。ほんで、明日またきます」
 女は早口でそう言うと、「今日は泊まらはるのやろ」と訊いた。
 和真が頷くと、「ほなら、明日また会えますな。やて、明日は初対面で会わなあきまへんで。よう覚えておいておくれやす」と女が言った。
 深々と頭を下げると、回れ右をして女が集落へと続く道を早足で歩き出した。
 直ぐに止まると振り返った。
「和真はんは、三十分くらいどこかで時間を潰しはってから、日下部の家へ来はるようにしておくれやす」
 歩き出した女がまた立ち止まった。今度は振り返らなかった。
「文子はんを信じなはれ……」と声がした。呟くような声だった。少しして、「文子はんを信じて上げなはれ」とまた声がした。はっきりと響く声だった。
 女が走り出した。
 女の真意が分からなかった。和真が彷徨い込んだ、女の心に立ちこめる霧がみるみる深くなっていった。

 年末には娘夫婦がきたり、熱が出た妻を元旦に病院に連れていったらインフルエンザだと分かり、それからは、わたしが寝込んでしまった妻に代わって家事をやったりと、年末年始は慌ただしい日々だった。肉体労働で身体を鍛えているからか、幸いにわたしは難を免れた。そして、年が明けてもう九日が過ぎてしまったというわけなのである。
 今年もよろしくお願いいたします。
 今年こそ、安倍晋三と安倍政治に終止符を打ち、願わくば、韓国の朴槿恵と同様に、安倍晋三と昭恵が獄に繋がれることを祈らずにはいられない。安倍晋三と昭恵による国家の私物化と犯罪は朴槿恵の比ではない。
 デモに行ったり、Twitterで拡散したり、自分でやれることはするつもりだ。そして、共産党のサポーターになろうかなあ、などと思ったりしている今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。寒さが平年よりも厳しいですので、お身体をご自愛ください。

 書きかけの小説は遅々として進まず、やっと二回目を公開する体たらく。しかし、里山主義という思想をテーマにした小説は難しい(笑)。
 思想一色にしてしまえば味気ない無味乾燥の小説になり、誰も読んではくれない。読んでもらうにはどうするか、その匙加減が難しいのである。それに三年振りに小説を書くので、筆が遅い遅い……。表現もさび付いて、納得していない。
 公開してから一週間くらいは推敲するだろうから、公開して一週間後くらいに読んだ方がいいと思う(笑)。
 なお、完成したら電子書籍にして出版するつもりだが、そのときには表現を含めて書き換えるつもりだ。
 最後にお願いです。
 小説の中で京都弁を使っているのですが、間違っているのは明らか。京都にお住まいの方がいらっしゃったら、是非とも添削していただきたくお願いいたします。コメント欄にお書き下さい。

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  小説『三月十一日の心』

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 第一章 青時雨

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 新緑のブナ林を抜け、岩が露出した急坂を登り切ると尾根に出た。
 眼下に逢生(あおい)の里の集落が望めた。が、一瞬にして雲に飲み込まれてしまった。
 生い茂るクマザサと灌木を縫って、曲がりくねりながら、山道(やまみち)が尾根伝いを這っていた。その山道(やまみち)へとめがけ、波となって次々と雲が、山裾から駆け上ってきた。
 雲の姿がめまぐるしく変わっていく。つかみ所がなく、形があるようで、形がなかった。現(うつつ)の世界で雲をみているはずが、幻の世界を当て所なく彷徨いながら、荒れ狂う、雲をみているかのようだった。千切れたかと思うとくっつき、ゆがんだかと思えば捩れ、色を失って消えたかと思うと、奥に隠れていた色が迫り出してきた。そして、縮んだかと思うと膨れ上がり、妖しげに身体をくねらせて踊り出したかと思えば、岸壁に叩きつける波頭(はとう)となって襲いかかってきた。
 感情の吊り橋の上で翻弄されている自分の心が、雲に乗り移っているかのようだった。
 吊り橋は大きく上下にうねっていた。うねりが収まると、今度は左右に揺れ出した。波の周期と形は不規則で、振れる幅もまちまちだった。吊り橋が何をしたいのか、どこへ連れて行こうとしているのか、槙野和真に分かるはずはなかった。吊り橋の上で立ち往生し、翻弄されるがままだった。自分の感情であり自分の心のはずが、自分ではどうすることもできなかった。目まぐるしく姿を変えながら打ち寄せてくる、目の前の雲の感情が自分の感情であり、つかみ所なく揺れ動く雲の心が自分の心だと思えてならなかった。
 和真が前を歩いて行く女をみた。
 現(うつつ)の世界を生きている女をみているのか、それとも幻の世界を生きている女をみているのか、和真は自分の目と心とを疑っていた。俺は夢の世界を彷徨(さまよ)い歩いているのかもしれない……、と何度となく自分自身に問いかけていたのだった。夢であってほしかった。それでいて、現(うつつ)でなくてはならなかった。躊躇いと戸惑いと失望にも似た黒く濁った感情の渦が夢だと主張し、九年もの間探し求めていた女と再会を果たし、目の前にその女がいるという、めらめらと燃え上がった歓びと期待の熱で白く濁った感情が、夢であることを断固として拒否していた。錯綜した感情の渦の中にあって、和真はもがいていたのだった。
 不規則に揺れ動く感情の吊り橋に和真を立たせたのは、前を歩いて行く女だ。
 女の歩調には澱みがなかった。立ち止まることもしなければ、振り返ることもしなかった。軽やかで流れるような歩調だった。のろのろと歩いているかと思えば、女の姿を見失って走り出したり、手を伸ばせば女に触れられる距離にまで近づき慌てて立ち止まったりと、ちぐはぐな和真の足取りとはあまりにも対照的だった。
 和真に後をつけられているのを、女は気づいているはずだ。女の後ろをつかず離れずついてくる和真の影を、女は背中で感じながら歩いているに違いなかった。それなのに、女の足取りに澱みも乱れもないのが不可解だった。
 大人が一人通れるほどの細い山道(やまみち)だ。滅多に人の行き来はない。山道(やまみち)を歩いているのは和真と女だけだった。人影もなければ人の気配もなかった。女が和真と初対面だとすると、見も知らぬ男にあからさまに後をつけられれば、心が不安と恐怖で掻きむしられ、騒ぎ出し、乱れるのが自然だ。その心のざわめきと乱れが歩調に映し出されないはずはなかった。
 前を歩いている女は文子だ、と自分の心に言い聞かせながら歩いていたが、文子だとしても腑に落ちなかった。文子だったなら、和真をみて逃げ出すか、和真の胸へと雪崩れてくるかのどちらかでしかないと思えたからだ。
 それでも七年前に湯布院でめぐり逢った香坂文子だ、と和真は譲らなかった。和真の中に息づく男としての核のようなものが、女は文子だと教えてくれていたからだ。筋湯温泉のめくるめく夜を共に生きた女だからつかみ取れた確信なのだろうか。理性による認識ではない。感覚としての認識だった。筋湯温泉のめくるめく夜に、女と和真が一つの花となって開き切り、妖しくうねる色と匂いとなって感覚と感覚とが絡み合い、濡れ合って捩れ、漆黒の闇を青白く発光しながら花びらとなって乱れ舞った感覚だから、和真の心で認識の実を結んだのだろうか。
 筋湯温泉のめくるめく夜は、それまでに経験したセックスとは違っていた。肉体と肉体の交わりを超えた、感覚と感覚との交わりだった。肉体と肉体との交わりを超えたものだから、絶頂へと上り詰めて終わるのではなかった。感覚と感覚とが絡み合いながら一匹の蛇の姿となって上り詰めると、秘めやかに濡れた闇に、紅く口を開けた穴のようなものが浮かび上がってきたのだった。
 一匹の蛇となって絡み合い、捩れ合った和真と文子の感覚が、頭をくねらせて狭い入り口をこじ開けると、その穴へと潜っていったのだった。穴はぬらぬらとして生温い海藻のような無数の襞の壁に覆われたトンネルだった。そして、妖しげな収縮を繰り返していた。トンネルの襞と蛇となった感覚の鱗がこすり合わされる度に、襞と襞との隙間から喘ぐ息となって色と匂いが吐き出された。そして、ネバネバした液体がしみ出してきて、感覚の蛇を奥へ奥へと誘い込むのだった。
 愉楽の長いトンネルを抜けるとめくるめく世界だった。
 解き放たれて羽を生やした感覚がゆらゆらと虚空を舞い始めた。性というトンネルが、これまで生きてきた世界とは違う、新しい世界へと和真と文子とを導いていってくれたことを知ったのだった。理性ではなく、感覚だからつかめた真実だった。トンネルが性の世界であるなら、新しい世界とは新しい生の姿に違いない、と和真は打ち震える感覚によって告知されたのだった。
 筋湯温泉の夜に文子とセックスという行為をしたのは間違いない。が、それはこれまでに経験した単なるセックスという行為ではなかった。セックスによって新しい世界へと導かれていって、そのめくるめく世界を生きたのだ。そして、その世界を生きたことで、和真がそれまで何に拘り続け、何を追い求めていたのか、その世界が気づかせてくれたのだった。
 しかし、前を行く女は香坂文子ではないと否定したのだ。小一時間ほど前になる。女の姿を目にしたのは、逢生(あおい)の里の外れにある山桜の下だった。

 毎年、この山桜は見事な花を咲かせた。若葉の紅色(べにいろ)がひときわ鮮やかな山桜だった。初めてこの山桜の花を目にしたときに、そのあまりの妖艶さに身震いし、鳥肌が立ったことを、和真ははっきりと覚えていた。若葉の紅色とのコントラストが花びらの白を浮き立たせるから、妖艶さを醸し出すのではなかった。若葉の紅色と花びらの白とがもつれ合い、絡まり合って、紅色と白の世界とは別の世界を空中に浮かび上がらせるのだった。その浮かび上がった世界を作り上げているものが、紅色と白を超えた、色と匂いの妖しい絡み合いであり、艶やかに濡れた感応だった。和真はその妖艶の世界へと、魂ごと心が吸い寄せられていくのを感じた。そして不思議なことに、その世界が、筋湯温泉のめくるめく夜に文子と辿り着いた新しい世界と重なり合ってみえたのだった。
 山桜の開花はソメイヨシノよりも遅い。が、五月半ばだ。花は疾うに終わり、若葉も青々とした新緑へと変わっていた。
 いつものように日下部家の庭に車を止めると、家の中へと声をかけた。が、いるはずはない。農繁期だから、夫妻で農作業に出掛けているに違いなかった。和真が逢生(あおい)の里を訪れたのは一月半ぶりだった。
 日下部夫妻が農作業をしている田畑は検討がついている。足繁く逢生(あおい)の里へと通(かよ)ってきては、手伝ったりしていたからだ。日下部夫妻と知り合って四年になる。
 庭から道路に出ようとして、隣の屋敷に止めてある水色の車に気づいた。老夫婦が乗っているのは軽トラであり、新車を買ったにしても老夫婦には不似合いの車だった。農作業に軽トラは必需品だ。軽トラを手放すはずはないし、二台の車を必要とも思えなかった。逢生(あおい)の里では初めてみる車だった。軽トラがないから、老夫婦も日下部夫妻と連れだって農作業に出かけているのだろう。
 胸騒ぎがした。水色の車を目にしたからなのだろうか。足を踏み出す毎に、胸騒ぎが予感へと姿を変え始めた。日下部夫妻がいるだろう畑へと向かう道から逸れて、和真は里の外れへと伸びた道を歩いていた。里の外れの山の麓に山桜の樹があった。そこで、七年間追い求めてきた愛しい女に再会できる予感がしたからだ。
 山桜の樹の下に女の人影らしきものをみつけた瞬間に、和真は走り出していた。人影が大きくなるにつれ、期待で高鳴る胸が紙風船となって膨らんでいった。息苦しくなって歩き出した。そして、女から五メートルほどの距離に近づいて立ち止まった。女の顔はみえなかった。山桜の下に祀られた双体道祖神に、しゃがんで手を合わせていたからだ。
 気配を感じたからだろう。顔を上げた女が和真をみた。女の顔がぱっと輝いたのは一瞬だった。ゆったりとした動作で起ち上がると、軽く会釈をした。パンパンに膨らんでいた紙風船が破裂した音を聞いたのはそのときだった。再会できた歓喜で破裂したのではなかった。あまりにも他人行儀で無機質な再会に失望したからでもなかった。どうして胸の紙風船が破裂したのか、和真は分からなかった。
 和真の感情を置き去りにして歩き出した女の背中に向かって、「逢いたかった」と、和真が声を小石にして投げつけた。女が立ち止まると、「この日がくるのを、ずっと待っていたんだ」と張り上げた声で女の肩を揺すった。
「あんはんは、人違いしてはります」と、背中を向けたままで女が言った。
 和真が「人違い……」と女の言葉を反芻すると、「へえ、人違いです」といった女が身体を反転させて和真と正対した。
「君は香坂文子だ」
「いいえ、違います。うちは山野辺咲子です」
「嘘だ」といって和真が歩み寄ると、「嘘やのうて、ほんまです」といった女が身を翻して歩き出した。集落とは反対の方角だった。
 しばらくの間、和真は呆然として立ちすくんでいた。女の言葉で頭の中をぐちゃぐちゃにかき回され、思考回路がズタズタに切断されて、感情と感情を繋いでいるはずの脈絡という糸がこんがらかってしまったかのようだった。思考と感情とが混乱しながら渦を巻いていた。そして、女を追い求めてきた九年の時の流れと、その流れのなかで溺れそうになりながらもがき苦しんで生きてきたすべてが、一瞬にしてご破算にされてしまったかのようだった。感情と思考とを奪われた空白の時空を漂っていたのだった。やがて空白の時空の底から、細切れになった感情の泡が立ち上ってきた。空しさとも失望とも憤りとも、似ているようでいて違っていた。初めて経験する奇妙な感情だった。
 女の後を追いかけたのは、女の姿がみえなくなったことに気づいてからだった。

 和真が、軽やかな足取りで前を歩いている女を睨むようにしてみた。
 小一時間前の女とのやりとりを反芻してみても、捩れた謎は深まりこそすれ解けることはなかった。謎が深まるにつれ、もつれた感情の糸が、なおのこと絡まり合って解けなくなるのだった。
 文子と共に生きたのは旅先でのたった三日間に過ぎない。湯布院でめぐり逢い、筋湯温泉のめくるめく夜を生きて、豊後竹田の愛染堂(あいぜんどう)を最後に別れたのだった。別れたといっても、互いの住所と電話番号を教え合い、再会を誓い合ったばかりか、二人が結ばれますように、と愛染堂に願掛けをした二人だ。別れ際に和真の胸に雪崩れてきて、別れたくない、と文子は涙を浮かべて訴えたのだ。それが三ヶ月後に音信不通となった。教えられた住所を頼りに東京まで出かけていって、文子の住むマンションを訪ねたが引っ越した後だった。
 執拗に調べれば、文子の足取りの手掛かりに辿り着けたかもしれない。が、和真はそうしなかった。文子の意志を尊重したかったからだ。そして、二人で筋湯温泉のめくるめく夜を生きて、新しい世界の扉を開け、新しい世界の空気を呼吸した二人だったから、文子を信じられたのだった。和真は今でも文子は戻ってきてくれると信じて疑っていない。信じて疑っていないから九年もの間、文子を待ち続けられたのだった。
 たった三日間。その三日間を、非日常の旅先という舞台で気まぐれな情事の炎に焼かれた、かりそめの三日間ととるか、和真がそれまで執拗に拘り続け、追い求めずにはいられなかったものが何であるかを気づかせてくれた、人生そのものを揺さぶる三日間ととるかでは、意味するものと重みとが違う。筋湯温泉のめくるめく夜に、文子と二人で生きた新しい世界で、それまで執拗に拘り続け、追い求めてきたものが和真を和真たらしめる生き方だったと、感覚によって気づかされたのだ。
 それだけではなかった。和真を和真たらしめる生き方がどういう姿をしているのか、新しい世界を文子と生きた中で、おぼろげではあるが垣間みえたのだった。
 新しい世界へと辿り着けたのは文子がいたからだ。そして和真と二人だったからだ。そうだとすれば、文子も和真と同じように、その新しい世界と結びついた生き方を追い求めていたに違いなかった。そうでなければ、二人が新しい世界の扉をこじ開けて、その世界を生きることはできるはずはなかった。
 和真は新しい世界を生きた感覚によって、あるべき生き方へと向き合うことができた。が、文子はまだ漠然としたままなのかもしれなかった。しかし、文子は新しい世界を生きてしまったのだ。その文子が新しい世界へと導いてくれた性と、新しい世界を和真と共に生きた生の輝きを捨て去れるはずはない、と和真は信じられた。単なる記憶ではない。理性としての認識でもない。めくるめく夜の世界で結晶した鋭く尖った感覚としての認識だから、文子の表層を流れる意識としてではなく、より深い無意識の闇へと浸透し地下水となって流れ続けているはずだった。だからふとした切っ掛けで、無意識の闇の底から、筋湯温泉のめくるめく夜に和真と二人で辿り着いた新しい世界を生きた感覚が、泡となって立ちのぼってくるに違いなかった。その感覚があるかぎり、文子が筋湯温泉のめくるめく夜を捨て去ることなどできるはずはない。
 筋湯温泉のめくるめく夜を生きてしまった文子だから、文子はもう和真以外の男とのセックスはできないと信じられた。和真と出逢う前に体験しただろう行為でしかないセックスならできるだろう。が、行為でしかないセックスによって、それは行為ではあっても、ほんとうのセックスではないことを文子は知ることになるのだろう。筋湯温泉のめくるめく夜を生きた感覚としての記憶に報復されるだろうからだ。和真はそれを自らで実感していた。筋湯温泉のめくるめく夜の文子とのセックスと、それ以前の文子以外の女とのセックスとがまったく異質なものだったからだ。文子以外の女とセックスをすれば、筋湯温泉のめくるめく夜に辿り着いた新しい世界を汚(けが)すようで、和真は怖かった。だから、筋湯温泉の夜に文子を抱いてから九年間女を抱いていない。
 文子以外の女を抱いた後に襲ってくる空しさと苛立ちとを予想できた。文子と生きた筋湯温泉のめくるめく夜に上り詰めた新しい世界を知ってしまったから、新しい世界に報復を受けるはずだった。落胆と失望が空しさと苛立ちを募らせ、その感情が自分だけではなく相手の女にも向けられるとしたら、自分だけではなく女をも冒涜することになる。そして何よりも、筋湯温泉のめくるめく夜に花開き、新しい世界へと導いてくれたセックスへの冒涜に違いなかった。
 文子はあれから何人の男に抱かれたのだろう、と和真は想像した。不思議と嫉妬の炎が燃え上がることはなかった。和真以外の男とのセックスに失望し、空しさに突き落とされた文子は、筋湯温泉のめくるめく夜のセックスを思い出さずにはいられないからだ。そして、和真と二人で生きた新しい世界を思い起こさずにはいられなくなるからだ。それだけ和真との距離は狭まるはずだった。
 目まぐるしく姿を変えながら波となって押し寄せていた雲が、いつの間にか、大きな塊となって山全体を飲み込むまでに膨れ上がっていた。風を遮るものがないからだろう、風によって千切れた雲に綻びができている。その綻びから、尾根伝いに蛇行していく山道が細切れになってみえた。白い雲の上に浮かんだ夢の浮橋を歩いているかのような頼りなさだった。
 風が作った雲の綻びは出来ては消え、消えては綻んだ。その度に、千切れた山道の切れ端が姿を浮かび上がらせたかと思うと、直ぐに隠れてしまうのだった。女の姿も同じだった。雲が女を隠してしまうと、女の姿を求めて和真は小走りになり、女の姿が現れると歩き始めるの繰り返しだった。
 みるみる雲が勢いを増していった。綻びは完全に消えて、山道(やまみち)をすっぽりと覆い隠してしまった。女の姿も雲の中だった。自然と和真と女を隔てる距離が狭まった。二メートルにも満たなかった。が、女の歩調は変わることはなかった。
「俺はずっと、筋湯温泉のめくるめく夜に君と一緒に辿り着いた、新しい世界に拘り続けた」と、和真が女の背中にささやいた。そして「文子も俺と同じはずだ。なっ、そうだろ文子」と訊いた。が、風の音に声がかき消されたのだろうか、女の背中は何も答えてはくれなかった。
 新しい世界が、和真が追い求めていた生き方に通じた世界であることは分かった。が、新しい世界にどんな意味があり、具体的にどういう生き方へと結びつくものなのか、和真はぼんやりとはみえているようで、はっきりとはみえずにいた。それがはっきりとしたのは、和真があの日を生きたからだった。あの日とは東日本大震災と福島第一原発事故が起きた二〇一一年三月十一日だった。
 湯布院でめぐり逢った時の文子は二十五歳だった。それから七年が経つのだから文子は三十二歳になる。和真は文子の写真すら持ってはいなかった。七年という年月は文子の容姿を変えずにはおかないだろう。三日間を共に生きた文子の容姿をはっきりと覚えていた。その記憶の中の文子の容姿と、前を行く女の容姿がまったく一緒かというと、同じようでもあり、違っているようでもあった。女としての色香が増していることだけは確かだった。容姿だけをみれば、女が文子だという確証はなかった。が、感覚としての記憶が、女は文子だと断定しているのだった。女の本質としての色と匂いは増しはしても変わることはない。筋湯温泉のめくるめく夜に、文子の本質としての色と匂いにずぶ濡れになって塗れた、和真の鋭く尖った感覚の記憶だから騙されることはないと思えた。前を行く女を抱きしめれば、文子であるという確証がよりはっきりとするはずだった。が、そんなことは許されるはずはなかった。
「雨が降ってきはった」と声がして、女が立ち止まった。
「雨……」と女の言葉を繰り返して、和真も立ち止まった。見上げると額に雨粒が落ちてきた。独り言のようにして、「ああ、雨だ」とつぶやいて納得した。
 不意に女が振り返った。一メートルも離れてはいなかった。驚きもせずに、「降ってきはりましたな。かなわんなあ」と言った。雨を愉しんでいるかのような声音だった。
 驚いたのは和真の方だった。女が振り返って話しかけてきたからだ。そして、風に煽られた女の息が和真の顔を舐めたからだ。忘れもしない、筋湯温泉のめくるめく夜の闇を妖しく揺らしていた、愉楽の火に喘ぐ女の息だった。
 呆気にとられていた和真をみた女の顔に微笑が浮かび上がった。その意味を確かめようとすると、女は前を向いて雲の中に飛び込むようにして走り去ってしまった。
 和真が大きく息を吸い込んで吐き出した。呼吸をするのを忘れていたからだ。溜息をつくと、女の後を追って駆け出した。
 逢生山(あおいやま)の頂を過ぎて、少し下ると山道は行き止まりになる。行き止まりにブナの大樹が聳えていた。そのブナの大樹の下にも双体道祖神が祀られていた。女は山桜の下で双体道祖神に手を合わせていたから、その道祖神と対になったブナの大樹の下の道祖神にも手を合わせるつもりなのだろうか。しかし、女の目的がそうであるなら、わざわざ遠回りをして尾根伝いに登るよりも、山桜の裏から直截に逢生山(あおいやま)へ登った方がはるかに早かった。半分の時間も要らない。女の意図が計りかねた。
 雨が勢いを増した。風に煽られて横殴りに叩きつけてきた。
 女の足は速かった。逢生山(あおいやま)へと突き上げる最後の急坂を登り切ると、休むことなく走るようにして下り出した。やはりブナの大樹の下に祀られている道祖神が目的地のようだった。
 ブナの大樹の下に駆け込むと、背中でもたれかかるようにして女がブナの根元に立った。大人二人が腕を繋いでやっと抱えられるほどの太さだ。少しためらったが、和真が女の横に立った。
 尾根筋ではなく樹木が風を遮っているから、横殴りの雨ではなかった。放射状に四方に枝を張り出したブナが巨大な傘となってくれ雨をしのげた。
 横を向くと、黒髪を濡らした女の横顔があった。肩まで垂れた黒髪の先からしずくが落ちていた。前髪からも落ちている。額に落ちたしずくが鼻翼を伝って流れ下り、少し肉厚の唇の縁をなぞって、あごの先端から胸元へと這い下りていった。
 駆けてきたからだろう、女の胸が大きく波打っている。雨を吸った白いシャツが女の肌にぴったりと引っ付いて、胸の線を露わにしていた。筋湯温泉のめくるめく夜の闇に浮かび上がった女の乳房の映像と重なってみえた。炎となって喘ぐ吐息と呼応して、妖しくうねっていた文子の乳房の感触までが蘇ってきた。押しつぶしていったときの乳房の弾力を掌と指が覚えていた。そして、乳首を咥えて転がした感触を唇と舌が覚えていた。紅(あか)らんだばかりの固く尖った桑の実のようだった。
 視線を感じたのだろう、女が顔を横に向けた。目が合うと、「なんや?」と声ではなく目で訊いた。思わず和真は正面を向いていた。逃げたのだ。どうして逃げたのか、和真自身が分からなかった。
 微かな笑い声がした。口を開けずに舌の上で転がしたはずの忍び笑いが、鼻から漏れてしまったかのような音色だった。ためらいながら和真が横を向いた。新緑に煙るブナをみているのだろうか、女はあごを突き出して頭上を見上げていた。何故かほっとした。どうしてほっとしたのか、和真は自分の心の水底を覗いてみたが濁っていてみえなかった。
 雨のしずくが糸を引いて落ちてきた。
 スローモーションの映像をみているかのようだった。
 ブナの新緑の色を盗んだのだろうか、うすきみどり色に透き通ったしずくだった。赤いルージュに染まった女の唇の上で爆ぜた。しずくの舌先が女の肉厚の唇をなぞり、ルージュの色を艶(あで)やかに濡らしていった。その瞬間に、逃げた理由が分かった。七年の年月の中で、女としての文子の色と匂いとが、めぐり逢ったときよりもはるかに深まり濃くなっていた。それを目の当たりにしてたじろいだからだった。
 沈黙が苦痛になった。しずくの舌で舐められて濡れた、女の唇の色と匂いがドキッとするほど眩しくて、悩ましげで、艶(あで)やかだったからかもしれなかった。和真の胸の鼓動が不規則に飛び跳ねていた。そのちぐはぐな鼓動のリズムで、「寒くないか」と女に訊いた。「少し」と女が答えてくれた。
 着ていた登山用のウインドヤッケを脱いで、女の肩に掛けてやった。
「おおきに」と言って頭を下げてから、「あんはんは、寒くはおまへんの」と女が訊いた。
「身体が火照っているから、ちょうどいい」
「そうでっか……。せやけど、なんで火照ってはるのやろ」
 独り言を言ったのか、和真に訊いたのか、どちらともとれる女の声の響きだった。
 和真が黙っていると、「なっ、なんで身体が火照ってはるのやと訊いてます」と女が答えを催促した。
「走ってきたから」と答えるしかなかった。
「そうやろか……」と言って横を向いた女が、「雨、止みはると思いまっか」と訊いた。和真と目が合った。今度は逃げずに顔を逸らさなかった。が、ぶっきらぼうな口調になって「分からない」と答えるとうつむいてしまった。いいように女に感情を弄ばれているように思えて癪だった。だからなのか、子供のようにすねていた。和真は文子より一つ年上だ。女が文子だとすると、一つ年下の女に手玉にとられているといえる。女が和真の感情を弄んでいるのだとしたら、言葉によってではない。匂い立つ色香に弄ばれているのだと気づいたときだった。はっとした和真は、「瑤子さんだ」と声にしていた。
 女が慌てたような素振りで辺りを見回すと、深い溜息をついてから、「誰もいてへんやんか」と言った。微かに怒りを滲ませた声音だった。
「似てるんだ、日下部瑤子さんに」
「うちがでっか」
 和真が頷くと、「どこが似てますの」と女が訊いた。
 色香と言いそうになって、その言葉を飲み込むと代わりに、「容姿と雰囲気が」と答えた。
 瑤子と二人になると、いつも目の前の女と同じように色香に感情が弄ばれ、すねた子供の心で、感情のコントロールを失いそうになるのだった。が、瑤子と女の色香には微妙な違いを感じた。瑤子は色香を投網にして、意識的に和真を捕らえるのだった。そして、投網の綱を緩めたり、締めたり、揺すったりして愉しんでいるように思えた。が、崩れるようにして男にしな垂れかかっていくふしだらな色香とは違っていた。瑤子の色香は、瑤子の生き方の本質にあるところのものから醸し出されたもののように感じた。女としての凜とした矜持があり、清らかで澄明だった。それでいて熟成された酒のように芳醇なものだった。女の色香も瑤子の色香と本質的には同じなのだが、違いは、瑤子がやっていることを無意識にやっているように感じた。女が無意識なのだから、女の色香に触れて和真の心がすねた子供の心へと変わったとすれば、その責任は和真にあるようにも思えた。女の放つ色香に、男としての和真の心が自らで絡まりついていって、その色香との駆け引きに翻弄され、勝手にすねていると言えなくもなかった。独り相撲なのだろうか。
「うちと瑤子はんは、七つも年が違(ちご)うてます。せやのに、そないにうちはオバン臭く見えはると言うのでっか」
 反射的に「うん」と頷いた和真を睨んでいる女の顔にたじろいで、直ぐに頭を左右に振ると「違う、違う」と前言を取り消した。
「頷いたやおまへんか」
「ごめん」
「謝りはっても、もう遅い。うちはぎょうさん傷つきましたさかいに、許しまへん」
 女が本気で怒っているのか、それとも怒った振りをして和真の感情を弄んでいるのか、どちらにもとれる女の仕草と口調だった。
 女が日下部夫妻を知っているのは間違いなかった。日下部夫妻と知り合いなのだから、隣の老夫婦とも知り合いのはずだ。足繁く逢生の里に通い詰めていた和真が、逢生の里から遠ざかって一月半になる。その一月半の空白の期間にこの女は逢生の里にくるようになって、日下部夫妻と老夫婦と親交を結ぶようになったのだろう。逢生の里に和真が足繁く通ってくることを女が知ったから、女が逢生の里へと来るようになったのだろうか、と思ったがそれはあり得なかった。文子に教えた住所は長野県の安曇野だったからだ。逢生の里は京都府の外れの山間(やまあい)に開けたこぢんまりとした盆地だった。
「あんなあ」という女の声が気まずい沈黙を破ってくれた。
「うちと若い頃の瑤子はんは似てはるそうです」
 和真の目と合うと女は、「満開の山桜の下に立っていたうちに、哲太郎はんがそう言うてはりました」と言った。
「哲太郎さんが……」
「へえ、お竹お婆はんと善蔵はんも似てはると言うてはります」
 和真が黙っていると、目だけで笑った女が、「あなたのことは、日下部夫妻からすべて聞いてます」と言ってから、「うちと瑤子はんが似ていて、うちと香坂文子はんというお女(ひと)と似てはるということは、うちと瑤子はんと文子はんというお女(ひと)の三人は似てはるということになりますのやろな」と訊いた。
「君は文子だよ」
「難儀なお男(ひと)やなあ。せやから、違いますと言うてるやおまへんか」
 口を開こうとした和真を制するようにして、早口で女が「あんはんは小説を書いてなはる。そして川端康成に私淑してなはるそうやな」と訊いた。
 そんなことまで日下部夫妻はこの女に話しているとは驚きだった。返事をせずにいると「川端康成の小説に『古都』いうのがありますやろ。うちは『古都』が好きです」と言ってから、「なあっ、なんでうちが『古都』を好きか、分かりはりまっか」としな垂れかかるような声で語尾を跳ね上げた。
 和真が頭を左右に振ると、「『古都』に出て来はる双子の姉妹がいてますやろ。その双子の姉妹がうちと似た境遇やからです」と言った。
「同じ境遇」と聞き返すと目を見開いた女が、「へえ、うちには生き別れた双子の妹がいてます。生まれて早うに、両親が事故で亡くなってしもうて、身寄りがないうちら二人が、別々の所にもらわれていったと教えてもろてます」と言いながら、黒い瞳だけをゆっくりと横にスライドさせた。
 瞳を中心に戻して和真を真正面から見据えた女が、「香坂文子というお女(ひと)は、うちが生き別れた双子の妹と違いますやろか」と驚くべきことを語った。


※ 逢生の里は架空の里です。

12月の初旬に草刈りの肉体労働が終わると思っていたら、19日まで仕事が伸びた。荒れ放題の竹林で竹取の翁よろしく、孟宗竹を切ったりしていたからだが、その影響で小説にとりかかるのが遅くなった。
 草刈りが始まる五月までに、小説『三月三十一日』を書き上げるつもりだ。
 この小説で、里山主義文学とはどういうものなのか示すつもりだ。そして里山主義とはどういう思想であるのか、和真と文子の生き方を通して描き切るつもりである。
 また逢生の里へと引き寄せられてきた若者たちの青春群像を描くことで、新しい時代の胎動をも浮かび上がらせるつもりだ……、と法螺を吹いておきたい(笑)。法螺で終わるか、真になるか、それを判断するのは読者である。乞うご期待!


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 ウーマンラッシュアワーによる政治風刺の漫才を観たが、この政治的状況において、よくぞやってくれたと先ずは賛辞を贈りたい。
 日本がおかれた政治的状況は危機的だ。三権分立が形骸化し、幼児性分裂症の安倍晋三は権力を欲しいままにしている。幼児性分裂症の安倍晋三のような男に独裁的な権力を持たせれば、行き着く先は破滅でしかないことを、時代が証言してくれている。祖父である岸信介の亡霊に取り憑かれた安倍晋三は、戦前のファシズム国家体制という破滅へと雪崩れて行っており、正に歴史的分岐点であり、歴史的瀬戸際に、日本人一人一人が立たされているといえる。後がない。この後がない瀬戸際に立たされて何をなすか、時代が日本人一人一人に問うているのだと思う。
 しかし、暗澹たる状況である。
 ジャーナリズムは黙して声を上げないばかりか、恥ずかしくもなく公共放送を名乗るNHKは、意図的に国民の耳目から事実を覆い隠し、そればかりか、事実をねじ曲げてまで幼児性分裂症の安倍晋三をヨイショする報道をしているのだから世も末である。
 NHKは戦前の過ちを性懲りもなく繰り返すつもりなのだ。ねじ曲げた情報で国民の意識を操作し、そして洗脳し、戦争という奈落へと国民を突き落とした戦前の過ちと犯罪行為に対する自責と自省の念と、二度と同じ過ちを繰り返さないという厳粛な誓いを、組織ぐるみで蹴飛ばしたといえる。NHKという組織は腐り切っている。
 テレビをつければ、安倍政権ヨイショ番組で塗りつぶされ、お笑い芸人までがニュース番組に引っ張り出され、政治評論家気取りで、そして支離滅裂の論理で、安倍晋三を擁護するに至ってはもう末期症状だろう。
 お笑い芸人だけではない。テレビを賑わす政治評論家、学者、ジャーナリスト、作家……といった言論人までが、安倍晋三の太鼓持ちでしかないのだ。これらの幇間たちは、肩書きの前に「自称」がつくものたちばかりだ。自称政治評論家であり、自称学者であり、自称ジャーナリストであり、自称作家なのである。本人たちがそのことを誰よりも自覚している。権力の太鼓持ちでなければ、政治評論家を名乗ったり、学者を名乗ったり、ジャーナリストを名乗ったり、作家を名乗ったりできないことを承知しているのである。社会からそれと認められる才能がないのである。社会から認められないのに、その道で飯を食うとなれば、手っ取り早い方法は権力の犬、若しくは太鼓持ちになるしかないのである。浅ましい根性であり、倫理観の欠片もなく、己の生き方に対する矜持の欠片もないといえる。要は薄汚い金が懐に入ればいいのである。それで愛国心と国益と国防を叫んでいるのだから、国家ぐるみで倫理的に退廃し、腐敗していくのは道理である。
 右翼も一緒だ。安倍晋三の祖父である岸信介は暴力団を行動右翼に衣替えさせたりしたが、右翼も商売なのである。本物の右翼であったら、安倍晋三のような腐り切った政治屋は真っ先に血祭りに上げられていただろう。本物の右翼には核となる思想がある。その思想によって、奸計をめぐらす政治屋を炙り出し、その政治屋と刺し違える覚悟と矜持があるのだ。
 一方の商売右翼には思想がない。金の出所である国家権力の思いのままに、どうとでも転ぶ。一時間前に白といってたものが、一時間後に黒になったりしても平気の平左なのである。覚悟も矜持もなく、行動に対する責任意識もない。あるのは暴力と脅しと誹謗中傷とデマだけなのである。
 国家権力が独裁化するにつれて、幇間たちと商売右翼が社会にのさばり出す。ジャーナリズムの口を封じ、テレビを幇間たちで席巻し、国民は四六時中、国家権力のヨイショをみせつけられるようになるからだ。一方の商売右翼は街に繰り出して、大音響で薄汚い言葉を羅列しながら仮想敵国を罵り、偏狭で排他的なナショナリズムを煽り、粗暴で暴力的で攻撃的な空気を社会に醸成することになる。そして、社会から政権批判の目を摘み、国家権力が良いように国民を操り、手っ取り早い金儲けの手段であり、自分立ちが作り上げた政治的、経済的な失策をご破算にできる戦争へと突貫する算段なのである。国民の生活と生命と社会基盤の破壊と国土の荒廃などお構いなしなのである。
 幇間たちと商売右翼も必死だ。他の幇間よりも目立たなくてはならないからだ。目立たないと、実入りが少ないのである。だから国家権力が独裁化するに比例して過激になるのである。自称作家の百田尚樹の言動を観れば一目瞭然だろう。最早、狂気の域にまで達したといえる。百田尚樹のような薄汚い根性の詐欺師であり、悪質なデマゴーグに本屋大賞を与えた出版社と書店関係者の責任は重い。詐欺師の片棒を担いだと言っても過言ではないだろう。いわば、百田尚樹は意図的に作られた「流行」作家なのである。

 また筆に任せて脇道に逸れてしまった(笑)。
 それではウーマンラッシュアワーの漫才について、感じたことを述べたいと思う。
 Twitterで、日本文学における自分を中心とした半径十メートルを執拗に描く私小説に絡めて、それらしきことはつぶやいたのだが、理解はしてもらえなかったようだ。そこで、より詳しく述懐したい。といっても直感的な思いつきでしかない、と予め断りを入れておきたい。

 ダウンタウンの松本人志の漫才は、優れて私小説的である。うんざいするほどいやらしいし、汚らしい(笑)。
 私小説とは簡単にいうと、自分を中心にして半径十メートルの世界で起こった事実を、主観を排除して、あるがままの事実だけを客観的に描くことが、文学の使命だとするものだ。私小説の言葉でいうとこの客観描写を平面描写というのだが、どこがお目出度いかというと、目の前で起こった事実を真実だと勘違いしていることにある。事実=真実なのである。
 文学は真実を描くことにあるのであり、だから目の前の事実を客観的に描写すればいいという信仰にも似た思い込みなのである。
 事実=真実のどこがおかしいのか、と疑問に思う読者がいるだろうから例を挙げて説明する。
 沖縄の辺野古新基地反対運動のデモを考えてほしい。デモの中にいる人が見ている風景(事実)と、デモを規制する機動隊の隊員が見ている風景(事実)とは違うものなのである。どちらも事実だ。しかし、同じではない。事実は見る視点と立場によっても一つではないのである。どうして沖縄の辺野古新基地反対運動が起きているのか、その真実とは何か、目で見えるものではない。錯綜し矛盾しながら重なり合い、落ち葉となって堆積した無数の事実の奥に隠れて見えないものこそが真実なのであろう。事実と事実をつなぎ合わせるだけでは真実を浮かび上がらせることはできないのである。
 報道に中立性がいわれるが、沖縄の辺野古新基地反対運動のデモの中にいての映像と、機動隊側からの映像では、国民に与える印象は大きく異なることになる。では、そのどちらでもない地点からの映像ならどうかというと、そんな地点はそもそもないのである。中立性という自己欺瞞でしかない。ジャーナリズムとしての報道機関だったなら、真実とは何かという地点に立たなくては嘘だろう。真実を求める地点に立っているからこそ真実の前においていかなる勢力の干渉も受けない、という意味で中立だといえるのだ。
 それが与党と野党がいて、与党の主張と野党の主張を両論併記することが中立であり、与党と野党の中間が中立的立場だなどと寝言を言っているのは、そもそもがジャーナリズムの看板を掲げているのがおかしい。与党がドンドンと右に移動したら、野党と与党の中間も右にシフトするのだ。中立の地点も右に移動することになる。その結果が戦前の日本ファシズム国家の完成なのである。マスコミが加担したのだ。
 丸山真男のいう現実主義の陥穽とは、目の前の既成事実にずるずるべったりと引きずられていくことを戒めたものだ。事実は真実ではないのである。
 近代日本文学の黎明期に燦然と輝く巨星である二葉亭四迷は、事実=真実などというお目出度い思い込みを超然として超えていたといえる。文学とは虚構によって、目には見えない真実を浮かび上がらせることだと『小説総論』でいっている。半径十メートルの目の前の事実を書けば真実を描けるなどという脳天気でないから、あるべき文学の方法論と、あるべき文学の姿を求めて七転八倒したのだ。
 私小説の醜悪さはこれだけではない。私小説は優れて日本的な文学だから日本独自の文学だと思われがちだが、私小説を生みだした日本の自然主義文学は、本家本元のフランス自然主義文学の模倣品なのである。まったくの模倣品ならまだしも、フランス自然主義を曲解して取り入れてしまったのだ。
 フランス自然主義はフランス革命に息づくロマン的な理想主義の挫折と絶望とを潜り抜けて生まれたものである。だから、無理想と無目的と無思想とを掲げたのであるが、これも立派な思想であり、当然に思想として血肉化していたのである。その上で、人間の本質を獣性に見つけ出し、その獣性を炙り出すために自然科学的な手法や解剖学的な手法を取り入れたのである。
 そして重要なのは、日本の私小説と違って、作品の中に人間の本質である獣性を浮かび上がらせるために周到に練られた虚構の舞台を作り出した点だ。この舞台とは社会の縮図である。半径十メートルの世界であろうはずはない。
 近代日本文学の黎明期には、政治(思想)と文学との問題もあったのである。
 この側面を代表するのが自由民権運動と深く関わった北村透谷なのだろうが、明治政府による徹底的な弾圧を経て、透谷が政治から文学へと傾斜した道程が、そのまま日本の近代文学の悲劇を内包したものだったのだろう。つまり、文学からの政治(思想)の排除、若しくは政治的問題からの逃避という悲劇である。
 私小説とはその延長上に生まれたものであり、だから半径十メートルの世界に閉じこもるしかなかったのではないだろうか。
 その上で、フランス自然主義文学の影響を受けて、人間の本質を獣性だとし、その獣性を事実に即して描写しようとするから、じめじめとしてかび臭く、自堕落で暴力的な性を描くことになったのだろう。何となればそうした性こそが獣性そのものだからだ。そして、事実=真実だというお目出度い信仰に毒されきっていたから、間違いなく手っ取り早い方法は、自分がその性と生を生きればいいということになる。破滅型私小説の完成である。格好つけていえば、文学のために自分の人生を捧げたといえるのかもしれないが、文学がそうしたものであるなら、文学に未来はない。

 長くなってしまったが、話をお笑いに戻すと、日本における私小説作家とお笑い芸人の心構えが似ていると思わないだろうか。芸のためなら女房も泣かす、それがどうした文句があるか♫、という歌謡曲があるが、お笑い芸人が芸と対峙する姿勢と、私小説作家が文学と対峙する姿勢とがあまりにも似ていると思うのは、わたしだけなのだろうか。
 それだけではない。半径十メートルの世界をお笑いにしているのである。それもじめじめとしてかび臭く、自虐的で、暴力的で、自分の中に潜む獣性を祭り上げて、お笑いにしているのである。松本人志の漫才が代表的だ。
 半径十メートルの世界だから、社会へと向ける眼差しはないし、言葉の厳密な意味での政治性も思想性もない。私小説の無理想、無目的、無思想そのままなのである。わたしからみたら下卑た笑いとしかみえない。
 私小説の悪しき特徴はもう一つある。機会主義である。無限の現状肯定の姿勢なのだ。半径十メートルの世界に閉じこもるということは、自らで、社会から隔離されるということである。しかし、半径十メートルの世界はあくまでも社会の中の小世界でしかない。その視点が欠落しており、あたかも社会から超然として独立した世界であるかのように錯覚しているのである。より正確にいえば単なる逃避だ。私小説とは逃避文学なのである。逃避文学でしかないのに、その半径十メートルの世界に閉じこもることを正当化し美化して「芸術」などと言うに及んでは救いようがない。
 逃避していても社会が変われば半径十メートルの世界も変わらざるを得ない。それでもその変わった半径十メートルの世界に閉じこもるのである。その先に戦場という半径十メートルの世界が待っているとしても、そんなことは知ったこっちゃないのである。無理想、無目的、無思想とはそうしたところに行き着かざるを得ないのである。
 ついでだから国学と私小説との関係性と問題についても言及しておこう。
 国学というと優れて文学的な問題だと思うかもしれないが、国学とは優れて政治的な問題を孕んでいる。文学と政治の関係性と問題を浮き彫りにみせてくれるのだ。
 国学は文学至上主義であり、文学的な価値を絶対化するものであるが、だからこそ逆説的に、政治的な機会主義に行き着かざるを得ないという問題がある。
 本居宣長の「もののあはれ」とは優れて文学的な表現であり、俄には解釈できない高尚な心の有り様に思えるが、政治的な視点でみると、あっと驚くう〜タメゴロウ〜♪、なのである。
 本居宣長は政治とは疎遠だと思われているが、それは過ちである。優れて政治的な人物なのである。当時にあって、宣長ほど民衆の心に目を向け、民衆の心を恐れた人はいない。そして幕府の政治は、儒教道徳による主従関係によって武士階級の心の支配への目配りをするが、民衆の心の支配という視点が欠落していることを見抜いた人である。このまま放っておいては天下国家を揺るがす一大事だ。宣長が恐れたのは、百姓一揆や打ち壊しの頻発だったののである。そこで説いたのが文学的な衣装をまとった「もののあはれ」なのである。政治的な視点から「もののあはれ」を解釈すると、庶民は政治のことなどに関わってはならず、政治はもっぱら御上に任せて、庶民はただそのときそのときの感情のありくるままに、おもしろおかしく生きればいい、ということになる。これは正しく政治的機会主義の強要でしかない。
 ここで立ち止まって考えてほしい。何を考えるかというと、「お笑い」の果たす役割である。おもしろおかしくを「お笑い」として考えると、宣長的に解釈すれば「お笑い」は、庶民を政治から遮断する道具になりはしないだろうか。あるべき「お笑い」を考える場合に、この視点は避けては通れないだろう。
 国学において、宣長が「お笑い」のレベルによる民衆の心の操縦術だとすると、平田篤胤のレベルはもう一段階上になる。篤胤は「お笑い」のレベルでは庶民の心を掌握できないと考えたのだ。洗脳することによる掌握を考えたのである。それが天皇神学を内包した平田神学の役割である。つまり宗教によって民衆の心を掌握し、いいように操縦しようとしたのである。ここに至っては最早国学は文学産物ではない。優れて政治的産物なのである。因みに、この平田篤胤の方法論を踏襲して、明治維新政府は平田神学を更に深化させ、一神教的国家神道を虚構したのだ。
 私小説と「お笑い」が宣長レベルの政治性があるとすれば、幕末期から雨後の竹の子のように勃興した新興宗教をも抱きかかえて体制内へと組み込み、その頂点に一神教的国家神道を据えた明治維新政府の思惑は、篤胤レベルでの政治性があるといえるのではないだろうか。教育勅語によって臣民への道を頭に叩き込み、一神教的国家神道へと絶対的に帰依させたのである。
 私小説と「お笑い」と宗教の関係性と問題性がみえてくるではないか(笑)。
 安倍晋三と安倍政権と安倍政治の土台を支える多くの新興宗教をみれば、わたしの言っていることが理解できるはずだ。

 わたしは単純に「お笑い」に政治性と思想性を持ち込めといっているのではない。
 わたしはプロレタリア文学を否定している。プロレタリア文学は私小説の方法論を用いて、半径十メートルの世界を政治的活動で塗りつぶしたにすぎないと思っているからだ。私小説の亜種でしかないのである。
 ビートたけしは漫才に社会性を持ち込んだといえるが、プロレタリア文学と私小説との差程度でしかないのではないだろうか。

 三島由紀夫の文学は好きではないが、三島由紀夫の批評眼は図抜けている。
 その三島が北杜夫のユーモア小説である『楡家の人々』を絶賛している。日本文学の記念碑的な作品だというのだ。わたしもまったく異論がない。
 日本文学は圧倒的に喜劇が少ない。どうしてかというと、私小説の伝統が災いしているのではないだろうか。それと喜劇小説の方が、悲劇小説よりも難しいからだろう。
 破滅型私小説作家ではあるが、わたしは葛西善蔵は好きである。
 葛西善蔵の小説に『椎の若葉』がある。わたしはどうしてこれが喜劇仕立てにならないのか、長い間不思議に思っていたのだ。どうして喜劇にならずに、じめじめとしたかび臭い悲劇なのか。どうもそこら辺りに日本文学の限界があるような気がしてならないのだ。悲劇でなく喜劇として実を結んだなら、半径十メートルの世界を逸脱せずにはいられないと思う。
 借金している友人から、海苔の缶だったかお茶の缶だったか忘れたが、贈られてくるのだが、開けてみると潰れて変形しているではないか。これは借金を返さないことへの当てつけだと信じて疑わず、家人にみせれば心を痛め、それではあまりにも惨めすぎる。そこですりこぎ棒で変形した缶を、涙を流しながら直すという話しなのだが、虚構を排したといってもこれは小説である。原稿用紙に向かって書かなければならないのである。書く時点で、どうして自分を突き放してみられないのか、少しでも突き放してみれば、これが悲劇になりようはないのだ。どうみても喜劇だろう。
 いや、もっと突き放せば、悲劇であって喜劇であり、喜劇であって悲劇になるはずなのである。
 このことを誰よりも知っているのがチャップリンなのである。チャップリンは喜劇を描いていて、そこに安住していない。背後に潜む悲劇とともに、真実を浮かび上がらせるのだ。だから凄いのである。
 先走りするが、ウーマンラッシュアワーの村本大輔に希代の才能をみるのは、この喜劇と悲劇の関係性をつかんでいるという点だ。まだ無自覚なのかもしれないが、無自覚でやれるから才能をみるのだ。
 村本が漫才の最後に指をさして、「お前たちのことだ!」と言った瞬間に、喜劇が悲劇に逆転するのである。それまで他人事として笑っていたのに、はっとして心臓が飛び跳ねるのだ。笑ったままで顔が硬直し、その笑っている自分の顔が醜悪に思えてくるのではないだろうか。村本によって、突き放して自分の心をみることを迫られることになるからだ。そうした視点は大切である。何故なら、半径十メートルの世界を飛び越えて、もっと広い世界をみることになるからだ。
 民衆を半径十メートルの世界に閉じ込めたまま安住して、半径十メートルの世界を飛び越えることをさせない、宣長のいう「お笑い」がある一方で、半径十メートルの世界を飛び越えさせて、社会へと向かう目と心を開かせる「お笑い」があるはずなのである。
 それが日本における「お笑い」は圧倒的に宣長のいう「お笑い」なのである。そして日本の文学も同様である。
 安倍晋三が裸の王様であることを、民衆に納得させ、裸の王様の呪縛から民衆が解き放たれて、裸の王様でしかない安倍晋三を大笑いさせられるのは、わたしは本来の意味での「お笑い」しかないと思う。「お笑い」にはそれだけの力とエネルギーがあるのだ。その力とエネルギーがあるから、権力は宣長のいう「お笑い」を庇護し、民衆を半径十メートルの世界へと幽閉するのである。
 期待を込めてウーマンラッシュアワーの可能性を強調するのは、「お笑い」が本質的にもつ力とエネルギーとを取り戻し、「お笑い」でしか民衆を連れていけない地点から、自分を突き放して、社会へと目と心を開かせてもらいたいからだ。
 安倍晋三が裸の大様であることを民衆に「お笑い」で突きつける方法は様々だろう。「お笑い」に風刺を効かせるには、直截的な事実で責めるよりは、虚構の舞台を作り上げて、そこに裸の王様を立たせ、チャップリンの『黄金狂時代』や『独裁者』のように、戯画的に誇張することで本質を浮かび上がらせる手法を用いながら、いつしかその裸の王様が安倍晋三であることを暗黙の内に民衆に認知させるという方が、わたしは訴求力は抜群だと思う。
 現状は危機的であり、退っ引きならない歴史的分岐点でり、歴史的瀬戸際だから、時代はウーマンラッシュアワーを歴史の表舞台へと立たせたのだと思う。大袈裟ではなく、それほどまでに、わたしは可能性をみているし、期待もしている。よりいっそうの飛躍を遂げることを祈りたい。

 最後に手前味噌になるが、わたしは文学でそれをやるつもりだ。
 ブログで連載し中断していた小説『三月十一日の心』を、ミステリー色を濃くして、新たに書き直すことにしている。ミステリー風味だからといってエンタメ小説ではなく、かといって純文学でもない。では中間小説かといえば、そんなものは否定している。わたしの目指す文学に純文学もエンタメの概念も垣根も存在しないのである。早い話が、夏目漱石の小説はそんな区別を超越しているではないか。正しく、竹内好のいう国民文学である。
 わたしは里山主義という新しい保守主義を唱えているが、わたしの文学とはこの里山主義を反映した里山主義文学であり、西欧近代文学の方法論ではない、独自の視点から描写をし、解剖学的に、また心理学的に作中の人物の心理を描き出すことを放棄している。人物の心を客観的な視点から、らっきょうの皮を剝くようにして暴いていっても何もでてくることはないと考えているからだ。この手法の極北ともいえる伊藤整の『氾濫』に、わたしは西欧近代文学の心理描写の限界をみている。
 わたしは川端康成に私淑し、川端の描写方法と心理描写からヒントを得て、わたしなりの方法論を確立しているつもりだ。新感覚派である川端に私淑しているので、わたしも感覚を重視することになるが、新感覚派は私小説の平面描写(客観描写)に反旗を翻したのだが、本質的な方法論と思想を土台としたものではなく上辺だけのものであり、単に裏と表をひっくり返したに過ぎない、きらびやかで感覚的な言葉を使った描写でしかない。わたしは、何故に感覚なのかという土台としての方法論と思想を持っているつもりだ。
 新感覚派の双璧である横光利一と川端は、同じ感覚派でも感覚の持つ意味が違っている。横光は描写に感覚的色づけを施したに過ぎず、方法論は依然として私小説的なものであり、西欧近代文学の域をだっすることができないのに対して、川端の方法論は優れて日本的であり、感覚的認識を核に持っている。したがって、わたしの方法論は川端の方向性を更に推し進めたものである。
 何故に日本的な意味での感覚的認識であり、感覚的な心理描写なのか、その答えはここに書かない。小説『三月十一日の心』でその答えを示すつもりだ。
 大法螺を吹いてしまった(笑)。
 が、これは意図的である。わたしは安倍晋三と真逆である。自分がついた法螺と対峙し、格闘するしかない性格なのである。法螺を真にするために、七転八倒する覚悟がある。そうでないと、安倍晋三と同じ嘘つきになる。わたしは嘘をつくことに心が痛むし、羞恥心も持っている。
 近日中に、小説『三月十一日の心』の「第一章 道祖神 一」をこのブログで公開するつもりだ。乞うご期待!
 遠くから懐かしい唄が聞こえてくる。幻聴だろうか。題名は『よせばいいのに』……。
 バカね、バカね
 よせばいいのに〜
 駄目な、駄目な、ほんとに駄目な
 いつまでたっても、駄目なわたしね〜♪

 ああ、書かなけりゃよかった……。

 ポストモダニズム風にいえば真実はない。
 わたしはそれを否定しない。が、あるべき人としての生き方はあるはずだ。その人としてのあるべき生き方の探求が目指すところのものを、わたしは理想といい、その飽くなき探求こそが「真実」を追い求める心だと思っている。

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