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  第一章 神隠し
 
     1

 身体(からだ)をくねらせて道が、ブナの森深くへと分け入っていく。
 芽吹き始めたブナの森は、淡い水彩画の世界だった。足を踏み出すごとに、陽炎となった森がゆらゆらと揺れ出した。
 物の輪郭が崩れ去り、物の形と意味とがあやふやになって溶け始めた。形と意味という衣装を脱ぎ捨てた色たちが、恥じらいもなく裸体を開いて、蕩けながら虚空へと流れ出した。
 虚空が白い和紙に変わった。
 和紙の上をくねくねと身をよじりながら這い出した色の割れ目へと舌をくぐらせ、色の花びらをこじ開けて、あふれ出した色の蜜を舐め回し、色がもらした溜息の匂いを、和紙が咥えて甘く噛んだ瞬間だった。爆ぜた色が和紙へとにじみ出した。そして、和紙をぐっしょりと濡らしていった。
 色に濡れた和紙を透かしてゆらめく日の光がみえる。
 重なり合い、絡み合う、色たちの妖しげな息づかいを浮き上がらせていた。
 和紙を濡らして重なり合う色と色とに境界はなかった。裸の肌と肌とをこすりつけ合っては蕩け、裸の身体と身体に腕と脚とを絡み合わせて交わる、めくるめく曼荼羅の森の世界だった。
 形と意味との頸(くび)木(き)から解き放たれたから、自由であり、奔放であり、それだけに艶(なま)めかしく、淫らでさえあるのに、だからなのだろうか、清らかにみえた。不可思議な曼荼羅の森の世界だった。
 香坂文子の身体が揺れ出した。身体ではなかった。心が陽炎となって揺れていたのだった。
 引き寄せられていく心に抗うようにして、文子が立ち止まると同時だった。
 ぐっしょりと濡れた和紙にしずくが垂れた。うすべに色のしずくだった。しずくが爆ぜた瞬間に、うすべに色をした匂いを吐き出した。そして、うすべに色を和紙ににじませていった。
 文子はしずくが吐き出した匂いが糸となって心に絡みつくのを感じた。
 文子の心に絡まりついた糸が小刻みに震え出した。匂いも震えている。山桜の花の匂いが文子の心をうすべに色に染め上げていった。すると、「何をためらっているの」と声がした。文子を曼荼羅の森へと誘っていた。声を発したのはうすべに色のしずくに姿を変えた山桜の花なのだろうか。それとも、うすべに色に染め上げられた文子の心なのだろうか。文子には分からなかった。
 声に誘われるままに歩き出そうとして、文子は頭を左右に振った。
 物が物としてあるために持っているはずの形と意味とを失った世界へと入っていくことが、文子は怖くなった。その世界は文子が生きてある世界ではなかった。一度入り込んだら二度と戻れない世界のような気がしてならなかった。
 また糸が震え出した。
「目の前の世界を、あなたはあの世と思っているのだろうけれど、目の前に広がっている世界はあの世とは違う世界よ」と声が聞こえてきた。
 声の主(ぬし)には、文子の心の何もかもが見えているとしか思えなかった。文子の心に巻きつけた匂いの糸を通して、文子の心を覗いているのだろうか。そういえば声だとばかり思っていたが、糸の震えで文子の心に語りかけているようにも思えた。そうだとすると、声にしなくても文子が心の中で思うだけで、声の主に伝わるのかもしれなかった。
「わたしがいる世界には、物には形があり、物に形があるからこそ、それぞれに名前がついている。わたしは感覚によって外界にあるものを、事実という情報として感じ取り、それを名前という概念に結びつけて認識している。それが現実のわたしが生きている世界なの。けれど、目の前の世界には物に形も意味もないじゃない。きっと幻の世界なのよ」と、文子が心で思った。
「あなたは認識としての世界しかあり得ないと信じ切って、その世界を疑うことを忘れてしまっている。でも、今あなたの目の前に広がっている世界もまた、違う意味での事実よ」
「言っていることが、わたしには分からない」
 風の仕業なのだろうか。それとも声の主が笑ったからだろうか。目の前の色の世界にぱっと光が射して華やぎ、色たちが一斉に揺らめき出した。そして、さざなみとなった山桜の花の匂いが、色をかき分けるようにしてひたひたと打ち寄せてきた。
「あなたはどうして今、ここに立っているの」と、糸を震わせて声の主が訊いた。
 文子が黙っていると、また糸を震わせて「逢生(あおい)の里も、この逢生山(あおいやま)も、あなたは忘れてしまっていたはず。なのに今、遠くから漂ってくる微かな匂いをたぐり寄せるようにして記憶を呼び戻し、ここにこうして立っている」と言った。
 声の主の言うとおりだった。
 あの日、二〇一一年三月十一日を境に、文子は休日を利用して、鄙びた里山を歩くことが趣味になっていた。何が文子を里山に引きつけるのか、ぼんやりとはつかんでいるつもりだったが、言葉にして言い表すことはできそうになかった。ただ、あの日が文子の心を里山へと向かわせていることだけははっきりとしていた。
 一週間前の四月の日曜日だった。
 山裾に開けた集落が尽きて、傾斜がきつくなった山道を直角に折れた瞬間に、文子ははっと息を飲んだ。満開の山桜の花に心が打たれたからだ。
 山桜の花のどこにこれほどまでに秘めやかな匂いが隠されていたのだろうか。むせかえるような匂いだった。匂いの舌に絡め取られるようにして歩き出すと、文子は満開の山桜の下に立っていた。
 息苦しかった。肩で呼吸をしていた。
 頭上を覆いつくした山桜の花を、文子が見上げたときだった。花びらが吐き出した匂いをしずくに姿を変えて、文子の顔へ垂れてきた。白濁した匂いのしずくだった。
 思わず文子は目をつぶった。
 爆ぜるしずくの感触を、文子は額とまぶたと、鼻と頬と、そして唇とあごで感じた。
 爆ぜたしずくは、裡(うち)に秘めやかに抱きかかえていた匂いを胞子にして飛散させると、どろりとした液体となって、文子の顔を這うようにして濡らしていった。
 どうしてわたしは裸なのだろう、と文子は思った。垂れたしずくが叩く感触を全身の皮膚で感じていたからだ。しずくが素肌で爆ぜる瞬間に、かすかな痛みを連れてきた。蕩けてしまいそうな痛みであり、生温い甘美な痛みだった。しずくの尖った舌先でつつかれ、舐められているような妖しげな感触だった。匂いのしずくは文子のうなじをつついては舐め、肩と腕をつついては舐め、乳房と乳首をつついては舐めた。そして、下腹部と腿をつついては舐め回した。しずくが爆ぜて流れ出した液体の感触は、さながら男の指と手だった。くねくねとじらすようにして這い回り、こじ開けられて潜り込み、そして、撫でられては圧迫し、包み込まれては押しつぶす感触がそっくりだった。首から乳房へと這い出した指と手が、下腹部へと滑り込んでいった。文子は尖った感覚だけとなって呼吸していた。文子の感覚はびしょ濡れだった。
 文子は喘ぎながら唇を開いた。
 しずくが文子の舌で爆ぜて、どろりとした液体を吐き出した。液体を飲み込んだ瞬間に、山桜の花の匂いが血となって体中を駆け巡るのを感じた。
 やがて不思議な映像が閉じたまぶたの裏に浮かび上がってきた。
 八才の文子が母の環(たまき)の胸に抱かれて泣いている映像だった。
 少女の文子を抱きしめながら環は、「いいかい文子。何もなかったの……。そう、何もなかったのよ。文子は、ただ迷子になっただけ。忘れてしまいなさい。そうよ、何もかも忘れるの」と語りかけていた。
 文子に語りかけているはずが、自分に暗示をかけてでもいるかのような声の響きだった。どうしたわけか、文子は裸だった。そして不思議なことに文子の白い肌は、山桜の花の汁をこすりつけたかのように、山桜の花の匂いに塗れていた。環の腕の中で少女の文子がしゃくり上げる度に、山桜の花の匂いが揺れて色濃くなった。
 文子と環を取り囲むようにして、老人たちの姿があった。
「この女っ子は、神隠しにあったんだべか」と一人の老婆が言うと、「んだっぺな、神隠しにあったんだっぺ」ともう一人の老婆が相槌を打った。すると堰を切ったかのように、次々と老人たちが話し出した。
「この女っこの身体は、山桜の花の匂いがすっぺ」
「んだな」
「山桜の神様にたぶらかされたんじゃなかっぺか」
「神隠しなんていうの、よして下さい」と環が声を荒げた。環のあまりの声の大きさに驚いて、しゃくり上げていた文子が声を上げて泣き出した。
「爺様(じさま)らと婆様(ばさま)らだから、勘弁してけろな。ありもしねえ神隠しなんてまだ信じてるんだから、始末に負えねえ」と、年若い女の声がして、「そんだらこと言ってねえで、まだ捜索を続けてる消防と警察とこさ、女っこが見つかったとさっさと教えに行ったらいかっぺな」と老人たちを追い立てた。
「やっぱし、逢生の山には山桜の神様が住んでなさった」
「んだよ。逢生の山には山桜の神様が住んでなさる」
 老人たちの声が遠ざかっていった。
 しばらくして、環の胸に顔を埋めたままで、少女の文子が「ゆびきりしたの」と言った。
「誰と指切りしたの」と訊いた環に、「男の子」と少女の文子が答えると、「どんな指切り」と環が言った。
 どんな指切りをしたのか話そうとすると、鮮やかだった記憶がみるみる色褪せていった。セピア色にくすんだ記憶は、やがて色と形とを失って白紙のページだけが残った。ついさっきまで覚えていたはずの男の子の顔も名前も白紙のページに画かれてはいなかった。
 まぶたの裏に浮かび上がっていた映像が消えた。文子がゆっくりと目を開けた。
 視線の先には山桜の花しかなかった。文子は頭上に顔をむけたまま立っていたのだった。山桜の花が妖しげに揺れている。
 映像がみせてくれたのは、二十二年前の出来事だった。「あなたが思い出させてくれたのね」と山桜の花に語りかけたが、何も答えてはくれなかった。「忘れていた、遠い日の約束……」と呟いて、顔を戻した。
 二十二年前の出来事は事実だった。その記憶がごっそりと抜け落ちていたのが信じられなかった。二十二年前の出来事について口にする度に、母の環が不機嫌になり、「忘れてしまいなさい」と強い口調で叱られたからかもしれなかった。
 当時、文子は京都に住んでいた。茨城県のM市にある母の環の実家に春休みを利用して帰省したときに、登山を趣味にしていた両親に、茨城県の逢生山に連れて行かれたことを思い出した。京都に帰ってきて、いつもの日常を生きていく中で、神隠しにあった記憶が薄らいでいったのだろう。母の環が忘れるように仕向けていたのだから尚更だと思えた。逢生の里での出来事は二度と口にしてはならないと、子供心にも思ったのだろう。そうしていつのまにか記憶から消えていってしまったのだ。そういえばあの出来事を境にして、両親は登山をしていない。
「ねえ」という声で、文子は一週間前の回想から引き戻された。
「どうしてここに立っていると思う」と訊かれた。
「一週間前によみがえった、二十二年前の記憶に導かれてここに辿り着いた」と、文子は答えた。
「あなたの中に、忘れてしまったはずの二十二年前の出来事が映像となって浮かび上がったのよね。どうして、映像が浮かび上がってきたと思う?」
「満開の山桜の花の下に立ったから」
「山桜の花が映像を見せてくれたというのね?」
 文子が頷くと、「山桜の花が二十二年前の出来事と切っても切れない関係にあり、赤い糸で固く結ばれているのは確かよ。でも、山桜の花に映像を浮かび上がらせる力はない」
「だったら、わたしに映像を見せてくれたのは誰なの」
「あなたの心を覗いてみれば分かるはずよ」
 文子は自分自身の心へと下りていった。春霞にけぶった心は白く濁っていた。春霞を両手でかき分けるようにして、答えを求めた。二十二年前の出来事の映像にほだされた心に、白い山桜の花びらがひらひらと舞っていた。文子の黒髪に、そして肩に花びらが舞い落ちた。手を胸の前に突き出して、掌を上にした。掌に白い花びらが舞い降りた。ふっと息を吹きかけた。掌から虚空へと身を投げた花びらが舞い上がり、はらはらと落ちてきて、文子の唇に貼りついた。二十二年前の山桜の花との再会なので、鏡に向かった文子は唇を真っ赤なルージュで染め上げていた。二十二年前の山桜の花が、真っ赤な葉に映えていたからだ。唇に貼りついた花びらに舌先を伸ばした。舌先についた花びらを飲み込んで、「さあ、誰なのか教えなさい」と心に向かって言った。「二〇一一年三月十一日」と答えが返ってきた。
「二〇一一年三月十一日がとわたしをここに連れてきたと、わたしの心が教えてくれたました」と、文子が声にして言った。すると文子の心に絡まりついた糸が震え出し、「どうして、二〇一一年三月十一日が、あなたに二十二年前の出来事の映像をみせてくれたと思う?」と訊いた。
 文子が里山歩きを始めたのは、二〇一一年三月十一日を生きたからだというのは間違いなかった。が、二〇一一年三月十一日と里山とがどう結びつき、どうして二〇一一年三月十一日が文子を里山へと向かわせるのか、その理由が分からなかった。忘れ去っていた二十二年前の出来事を、鮮やかな色彩の映像にして見せてくれたのが二〇一一年三月十一日だとして、文子に何をさせたいのか、二〇一一年三月十一日の意図と目的とが分からなかった。そもそもが、二〇一一年三月十一日が文子にとってどんな意味があるのか、つかめないでいたのだった。ただ、文子の心を激しくゆさぶり、それまで考えたこともなかった、わたしはどう生きればいいのか、どう生きていきたいのか、という問いを突きつけてくるのだった。
「分からない……。分からないの」と文子が呟いた。
 糸が激しく震え出した。切れてしまいそうなほどの激しさだっった。
「文子、あなたはずっとあの男の子を追い求めていた」
 二〇一一年三月十一日から話が逸れてしまって、頭がついていけずに文子が「男の子」と訊くと、「そう、二十二年前にめぐり逢った男の子」と言った。
「忘れてしまっていたのに、ずっと追い求めていただなんて、おかしい」
「あの男の子が、あなたの初恋の男(ひと)だった。ううん、運命の男(ひと)だった」
「そんなはずはない」と、即座に文子は否定した。否定したはずなのに、何故か心が騒ぎ出した。
「だって、わたしは忘れてしまっていたのよ。初恋の男(ひと)なら忘れたりしないはずでしょ」と、文子が自分自身に問いかけてみた。
「文子、あの男の子は二〇一一年三月十一日とつながっている。だから二〇一一年三月十一日を生きたことで、あなたがずっと隠してきたあの男の子への恋心を、もうどうにも押さえつけて置くことができなくなったのよ。あなたは薄々、それに気づいている」と、声が終わると同時に、心に絡まりついていた糸が切れた。
 山の麓の方から、芽吹いたばかりのブナの若葉のスカートをめくりあげながら風が駆け上がってきた。若葉たちの華やいだ嬌声がする。目の前の曼荼羅の森がゆらゆらと揺れている。
 揺れが止むと、「お前が話していたのは誰じゃと思うか」と声がした。明らかに先程までの声と違っていた。年老いた女の声のようでもあり、年老いた男の声のようでもあった。
 文子が「山桜の花の神」と答えた。
「お前は、お前自身と話していたのじゃ」
「わたし自身……と」
「お前は、お前の心の奥深くに沈んでいる無意識と話をしていたのじゃぞ」
「無意識と?」と文子が訊くと「そうじゃ。無意識じゃ」と声の主が言った。
「文子、お前は意識と無意識の境に立っておるのじゃ。そして、意識と無意識の間で会話をしていたのじゃよ」
 声の主が言っていることが、分かるようで分からなかった。
「目の前に広がる曼荼羅の森も無意識の世界じゃ。じゃが、お前が会話していたお前の心にひそんでいる無意識の世界ではない。この逢生の里と逢生の森と山と、お前の無意識と、そして二十二年前にお前が恋した男の子の無意識とが混ざり合い、絡まり合って、共同で作り出したより高い次元の無意識の世界なのじゃ」
 文子が首を左右に振った。
「信じられないのは無理もない。じゃが、お前の心の奥深くにひそんでいる無意識の闇とは、お前であって、お前を超えたものじゃ。気の遠くなる森の記憶と繋がっており、お前が心を寄せる男の子の心の無意識とも繋がっておるのじゃぞ。人はそのことを忘れてしまったのじゃ。忘れてしまったから、意識だけが独り歩きを始めて、暴走を始めたのじゃな。この世にあって唯一無二の自我として切り離されてしまった人の意識は、主観と客観という二元論の認識という罠にはまって、客観的な事実だけを神として崇めるようになってしまったのじゃよ。そして、無意識の世界を殺してしまったのじゃ。だから人は今ここに立っているお前のように、意識と無意識の境に立つことなどできなくなってしまったのじゃな。愚かなことじゃ」
 声の主が一つ咳払いをしてから、「お前をここに立たしたのは、二〇一一年三月十一日だ」と言ってから、「そうじゃな」と訊いた。「はい」と答えると、「お前は、どうして二〇一一年三月十一日がここにお前を立たせたのか、知りたいのじゃろ。そして、二〇一一年三月十一日とはどういう意味があるのか、知りたいのじゃろ」と訊いた。
 文子が頷くと、声の主が「意味を知ることで、これからどう生きればいいか、どう生きたいのか、お前は分かるはずだと考えておる」と言った。
「そうです」
「それだけではなかろう」
「えっ?」と文子が声を上げると声の主が「正直になるのじゃ」と言った。
「山桜の花の下に立って、二十二年前の出来事の映像を見せられて、わたしはあのときにめぐり逢った男の子に恋をし、ずっと追い求めていたことに気づいたのです」
「よかろう」と言った声の主は一呼吸置いてから、「二〇一一年三月十一日の意味と、恋い焦がれる男を探し求める旅が、ここから始まるのじゃ」と言った。
 目の前の曼荼羅の森が騒ぎ出した。
「さあ、曼荼羅の森に入っていくのじゃ」と声で手招きした。
 文子が曼荼羅の森へと足を踏み出した。

【参考文献】
 湯浅泰雄
    『日本人の宗教意識』講談社学術文庫
    『身体論 東洋的心身論と現代』講談社学術文庫
    『ユングとキリスト教』人文書院
 今村仁司
    『近代の思想構造』人文書院
    『現代思想の基礎理論』講談社学術文庫
 ジョルジュ・バタイユ
    『宗教の理論』ちくま学芸文庫
 ハンナ・アレント
    『人間の条件』ちくま学芸文庫
 梅原猛
    『日本冒険 予言者の翼』角川書店 等々

※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

※下の写真は、小説の中の逢生山をイメージした、茨城県の高峰山です。六日前の日曜日に雪の高峰山を妻と歩いてきました。

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この記事に

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 https://www.youtube.com/watch?v=6mgmhHrCnss (農水委員長の解任決議案に対する賛成討論)

 政党にとってイメージは重要だと思う。
 イメージにはマイナスのイメージがあれば、プラスのイメージがあるのだろう。
 政党のイメージには、自らの政治的行動の結果によって作られるという能動的な側面と、国家権力や対立する政治勢力によって意図的に歪曲されて作られるという受動的な側面とがあるのだろう。
 日本共産党ほどイメージに翻弄されてきた政党はないのではないだろうか。
 マルクス主義を体現した政党として日本共産党の看板を掲げ、プロレタリアートによる社会主義革命を射程に入れた「労働者」の「前衛党」として自らを位置づけた戦前の歴史は、日本共産党のイメージを語る上で不可欠なものだろう。そして、国家権力の日常的なプロパガンダによって国民の意識の中に繰り返し刷り込まれた、日本共産党=アカ、非国民、国民の敵、国家破壊者、国家転覆等々のイメージと、共産党員であり作家であった「小林多喜二」の拷問による獄中死に象徴される、日本共産党への国家権力による凄惨を極めた弾圧の歴史もまた、日本共産党のイメージを語る上で不可欠だろう。
 今ここでそうしたイメージを掘り下げて検証するつもりはない。紙智子の「歴史的演説」の意味と可能性を考える上で、重要となるイメージだけをなぞっていきたい。

 良くも悪くも、日本共産党には「理論」と「論理」のイメージがついて回るのではないだろうか。マルクスの弁証法的唯物論の集大成である資本論をバイブルとするのだから、このイメージは避けようがないのだろう。
 実際、日本共産党議員の国会での質疑をみると、理路整然としたものであり、圧倒的な論理の鋭さばかりか、優れて戦略的であることが分かる。安倍晋三が日本共産党議員の質疑を毛嫌いし、一方で、国会中継をみる視聴者が拍手喝采する理由は、安倍の嘘を論理的に袋小路へと追い込んでいく、その論理の鮮やかさと戦略の巧みさにサスペンスドラマを凌ぐ迫力と面白さがあるからなのだろう。
 「理論」と「論理」のイメージは知的なものであり、それだけにいわゆる知識人にはいいイメージなのだろうが、一般的な国民の目にはどう映るだろうか。冷たくて固いイメージと結びつくのではないだろうか。国民の意識の底には国家権力によって刷り込まれた暴力革命とソ連の一党独裁のイメージと、戦前の日本共産党=非国民という悪しき洗脳の残滓が連れてくるイメージも消えずにある。
 「理論」と「論理」と繋がった冷たくて固いイメージに、戦前の国家権力によって国民の意識に植え付けられた、日本共産党=暴力革命=国家と秩序の破壊者という連想的等式が作り出すイメージとが重なり合ったときに、どのようなイメージへと転化したかに思いを巡らすことは、日本共産党にとって重大な意味があるはずだ。
 どのようなイメージへと転化したのだろうか。
 日本共産党は日本の古き良きものの破壊者であり、伝統と文化と故郷の自然と共に生きようとする日本人の暮らしの破壊者というイメージである。このイメージは、都市よりも地方で顕著になる。都市とは資本主義の本能である破壊によって増殖していくものだからだ。破壊には不感症にならざるを得ない。
 思えば民衆にとっては不幸であり悲劇である。
 が、見方を変えれば喜劇であり滑稽でさえある。
 真の破壊者とは資本主義であり、資本と手を握り形振り構わずに資本主義を推し進める自民党であるはずが、破壊者の役割を日本共産党が一手に引き受けて、真の破壊者を見えなくしてしまったのである。縦社会である村落共同体の長や地方のボスを手なずけて利権がらみにし、真の破壊者のはずが、自民党は、日本の古き良きものと、日本の伝統と文化と、日本の美しい故郷の自然と、その自然と共に生きる日本人の暮らしを守る政党の仮面を被ってきたのである。
 自民党は巧妙に民衆を欺してきたといえる。が、仮面を被ってきたから、自民党は保守党であるという演技もしなければならなくなる。仮面と演技のはずが、仮面と演技を本当の顔であり心だと信じて、真の保守主義を体現した政治家までが自民党に入党し、国会議員になってきたのが、日本のいわゆる保守党の歴史であり、自民党の歴史なのだろう。だから自民党は寄り合い所帯のような様相をみせ、派閥政治の温床になったのだろうが、だからこそ自浄作用があり、懐が深ったといえるのだろう。
 
 地方、とりわけ農村と漁村と山村に生きる民衆の心に、「共産党は日本の破壊者だ」という意識を植え付けた責任は日本共産党自身にもある。
 直接的な社会主義革命を党是として掲げていたときには、労働力を売る以外に何ものも持たない労働者(プロレタリアート)だからこそ先鋭的な革命戦士になれるという意識があったはずだ。旧態依然とした村落共同体の名残を残す閉鎖的な世界に生き、土地に縛り付けられて生きている農民は、当然に土地を守り体制を守る反革命とならざるを得ず、反動勢力の一翼を担うという理論的な公式に日本共産党は縛り付けられていたのではないだろうか。だから当然に農民と漁民と山の民へと向かう視線は冷たくなる。
 こうした視線は日本共産党だけのものではない。リベラル左派も同じである。リベラル左派の目には、西欧近代主義の自由と平等と民主主義を阻む頑迷な封建的温床と映るからだ。
 人間とは敏感な生きものだ。言葉で言わずとも相手の心は伝わるものなのである。農民と漁民と山の民が日本共産党を見る目も冷たくなるのは致し方ない。これは日本共産党の負の遺産だと思う。
 しかし、日本共産党は方向転換したのである。
 直接的な社会主義革命という手段を捨てて、議会制民主主義による社会主義社会の実現へと舵を切ったのだ。
 日本共産党には正の遺産もある。それは虐げられた人々=プロレタリアートという視点であり、虐げられた人々に寄り添い、虐げられた人々の解放を願い行動する心である。
 日本共産党が方向転換したときに、この正の遺産である「虐げられた人々=プロレタリアート」という等式が消えて、「虐げられた人々」だけが残ったと、わたしは考えている。
 利潤を求めて獰猛に膨張していく資本主義社会にあって「虐げられた人々」に寄り添い、その解放を目指すとはどういうことか。
 虐げられている労働者に寄り添うことはいうまでもないだろう。が、虐げられているのは労働者だけではない。日本共産党が寄り添ったのは、大企業優先の経済政策で路頭に迷う中小零細の経営者であり、公害で苦しむ人々であり、大資本の意のままに切り捨てられて土地を追われた零細農家であり、災害に見舞われて生きる術を根こそぎ失った被災者であり、性的マイノリティであり、差別社会を生きる被差別者である。どれも資本主義社会が生み出した弱者だ。虐げられているのは人間だけではない。自然も虐げられたものだ。

 もう一度日本共産党の負の遺産に戻りたい。
 自民党の息の根を止め、日本共産党が飛躍するには負の遺産を乗り越えなくては不可能だ、とわたしは確信している。
 形振り構わない経済のグローバル化に突き進めば、そのしわ寄せがモロに出るのは、農村であり、漁村であり、山村であり、地方の伝統と文化を守っている産業に携わって暮らしている人々だろう。どれもが虐げられた人々なのである。が、未だに日本共産党の負の遺産から解放されていない人々なのだ。そして、農村の暮らしと、漁村の暮らしと、山村の暮らしを破壊し、地方の伝統と分化を頑なに守ろうとする産業の経済的な基盤を根底から破壊している元凶である自民党を、頑迷に支えているのだ。これほどの倒錯はないだろうし、これほどの悲劇はない。
 わたしが観察するところでは、こうした虐げられた人々に、本気で寄り添い、守ろうとしている政党は日本共産党だけである。

 どうして紙智子の演説が「歴史的」な演説なのか。
 どういう可能性と意味があるのか。
 絶滅危惧種となった希少なる賢明な読者なら、もうお分かりだろう。
 日本共産党の負の遺産を、正の遺産へと変える「日本共産党宣言」なのである。
 宣言であるから通常は言葉で行われ、言葉を重視するものだが、紙智子の「日本共産党宣言」は違う。
 言葉を超えた心による宣言なのである。
 「理論」と「論理」の日本共産党の冷たくて固いイメージを、根底から払拭するものである。
 日本共産党は「理論」と「論理」だけではない。日本共産党には誰よりも、日本という風土で生きる人々の心に寄り添い、日本の美しい自然と共にあって生きる人々の暮らしと、そして伝統と文化とを愛する心をもっていることを、紙智子は言葉ではなく心でみせてくれたのだ。わたしの心の琴線は紙智子の震える声と共鳴し、紙智子の真心と通い合ったのである。わたしは溢れる涙をどうしようもなかった。
 是非とも紙智子の演説を聴いてほしい。
 この演説は何万遍の言葉よりも威力がある。真心は言葉よりも強い。農村と漁村と山村に生きる人々なら尚更である。
 日本共産党とはどういう政党なのか。言葉で説明するよりも、紙智子の真心が本質を伝えてくれるのだ。
 日本を破壊しているのは安倍政権と自民党だ。
 日本を守ってくれているのは日本共産党だ。
 そう紙智子の真心が伝わるはずだ。そのためには、日本共産党は全国の漁村にいって、「歴史的演説」をする紙智子の映像を見せてやるべきだ。選挙のときには、大漁旗を掲げて漁民たちが応援することだろう。
 漁村だけではない。農村と山村でも映像をみせるべきだ。日本共産党の負の遺産が、それだからこそ、衝撃に変わり、正の遺産へと転化し日本共産党の躍進へと駆け上るだろう。
 虐げられた人々の中にこそ、守るべき日本がある。そして、虐げられた人々に真心で寄り添い、虐げられた人々を守ろうとする日本共産党だから、誰よりも日本を愛しているという証明が成り立つ。
 実体のない妄想としての愛国心ではない。ナショナリズムでもない。だからこそ国家を超えた、日本的なるものへの愛となる。と、訳の分からないことを言って終わりにしたい。
 
 紙智子の「歴史的演説」とは直接的には関係しないが二点だけ論じておきたい。
 小林多喜二についてと、理性主義と知性主義についてだ。
 わたしが観察するところ、どうも日本共産党の周辺には小林多喜二を崇拝し、理性主義と知性主義に毒された人たちがいるようなので、JCPサポーターであるからこその苦言を呈したい。
 的外れの指摘で、良い意味での苦言にはならないかもしれないが、暇をみつけたら考えてみてもいいのではないかと思う次第だ。
 では始めたい。

〈小林多喜二について〉 
 国家権力による思想弾圧の凄惨さと、日本共産党員だった「小林多喜二」の拷問による獄中死の歴史的事実は、治安維持法と共に日本人の歴史的記憶として深く刻まれるべきだと思うが、日本共産党が「小林多喜二」を英雄視するとしたら、わたしは疑問視しないわけにはいかない。
 「前衛党」としてならいいだろう。が、「国民政党」を目指しているのならば、わたしは日本共産党にとってのマイナス・イメージに繋がると思う。
 自分の信じる思想を貫き通し、拷問に耐えながら獄中死する姿と精神は美しいのかもしれないが、わたしを含めた一般的な弱い心の国民からみたら、人間を超えたスーパーマンにみえるのではないだろうか。誤解を恐れずに言えば、思想と理論と論理に殉死する姿が、天皇陛下バンザイといって敵艦に突っ込んでいった特攻隊の少年兵の姿にオーバーラップしてしまう。
 思想と理論に生きて、思想と理論に殉死できる人間離れした日本共産党員、というイメージは「国民政党」へと脱皮するつもりならば致命的だと思う。
 わたしは文学を志し、実際に小説を十作以上書いているが、私小説の手法をそのまま踏襲して「私小説的政治」を画いたプロレタリア文学を否定している。したがって小林多喜二の小説も好きではない。革命へと民衆を導く「前衛党」としてなら小林多喜二を看板にすればいいと思う。が、「国民政党」に脱皮しようとするならば、小林多喜二ではあり得ない。だったら、他に日本共産党が看板に掲げるべき作家がいるかといわれれば、「国民政党」へと脱皮する日本共産党に相応しい作家がいる。プロレタリア文学の周辺にいて『二十四の瞳』と『母がない子と子のない母と』を書いた壺井栄だ。夫はプロレタリア文学運動に加わっていた詩人の壺井繁治だ。
 壺井栄の小説はプロレタリア文学ではない。が、竹内好が唱えた国民文学に相応しい。
 本人に叱られそうで恐縮だが、わたしは日本共産党の衆議院議員の高橋千鶴子に壺井栄の面影を重ねている。容姿は似ていないのかもしれないが、身体から醸し出される雰囲気というか、匂いというか、色というか、そうした共通性を感じるのだ。遠い子供の頃にいだかれた、冬の日だまりのような懐かしい匂いがする心が、壺井栄と高橋千鶴子には共通しているのだろうか。紙智子の心にも同じ匂いを感じてならないのだ。
 壺井栄の心は、人間の弱さと弱者へと向き合うものだ。だからこそ反戦と平和を誰よりも求めるのだろう。壺井栄の生まれ故郷である小豆島へと注ぐ愛が、『二十四の瞳』と『母のない子と子のない母と』には満ちあふれている。高橋千鶴子と紙智子の心もまた故郷への愛を抱いている
 国家権力と対立する政治勢力によって、「暴力革命」と「一党独裁」が強調され、更に党の「理論」と「論理」に絶対服従であり、党のためには殉死も厭わないというイメージが作られてきたのだが、このイメージを極端に膨らませれば、日本共産党はマルクス主義に命を捧げて一枚岩(独裁)となった顔のない(没個性)、非人間的な政治集団だとなるのだろうか(笑)。
 しかし、現実の日本共産党はこのイメージと真逆である。
 小池晃書記局長をみればこんなイメージは雲散霧消するはずだ。今や小池晃書記局長には党派を超えた熱烈なファンがいることだけをみても明らかだろう。国会周辺のデモに行ってみれば分かる。小池晃書記局長が演説すると、晃コールが鳴り止まないのだ(笑)。
 小池書記局長だけではない。日本共産党の国会議員は誰もが個性的である。個性的だから少ない議員数であるのに存在感が半端ではないのだ。
 上に国家権力によって捏造された日本共産党のイメージを述べたが、このイメージはカルト宗教である日本会議に乗っ取られた自民党にそっくりそのまま当てはまるから不思議である。今の自民党こそまったくの没個性集団であり、何処を切っても同じ顔が出てくる金太郎飴だ。そして完全に一枚岩である。自民党議員は安倍政治を維持するための単なる数でしかないのである。

〈理性主義と知性主義について〉
 理性か感覚か、知性か感情か、というカビが生えた二元論的な発想に疑問を感じないとすれば、余程の不感症だろう。
 この発想は西欧近代主義の自我論から必然的に導かれたものだが、自我論の延長にある機械論に支配された世界である現代社会では、理性と感覚と、そして知性と感情とが、それぞれの中で細切れに分解されて統一性を欠いたものとなっている。理性と感覚との統一性を言っているのではない。また知性と感情との統一性を言っているのではない。理性それ自体がバラバラに分解されて分裂したものとしてあるのだ。感覚も同じだ。理性と感覚とがそれぞれの中で分裂しているのだから、理性と結び合った知性が分裂し、感覚と結び合った感情が分裂することになる。
 統一性を失うことを、わたしは人間性の喪失と呼び、人間性の破壊と呼びたい。
 機械論に支配された現代社会においては、理性か感覚か、知性か感情か、という設問は本質的なものにはなり得ないのである。
 理性と感覚とが、そして知性と感情とが、それそれの中で分解されて、機械的な部品としてしか存在できなくなっているからだ。本来は機械論では捉えられないはずの感覚と感情までが、機械論の発想でバラバラに分解され、機械の部品として分析(心理学、医学、細胞学等)されるとしたら、それは感覚と感情の解体を意味し、感覚と感情の破壊を意味するのではないだろうか。
 西欧近代主義の自我論は、理性によって自然的感情を制御することで初めて、動物を超えた「人間性」の領域に辿り着き、理性的に行動することで、「互いによる闘争」(自然状態)から脱せられるという考えが基本にあるのだろうが、現代では、制御という地点をはるかに飛び越えて、機械論に支配された人間の理性は、感覚と感情を機械的に分解し、解析することによって、感覚と感情を「征服」できるという妄想に取り憑かれてしまったのだろう。
 仮に感覚と感情をバラバラに分解し、部品毎に解析できたとして、その部品の集合体を人と呼べるのだろうか。西欧近代主義の自我論では自然的感情は動物の領域なのだから、その集合体を人と呼ぶ必要性はないのかもしれない(笑)。
 しかし、ここで見落としてはならないのは、機械論によって支配された現代社会では、人間そのものともいえる理性自体がバラバラに分解されていることだ。細切れに分解されて機械的な部品となった理性が、統一性と方向性を欠いたまま、バラバラの部品となった感覚と感情を征服しようとしている点だ。
 機械的にバラバラな部品となって統一性と方向性を欠いた理性に、果たして自然的感情を制御できるのだろうか。制御しようにも理性それ自体に、統一性と方向性がないからだ。
 制御できるとしたら、心理学的な手法を取り入れた心的虐待と訓練(テロ組織のキャンプでのテロリストの養成)によるか、カルト紛いの宗教によるか、情報操作とプロパガンダによるか、明治維新政府が行った教育勅語のような洗脳教育によるか、になるのだろうが、そうした手法を理性というならば、わたしは否定しない。優れて理性的だと思う。しかし、その理性は統一性と方向性を失ったニヒリズムそのものだろう。理性が圧倒的な暴力になってしまうのだ。互いによる闘争と暴力へと向かう自然的感情を制御するはずの理性が、圧倒的で残忍な暴力になるというのは皮肉でしかないが、ナチスが理性の暴力性を余すことなく見せてくれている。
 この統一性と方向性を失った理性のニヒリズムは、科学の「進歩」にそっくり投影されている。科学は常に「真理」を向いていると信じられているが、その「真理」に統一性と方向性がないとすれば、細分化された科学が向かう「真理」はバラバラになるだろう。何のために統一性がなく方向性がないバラバラの「真理」を追い求めるのか。「真理」という知識を得るためであり、「真理」という知識を得ることが目的となってしまっているのだ。
 わたしは抽象的な空論を言っているのではないつもりだ(笑)。
 人間が一つの機械として対象化され、バラバラな部品として分解されて、その仕組みが解析されているというのが現代社会の実相だろう。
 解析を行っているのが、分解し細分化されて、それぞれの専門分野に特化した科学によってなされているのだが、分析されているのは肉体と感情の「機械的」な仕組みだけではない。理性も「機械」としてみなされ分析の対象となっているのだ。人工知能とは正しくそうした発想と過程から生まれたものだろう。

 西欧近代主義の自我論と不可分に結びついた機械論は、考えてみると恐ろしいものだ。
 人間だけが神から授けられた理性までも機械的に解析しようとするのだから、神への冒涜以外の何ものでもないだろう。理性を絶対化した時点で「神が死んだ」という意味が分かろうというものだ(笑)。
 西欧近代主義は理性と自然的感情を分離させただけで飽き足らず、理性と感情のそれぞれを更にバラバラに分解し、機械的に解析しようとするのだから、一つの生命体としての有機的な人間は解体されてしまったことになるのだろう。分解され解体されて統一性を失った人間は、部品の集合体である機械となったのだ。
 西欧近代主義が開花する以前は、原子論という機械論の哲学はあったが主流にはなり得ず、理性と感情は分離されたものとして把握されてはいなかったのであり、理性と感情の理想的な統一は哲学の重要なテーマであったはずだ。如何に生きるべきか、とはそうした本源的な問いなのだろう。また理性と感情とがキリスト教の世界観の中に幽閉されていたことも理性と感情との統一性を保てていた理由の一つなのだろうし、村落共同体の中に理性と感情とが封じ込められていたことも理性と感情との統一性を保てていた理由なのだろう。
 西欧近代哲学が理性を解放し、理性を真理と結びつけて絶対化したときに、理性の暴走が始まり、理性にとってあらゆるものが物としての対象となり、機械論の支配する世界となったのだろう。
 皮肉なことに、理性の解放が哲学の凋落と終焉を呼び寄せたのだから笑い話にもならない。
 あるべき方向性と統一性を志向する哲学の終焉が理性の細分化へと導き、細分化された理性は科学と名称を変えて歩き出したはいいが、方向性と統一性を失ってしまっているとすれば、細分化された科学はどこへいくか分からず、それぞれが勝手な方向へと歩き出すのではないか、とわたしは危惧するのだが、こんなことを言うと嘲笑されてしまうのが現代社会なのである。科学は人類の進歩と幸福と、そして何よりも真理を向いているのだから、歩いて行く方向は同じであり、その意味で統一性があると、当たり前のこととして反論されてしまうのである。
 科学が真理に向いており、日進月歩で進歩していることは認めよう。が、果たしてそれが人類の幸福に無条件に繋がっているのだろうか。
 原発とは科学が「真理」という知識を求めた結果として生まれたものだが、原発を生み出した直接的な責任は科学にはなく、「真理」という知識を応用した産業資本主義に責任があるというのは簡単だが、原発はほんの一例だ。
 わたしは根本的な元凶は、統一性と方向性を欠いた科学の野放しにあると思うのであり、統一性と方向性こそが、暴走する科学を自省させるものだと思うのだが、この点についての思索はまだ未熟な段階でありこれ以上は論じないが、わたしの文学的「直観」は、この統一性と方向性は、「大浦湾には龍神様が住んでいる」という沖縄の心の可能性にも関係し、日本共産党が思い描く「独自」の社会主義社会(今まで何処にも存在しない社会)とも関係してくると教えてくれている。
 最後にまたハンナ・アレントの『人間の条件』(ちくま学芸文庫)から引用して終わりたい。

「現代に生きる私たちだけが、それもほんのここ数十年の間に、科学技術によって完全に決定されている世界になった。しかも、その科学技術の客観的真理と実際的な知識は、地球の『自然的』法則ではなく、宇宙の普遍的法則から引き出されている。そして現代の科学技術では、地球の外部に引証点を選ぶことによって得られた知識が、地球の自然と人間の工作物に応用されているのである。(中略)近代と私たちが住むに至ったこの世界とを区別する明確な一線はどこにあるか。その違いの一つは科学に現れている。近代の科学は、宇宙的観点から自然を眺め、その結果、自然にたいして完全な支配権を獲得した。これにたいし、今日の科学は、真に『宇宙的な』科学であって、あえて、自然を破壊し、それと共に自然にたいする人間の支配権をも破壊するという明白な危険を冒してまで、自然の中に宇宙過程を引き入れている。
 この場合私たちの心を最も深くとらえているのは、もちろん、巨大にふくれあがった人間の破壊力である。この破壊力を用いれば、地上の有機体生命はすべて破壊され、おそらくは地球そのものさえ一日で破壊されてしまうだろう。しかし、それに劣らず扱いにくいものは、この破壊力に匹敵する新しい創造力である。すなわち、私たちは、自然にけっして見られない新しい元素を生産でき、質量とエネルギーの関係や両者の同一性について推量できるだけでなく、実際に質量をエネルギーに転換し、放射線を物質に転換することができるのである」

※以上の論考は、今村仁司『近代の思想構造』(人文書院)の影響を受けている。
 これから四月までは小説『三月十一日の心』の執筆に専念したい。気が向いたら気分転換に、エッセー風のブログを書くことがあるかもしれない。
 小説『三月十一日の心』は完成途中でも、細切れにブログで公開するつもりだ。
 紙智子の「歴史的演説」について書いてきたが、保守主義についてもう一度自分なりに整理する意味で、カール・マンハイムの『保守主義的思考』(森博訳・ちくま学芸文庫)を読むことにした。
 合わせて下記の書物をAmazonで注文した。今のわたしがどんなことに興味をもっているか、参考までに記しておきたい。当然に小説『三月十一日の心』を書くための肥やしである(笑)。
 今村仁司『現代思想の基礎理論』(講談社学術文庫)
 見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫)
 湯浅泰雄『日本人の宗教意識』(講談社学術文庫)
 今村仁司『現代思想の基礎理論』(講談社学術文庫)
 ジョルジュ・バタイユ『宗教の理論』(ちくま学芸文庫)
 萱野茂『アイヌ歳時記』(ちくま学芸文庫)
 アントニー・D・スミス『ナショナリズムとは何か』(ちくま学芸文庫)

※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

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 https://www.youtube.com/watch?v=6mgmhHrCnss (農水委員長の解任決議案に対する賛成討論)

 前回で保守主義批判をしたが、自由主義に絞った批判をしていない。
 紙智子の「歴史的演説」を具体的に検証する前に、自由主義を考えてみたい。そして、紙智子の「歴史的演説」と深く関わってくる、マルクスの資本主義批判における重要な視点に触れておきたい。

 グローバリズムに焦点を当てると、リベラルの限界と自己矛盾がみえてくる。
 グローバリズムには、政治的グローバリズムと経済的グローバリズムとの境界線があるのだろう。
 しかし、境界線ははっきりしているようで曖昧であり、支離滅裂でもある。
 EUからのイギリスの離脱については、日本のいわゆるリベラルは不快感を隠そうとしない。二度の世界大戦が欧州内部での歴史的な反目と覇権主義によって引き起こされたことを踏まえて、イギリスが再び一国主義に後退する危険性を敏感に察知しているからなのだろう。EUでは経済的な停滞による失業率の高まりと、富の偏在による格差の拡大とが移民問題に絡められて、ナショナリズムの空気が熱を帯び、フランスといわず、ドイツといわず、極右勢力の台頭が目覚ましい。政治的グローバリズムへと振れた振り子が反転して、差別的で狂信的なナショナリズムへと振れようとしているかにみえる。日本のいわゆるリベラルは、こうした悪夢の再現を憂慮しているのだろう。
 日本のいわゆるリベラルに訊いてみたい。
 そもそもが、経済的グローバリズムと政治的グローバリズムを切り離して、政治的グローバリズムだけで成り立ち得るのだろうか、と。
 どんなに美辞麗句を並べてEUの理念を高く掲げたところで、本質的には、EUは政治的グローバリズムと経済的グローバリズムがセットになったものだろう。別の言い方をすれば、いかがわしい西欧近代主義という闇の中から、都合がいいものだけを掬い上げて、未来の世界を「支配」すべき普遍的な理念であり、価値観であり、世界観として謳い上げたものだ、とわたしは考えている。わたしはEUという方向性に、世界のあるべき未来を託すことはできない。そして、必然的に破綻するだろうとみている。
 経済的グローバリズムの結果が、生活基盤の破壊であり、伝統と文化の破壊であり、格差社会の出現なのだから、経済的グローバリズムを阻止するには一国主義しかないという発想を連れてきたとして、その発想を理性的ではなく、優れて感情的なものであり、安易な発想だと罵ることは簡単だ。が、わたしはこうした発想は自然なものであり、むしろ、西欧近代主義が宿命的にもつ病魔だと認識している。
 資本主義の本質はグローバリズムにあり、グローバリズムこそ資本主義の意思であり本能ではないのか。
 形振り構わずに、経済的グローバリズムが膨張を続けている。資本主義がこの世から消えて無くならない限り永遠に続くだろう。
 経済的グローバリズムが膨張していく過程で、政治的にみれば、インターナショナリズムに振り子が振れたり、反転してナショナリズムへと振り子が振れたりしたのが、西欧近代主義の歴史だった、とわたしは思う。
 欧米列強の植民地政策と、その反作用である独立運動と民族解放闘争もこの文脈で理解されるべきだろう。経済的グローバリズムが中東とアジアとアフリカに生きる人々の生活基盤を根底から破壊し、伝統と文化と社会的構造を徹底的に破壊した反動が、汎アラブ主義を産み落とし、独立運動と民族解放闘争と結びついたナショナリズムを産み落としたのである。反作用が、西欧近代主義の専売特許である「国民国家」と「民族」という概念によってなされたのは皮肉としかいえない。反作用であるから、西欧近代主義を鏡に映した姿になってしまうのだろう。
 わたしはIS(イスラム国)も同様に、経済的グローバリズムの反作用によって出現したと考えている。どうしてISはおぞましい貌をしているのか。ISが新自由主義を鏡に映したものだからだ。イスラームの仮面を被っているが、内実は新自由主義が体現する暴力的で残忍なニヒリズムそのものだろう。

 資本主義はグローバリズムが本能だから、政治的体制が変わっても、経済的グローバリズムに終焉はない。
 経済的グローバリズムをインターナショナリズムというオブラートに包んで行うか、ナショナリズムという凶暴な貌を持つ国家を後ろ盾にして行うかの違いだけだろう。
 不幸なのは国民である。インターナショナリズムであれ、ナショナリズムであれ、どちらも西欧近代主義の胎内から産み落とされたものであり、本質は変わりはないのだが、政治的スローガンと上辺の国家の姿(体制)が変わるから、コロッと欺されてしまうのだ。本質は同じだということが見抜けなくなってしまうのである。アメリカの二大政党制と同じである。誤解を恐れずにいえば、その意味では、オバマとトランプは同じだと言うのであり、背中合わせの関係だと言うのだ。
 本質は同じなのに、いわゆるリベラルは、インターナショナリズムに振れた振り子が、ナショナリズムへと振り戻されたことを反動といい、この世の終わりだと喚くのだろう。その一方で、中東やアジアの植民地からの解放闘争である「下からのナショナリズム」には拍手喝采を贈るのだ。
 わたしからみれば、インターナショナリズムもナショナリズムも共に西欧近代主義の申し子だから、どちらも間違いなく人類を破滅へと向かわせると確信しているのだが、そんなことを言うと、いわゆるリベラルからわたしは気が狂っていると罵られることになるのである(笑)。
 但し、偏狭的で差別的なナショナリズムが直接的に戦争へと結びつきやすく、破滅への速度を加速するのを否定しない。したがって、わたしは偏狭的で差別的なナショナリズムを全面的に否定する。が、偏狭的で差別的なナショナリズムだけでなく、温和なナショナリズムも否定するし、いわゆる「下からのナショナリズム」も否定する。「下からの」ナショナリズムを駆動力にした解放闘争は、解放が成就されると、「上からの」ナショナリズムへと容易に変わり得るからだ。
 インターナショナリズムとナショナリズムは裏表の関係であり、インターナショナリズムが裡に隠し持つおぞましい本性を剥き出しにしたのがナショナリズムである、とわたしは断言したい(笑)。
 西欧近代主義そのものを批判し、西欧近代主義を乗り越えて、新たな世界へと移らない限り、EUで繰り広げられている、インターナショナリズムと偏狭的で差別的なナショナリズムとの間の振り子運動は永遠に避けられないだろう。
 いわゆるリベラルには、西欧近代主義が隠し持つおぞましい本性が永遠にみえないのかもしれない。
 西欧近代主義の核にある自我論は、優れて差別的であり、偏狭的な本質をもっている。人間の内面にある理性と自然的感情を二元論的にみて、自然的感情は動物一般に特有のものであり、理性こそが神が人間だけに与えたもので、人間と動物を分けるのは理性的であるかどうかだとすれば、理性的でない人間は人間ではなく、動物に近い下等な生き物という発想に結びつく。
 人間を進化の頂点とする人間至上主義のはずが、西欧で生まれた理性神話であるだけに、ヨーロッパ至上主義に転化するのは容易に分かるだろう。ヨーロッパの伝統と文化が最高のものとなり、ヨーロッパ以外のアジアやアフリカの伝統と文化は、西欧的理性とは無縁の未開のものであり、人間の伝統と文化とは呼べないとなるのもまた理解できるだろう。
 だからアメリカに渡ったヨーロッパの白人が、先住民を殺戮することに何の疑問も抱かなかったのだろうし、オーストラリアに島流しになったヨーロッパの白人の囚人たちが、アボリジニを動物に見立てて狩りをして遊ぶというおぞましい心へと繋がったのだろう。
 黄禍論というものがある。西欧近代主義が黄色人種をどうみていたかが垣間見える。黄禍論は、ヨーロッパの白人によるアジアの黄色人種に対する差別意識の産物であり、アジアという未開の人種に対する恐怖心の表現である。
 一方でその反作用であるアジア主義は、黄禍論と不可分に結びついたものだと思う。しかし、反西欧主義のはずが、一神教的国家神道の世界観でアジアを眺め、日本こそが絶対的な神を頂く神国であり、アジアの盟主であり、アジアの家父長だとなるとほとんど狂気の世界となる。
 あろうことか、日本こそが欧米の最新技術を真っ先に取り入れた、今や西欧列強に勝るとも劣らない「西欧近代主義」を体現した大国だという主張になり、その先に西欧近代化が遅れている朝鮮と中国を頑迷だといって蔑み、差別するとなると、「西欧近代主義」に喜んで跪く、屈折したいじましい奴隷根性だといえないだろうか。
 そもそもが日本の律令国家とは朝鮮半島から「国家」の概念を携えて大量に移住してきた者たちによって作られたものであり、『古事記』の神代期は、縄文人を朝鮮半島から移住してきた弥生人が征服していった神話なのだが、韓国を目の敵にして盲目的に差別するいわゆる日本の右翼と保守は、余程のマゾヒストだと思う(笑)。
 自虐史などと喚いているが、自分たちの画く歴史こそが正真正銘の自虐史観で塗り潰されたものだろう。自分たちが神と虚構する天皇のルーツを、口汚い言葉で罵り否定しているのである。そればかりか、黄禍論というアジアと日本人を差別した「欧米という白人」には、何も言えないのである。安倍晋三に至っては千切れるほど尻尾をふる犬にまで成り下がっている。見苦しい限りであるが、それで保守だ、右翼だというのだから世も末である。一昔前なら知識階級に属していたはずの大手の新聞とテレビのジャーナリストたちまでが、韓国と中国に対する差別意識に毒されきっているのだから救いようがない。
 日本にいる保守と右翼の99パーセントが偽物であり、右翼と保守を名乗る自称「知識人」は「商売のため」に右翼と保守の看板を掲げているのであり、それだけに、安倍晋三のヨイショが日増しにえげつなくなってきている。

 日本の左翼はフランス革命への心情的な傾斜が強く、日本のリベラル左派はフランス革命で高らかに掲げられた自由・平等・博愛をあるべき人間の普遍的な理念として信じているのではないだろうか。
 しかし、フランス革命が自由・平等・博愛の三色旗へとフランス国民の心を熱狂的に収斂させるナショナリズムを内包している事実を見落としていないだろうか。フランス革命の後に、テロル政治が吹き荒れたことも見落としてはならないだろう。
 また一方で、自由・平等・博愛を国家理念としたアメリカの建国が先住民の凄惨な殺戮によって成った歴史的事実をどう解釈すればいいのだろうか。上述したように、西欧近代主義の正の側面であるはずの自由・平等・博愛には、黄禍論といった人種差別的な発想が内在されていたのではないのか。
 9・11は象徴的である。報復を誓ったアメリカ国民の心が星条旗へと真っ直ぐに向かって燃え上がり、そして、無差別的なアフガニスタンへの空爆へと雪崩れていったのだ。アメリカだけではない。パリでの爆破テロへの報復を叫んで、自由・平等・博愛の三色旗を振りかざしながら、フランス国民はシリアへの無差別的な爆撃を行った事実を忘れてはならないだろう。
 いわゆるリベラル左派は、西欧近代主義の自由・平等・博愛を疑ってみる視点を見失ってしまっているとしか思えない。これは不幸である。
 自由とはなにか、平等とは何か、という疑問を、西欧近代主義を超えた本質的な地点から発するべきだ、とわたしは思っている。
 西欧近代主義の土台としての価値観と世界観の枠組みの中で、自由と平等を理解するということを根底から疑うべきときなのではないだろうか。
 いわゆるリベラル左派は、国家主義は自由主義とは反対の概念だと思っているのかもしれないが、国家主義もりっぱな自由主義である。自由主義という枠内での差異であり、国民国家という枠組みの中での左か右かの立ち位置の違いでしかない。自由と平等は資本主義のイデオロギーとしての側面もあるのだ。

 それよりも何よりも、西欧近代主義の二元論的な自我論を核とした自由と平等で果たしていいのか、という本質的な問いこそが重要だろう。
 残念ながら、いわゆるリベラルにはこの視点がまったくない。
 自我論から導かれる理性によって自然的感情を抑制し完全にコントロールすることが、果たしてあるべき人間性に通じるのだろうか。基本的人権とも深く関わるものであり、それ以前の人間とは何かという本源的な問いだけに回避していいはずがない。
 理性を絶対的に信じる西欧近代主義の自我論は、機械論と密接に関係している。そして、理性と結びついている科学への信仰へと横滑りし、人間の世界と社会を科学を基礎とした機械論で覆い尽くしていったのだ。
 わたしは文学の心をもっていると自認している者だから、西欧近代主義の自我論と機械論には胡散臭さを禁じ得ないし、本源的な意味での人間性の破壊にみえてしかたがないのだ。
 ニーチェとバタイユに接近していったのは、文学的な心をもっているわたしであれば必然的なことだ。二人とも優れて文学的であり、文学的な方法で西欧近代主義の自我論と機械論の解体に挑戦したからだ。
 学生時代のわたしはマルクスにも接近した。今にして思えばマルクスへの接近は、経済理論としての資本主義批判ではなく、人間疎外としての資本主義批判であったことが分かる。今のわたしにはマルクスの経済理論は色褪せたものでしかなく、実際に否定もしている。わたしがマルクスの意思を受け継いでいるのは、資本主義が宿命的にもつ人間疎外の本質である。そして、この本質は資本主義と一体となった西欧近代主義の自我論と機械論の結果であり、だから宿命的なものだ。
 ハンナ・アレントはマルクスが看破した人間疎外の先に、世界疎外を見抜き、更に自我論と機械論の到達地点を地球疎外だと見抜いている。人間だけに神から授かった理性を絶対化し、理性以外のすべてを対象である物としてみる視点が、だからこそ人間中心主義に繋がり、自然破壊はいうに及ばず、自分の内面にある自然的感情までも破壊するに至ったのだろう。人間疎外とはそうしたものだ。

 経済的グローバリズムを本質としてもつ資本主義であり、絶えず自己増殖し拡大していく本能をもっているのだから、資本主義の価値観と世界観で世界が一色に塗り潰されていく必然性がある。価値観と世界観を単一で一元的なものにしていくには、個別的なものを破壊していくしかない。その破壊過程が、西欧近代主義と資本主義にとってみれば、自由で平等な市場開放の歴史であり、人間の理性を野蛮社会から解放する歴史になり、人類の普遍的理念である自由と平等と民主主義へと野蛮社会を導いていく輝かしい発展の歴史となるのだろう。
 わたしにはその過程が、個別的であり、風土的であり、地域的多様性に富んだ自然と、その自然と密接に結びついた人間の複雑な自然的感情を単純化し、無理矢理に地ならしする破壊行為にしかみえない。自然的感情は文学とも芸術とも、そして文化と伝統とも深く繋がっているものだ。
 「大浦湾には龍神様が住んでいる」という沖縄の思いは、破壊過程の中で、野蛮なものとして西欧近代主義の理性によって否定されてきたのではなかったか。
 西欧近代主義の自我論の先にある自由と平等では、根本的には、「大浦湾には龍神様が住んでいる」という沖縄の思いは掬い取ることは不可能だろう。理性を核とした人間中心主義だからだ。「大浦湾には龍神様が住んでいる」という沖縄の思いは、大浦湾の美ら海は人間だけのものではなく、美ら海に生きる生きとし生けるもののものであり、その美ら海を龍神様が守ってくれており、だからいつまでも美しく豊穣であり続け、人にもその恵みを分け与えてくれているという、生きとし生けるものへの温かな眼差しに貫かれているのだろう。わたしはこの沖縄の思いを、人間中心主義ではない、可能性としての生きとし生けるものの命と結びついた自由と平等だと思っている。西欧近代主義のいう自由と平等ではない。自我論と機械論と人間中心主義を否定した先の自由と平等だからだ。
 日本共産党にはリベラルにはない、マルクスの人間疎外の視点がある。
 わたしにはその人間疎外の視点が深化しているとみえるのだ。どう深化しているかというと、「大浦湾には龍神様が住んでいる」という沖縄の心に寄り添う方向へだ。だから、現状の日本の政党の中では日本共産党しか、「大浦湾には龍神様が住んでいる」という沖縄の思いを掬い取れはしないと思えてならないのだ。
 どうして日本共産党が保守主義「的」にみえるのか、そして、どうしてわたしの心が日本共産党へと吸い寄せられていってJCPサポーターになったのか、その謎を解く手掛かりがマルクスの人間疎外にあり、その反映が紙智子の「歴史的演説」へと繋がったのだと直観しているのだ。

 今度こそ、紙智子の「歴史的演説」に沿って具体的に、わたしの「直観」を形にしようとしたのだが、無理のようだ。次回は必ず完結するつもりだ。

※小説はキンドル版の電子書籍として出版しています。
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 https://www.youtube.com/watch?v=6mgmhHrCnss (農水委員長の解任決議案に対する賛成討論)

 年が明けて十三日になる。
 年末までに書き切るのを断念した表題をどうにかしなければならないと思いつつ、生来が怠け者なのでここまで先延ばしにしてしまった。
 十日を過ぎて新年の挨拶をするのは憚れるが、ブログを訪問してくれる、今では絶滅危惧種となった貴重な読者に対して、挨拶をしない非礼は許されないだろう(笑)。
 今年は皆様にとって良き年になることを祈りします。そのためには、社会の癌である安倍晋三を一刻も早く政界から葬り去り、願わくは牢獄へと直行させなければなりません。そして、歴史的演説をした紙智子の骨折が完治し、合わせて日本共産党の圧倒的な躍進を祈ります。
 日本共産党の圧倒的な躍進こそが、安倍晋三を日本社会から葬り去るために絶対的に必要だからだ。最早、安倍晋三とは単なる固有名詞ではない。日本社会を蝕む「安倍晋三的なるもの」の象徴だ。「安倍晋三的なるもの」は現代日本の構造的な病魔なのだ。

 先延ばしにしていたのは生来の怠け者という理由ばかりではない。紙智子の演説を聴いたわたしの中に、「この演説は歴史的意味を持つ」という思いが閃いたのは、「理性」による結果ではなく「直観」だったので、「直観」を論理的に説明するのが難しいからだ。そればかりか、わたしの「知識」と「知性」とが圧倒的に貧弱なので余計に困難となる。
 自由主義と保守主義と、そして西欧近代主義などという大それたことを論じようとするのが、そもそもが無謀なのだろう。それを敢えてやってしまうのが、わたしの悪癖なのではあるが、正直に告白すれば、わたしの思い込みで自由主義と保守主義とを論じてしまっている側面は否定できない(笑)。
 特に保守主義であるが、学生時代に橋川文三のゼミに所属し、講義の中で橋川文三から聴いた、保守主義は西欧近代主義の反作用であり、西欧近代主義を起源としたものだという言葉が、執拗に頭にこびりついていたので、その言葉に導かれるままに保守主義を極端に、そして偏狭的に、またあるときには恣意的に、解釈していたと自己批判すべきなのだろう。橋川文三のこの保守主義の定義はカール・マンハイムの『保守主義的思考』を下敷きにしたものなのだろうが、恥を忍んで告白すると、わたしは『保守主義的思考』を読んでいない。本棚を探索してもみつからなかったのだから、読んではいないのだろう。その記憶すらない(笑)。
 橋川文三から勧められて『イデオロギーとユートピア』(未来社・鈴木二郎訳)は読んだ記憶があるが(本棚を探したら見つかった)、これも正直に告白すると、ただ読んだだけで理解とはほど遠いと胸を張って断言できる。
 ドイツロマン派の理解は、西欧近代主義における自我論(西欧近代的な意味での自我)からのアプローチなくしてあり得ないはずだが、それでありながら、りっぱな保守主義ではある。西欧近代主義の反作用であるから、逆説的に、西欧近代主義の魂を裡に抱きかかえてしまうのだろう。
 わたしは『里山主義』を提唱し自らを保守主義と名乗っているが、それは西欧近代主義の「土台」である世界観(世界像)と価値観を「根底から」乗り越えようとしているからだ。が、西欧近代主義の反作用であることだけを踏まえれば、西欧近代主義を構造づけている「土台」ではなく、西欧近代主義のある「部分」、もしくは構造の「一部」への反作用による思想的な潮流も広義の「保守主義」になるのだろう。
 たとえば戦前の「近代の超克」という思想だが、わたしはこれまで西欧近代主義による西欧近代主義の超克であり自己矛盾だと指弾し、「保守主義」とは認めてこなかったのだが、これもりっぱな「保守主義」になるのだろう。その意味では、高山樗牛の西欧近代主義を裏返した「日本主義」も「保守主義」といえることになる。
 しかし、どこかで線引きをしないと、「保守主義」という思想には、日本会議などという得体の知れないカルト的な宗教運動までが入り込んで、糞味噌一緒の混沌としたものになってしまい、本来は「保守主義」が持っているはずの重要な意味と可能性がみえなくなってしまうことになるだろう。
 わたしは以前、ブログで、現代においては保守主義と革新主義(もしくは自由主義)が意味を失ってしまっており、それぞれが二つに分離したのちに、新しい世界観と価値観と新たな「対立軸」で再編され、結合するだろうことを書いた。言葉の厳密な意味での「保守主義」は、日々再生産され自己増殖されていく、西欧近代主義を構造づけている土台としての価値観と世界観(世界像)によって、西欧近代主義の枠組みの内部に取り込まれてしまって、「保守主義」が誕生した原初の姿と意味とが変質してしまっていると思うからだ。「保守主義」だけではない。西欧近代主義と一心同体である「自由主義」も同様である。

 安倍晋三と日本会議は保守主義か、などという問いを発することに、この今という混沌とした政治的な状況において、何の意味があるのだろうか。また、民進党の枝野幸男が「民進党は保守本流だ」などと口にすることに何の意味があるのだろうか。
 保守主義と自由主義が意味を失ってしまった現代においては虚しい戯れ言でしかないだろう。
 枝野幸男は、保守本流である証明と政治的アピールが目的で、年明け早々に伊勢神宮に参拝したのだとしたら、これほど保守主義が無意味になった証拠はないだろう。単なる伝統主義と保守主義とは違う。明確に意識された思想としてではなく、素朴な形での保守主義的な思考としての発露はあるだろうが、それでもその思考は伝統主義と違うのである。
 正月に餅を供え、神社に参拝するのは保守主義ではなく、単なる伝統主義的な慣習であり風俗でしかない。
 だったら正月に伊勢神宮に参拝する行為も慣習かというと、これには明確な政治的な意図がある。伊勢神宮は明治維新政府によって、国民を国家の意のままに統治するために虚構された一神教的国家神道の中枢として位置づけられたものだからだ。一神教的国家神道においては、国民は神である天皇の赤子であり臣民でしかない。枝野幸男は一神教的国家神道が、「保守主義」の故郷(=保守本流)だとでも思っているのだろうか。

 思えば日本の「保守主義」の故郷とは面妖である。
 カール・マンハイムの定義によれば、保守主義とは西欧近代主義への反作用であるはずだ。
 安倍晋三は何かというと自分のルーツである長州藩を英雄視し、長州藩と薩摩藩の下級藩士を中心として成った明治維新国家を崇拝しているが、どんなに歪であれ、明治維新国家とは西欧近代国家である。そして、一神教的国家神道は西欧近代化を国家主導で、一枚岩となって、強権的に、推し進めるために意図的に作られた虚構としての人工的な統治装置である。一神教的国家神道を作った伊藤博文が明言している。
 廃仏毀釈を行い、国宝級の仏像や絵画が二束三文で海外に売り飛ばされ、あの姫路城でさえ売り飛ばされる寸前であったことだけをとってみても、明治維新国家がそれ以前の日本の伝統と文化にどれほどの愛着をもっていたか分かろうというものだ。露ほどの価値もみていなかった証拠だろう。古きものは取るに足らない紙くず同然だったのだ。
 口では和魂洋才を語るが、明治維新政府のいう和魂とは薄っぺらなものである。魂とは見えないもののように錯覚しているが、本来の魂は、段々畑の石垣にも宿っているものであり、文化と伝統は魂の反映なくしてはあり得ない。当然に庶民の暮らしの中にも息づいているものであり、形のある農具や民具の中に呼吸して生きているものなのだ。
 柳田国男が切り開いた民俗学とは正しくそうしたものだろう。民俗学とは丸山真男の方法論と真逆である。丸山真男は西欧近代主義の価値観と世界観をものさしにして日本の過去(歴史)を遡り、西欧近代主義の価値観と世界観に繋がる萌芽を見つけ出し、その萌芽にスポットを当て、最大限に評価するのだ。それ以外の日本的なるものはバッサリと切り捨てるのである。もちろん丸山真男がものさしとするのは、西欧近代主義そのものではない。丸山真男が理想として思い描く西欧近代主義の純粋培養された「自由主義」であり、純粋培養された「市民像」である。丸山真男は「過去」の中にあるべき「未来」への可能性を探っていたといえると思う。
 一方の柳田国男の学問的な姿勢は、今も変わらずにある慣習や風俗や民話や神話の中に、日本人の精神的な原点を訪ねようとするものであり、その優れて日本的なものに価値を見出そうとするものだ。眼の前の具体的なものが抱きかかえる「過去」に愛着をもち、時間を越えて変わらずにあるからこそその「過去」を重要視するのだろう。
 柳田国男がその「過去」に可能性を見ていたかどうかは、不勉強であり、柳田国男を熱心に研究したわけではないので分からないが、柳田国男の発想と姿勢は、優れて保守主義的なものだろう。明確に西欧近代主義への反作用として意識しているかどうかは別にして、少なくとも「保守主義」を生み出す核となる発想であり姿勢のはずだ。柳田国男の民俗学は方法としての学問であるから、当然に民衆の発想とは違うが、眼の前に具体的な形として変わらずにあるものへの郷愁こそが保守主義的な思考の源泉だといえないだろうか。郷愁とは感覚的に「過去」と「現在」とを隔てる時間を越えて、空間の中で「過去」と「現在」とを生きることなのかもしれない。

 明治維新政府のいう和魂とは、具体的な形のない、抽象的で、夢想的なものでしかない。『古事記』の神代期の神話と、江戸時代の儒教的道徳と武士道というから驚きである。これほど保守主義「的」な感情と乖離したものはないだろう。お粗末さの極みだ。
 それに一神教的国家神道の柱とされる教育勅語は後期水戸学を手本としたもので、まさしく中国の儒教の影響を色濃く反映したものではないか。支配階級である武士を律したものが儒教であったとしても、村落共同体に生きる民衆はそうではなく、多神教を土台とした精神風土を生きていたのだ。一神教的な天皇神学など無縁の世界を民衆は生きていたのである。和魂をいうなら真っ先に多神教的な精神風土をいうべきだろう。それにそもそもが、古代神道とは自然と密接に結びついた多神教である。天皇を唯一絶対の神だとする一神教的国家神道は、神道の歴史からみても異質なものであり、明らかな作為的産物でしかなく、日本の精神風土とは相容れない性格のものである。一神教的国家神道が「神道革命」といわれる所以だ。原初の神道の姿に立ち返った復古神道などと思っていたら大馬鹿者である。原初の神道の姿を汚し破壊する似非宗教でしかない。
 明治維新政府によって作為的にでっち上げられた「上から(=官製)の」和魂だから、形のある伝統と文化が躊躇無く破壊できたのである。故郷の中に息づく具体的な暮らしと風景もそうである。近代化のためなら躊躇無く破壊したのである。
「保守主義」の思考的な核となっているのは、眼の前にあって、過去からも変わらずに確かな形で息づくものへの拘りと愛着であるはずだ。「大浦湾には龍神様が住んでいる」という沖縄の思いは、正しくそうしたものだろう。

 一神教的国家神道は西欧近代主義の反作用として生まれたものであり、その意味でいう「保守主義」なのだろうか。
 西欧近代化を問答無用で上から推し進める国家によって虚構された一神教的国家神道が、「保守主義」だというのは無理がないか。
 それまで民衆の生活の中で息づいていた伝統と文化と慣習を、破壊した上で意図的に虚構された、強制的で、一方的な、上から押しつけられた「似非宗教」でしかないからだ。それ以前の日本には一神教としての宗教はなく、多神教的な精神を土台として持つ精神風土があり、だから海外から渡ってきた宗教は日本的な姿に変えられて雑居的に混在してきたのだろう。その上に花開いたのがそれまでの日本の文化であり伝統であり暮らし方だったはずだ。
 問題は、西欧近代化を推し進める明治維新政府の手によって虚構された「似非宗教」だから、この宗教自体の土台に西欧近代主義の影響が色濃く反映されないはずがないことだ。一神教という発想はキリスト教のものまねでしかない。旧来の共同体から解き放たれた「バラバラの個人」からなる国民国家になっても、西欧にはキリスト教があるから国民の心を収斂し繋ぎ止める精神風土があるが、日本にはそれがなく、何よりも恐れたのは「バラバラ」になった民衆が何をしでかすか分からないという恐怖を、伊藤博文が吐露している(この件に関しては既にブログに書いているのでそちらを参照してほしい)。
 伊藤は日本にある既存の宗教ではとても西欧のキリスト教の代用はできないと看破している。仏教でも儒教でも神道でも代用は不可能だと見抜いた先に、天皇以外に代用が困難なことに思い至り、天皇を唯一絶対の神とする奇っ怪な宗教を作ることを決断したのだ。それが一神教的国家神道なのである。こうした歴史的な背景はまったく省みられることがなく、その上に、日本のいわゆる「保守主義」が胡座をかいているといえる。
 日本の「保守主義」がどうして薄っぺらで、いかがわしく、自己欺瞞的で、内実が無く、スケールが小さくて、みすぼらしく……どんなに形容してもいいたりないが、そうなった理由は、一神教的国家神道が日本の精神風土の核にあるという間違った妄想にあるのではないだろうか。
 上からの近代化革命を成就した勢力によって作られた「虚構」の中に、日本の「保守主義」が封印され、その虚構を「保守主義」のルーツにしているのだとしたら、これほど滑稽なことはないではないか。
 西欧近代主義の反作用のはずの「保守主義」が、上から強権的に西欧近代化を推し進める勢力が「でっち上げた虚構」(一神教的国家神道)の籠の鳥になって安穏としているのである(笑)。
 
 確かに一神教的国家神道には、西欧近代主義と反目する要素はある。
 西欧的自我の解放を抑えて自由を奪い、天皇の赤子であり臣民であるとすることで、個人の自然権を極端に制限する要素である。そして、一神教的国家神道は宗教であるから、政教分離は否定されて、個人の私的領域にまで管理されることになり、近代的意味での「理性」は発達障害に陥り、感情までが一神教的国家神道によって操られてしまうことになる。名目的には祭政一致の国家なのである。
 さらに国民の天皇制国家への幻想を、それまでの有機体的な村落共同体の延長線上に結びつけることで(神島二郎『近代日本の精神構造』岩波書店)、国家と切れた健全な「理性」の結びつきによって成り立つ理想的な市民社会の形成はあり得なくなる。
 一神教的国家神道という宗教のバイブルである教育勅語は、天皇を頂点とする儒教的な家父長制を国民に強要し、洗脳された国民は、一神教的国家神道を核とした天皇制を家族単位のレベルで絶えず再生産することになる。健全な市民社会の形成を阻む重要な要因であり、男尊女卑を核とした差別主義の社会化に繋がる要因であったことは間違いないだろう。
 しつこいようだがもう一度言おう。一神教的国家神道は、西欧近代主義の亡者となった国家権力の中枢部にいる者たちによって作り出された虚構であり、国民の心を国家に縛り付け、国家権力の従順な奴隷(臣民)とするための統治装置であり、洗脳装置であるという側面を忘れてはならない。そして、それまでの日本の精神的な風土と伝統と文化からは切れた、虚構でしかないという歴史的事実を肝に銘じるべきだ。
 西欧近代化を強権によって強引に推し進める日本国家は、それまでの伝統と文化と、そして懐かしい故郷の原風景と自然と共にあって生きてきた暮らしの土台を、容赦なく破壊してきたのだ。破壊なくして西欧近代化はないからだ。
 その日本国家が一番に恐怖するのは、西欧近代化によって暮らしの基盤を破壊された民衆の抵抗である。日本の民衆は歴史的にみれば決して従順ではない。本居宣長が恐れたのは、武士階級を律する儒教道徳とは無縁の民衆の心なのである。江戸時代は支配階級である武士の心を如何に操るかという発想はあり、それが儒教なのであるが、民衆の心の掌握にはまったく無頓着であることを宣長は見抜いたのである。国学とは文学的な衣装を身に纏うが、優れて政治的な視点をもつ学問であったのだ。
 宣長は民衆の政治への目覚めを戒め、政は御上に任せて、民衆はそのときそのときの「心のよりくるまま」におもしろおかしく生きることを説くのだが、平田篤胤に至ると積極的に民衆の心を操る野心へと結びつき、天皇神学にまで上り詰める。ここまでくれば一神教的国家神道と紙一重である。現に一神教的国家神道は平田神学を下敷きにしたといわれている。

 安倍晋三と自民党がどうして明治維新への回帰を口にするのか。
 故郷をもたず根無し草となり、飽くなき利潤を求めて餓鬼となって、縦横無尽に世界を破壊する多国籍企業と、安倍晋三と自民党は一心同体である。安倍晋三と自民党は新自由主義の経済政策を推し進め、日本人の暮らしを土台から破壊している元凶なのである。間違いなく広義の「自由主義」に入るだろう。剥き出しになった悪しきイデオロギーとしての「自由主義」の体現者だ。
 その一方で、一神教的国家神道への回帰を口にするのだが、「だから」安倍晋三は自らを「保守主義」だといい、一神教的国家神道という虚構に縋り付く日本のいわゆる「保守」勢力が、安倍晋三を熱烈に信奉するのだろう。
 果たして一神教的国家神道は「保守主義」なのだろうか。
 一見すると「保守主義」のようにみえるが、西欧近代化の方法とその過程という文脈でみれば、一神教的国家神道は、国家権力が強権的に西欧近代化を推し進める上で、民衆の抵抗を抑えるための巧妙な手段であり、道具だとみえてくるではないか。
 わたしは突飛なことを言っているのではない。
 北一輝が一神教的国家神道を核とする天皇制国家の本質を見抜いていたではないか。北一輝は一神教的国家神道を逆手にとって、国家社会主義革命を「夢想」したのであるが、それは「夢想」などではなく、現実となったのが戦前の日本ファシズムなのである。北一輝は青年将校を巻き込んだ形で「下からの」革命によってなそうとしたが、軍部主導で「上からの革命」によって現実化されたのが戦前のファシズム国家だったのであり、一神教的国家神道を核とする天皇制国家とは国家社会主義に容易に姿を変えられるものであり、その最終的な姿は恐怖政治とファシズムである。
 安倍政権と自民党は盛んに「ナチスに倣え」と言っているが、ナチスに倣わずとも、一神教的国家神道こそが、国家社会主義を準備する装置なのである。その証拠が、一神教的国家神道が最終的に導いていった戦前の日本ファシズムだと歴史が教えてくれている。
 日本の資本主義が危機に陥ると、統治装置としての一神教的国家神道が凶暴性を強め、国家体制がドンドンと国家社会主義へと脱皮していって、ついにはファシズムへと変身したのである。だから、安倍晋三と自民党は一神教的国家神道を復活させたいのだろう。危機に瀕している日本の産業資本主義とて思いは同じだろう。戦前とは比べようがないほどの情報社会だから、マスメディアの影響は絶大である。日本のマスメディアは既に安倍政権と自民党の操り人形だろう。マスメディアが産業資本主義にどっぷりと浸りきり、魂まで取り込まれたら、率先して国家権力に加担するという見本を見せつけられている思いだ。現状の日本のマスメディアは国家権力の翼賛報道機関であり、国民を洗脳する機関にまで堕落したといえるのだろう。
 一神教的国家神道が国家社会主義を産み落とす母体だとしたら、安倍晋三と日本会議は右翼なのだろうか、それとも左翼なのだろうか(笑)。
 最近、安倍晋三は革命という言葉を口にして、日本破壊に邁進しているが、わたしから言わせてもらうと、安倍晋三と日本会議は右翼にして左翼であり、何よりも西欧近代主義が行き着いた破滅的などん詰まりのおぞましい姿にみえる。産業資本主義の深化によって、左翼という言葉も、右翼という言葉も意味を失ったのだろう。
 一神教的国家神道を考えると、日本の「上からの」ナショナリズムの問題とも結びついたものだと分かるのだが、ナショナリズムも西欧近代主義を起源としたものだ。ナショナリズムの問題に深入りすると、それでなくともどこへ行くか分からないこの論考が、更に支離滅裂になることは間違いないので避けるが、一神教的国家神道は「保守主義」では括るべきではなく、わたしは右翼の精神的な故郷として位置づけるべきだと思っている。正しく右翼は西欧近代主義の申し子であり、国民国家の誕生なくしてあり得ないものだ。
 日本の「保守主義」の矮小性と停滞性と可能性の欠如と、もっというと無意味性は、右翼の妄想でしかない一神教的国家神道の檻の中に自らで幽閉されているからであり、西欧近代主義の乗り越えという視点の欠如にあると思っている。
 思想史からみれば、戦前の「近代の超克」が西欧近代主義の乗り越えを視座においていることは確かだが、戦前の「近代の超克」は、一神教的国家神道によって西欧近代主義を乗り越えようとする安易な発想からくるもので、西欧近代主義(国家主義)による西欧近代主義の乗り越えという自己矛盾でしかない。一神教的国家神道で、西欧近代主義を構造づける土台である世界観(世界像)と価値観を乗り越られると考えているとすれば、余程の脳天気であり、馬鹿も休み休み言えといいたい。
 戦前の「近代の超克」を批判しながら、本気で西欧近代主義を乗り越えようと苦闘した思想家が竹内好だ。わたしの師であり、竹内好の友人であった橋川文三もその一人になるのだろうか(師でありながら謎である…笑)。橋川文三の弟子だなどと公言すると「俺の名を汚すな」と橋川文三から叱られそうであるが、わたしが『里山主義』に辿り着いたのは、間違いなく橋川文三の影響である(笑)。
 わたしは今日から「保守主義」という看板を下ろすことに決めた。無意味になった「保守主義」からの決別を宣言したい。
 『里山主義』はいわゆる「保守主義」ではない。もちろん革新主義でもなく、自由主義でもない。左翼でも右翼でもない。「3・11の心」と「沖縄の心」を原点として歩き出したのが『里山主義』だ。歩いて行く先は右でも左でもない。誤解を恐れずにいえば、過去でも未来でもない。循環する時間が息づく空間的な世界だ、とでも言っておこう(笑)。
 
 最近はリツイートばかりでめったにツイートしないのだが、Twitterで無邪気に知性主義を叫ぶ者に、「大浦湾には龍神様が住んでいる」という沖縄の心と思いは「知性」ですか、それとも「知性」ではないですかと訊いたら、非科学的だが「知性」だという答えをもらった。呆れてそれ以上はつっこまなかったが、知性と理性は絶対だという信仰にも似た思い込みがあるのは確かだ。この思い込みこそが西欧近代主義の構造をなす土台の一つなのだろうが、理性と知性は真理へと至るための必要不可欠のもので、真理こそが正義でありすべてだという頑なな信仰に支えられているのだろう。
 だったらその真理は人類を破滅に向かわすものであっても受け入れますか、と訊いたらどう答えるのだろうか。きっと真理は人類を幸福と繁栄へと導くことはあっても、決して破滅には向かわせることはありませんと答えるに違いない。
 安倍晋三は反知性主義だとよく言われるが、反知性主義とはわたしのような者を指していうのが正確なのだろう。わたしは手放しで知性と理性を信じていないから、理性と知性が万能であり、理性と知性がすべての問題を解決してくれるなどと思い込んでいる知性主義者をみると、嘲笑したくなるのだが、この態度こそが反知性主義といわれるものなのだろう。だからといってわたしは知性と理性を全面的に否定するものではない。
 安倍晋三は反知性主義ではなく、知性と理性の発達がよろしくないだけだろう。が、安倍晋三が致命的なのは知性と理性の発達障害にあるのではなく、感性と感情の破壊的なお粗末さだろう。風景や他者への感情移入や共感に至っては劣悪を極めている。
 安倍晋三の一番に欠けているは「大浦湾には龍神様が住んでいる」と、眼の前の美しい海の風景と一体となって共鳴し合う感情だ。そして、美ら海に生きる命を思いやる心と、美ら海と共に生きる人々の日々の営みと暮らしへと注ぐ柔らかな眼差しだ。安倍晋三はどうみても、食べ物以外の具体的なものへと向かう心が決定的に欠如している。だから、本質的に安倍晋三は「保守主義」ではあり得ない。
 安倍晋三は大浦湾の神ではなく、一神教的国家神道の神に吸い寄せられていくのだが、大浦湾の神は眼の前に具体的に存在する豊かな美ら海と心とが共鳴し合って感得されるものだ。が、一神教的国家神道の神は虚構として作られた理性の産物だろう。その証拠に安倍晋三は今上天皇への尊敬の念はまったくなく、侮蔑さえしている。
 人間には内部に自然的感情があり、この感情は動物の感情(本能)と同じものであって、この自然的感情だけでは、人間は動物と何ら変わりはなく、人間が動物を超えられるのは、人間だけが神から授かった理性によって、自然的感情をコントロールできるからだ、というのが西欧近代主義の構造としての土台である理性信仰を作った基本的な考え方であり発想なのだが、わたしは他者(対象)との共鳴と共感こそが重要だと思っている。風景をみて涙を流したり、他者の悲しみや歓びに共鳴して涙を流したり笑ったりする共感こそが重要だと思っている。確かに動物の中には感情の表現として涙を流したり、他者の死に涙を流す現象が確認されているが、人間ほど豊かではない。基本的には一人では生きられない人間だけが長い年月を経て身につけ、育み、豊穣になった感情ではないのか。
 わたしは理性か、感情かという二分法的な発想を批判しているのであって、理性よりも感情だなどというつもりはない。
 梅原猛は西欧には日本人が日常的に口にする心という概念がないと指摘しているが、理性と自然的感情を対立させてみる発想と不可分に繋がっているのだろう。人間の内面を二元論的に区分けし、その上で、人間だけが神から与えられた理性を絶対として、理性こそが真理(神の意思)に至る道だとなれば、人間の外の世界は対象となり、対象(自然)は理性によって解明できる「物」となるのは頷ける。自然は理性によって征服され、人間の進歩と幸福のために利用できる単なる「物」になるのだ。対象はなにも自然だけではない。他者も対象になる。そして重要なのは、自分自身の自然的感情までが理性による対象(物)となることである。
 自己の内部を二元論的に分けて、自然的感情を理性によって抑えるという発想から導かれるものは禁欲主義であろう。西欧近代主義の自我論が禁欲主義に至る宿命は避けがたいのが分かろうというものである。
 啓蒙主義の重鎮であるホッブズは人間の自然状態を互いによる闘争とみていたが、自然的感情を理性によって抑えるという発想の核には、ホッブズのような人間観があるのだろうか。
 心理学は西欧近代主義の本質を垣間見せてくれる。人間の自然的感情を理性によって分析的に解明できるという発想から成り立つものだからだ。人間の心は機械的に成り立っているから、個々の部品として分解することによって絡繰りが明らかになるという発想なのである。ゼンマイ時計を分解してその仕組みを解明する作業が、人間の心を分解して解明する心理学に応用されているのだから驚きだ。
 わたしは人の心には闇があり、その闇が、人間を誕生させた自然との架け橋になっていると思っているのだが、だからその闇によって自然と共鳴し合い、他者の心と共感できるのだと思っている。「神さびる」という言葉は、自然と人の心とが共鳴し合っている空間の息づかいであり、空気の気配を表現しているものなのだろう。優れて感覚的な表現であるが、理性と感情とを分ける西欧の二元論では「神さびる」という感覚的な表現はあり得ないのではないだろうか。
 西欧近代主義には心の闇はないのかもしれない。
 心は理性で解明できる機械のエンジンでしかなく、人間は一つの複雑な機械であり、その機械を動かしている絡繰りと仕組みは、理性によってすべて解明されると信じて疑わないのだろう。そうした機械論的な世界観は、理性を絶対化した西欧近代主義の宿痾でしかなく、理性と結びついた科学が導く結果を真理とし、その科学の歩んでいく過程を進歩として信じ切り、科学的進歩に異議を差し挟むことさえ許されない硬直した世界を作り上げているのではないだろうか。
 安倍晋三の心は単純だと思う(笑)。
 安倍晋三ほど芸術と無縁の男はいないだろう。感性と感情と、そしてなによりも対象と共鳴し共感する心を持たないので、あやふやで、つかみ所がない、豊穣な闇を安倍晋三の心は抱えていないからだが、更に、理性の領域が単純な二分法で成り立っているとすると、安倍晋三は西欧近代主義が画く単細胞な人間像そのものになる。安倍晋三がつかみ所がなく、どこへ行くか分からないのは、理性と知性の劣悪さを嘘で補っているからだが、わたしはその嘘を安倍晋三の理性と知性がフル回転した結果だと思う。

 一神教的国家神道というおぞましい虚構を作り上げたのは、自我論のいう自然的感情ではない。
 間違いなく理性と知性である。
 未だ資本主義の段階に達していない未成熟な下部構造を、どうやって急激に変質させ、欧米列強の経済力と軍事力に追いつくか、暗中模索の中で導き出されたのが一神教的国家神道という虚構だろう。この虚構を産み落とす陣痛の中で伊藤博文は苦闘し、もがいたのである。伊藤博文の中で理性が摩擦熱を上げるほど激しく回転し、あらん限りの知性を総動員して、西欧の歴史と、西欧社会の現状分析を行った先で辿り着いた地点で考案されたのだろう。伊藤博文の理性と知性が劣っていたからこんな面妖なものを作り出してしまったのではない。あの丸山真男が絶賛したほど、伊藤博文の理性と知性は超のつく一級品だったのである(笑)。
 伊藤博文の理性と知性は認めるが、虚構でしかない面妖で醜悪な宗教擬きを信じるのはバカだろうといわれれば、わたしも正真正銘のバカだと賛同する。
 では誰が信じているのかというと、日本会議に欺された民衆なのである。日本会議の上層部と安倍晋三は信じてはいない。虚構であると知っている。これも事実である。一神教的国家神道が、国民を国家権力の従順な臣民に変えて、国民の心を自由自在に操るための格好の道具と分かっているのだ。
 安倍晋三は政治は結果だと公言している。目的のためなら手段は選ばない、と自らで宣言しているようなものだ。冷徹なリアリストであり、政治的マキャベリストであると気取っているのだろう。そして、日常的につく嘘を正当化しているつもりなのだ。
 しかし、安倍晋三の嘘には目的地に達するための戦略性がなく、だから場当たり的であり、嘘と嘘を繋ぐ脈絡性と論理的一貫性はない。つまり、戦略的に構想した世界から客観的に眺めて、論理的に嘘を操縦できないのだ。だから、自らで首を絞める嘘を平気でついてしまうい、事実誤認もへっちゃらなのである。そこが安倍晋三の劣悪な理性と知性のなせる技なのであり、その劣悪な理性と知性とを補うようにして身につけたものが、並外れた言い逃れと詭弁術なのだろう。本人では政治的リアリストであり、政治的マキャベリストのつもりでも、とっさに思いついた場当たり的な嘘に引きずられているのだから、政治的リアリストと政治的マキャベリストのはずはない。
 幼児期から常態となっていた現実逃避と自己正当化のための安易な嘘が、身についてしまったのだろう。何の苦労もなく、努力もせずに、親の七光りだけで生きてきた男だから嘘をついた手痛いしっぺ返しの体験もなかったに違いない。親の威光で、嘘の尻拭いは誰かがしてくれたのだろう。母親がどういう躾をしたかが分かろうというものだ。安倍晋三から嘘をとったら何も残らないのではないだろうか。
 安倍晋三が政治的リアリストと政治的マキャベリストを気取るもう一つの理由がある。それは異常な猜疑心と臆病な心と自己愛だ。安倍晋三の思考が、敵と味方とに分ける二分法に毒されきっているのはその反映だろう。自分の敵には容赦はしない。阿漕な手を使ってでも葬り去ろうとするだろう。その非情さと残忍さを政治的リアリズムと政治的マキャベリズムで正当化できると思っているのだろう。こんな男に権力を与えればどうなるか、その実験が日本で現在進行形で行われているのである。
 そうはいっても安倍晋三には政策的なブレーンと戦略的なブレーンがいるのは確かだ。そうでないと安倍晋三のような男が総理大臣でいられない。
 そのブレーンの理性と知性は安倍晋三のように劣悪なはずはない。理性と知性が並外れているだろう。が、その理性と知性は誤った方向へと日本を導いているのだ。理性主義者と知性主義者はどう説明するのだろうか。
 歴史修正主義者にも三通りがある。根っからのバカで、自分の都合が良いように歴史的事実をねじ曲げて信じている者と、ある意図と戦略から歴史的事実をねじ曲げて捏造している教祖的な存在の者と、その教祖から洗脳されて信じさせられている者の三通りだ。
 二番目の教祖的な存在者は優れて理性的であり、知性的だといえないだろうか。修正主義者という衣装を纏うことを理性的に選択しているのだ。
 戦争の中で敵を一度に大量に殺戮するための作戦を練るときに、理性と知性はフル回転しているはずだ。知性と理性は過去の歴史的戦闘に遡り、戦闘を勝利に導いた戦略を多角的に分析し、あるべき戦略を導こうとするのだろう。知性と理性は人を正義と真理へと導くなどというのは、一神教的国家神道を信じるのと五十歩百歩なのかもしれない。
 わたしは知性と理性がそれだけで暴走すれば、人をニヒリズムへと導くと確信している。ポストモダニズムとは正しくそうしたものだろう。ポストモダニズムのいう相対主義とは出口のないニヒリズムではないのか。
 前回に、ハンナ・アレントの『人間の条件』(ちくま学芸文庫)から近代科学について引用したが、思い起こしてほしい。
 ハンナ・アレントは、「近代科学が応用可能性をもっているところを見ると、近代科学が発展したのは、地上の条件を改善し、人間生活を一層よいものにしようというプラグマティックな欲望のおかげ」だと信じられているが、それは近代科学に対する一般的な偏見であり、近代的テクノロジーの起源は「無用の知識を求めるという完全に非実践的な探究」だと語っている。
「無用の知識」を求めることが目的化し、その「無用の知識」が真理だと疑わず、その「無用の知識」が地球の制約を超えたものであってもお構いなしなのである。ハンナ・アレントは宇宙の点から「無用の知識」の探究が行われることを強調するが、その知識が産業資本主義の利潤追求に応用されれば、地球の制約を超えたものだけに地球自体を破壊することに繋がってくる。原発とは正しくそうした「無用の知識」を応用した地球を破壊する技術だろう。理性信仰に歯止めはない。
 わたしが理性信仰と知性信仰の行き着く先はニヒリズムだという意味が分かっていただけただろうか。

 年明け早々から脇道に逸れてしまったが、本題に入りたい。
 が、深入りするといつまでも終わりそうにないので、「直観」を論理的に明らかにするという方法ではなく、「直観」をそのまま像として浮かび上がらせるという方法に変えたい。良くも悪しくもわたしの魂は文学にあるからだ。わたしの魂は、「理性」ではなく「感性」に軸足を置いている。

 紙智子の演説を聴いてやってきた「直観」を素描しよう。
 神智子の演説は、西欧近代主義を「部分的」にではなく、「本質的」な意味で乗り越えようとする「日本共産党宣言」だ、とわたしの「直観」がささやいたのだ。
 どういうことかというと、いわゆる「保守主義」は一神教的国家神道の籠の鳥となって、薄汚い声でピーチク、パーチク訳のわからないことをわめいており、自由主義は資本主義を疑うということを知らず、壮大な実験が失敗に終わった社会主義陣営は資本主義の修正の方向へと舵を切って資本主義に飲み込まれ、独り日本共産党だけが諦めることなく資本主義の徹底的な批判とその乗越を模索しているが、マルクスの「資本主義」批判は核心部を突いてはいたが、それでも部分的だったのだが、マルクスの意思をついだ日本共産党は、マルクスの「資本主義」批判を発展的に止揚し、「西欧近代主義」批判への高みへと駆け上がった「宣言」だ、というのがわたしの「直観」の概要である。
 どうしてわたしの心が日本共産党に引き寄せられ、どうして日本共産党が言葉の厳密な意味での保守主義「的」な心をもっているのか、その謎が解明されたといえる。
 もちろん、わたしの文学的な「直観」であって正しいかどうかは定かではない(笑)
 それでは、紙智子の演説に沿ってもう少し具体的に「直観」を画いてみたい。

※やっと本題にまで辿り着いたのだが、疲れたので次回にしたい。

※小説はキンドル版の電子書籍として出版しています。

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お詫びと御礼

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 書きかけの「日本共産党・紙智子の演説がどうして『歴史的演説』なのか……その意味と可能性」を、今年中に終わりにすると宣言したのですが、無理になってしまいました。
 買い物に付き合ったり、大掃除が今日まで延びてしまったりと、ブログどころではなかったのです(笑)
 そんなわけで年明けになります。申し訳ありません。
 2014年3月20日に始めたブログですが、いつの間にか10万5千の訪問者を数えるまでになりました。とはいえ、草刈りの肉体労働の疲れからブログの更新が疎かになり、そのためもあるのでしょうが、日々の訪問者は微々たるものです。
 5月までは草刈りの肉体労働はありません。年が明けたら精力的にブログを更新するつもりです。
 今年も拙いブログを読んでいただきありがとうございました。
 来年もよろしくお願いいたします。
 尚、年が明けたら小説『三月十一日の心』を書き始めるつもりです。定期的に小説もブログにアップしますので、こちらも読んでいただければ幸いです。
 よいお年をお迎えください。

写真は常念小屋のテント場から望む、朝焼けの槍ヶ岳

※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

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