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 https://www.youtube.com/watch?v=6mgmhHrCnss (農水委員長の解任決議案に対する賛成討論)

 前回で保守主義批判をしたが、自由主義に絞った批判をしていない。
 紙智子の「歴史的演説」を具体的に検証する前に、自由主義を考えてみたい。そして、紙智子の「歴史的演説」と深く関わってくる、マルクスの資本主義批判における重要な視点に触れておきたい。

 グローバリズムに焦点を当てると、リベラルの限界と自己矛盾がみえてくる。
 グローバリズムには、政治的グローバリズムと経済的グローバリズムとの境界線があるのだろう。
 しかし、境界線ははっきりしているようで曖昧であり、支離滅裂でもある。
 EUからのイギリスの離脱については、日本のいわゆるリベラルは不快感を隠そうとしない。二度の世界大戦が欧州内部での歴史的な反目と覇権主義によって引き起こされたことを踏まえて、イギリスが再び一国主義に後退する危険性を敏感に察知しているからなのだろう。EUでは経済的な停滞による失業率の高まりと、富の偏在による格差の拡大とが移民問題に絡められて、ナショナリズムの空気が熱を帯び、フランスといわず、ドイツといわず、極右勢力の台頭が目覚ましい。政治的グローバリズムへと振れた振り子が反転して、差別的で狂信的なナショナリズムへと振れようとしているかにみえる。日本のいわゆるリベラルは、こうした悪夢の再現を憂慮しているのだろう。
 日本のいわゆるリベラルに訊いてみたい。
 そもそもが、経済的グローバリズムと政治的グローバリズムを切り離して、政治的グローバリズムだけで成り立ち得るのだろうか、と。
 どんなに美辞麗句を並べてEUの理念を高く掲げたところで、本質的には、EUは政治的グローバリズムと経済的グローバリズムがセットになったものだろう。別の言い方をすれば、いかがわしい西欧近代主義という闇の中から、都合がいいものだけを掬い上げて、未来の世界を「支配」すべき普遍的な理念であり、価値観であり、世界観として謳い上げたものだ、とわたしは考えている。わたしはEUという方向性に、世界のあるべき未来を託すことはできない。そして、必然的に破綻するだろうとみている。
 経済的グローバリズムの結果が、生活基盤の破壊であり、伝統と文化の破壊であり、格差社会の出現なのだから、経済的グローバリズムを阻止するには一国主義しかないという発想を連れてきたとして、その発想を理性的ではなく、優れて感情的なものであり、安易な発想だと罵ることは簡単だ。が、わたしはこうした発想は自然なものであり、むしろ、西欧近代主義が宿命的にもつ病魔だと認識している。
 資本主義の本質はグローバリズムにあり、グローバリズムこそ資本主義の意思であり本能ではないのか。
 形振り構わずに、経済的グローバリズムが膨張を続けている。資本主義がこの世から消えて無くならない限り永遠に続くだろう。
 経済的グローバリズムが膨張していく過程で、政治的にみれば、インターナショナリズムに振り子が振れたり、反転してナショナリズムへと振り子が振れたりしたのが、西欧近代主義の歴史だった、とわたしは思う。
 欧米列強の植民地政策と、その反作用である独立運動と民族解放闘争もこの文脈で理解されるべきだろう。経済的グローバリズムが中東とアジアとアフリカに生きる人々の生活基盤を根底から破壊し、伝統と文化と社会的構造を徹底的に破壊した反動が、汎アラブ主義を産み落とし、独立運動と民族解放闘争と結びついたナショナリズムを産み落としたのである。反作用が、西欧近代主義の専売特許である「国民国家」と「民族」という概念によってなされたのは皮肉としかいえない。反作用であるから、西欧近代主義を鏡に映した姿になってしまうのだろう。
 わたしはIS(イスラム国)も同様に、経済的グローバリズムの反作用によって出現したと考えている。どうしてISはおぞましい貌をしているのか。ISが新自由主義を鏡に映したものだからだ。イスラームの仮面を被っているが、内実は新自由主義が体現する暴力的で残忍なニヒリズムそのものだろう。

 資本主義はグローバリズムが本能だから、政治的体制が変わっても、経済的グローバリズムに終焉はない。
 経済的グローバリズムをインターナショナリズムというオブラートに包んで行うか、ナショナリズムという凶暴な貌を持つ国家を後ろ盾にして行うかの違いだけだろう。
 不幸なのは国民である。インターナショナリズムであれ、ナショナリズムであれ、どちらも西欧近代主義の胎内から産み落とされたものであり、本質は変わりはないのだが、政治的スローガンと上辺の国家の姿(体制)が変わるから、コロッと欺されてしまうのだ。本質は同じだということが見抜けなくなってしまうのである。アメリカの二大政党制と同じである。誤解を恐れずにいえば、その意味では、オバマとトランプは同じだと言うのであり、背中合わせの関係だと言うのだ。
 本質は同じなのに、いわゆるリベラルは、インターナショナリズムに振れた振り子が、ナショナリズムへと振り戻されたことを反動といい、この世の終わりだと喚くのだろう。その一方で、中東やアジアの植民地からの解放闘争である「下からのナショナリズム」には拍手喝采を贈るのだ。
 わたしからみれば、インターナショナリズムもナショナリズムも共に西欧近代主義の申し子だから、どちらも間違いなく人類を破滅へと向かわせると確信しているのだが、そんなことを言うと、いわゆるリベラルからわたしは気が狂っていると罵られることになるのである(笑)。
 但し、偏狭的で差別的なナショナリズムが直接的に戦争へと結びつきやすく、より破滅を加速化するのを否定しない。したがって、わたしは偏狭的で差別的なナショナリズムを全面的に否定するだけでなく、温和なナショナリズムも否定するし、いわゆる「下からのナショナリズム」も否定する。「下からの」ナショナリズムを駆動力にした解放闘争は、解放が成就されると、「上からの」ナショナリズムへと容易に変わり得るからだ。
 インターナショナリズムとナショナリズムは裏表の関係であり、インターナショナリズムが裡に隠し持つおぞましい本性を剥き出しにしたのがナショナリズムである、とわたしは断言したい(笑)。
 西欧近代主義そのものを批判し、西欧近代主義を乗り越えて、新たな世界へと移らない限り、EUで繰り広げられている、インターナショナリズムと偏狭的で差別的なナショナリズムとの間の振り子運動は永遠に避けられないだろう。
 いわゆるリベラルには、西欧近代主義が隠し持つおぞましい本性が永遠にみえないのかもしれない。
 西欧近代主義の核にある自我論は、優れて差別的であり、偏狭的な本質をもっている。人間の内面にある理性と自然的感情を二元論的にみて、自然的感情は動物一般に特有のものであり、理性こそが神が人間だけに与えたものであり、人間と動物を分けるのは理性的であるかどうかだとすれば、理性的でない人間は人間ではなく、動物に近い下等な生き物という発想に結びつく。
 西欧で生まれた理性神話であるだけに、人間を進化の頂点とする人間至上主義のはずが、ヨーロッパ至上主義に転化するのは容易に分かるだろう。ヨーロッパの伝統と文化が最高のものとなり、ヨーロッパ以外のアジアやアフリカの伝統と文化は、西欧的理性とは無縁の未開のものであり、人間の伝統と文化とは呼べないとなるのもまた理解できるだろう。
 だからアメリカに渡ったヨーロッパの白人が、先住民を殺戮することに何の疑問も抱かなかったのだろうし、オーストラリアに島流しになったヨーロッパの白人の囚人たちが、アボリジニを動物に見立てて狩りをして遊ぶというおぞましい心へと繋がったのだろう。
 黄禍論というものがある。西欧近代主義が黄色人種をどうみていたかが垣間見える。黄禍論は、ヨーロッパの白人によるアジアの黄色人種に対する差別意識であり、アジアという未開の人種に対する恐怖心の表現である。
 一方でその反作用であるアジア主義は、黄禍論と不可分に結びついたものだと思う。しかし、反西欧主義のはずが、一神教的国家神道の世界観でアジアを眺め、日本こそが絶対的な神を頂く神国であり、アジアの盟主であり、アジアの家父長だとなるとほとんど狂気の世界となる。
 あろうことか、日本こそが欧米の最新技術を真っ先に取り入れた、今や西欧列強に勝るとも劣らない「西欧近代主義」を体現した大国だという主張になり、その先に西欧近代化が遅れている朝鮮と中国を頑迷だといって蔑み、差別するとなると、「西欧近代主義」に喜んで跪く、屈折したいじましい奴隷根性だといえないだろうか。
 そもそもが日本の律令国家とは朝鮮半島から「国家」の概念を携えて大量に移住してきた者たちによって作られたものであり、『古事記』の神代期は、縄文人を朝鮮半島から移住してきた弥生人が征服していった神話なのだが、韓国を目の敵にして盲目的に差別するいわゆる日本の右翼と保守は、余程のマゾヒストだと思う(笑)。
 自虐史などと喚いているが、自分たちの画く歴史こそが正真正銘の自虐史観で塗り潰されたものだろう。自分たちが神と虚構する天皇のルーツを、口汚い言葉で罵り否定しているのである。そればかりか、黄禍論というアジアと日本人を差別した「欧米という白人」には、何も言えないのである。安倍晋三に至っては千切れるほど尻尾をふる犬にまで成り下がっている。見苦しい限りであるが、それで保守だ、右翼だというのだから世も末である。一昔前なら知識階級に属していたはずの大手の新聞とテレビのジャーナリストたちまでが、韓国と中国に対する差別意識に毒されきっているのだから救いようがない。
 日本にいる保守と右翼の99パーセントが偽物であり、右翼と保守を名乗る自称「知識人」は「商売のため」に右翼と保守の看板を掲げているのであり、それだけに、安倍晋三のヨイショが日増しにえげつなくなってきている。

 日本の左翼はフランス革命への心情的な傾斜が強く、日本のリベラル左派はフランス革命で高らかに掲げられた自由・平等・博愛をあるべき人間の普遍的な理念として信じているのではないだろうか。
 しかし、フランス革命が自由・平等・博愛の三色旗へとフランス国民の心を熱狂的に収斂させるナショナリズムを内包している事実を見落としていないだろうか。フランス革命の後に、テロル政治が吹き荒れたことも見落としてはならないだろう。
 また一方で、自由・平等・博愛を国家理念としたアメリカの建国が先住民の凄惨な殺戮によって成った歴史的事実をどう解釈すればいいのだろうか。上述したように、西欧近代主義の正の側面であるはずの自由・平等・博愛には、黄禍論といった人種差別的な発想が内在されていたのではないのか。
 9・11は象徴的である。報復を誓ったアメリカ国民の心が星条旗へと真っ直ぐに向かって燃え上がり、そして、無差別的なアフガニスタンへの空爆へと雪崩れていったのだ。アメリカだけではない。パリでの爆破テロへの報復を叫んで、自由・平等・博愛の三色旗を振りかざしながら、フランス国民はシリアへの無差別的な爆撃を行った事実を忘れてはならないだろう。
 いわゆるリベラル左派は、西欧近代主義の自由・平等・博愛を疑ってみる視点を見失ってしまっているとしか思えない。これは不幸である。
 自由とはなにか、平等とは何か、という疑問を、西欧近代主義を超えた本質的な地点から発するべきだ、とわたしは思っている。
 西欧近代主義の土台としての価値観と世界観の枠組みの中で、自由と平等を理解するということを根底から疑うべきときなのではないだろうか。
 いわゆるリベラル左派は、国家主義は自由主義とは反対の概念だと思っているのかもしれないが、国家主義もりっぱな自由主義である。自由主義という枠内での差異であり、国民国家という枠組みの中での左か右かの立ち位置の違いでしかない。自由と平等は資本主義のイデオロギーとしての側面もあるのだ。

 それよりも何よりも、西欧近代主義の二元論的な自我論を核とした自由と平等で果たしていいのか、という本質的な問いこそが重要だろう。
 残念ながら、いわゆるリベラルにはこの視点がまったくない。
 自我論から導かれる理性によって自然的感情を抑制し完全にコントロールすることが、果たしてあるべき人間性に通じるのだろうか。基本的人権とも深く関わるものであり、それ以前の人間とは何かという本源的な問いだけに回避していいはずがない。
 理性を絶対的に信じる西欧近代主義の自我論は、機械論と密接に関係している。そして、理性と結びついている科学への信仰へと横滑りし、人間の世界と社会を科学を基礎とした機械論で覆い尽くしていったのだ。
 わたしは文学の心をもっていると自認している者だから、西欧近代主義の自我論と機械論には胡散臭さを禁じ得ないし、本源的な意味での人間性の破壊にみえてしかたがないのだ。
 ニーチェとバタイユに接近していったのは、文学的な心をもっているわたしであれば必然的なことだ。二人とも優れて文学的であり、文学的な方法で西欧近代主義の自我論と機械論の解体に挑戦したからだ。
 学生時代のわたしはマルクスにも接近した。今にして思えばマルクスへの接近は、経済理論としての資本主義批判ではなく、人間疎外としての資本主義批判であったことが分かる。今のわたしにはマルクスの経済理論は色褪せたものでしかなく、実際に否定もしている。わたしがマルクスの意思を受け継いでいるのは、資本主義が宿命的にもつ人間疎外の本質である。そして、この本質は資本主義と一体となった西欧近代主義の自我論と機械論の結果であり、だから宿命的なものだ。
 ハンナ・アレントはマルクスが看破した人間疎外の先に、世界疎外を見抜き、更に自我論と機械論の到達地点を地球疎外だと見抜いている。人間だけに神から授かった理性を絶対化し、理性以外のすべてを対象である物としてみる視点が、だからこそ人間中心主義に繋がり、自然破壊はいうに及ばず、自分の内面にある自然的感情までも破壊するに至ったのだろう。人間疎外とはそうしたものだ。

 経済的グローバリズムを本質としてもつ資本主義であり、絶えず自己増殖し拡大していく本能をもっているのだから、資本主義の価値観と世界観で世界が一色に塗り潰されていく必然性がある。価値観と世界観を単一で一元的なものにしていくには、個別的なものを破壊していくしかない。その破壊過程が、西欧近代主義と資本主義にとってみれば、自由で平等な市場開放の歴史であり、人間の理性を野蛮社会から解放する歴史になり、人類の普遍的理念である自由と平等と民主主義へと野蛮社会を導いていく輝かしい発展の歴史となるのだろう。
 わたしにはその過程が、個別的であり、風土的であり、地域的多様性に富んだ自然と、その自然と密接に結びついた人間の複雑な自然的感情を単純化し、無理矢理に地ならしする破壊行為にしかみえない。自然的感情は文学とも芸術とも、そして文化と伝統とも深く繋がっているものだ。
 「大浦湾には龍神様が住んでいる」という沖縄の思いは、破壊過程の中で、野蛮なものとして西欧近代主義の理性によって否定されてきたのではなかったか。
 西欧近代主義の自我論の先にある自由と平等では、根本的には、「大浦湾には龍神様が住んでいる」という沖縄の思いは掬い取ることは不可能だろう。理性を核とした人間中心主義だからだ。「大浦湾には龍神様が住んでいる」という沖縄の思いは、大浦湾の美ら海は人間だけのものではなく、美ら海に生きる生きとし生けるもののものであり、その美ら海を龍神様が守ってくれており、だからいつまでも美しく豊穣であり続け、人にもその恵みを分け与えてくれているという、生きとし生けるものへの温かな眼差しに貫かれているのだろう。わたしはこの沖縄の思いを、人間中心主義ではない、可能性としての生きとし生けるものの命と結びついた自由と平等だと思っている。西欧近代主義のいう自由と平等ではない。自我論と機械論と人間中心主義を否定した先の自由と平等だからだ。
 日本共産党にはリベラルにはない、マルクスの人間疎外の視点がある。
 わたしにはその人間疎外の視点が深化しているとみえるのだ。どう深化しているかというと、「大浦湾には龍神様が住んでいる」という沖縄の心に寄り添う方向へだ。だから、現状の日本の政党の中では日本共産党しか、「大浦湾には龍神様が住んでいる」という沖縄の思いを掬い取れはしないと思えてならないのだ。
 どうして日本共産党が保守主義「的」にみえるのか、そして、どうしてわたしの心が日本共産党へと吸い寄せられていってJCPサポーターになったのか、その謎を解く手掛かりがマルクスの人間疎外にあり、その反映が紙智子の「歴史的演説」へと繋がったのだと直観しているのだ。

 今度こそ、紙智子の「歴史的演説」に沿って具体的に、わたしの「直観」を形にしようとしたのだが、無理のようだ。次回は必ず完結するつもりだ。

※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

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 https://www.youtube.com/watch?v=6mgmhHrCnss (農水委員長の解任決議案に対する賛成討論)

 年が明けて十三日になる。
 年末までに書き切るのを断念した表題をどうにかしなければならないと思いつつ、生来が怠け者なのでここまで先延ばしにしてしまった。
 十日を過ぎて新年の挨拶をするのは憚れるが、ブログを訪問してくれる、今では絶滅危惧種となった貴重な読者に対して、挨拶をしない非礼は許されないだろう(笑)。
 今年は皆様にとって良き年になることを祈りします。そのためには、社会の癌である安倍晋三を一刻も早く政界から葬り去り、願わくは牢獄へと直行させなければなりません。そして、歴史的演説をした紙智子の骨折が完治し、合わせて日本共産党の圧倒的な躍進を祈ります。
 日本共産党の圧倒的な躍進こそが、安倍晋三を日本社会から葬り去るために絶対的に必要だからだ。最早、安倍晋三とは単なる固有名詞ではない。日本社会を蝕む「安倍晋三的なるもの」の象徴だ。「安倍晋三的なるもの」は現代日本の構造的な病魔なのだ。

 先延ばしにしていたのは生来の怠け者という理由ばかりではない。紙智子の演説を聴いたわたしの中に、「この演説は歴史的意味を持つ」という思いが閃いたのは、「理性」による結果ではなく「直観」だったので、「直観」を論理的に説明するのが難しいからだ。そればかりか、わたしの「知識」と「知性」とが圧倒的に貧弱なので余計に困難となる。
 自由主義と保守主義と、そして西欧近代主義などという大それたことを論じようとするのが、そもそもが無謀なのだろう。それを敢えてやってしまうのが、わたしの悪癖なのではあるが、正直に告白すれば、わたしの思い込みで自由主義と保守主義とを論じてしまっている側面は否定できない(笑)。
 特に保守主義であるが、学生時代に橋川文三のゼミに所属し、講義の中で橋川文三から聴いた、保守主義は西欧近代主義の反作用であり、西欧近代主義を起源としたものだという言葉が、執拗に頭にこびりついていたので、その言葉に導かれるままに保守主義を極端に、そして偏狭的に、またあるときには恣意的に、解釈していたと自己批判すべきなのだろう。橋川文三のこの保守主義の定義はカール・マンハイムの『保守主義的思考』を下敷きにしたものなのだろうが、恥を忍んで告白すると、わたしは『保守主義的思考』を読んでいない。本棚を探索してもみつからなかったのだから、読んではいないのだろう。その記憶すらない(笑)。
 橋川文三から勧められて『イデオロギーとユートピア』(未来社・鈴木二郎訳)は読んだ記憶があるが(本棚を探したら見つかった)、これも正直に告白すると、ただ読んだだけで理解とはほど遠いと胸を張って断言できる。
 ドイツロマン派の理解は、西欧近代主義における自我論(西欧近代的な意味での自我)からのアプローチなくしてあり得ないはずだが、それでありながら、りっぱな保守主義ではある。西欧近代主義の反作用であるから、逆説的に、西欧近代主義の魂を裡に抱きかかえてしまうのだろう。
 わたしは『里山主義』を提唱し自らを保守主義と名乗っているが、それは西欧近代主義の「土台」である世界観(世界像)と価値観を「根底から」乗り越えようとしているからだ。が、西欧近代主義の反作用であることだけを踏まえれば、西欧近代主義を構造づけている「土台」ではなく、西欧近代主義のある「部分」、もしくは構造の「一部」への反作用による思想的な潮流も広義の「保守主義」になるのだろう。
 たとえば戦前の「近代の超克」という思想だが、わたしはこれまで西欧近代主義による西欧近代主義の超克であり自己矛盾だと指弾し、「保守主義」とは認めてこなかったのだが、これもりっぱな「保守主義」になるのだろう。その意味では、高山樗牛の西欧近代主義を裏返した「日本主義」も「保守主義」といえることになる。
 しかし、どこかで線引きをしないと、「保守主義」という思想には、日本会議などという得体の知れないカルト的な宗教運動までが入り込んで、糞味噌一緒の混沌としたものになってしまい、本来は「保守主義」が持っているはずの重要な意味と可能性がみえなくなってしまうことになるだろう。
 わたしは以前、ブログで、現代においては保守主義と革新主義(もしくは自由主義)が意味を失ってしまっており、それぞれが二つに分離したのちに、新しい世界観と価値観と新たな「対立軸」で再編され、結合するだろうことを書いた。言葉の厳密な意味での「保守主義」は、日々再生産され自己増殖されていく、西欧近代主義を構造づけている土台としての価値観と世界観(世界像)によって、西欧近代主義の枠組みの内部に取り込まれてしまって、「保守主義」が誕生した原初の姿と意味とが変質してしまっていると思うからだ。「保守主義」だけではない。西欧近代主義と一心同体である「自由主義」も同様である。

 安倍晋三と日本会議は保守主義か、などという問いを発することに、この今という混沌とした政治的な状況において、何の意味があるのだろうか。また、民進党の枝野幸男が「民進党は保守本流だ」などと口にすることに何の意味があるのだろうか。
 保守主義と自由主義が意味を失ってしまった現代においては虚しい戯れ言でしかないだろう。
 枝野幸男は、保守本流である証明と政治的アピールが目的で、年明け早々に伊勢神宮に参拝したのだとしたら、これほど保守主義が無意味になった証拠はないだろう。単なる伝統主義と保守主義とは違う。明確に意識された思想としてではなく、素朴な形での保守主義的な思考としての発露はあるだろうが、それでもその思考は伝統主義と違うのである。
 正月に餅を供え、神社に参拝するのは保守主義ではなく、単なる伝統主義的な慣習であり風俗でしかない。
 だったら正月に伊勢神宮に参拝する行為も慣習かというと、これには明確な政治的な意図がある。伊勢神宮は明治維新政府によって、国民を国家の意のままに統治するために虚構された一神教的国家神道の中枢として位置づけられたものだからだ。一神教的国家神道においては、国民は神である天皇の赤子であり臣民でしかない。枝野幸男は一神教的国家神道が、「保守主義」の故郷(=保守本流)だとでも思っているのだろうか。

 思えば日本の「保守主義」の故郷とは面妖である。
 カール・マンハイムの定義によれば、保守主義とは西欧近代主義への反作用であるはずだ。
 安倍晋三は何かというと自分のルーツである長州藩を英雄視し、長州藩と薩摩藩の下級藩士を中心として成った明治維新国家を崇拝しているが、どんなに歪であれ、明治維新国家とは西欧近代国家である。そして、一神教的国家神道は西欧近代化を国家主導で、一枚岩となって、強権的に、推し進めるために意図的に作られた虚構としての人工的な統治装置である。一神教的国家神道を作った伊藤博文が明言している。
 廃仏毀釈を行い、国宝級の仏像や絵画が二束三文で海外に売り飛ばされ、あの姫路城でさえ売り飛ばされる寸前であったことだけをとってみても、明治維新国家がそれ以前の日本の伝統と文化にどれほどの愛着をもっていたか分かろうというものだ。露ほどの価値もみていなかった証拠だろう。古きものは取るに足らない紙くず同然だったのだ。
 口では和魂洋才を語るが、明治維新政府のいう和魂とは薄っぺらなものである。魂とは見えないもののように錯覚しているが、本来の魂は、段々畑の石垣にも宿っているものであり、文化と伝統は魂の反映なくしてはあり得ない。当然に庶民の暮らしの中にも息づいているものであり、形のある農具や民具の中に呼吸して生きているものなのだ。
 柳田国男が切り開いた民俗学とは正しくそうしたものだろう。民俗学とは丸山真男の方法論と真逆である。丸山真男は西欧近代主義の価値観と世界観をものさしにして日本の過去(歴史)を遡り、西欧近代主義の価値観と世界観に繋がる萌芽を見つけ出し、その萌芽にスポットを当て、最大限に評価するのだ。それ以外の日本的なるものはバッサリと切り捨てるのである。もちろん丸山真男がものさしとするのは、西欧近代主義そのものではない。丸山真男が理想として思い描く西欧近代主義の純粋培養された「自由主義」であり、純粋培養された「市民像」である。丸山真男は「過去」の中にあるべき「未来」への可能性を探っていたといえると思う。
 一方の柳田国男の学問的な姿勢は、今も変わらずにある慣習や風俗や民話や神話の中に、日本人の精神的な原点を訪ねようとするものであり、その優れて日本的なものに価値を見出そうとするものだ。眼の前の具体的なものが抱きかかえる「過去」に愛着をもち、時間を越えて変わらずにあるからこそその「過去」を重要視するのだろう。
 柳田国男がその「過去」に可能性を見ていたかどうかは、不勉強であり、柳田国男を熱心に研究したわけではないので分からないが、柳田国男の発想と姿勢は、優れて保守主義的なものだろう。明確に西欧近代主義への反作用として意識しているかどうかは別にして、少なくとも「保守主義」を生み出す核となる発想であり姿勢のはずだ。柳田国男の民俗学は方法としての学問であるから、当然に民衆の発想とは違うが、眼の前に具体的な形として変わらずにあるものへの郷愁こそが保守主義的な思考の源泉だといえないだろうか。郷愁とは感覚的に「過去」と「現在」とを隔てる時間を越えて、空間の中で「過去」と「現在」とを生きることなのかもしれない。

 明治維新政府のいう和魂とは、具体的な形のない、抽象的で、夢想的なものでしかない。『古事記』の神代期の神話と、江戸時代の儒教的道徳と武士道というから驚きである。これほど保守主義「的」な感情と乖離したものはないだろう。お粗末さの極みだ。
 それに一神教的国家神道の柱とされる教育勅語は後期水戸学を手本としたもので、まさしく中国の儒教の影響を色濃く反映したものではないか。支配階級である武士を律したものが儒教であったとしても、村落共同体に生きる民衆はそうではなく、多神教を土台とした精神風土を生きていたのだ。一神教的な天皇神学など無縁の世界を民衆は生きていたのである。和魂をいうなら真っ先に多神教的な精神風土をいうべきだろう。それにそもそもが、古代神道とは自然と密接に結びついた多神教である。天皇を唯一絶対の神だとする一神教的国家神道は、神道の歴史からみても異質なものであり、明らかな作為的産物でしかなく、日本の精神風土とは相容れない性格のものである。一神教的国家神道が「神道革命」といわれる所以だ。原初の神道の姿に立ち返った復古神道などと思っていたら大馬鹿者である。原初の神道の姿を汚し破壊する似非宗教でしかない。
 明治維新政府によって作為的にでっち上げられた「上から(=官製)の」和魂だから、形のある伝統と文化が躊躇無く破壊できたのである。故郷の中に息づく具体的な暮らしと風景もそうである。近代化のためなら躊躇無く破壊したのである。
「保守主義」の思考的な核となっているのは、眼の前にあって、過去からも変わらずに確かな形で息づくものへの拘りと愛着であるはずだ。「大浦湾には龍神様が住んでいる」という沖縄の思いは、正しくそうしたものだろう。

 一神教的国家神道は西欧近代主義の反作用として生まれたものであり、その意味でいう「保守主義」なのだろうか。
 西欧近代化を問答無用で上から推し進める国家によって虚構された一神教的国家神道が、「保守主義」だというのは無理がないか。
 それまで民衆の生活の中で息づいていた伝統と文化と慣習を、破壊した上で意図的に虚構された、強制的で、一方的な、上から押しつけられた「似非宗教」でしかないからだ。それ以前の日本には一神教としての宗教はなく、多神教的な精神を土台として持つ精神風土があり、だから海外から渡ってきた宗教は日本的な姿に変えられて雑居的に混在してきたのだろう。その上に花開いたのがそれまでの日本の文化であり伝統であり暮らし方だったはずだ。
 問題は、西欧近代化を推し進める明治維新政府の手によって虚構された「似非宗教」だから、この宗教自体の土台に西欧近代主義の影響が色濃く反映されないはずがないことだ。一神教という発想はキリスト教のものまねでしかない。旧来の共同体から解き放たれた「バラバラの個人」からなる国民国家になっても、西欧にはキリスト教があるから国民の心を収斂し繋ぎ止める精神風土があるが、日本にはそれがなく、何よりも恐れたのは「バラバラ」になった民衆が何をしでかすか分からないという恐怖を、伊藤博文が吐露している(この件に関しては既にブログに書いているのでそちらを参照してほしい)。
 伊藤は日本にある既存の宗教ではとても西欧のキリスト教の代用はできないと看破している。仏教でも儒教でも神道でも代用は不可能だと見抜いた先に、天皇以外に代用が困難なことに思い至り、天皇を唯一絶対の神とする奇っ怪な宗教を作ることを決断したのだ。それが一神教的国家神道なのである。こうした歴史的な背景はまったく省みられることがなく、その上に、日本のいわゆる「保守主義」が胡座をかいているといえる。
 日本の「保守主義」がどうして薄っぺらで、いかがわしく、自己欺瞞的で、内実が無く、スケールが小さくて、みすぼらしく……どんなに形容してもいいたりないが、そうなった理由は、一神教的国家神道が日本の精神風土の核にあるという間違った妄想にあるのではないだろうか。
 上からの近代化革命を成就した勢力によって作られた「虚構」の中に、日本の「保守主義」が封印され、その虚構を「保守主義」のルーツにしているのだとしたら、これほど滑稽なことはないではないか。
 西欧近代主義の反作用のはずの「保守主義」が、上から強権的に西欧近代化を推し進める勢力が「でっち上げた虚構」(一神教的国家神道)の籠の鳥になって安穏としているのである(笑)。
 
 確かに一神教的国家神道には、西欧近代主義と反目する要素はある。
 西欧的自我の解放を抑えて自由を奪い、天皇の赤子であり臣民であるとすることで、個人の自然権を極端に制限する要素である。そして、一神教的国家神道は宗教であるから、政教分離は否定されて、個人の私的領域にまで管理されることになり、近代的意味での「理性」は発達障害に陥り、感情までが一神教的国家神道によって操られてしまうことになる。名目的には祭政一致の国家なのである。
 さらに国民の天皇制国家への幻想を、それまでの有機体的な村落共同体の延長線上に結びつけることで(神島二郎『近代日本の精神構造』岩波書店)、国家と切れた健全な「理性」の結びつきによって成り立つ理想的な市民社会の形成はあり得なくなる。
 一神教的国家神道という宗教のバイブルである教育勅語は、天皇を頂点とする儒教的な家父長制を国民に強要し、洗脳された国民は、一神教的国家神道を核とした天皇制を家族単位のレベルで絶えず再生産することになる。健全な市民社会の形成を阻む重要な要因であり、男尊女卑を核とした差別主義の社会化に繋がる要因であったことは間違いないだろう。
 しつこいようだがもう一度言おう。一神教的国家神道は、西欧近代主義の亡者となった国家権力の中枢部にいる者たちによって作り出された虚構であり、国民の心を国家に縛り付け、国家権力の従順な奴隷(臣民)とするための統治装置であり、洗脳装置であるという側面を忘れてはならない。そして、それまでの日本の精神的な風土と伝統と文化からは切れた、虚構でしかないという歴史的事実を肝に銘じるべきだ。
 西欧近代化を強権によって強引に推し進める日本国家は、それまでの伝統と文化と、そして懐かしい故郷の原風景と自然と共にあって生きてきた暮らしの土台を、容赦なく破壊してきたのだ。破壊なくして西欧近代化はないからだ。
 その日本国家が一番に恐怖するのは、西欧近代化によって暮らしの基盤を破壊された民衆の抵抗である。日本の民衆は歴史的にみれば決して従順ではない。本居宣長が恐れたのは、武士階級を律する儒教道徳とは無縁の民衆の心なのである。江戸時代は支配階級である武士の心を如何に操るかという発想はあり、それが儒教なのであるが、民衆の心の掌握にはまったく無頓着であることを宣長は見抜いたのである。国学とは文学的な衣装を身に纏うが、優れて政治的な視点をもつ学問であったのだ。
 宣長は民衆の政治への目覚めを戒め、政は御上に任せて、民衆はそのときそのときの「心のよりくるまま」におもしろおかしく生きることを説くのだが、平田篤胤に至ると積極的に民衆の心を操る野心へと結びつき、天皇神学にまで上り詰める。ここまでくれば一神教的国家神道と紙一重である。現に一神教的国家神道は平田神学を下敷きにしたといわれている。

 安倍晋三と自民党がどうして明治維新への回帰を口にするのか。
 故郷をもたず根無し草となり、飽くなき利潤を求めて餓鬼となって、縦横無尽に世界を破壊する多国籍企業と、安倍晋三と自民党は一心同体である。安倍晋三と自民党は新自由主義の経済政策を推し進め、日本人の暮らしを土台から破壊している元凶なのである。間違いなく広義の「自由主義」に入るだろう。剥き出しになった悪しきイデオロギーとしての「自由主義」の体現者だ。
 その一方で、一神教的国家神道への回帰を口にするのだが、「だから」安倍晋三は自らを「保守主義」だといい、一神教的国家神道という虚構に縋り付く日本のいわゆる「保守」勢力が、安倍晋三を熱烈に信奉するのだろう。
 果たして一神教的国家神道は「保守主義」なのだろうか。
 一見すると「保守主義」のようにみえるが、西欧近代化の方法とその過程という文脈でみれば、一神教的国家神道は、国家権力が強権的に西欧近代化を推し進める上で、民衆の抵抗を抑えるための巧妙な手段であり、道具だとみえてくるではないか。
 わたしは突飛なことを言っているのではない。
 北一輝が一神教的国家神道を核とする天皇制国家の本質を見抜いていたではないか。北一輝は一神教的国家神道を逆手にとって、国家社会主義革命を「夢想」したのであるが、それは「夢想」などではなく、現実となったのが戦前の日本ファシズムなのである。北一輝は青年将校を巻き込んだ形で「下からの」革命によってなそうとしたが、軍部主導で「上からの革命」によって現実化されたのが戦前のファシズム国家だったのであり、一神教的国家神道を核とする天皇制国家とは国家社会主義に容易に姿を変えられるものであり、その最終的な姿は恐怖政治とファシズムである。
 安倍政権と自民党は盛んに「ナチスに倣え」と言っているが、ナチスに倣わずとも、一神教的国家神道こそが、国家社会主義を準備する装置なのである。その証拠が、一神教的国家神道が最終的に導いていった戦前の日本ファシズムだと歴史が教えてくれている。
 日本の資本主義が危機に陥ると、統治装置としての一神教的国家神道が凶暴性を強め、国家体制がドンドンと国家社会主義へと脱皮していって、ついにはファシズムへと変身したのである。だから、安倍晋三と自民党は一神教的国家神道を復活させたいのだろう。危機に瀕している日本の産業資本主義とて思いは同じだろう。戦前とは比べようがないほどの情報社会だから、マスメディアの影響は絶大である。日本のマスメディアは既に安倍政権と自民党の操り人形だろう。マスメディアが産業資本主義にどっぷりと浸りきり、魂まで取り込まれたら、率先して国家権力に加担するという見本を見せつけられている思いだ。現状の日本のマスメディアは国家権力の翼賛報道機関であり、国民を洗脳する機関にまで堕落したといえるのだろう。
 一神教的国家神道が国家社会主義を産み落とす母体だとしたら、安倍晋三と日本会議は右翼なのだろうか、それとも左翼なのだろうか(笑)。
 最近、安倍晋三は革命という言葉を口にして、日本破壊に邁進しているが、わたしから言わせてもらうと、安倍晋三と日本会議は右翼にして左翼であり、何よりも西欧近代主義が行き着いた破滅的などん詰まりのおぞましい姿にみえる。産業資本主義の深化によって、左翼という言葉も、右翼という言葉も意味を失ったのだろう。
 一神教的国家神道を考えると、日本の「上からの」ナショナリズムの問題とも結びついたものだと分かるのだが、ナショナリズムも西欧近代主義を起源としたものだ。ナショナリズムの問題に深入りすると、それでなくともどこへ行くか分からないこの論考が、更に支離滅裂になることは間違いないので避けるが、一神教的国家神道は「保守主義」では括るべきではなく、わたしは右翼の精神的な故郷として位置づけるべきだと思っている。正しく右翼は西欧近代主義の申し子であり、国民国家の誕生なくしてあり得ないものだ。
 日本の「保守主義」の矮小性と停滞性と可能性の欠如と、もっというと無意味性は、右翼の妄想でしかない一神教的国家神道の檻の中に自らで幽閉されているからであり、西欧近代主義の乗り越えという視点の欠如にあると思っている。
 思想史からみれば、戦前の「近代の超克」が西欧近代主義の乗り越えを視座においていることは確かだが、戦前の「近代の超克」は、一神教的国家神道によって西欧近代主義を乗り越えようとする安易な発想からくるもので、西欧近代主義(国家主義)による西欧近代主義の乗り越えという自己矛盾でしかない。一神教的国家神道で、西欧近代主義を構造づける土台である世界観(世界像)と価値観を乗り越られると考えているとすれば、余程の脳天気であり、馬鹿も休み休み言えといいたい。
 戦前の「近代の超克」を批判しながら、本気で西欧近代主義を乗り越えようと苦闘した思想家が竹内好だ。わたしの師であり、竹内好の友人であった橋川文三もその一人になるのだろうか(師でありながら謎である…笑)。橋川文三の弟子だなどと公言すると「俺の名を汚すな」と橋川文三から叱られそうであるが、わたしが『里山主義』に辿り着いたのは、間違いなく橋川文三の影響である(笑)。
 わたしは今日から「保守主義」という看板を下ろすことに決めた。無意味になった「保守主義」からの決別を宣言したい。
 『里山主義』はいわゆる「保守主義」ではない。もちろん革新主義でもなく、自由主義でもない。左翼でも右翼でもない。「3・11の心」と「沖縄の心」を原点として歩き出したのが『里山主義』だ。歩いて行く先は右でも左でもない。誤解を恐れずにいえば、過去でも未来でもない。循環する時間が息づく空間的な世界だ、とでも言っておこう(笑)。
 
 最近はリツイートばかりでめったにツイートしないのだが、Twitterで無邪気に知性主義を叫ぶ者に、「大浦湾には龍神様が住んでいる」という沖縄の心と思いは「知性」ですか、それとも「知性」ではないですかと訊いたら、非科学的だが「知性」だという答えをもらった。呆れてそれ以上はつっこまなかったが、知性と理性は絶対だという信仰にも似た思い込みがあるのは確かだ。この思い込みこそが西欧近代主義の構造をなす土台の一つなのだろうが、理性と知性は真理へと至るための必要不可欠のもので、真理こそが正義でありすべてだという頑なな信仰に支えられているのだろう。
 だったらその真理は人類を破滅に向かわすものであっても受け入れますか、と訊いたらどう答えるのだろうか。きっと真理は人類を幸福と繁栄へと導くことはあっても、決して破滅には向かわせることはありませんと答えるに違いない。
 安倍晋三は反知性主義だとよく言われるが、反知性主義とはわたしのような者を指していうのが正確なのだろう。わたしは手放しで知性と理性を信じていないから、理性と知性が万能であり、理性と知性がすべての問題を解決してくれるなどと思い込んでいる知性主義者をみると、嘲笑したくなるのだが、この態度こそが反知性主義といわれるものなのだろう。だからといってわたしは知性と理性を全面的に否定するものではない。
 安倍晋三は反知性主義ではなく、知性と理性の発達がよろしくないだけだろう。が、安倍晋三が致命的なのは知性と理性の発達障害にあるのではなく、感性と感情の破壊的なお粗末さだろう。風景や他者への感情移入や共感に至っては劣悪を極めている。
 安倍晋三の一番に欠けているは「大浦湾には龍神様が住んでいる」と、眼の前の美しい海の風景と一体となって共鳴し合う感情だ。そして、美ら海に生きる命を思いやる心と、美ら海と共に生きる人々の日々の営みと暮らしへと注ぐ柔らかな眼差しだ。安倍晋三はどうみても、食べ物以外の具体的なものへと向かう心が決定的に欠如している。だから、本質的に安倍晋三は「保守主義」ではあり得ない。
 安倍晋三は大浦湾の神ではなく、一神教的国家神道の神に吸い寄せられていくのだが、大浦湾の神は眼の前に具体的に存在する豊かな美ら海と心とが共鳴し合って感得されるものだ。が、一神教的国家神道の神は虚構として作られた理性の産物だろう。その証拠に安倍晋三は今上天皇への尊敬の念はまったくなく、侮蔑さえしている。
 人間には内部に自然的感情があり、この感情は動物の感情(本能)と同じものであって、この自然的感情だけでは、人間は動物と何ら変わりはなく、人間が動物を超えられるのは、人間だけが神から授かった理性によって、自然的感情をコントロールできるからだ、というのが西欧近代主義の構造としての土台である理性信仰を作った基本的な考え方であり発想なのだが、わたしは他者(対象)との共鳴と共感こそが重要だと思っている。風景をみて涙を流したり、他者の悲しみや歓びに共鳴して涙を流したり笑ったりする共感こそが重要だと思っている。確かに動物の中には感情の表現として涙を流したり、他者の死に涙を流す現象が確認されているが、人間ほど豊かではない。基本的には一人では生きられない人間だけが長い年月を経て身につけ、育み、豊穣になった感情ではないのか。
 わたしは理性か、感情かという二分法的な発想を批判しているのであって、理性よりも感情だなどというつもりはない。
 梅原猛は西欧には日本人が日常的に口にする心という概念がないと指摘しているが、理性と自然的感情を対立させてみる発想と不可分に繋がっているのだろう。人間の内面を二元論的に区分けし、その上で、人間だけが神から与えられた理性を絶対として、理性こそが真理(神の意思)に至る道だとなれば、人間の外の世界は対象となり、対象(自然)は理性によって解明できる「物」となるのは頷ける。自然は理性によって征服され、人間の進歩と幸福のために利用できる単なる「物」になるのだ。対象はなにも自然だけではない。他者も対象になる。そして重要なのは、自分自身の自然的感情までが理性による対象(物)となることである。
 自己の内部を二元論的に分けて、自然的感情を理性によって抑えるという発想から導かれるものは禁欲主義であろう。西欧近代主義の自我論が禁欲主義に至る宿命は避けがたいのが分かろうというものである。
 啓蒙主義の重鎮であるホッブズは人間の自然状態を互いによる闘争とみていたが、自然的感情を理性によって抑えるという発想の核には、ホッブズのような人間観があるのだろうか。
 心理学は西欧近代主義の本質を垣間見せてくれる。人間の自然的感情を理性によって分析的に解明できるという発想から成り立つものだからだ。人間の心は機械的に成り立っているから、個々の部品として分解することによって絡繰りが明らかになるという発想なのである。ゼンマイ時計を分解してその仕組みを解明する作業が、人間の心を分解して解明する心理学に応用されているのだから驚きだ。
 わたしは人の心には闇があり、その闇が、人間を誕生させた自然との架け橋になっていると思っているのだが、だからその闇によって自然と共鳴し合い、他者の心と共感できるのだと思っている。「神さびる」という言葉は、自然と人の心とが共鳴し合っている空間の息づかいであり、空気の気配を表現しているものなのだろう。優れて感覚的な表現であるが、理性と感情とを分ける西欧の二元論では「神さびる」という感覚的な表現はあり得ないのではないだろうか。
 西欧近代主義には心の闇はないのかもしれない。
 心は理性で解明できる機械のエンジンでしかなく、人間は一つの複雑な機械であり、その機械を動かしている絡繰りと仕組みは、理性によってすべて解明されると信じて疑わないのだろう。そうした機械論的な世界観は、理性を絶対化した西欧近代主義の宿痾でしかなく、理性と結びついた科学が導く結果を真理とし、その科学の歩んでいく過程を進歩として信じ切り、科学的進歩に異議を差し挟むことさえ許されない硬直した世界を作り上げているのではないだろうか。
 安倍晋三の心は単純だと思う(笑)。
 安倍晋三ほど芸術と無縁の男はいないだろう。感性と感情と、そしてなによりも対象と共鳴し共感する心を持たないので、あやふやで、つかみ所がない、豊穣な闇を安倍晋三の心は抱えていないからだが、更に、理性の領域が単純な二分法で成り立っているとすると、安倍晋三は西欧近代主義が画く単細胞な人間像そのものになる。安倍晋三がつかみ所がなく、どこへ行くか分からないのは、理性と知性の劣悪さを嘘で補っているからだが、わたしはその嘘を安倍晋三の理性と知性がフル回転した結果だと思う。

 一神教的国家神道というおぞましい虚構を作り上げたのは、自我論のいう自然的感情ではない。
 間違いなく理性と知性である。
 未だ資本主義の段階に達していない未成熟な下部構造を、どうやって急激に変質させ、欧米列強の経済力と軍事力に追いつくか、暗中模索の中で導き出されたのが一神教的国家神道という虚構だろう。この虚構を産み落とす陣痛の中で伊藤博文は苦闘し、もがいたのである。伊藤博文の中で理性が摩擦熱を上げるほど激しく回転し、あらん限りの知性を総動員して、西欧の歴史と、西欧社会の現状分析を行った先で辿り着いた地点で考案されたのだろう。伊藤博文の理性と知性が劣っていたからこんな面妖なものを作り出してしまったのではない。あの丸山真男が絶賛したほど、伊藤博文の理性と知性は超のつく一級品だったのである(笑)。
 伊藤博文の理性と知性は認めるが、虚構でしかない面妖で醜悪な宗教擬きを信じるのはバカだろうといわれれば、わたしも正真正銘のバカだと賛同する。
 では誰が信じているのかというと、日本会議に欺された民衆なのである。日本会議の上層部と安倍晋三は信じてはいない。虚構であると知っている。これも事実である。一神教的国家神道が、国民を国家権力の従順な臣民に変えて、国民の心を自由自在に操るための格好の道具と分かっているのだ。
 安倍晋三は政治は結果だと公言している。目的のためなら手段は選ばない、と自らで宣言しているようなものだ。冷徹なリアリストであり、政治的マキャベリストであると気取っているのだろう。そして、日常的につく嘘を正当化しているつもりなのだ。
 しかし、安倍晋三の嘘には目的地に達するための戦略性がなく、だから場当たり的であり、嘘と嘘を繋ぐ脈絡性と論理的一貫性はない。つまり、戦略的に構想した世界から客観的に眺めて、論理的に嘘を操縦できないのだ。だから、自らで首を絞める嘘を平気でついてしまうい、事実誤認もへっちゃらなのである。そこが安倍晋三の劣悪な理性と知性のなせる技なのであり、その劣悪な理性と知性とを補うようにして身につけたものが、並外れた言い逃れと詭弁術なのだろう。本人では政治的リアリストであり、政治的マキャベリストのつもりでも、とっさに思いついた場当たり的な嘘に引きずられているのだから、政治的リアリストと政治的マキャベリストのはずはない。
 幼児期から常態となっていた現実逃避と自己正当化のための安易な嘘が、身についてしまったのだろう。何の苦労もなく、努力もせずに、親の七光りだけで生きてきた男だから嘘をついた手痛いしっぺ返しの体験もなかったに違いない。親の威光で、嘘の尻拭いは誰かがしてくれたのだろう。母親がどういう躾をしたかが分かろうというものだ。安倍晋三から嘘をとったら何も残らないのではないだろうか。
 安倍晋三が政治的リアリストと政治的マキャベリストを気取るもう一つの理由がある。それは異常な猜疑心と臆病な心と自己愛だ。安倍晋三の思考が、敵と味方とに分ける二分法に毒されきっているのはその反映だろう。自分の敵には容赦はしない。阿漕な手を使ってでも葬り去ろうとするだろう。その非情さと残忍さを政治的リアリズムと政治的マキャベリズムで正当化できると思っているのだろう。こんな男に権力を与えればどうなるか、その実験が日本で現在進行形で行われているのである。
 そうはいっても安倍晋三には政策的なブレーンと戦略的なブレーンがいるのは確かだ。そうでないと安倍晋三のような男が総理大臣でいられない。
 そのブレーンの理性と知性は安倍晋三のように劣悪なはずはない。理性と知性が並外れているだろう。が、その理性と知性は誤った方向へと日本を導いているのだ。理性主義者と知性主義者はどう説明するのだろうか。
 歴史修正主義者にも三通りがある。根っからのバカで、自分の都合が良いように歴史的事実をねじ曲げて信じている者と、ある意図と戦略から歴史的事実をねじ曲げて捏造している教祖的な存在の者と、その教祖から洗脳されて信じさせられている者の三通りだ。
 二番目の教祖的な存在者は優れて理性的であり、知性的だといえないだろうか。修正主義者という衣装を纏うことを理性的に選択しているのだ。
 戦争の中で敵を一度に大量に殺戮するための作戦を練るときに、理性と知性はフル回転しているはずだ。知性と理性は過去の歴史的戦闘に遡り、戦闘を勝利に導いた戦略を多角的に分析し、あるべき戦略を導こうとするのだろう。知性と理性は人を正義と真理へと導くなどというのは、一神教的国家神道を信じるのと五十歩百歩なのかもしれない。
 わたしは知性と理性がそれだけで暴走すれば、人をニヒリズムへと導くと確信している。ポストモダニズムとは正しくそうしたものだろう。ポストモダニズムのいう相対主義とは出口のないニヒリズムではないのか。
 前回に、ハンナ・アレントの『人間の条件』(ちくま学芸文庫)から近代科学について引用したが、思い起こしてほしい。
 ハンナ・アレントは、「近代科学が応用可能性をもっているところを見ると、近代科学が発展したのは、地上の条件を改善し、人間生活を一層よいものにしようというプラグマティックな欲望のおかげ」だと信じられているが、それは近代科学に対する一般的な偏見であり、近代的テクノロジーの起源は「無用の知識を求めるという完全に非実践的な探究」だと語っている。
「無用の知識」を求めることが目的化し、その「無用の知識」が真理だと疑わず、その「無用の知識」が地球の制約を超えたものであってもお構いなしなのである。ハンナ・アレントは宇宙の点から「無用の知識」の探究が行われることを強調するが、その知識が産業資本主義の利潤追求に応用されれば、地球の制約を超えたものだけに地球自体を破壊することに繋がってくる。原発とは正しくそうした「無用の知識」を応用した地球を破壊する技術だろう。理性信仰に歯止めはない。
 わたしが理性信仰と知性信仰の行き着く先はニヒリズムだという意味が分かっていただけただろうか。

 年明け早々から脇道に逸れてしまったが、本題に入りたい。
 が、深入りするといつまでも終わりそうにないので、「直観」を論理的に明らかにするという方法ではなく、「直観」をそのまま像として浮かび上がらせるという方法に変えたい。良くも悪しくもわたしの魂は文学にあるからだ。わたしの魂は、「理性」ではなく「感性」に軸足を置いている。

 紙智子の演説を聴いてやってきた「直観」を素描しよう。
 神智子の演説は、西欧近代主義を「部分的」にではなく、「本質的」な意味で乗り越えようとする「日本共産党宣言」だ、とわたしの「直観」がささやいたのだ。
 どういうことかというと、いわゆる「保守主義」は一神教的国家神道の籠の鳥となって、薄汚い声でピーチク、パーチク訳のわからないことをわめいており、自由主義は資本主義を疑うということを知らず、壮大な実験が失敗に終わった社会主義陣営は資本主義の修正の方向へと舵を切って資本主義に飲み込まれ、独り日本共産党だけが諦めることなく資本主義の徹底的な批判とその乗越を模索しているが、マルクスの「資本主義」批判は核心部を突いてはいたが、それでも部分的だったのだが、マルクスの意思をついだ日本共産党は、マルクスの「資本主義」批判を発展的に止揚し、「西欧近代主義」批判への高みへと駆け上がった「宣言」だ、というのがわたしの「直観」の概要である。
 どうしてわたしの心が日本共産党に引き寄せられ、どうして日本共産党が言葉の厳密な意味での保守主義「的」な心をもっているのか、その謎が解明されたといえる。
 もちろん、わたしの文学的な「直観」であって正しいかどうかは定かではない(笑)
 それでは、紙智子の演説に沿ってもう少し具体的に「直観」を画いてみたい。

※やっと本題にまで辿り着いたのだが、疲れたので次回にしたい。

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お詫びと御礼

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 書きかけの「日本共産党・紙智子の演説がどうして『歴史的演説』なのか……その意味と可能性」を、今年中に終わりにすると宣言したのですが、無理になってしまいました。
 買い物に付き合ったり、大掃除が今日まで延びてしまったりと、ブログどころではなかったのです(笑)
 そんなわけで年明けになります。申し訳ありません。
 2014年3月20日に始めたブログですが、いつの間にか10万5千の訪問者を数えるまでになりました。とはいえ、草刈りの肉体労働の疲れからブログの更新が疎かになり、そのためもあるのでしょうが、日々の訪問者は微々たるものです。
 5月までは草刈りの肉体労働はありません。年が明けたら精力的にブログを更新するつもりです。
 今年も拙いブログを読んでいただきありがとうございました。
 来年もよろしくお願いいたします。
 尚、年が明けたら小説『三月十一日の心』を書き始めるつもりです。定期的に小説もブログにアップしますので、こちらも読んでいただければ幸いです。
 よいお年をお迎えください。

写真は常念小屋のテント場から望む、朝焼けの槍ヶ岳

※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

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 https://www.youtube.com/watch?v=6mgmhHrCnss (農水委員長の解任決議案に対する賛成討論)

 嘘が生きている証しであり、嘘が人格そのものである安倍晋三という男から、嘘の衣装を剥ぎ取れば、自己中心的で我が儘な自己愛と、際限がなくどす黒い私欲しか残らないだろう。嘘が人格なのだから、言葉と言葉との間に整合性はなく、思考回路が破壊されて支離滅裂だというのは頷ける。その上、幼児的で異常な自己愛の塊のような男だから、敵と味方とに分断する短絡的な二分法の発想と論理になるのも頷ける。
 こうした安倍晋三という男に果たして思想と呼べるものがあるのだろうか。
 安倍晋三には言葉の厳密な意味での思想と呼べるものはないだろう。が、それでも安倍晋三は広義の「自由主義」を体現していることは間違いない。
 安倍晋三の括弧付きの「思想」が広義の「自由主義」の範疇に入るなどと言ったりすると、いわゆるリベラルは憤慨するに違いない。そして、気が狂っていると思うだろう。だから、還暦を過ぎた気が狂った老人が書くブログなど読むに値しないと嘲笑されて、読者が寄りつかないのだろう(笑)。
 自由主義は絶対に正しい。西欧近代主義も絶対に正しい、という思い込みは、そろそろ捨て去った方がいいのではないだろうか。
 わたしが西欧近代主義と自由主義を批判すると、だったら封建時代がいいというのか、中世に戻れというのか、とリベラルから非難を受けるのだが、それは短絡的な発想だろう。
 更にわたしが、自由主義が資本主義と一心同体であり、自由主義は資本主義のイデオロギーだといって、自由主義と資本主義とを批判すると、だったら社会主義がいいというのか、とリベラルは冷笑と侮蔑とを目元に浮かべながら勝ち誇った口調で、わたしを詰るのである。どうして勝ち誇った口調になるかというと、社会主義が敗北して資本主義が勝利し、資本主義が正しかったことを歴史が証明したといいたいからだ。そして、歴史は資本主義の勝利で終わったといいたいのだ。近視眼でしか歴史をみれないフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』に見事に欺されているのである。
 フランシス・フクヤマの近視眼を捨てて、小高い丘にでも登って、曇りのない心と目で歴史をみれば、社会主義の終わりは、資本主義の終わりの始まりであることが分かるはずだ。資本主義はそれ自身ではどうにも変わりようがなく、このまま行くと人類の破滅が待ち構えているという事実を、社会主義の終わりが教えてくれたのである。
 いわゆるリベラルの最大の間違いは、資本主義と社会主義とが二卵性双生児で、どちらも西欧近代主義という母親から生まれ落ちたものであり、労働観や幸福感を含めた土台としての価値観を共有しているということが分かっていないのだろう。「資本主義か、それとも社会主義か」という問いはそもそもが本質的な問いではなかったのである。資本主義の矛盾がどうしようもない段階にまで達し、それを止揚しようとした社会主義もまた駄目だとなり、人類は出口のわからない袋小路に入り込み、社会をニヒリズムの闇が覆いつくしたのだ。そして、盲目的に目先の欲望だけを追い求めて刹那的になり、破れかぶれになった資本主義は、隠し持っていた新自由主義という牙を剥き出しにして奈落の底へと転がり出したのだ。
 人類は、資本主義でもなく、社会主義でもなく、資本主義と社会主義の生みの親である西欧近代主義を根底から疑うべき地点に立たされているといえないだろうか。
 西欧近代主義をどう乗り越えるか。
 これこそが本質的な問いではないのか。そうわたしは思っている。西欧近代主義を疑うとは、資本主義はもちろんのこと、そのイデオロギーである自由主義も疑うということを意味する。
 フランシス・フクヤマのいうように『歴史の終わり』ではあり得ない。資本主義を乗り越え、あるべき人類の理想としての社会の建設を目指した、社会主義の壮大な実験が失敗に終わり、希望の明かりが消えて、絶望だけが残ったというのが真実なのではないのか。
 神の死を宣告した西欧近代主義の社会をニヒリズムが黒々と染め上げたが、そんな社会にあって、社会主義とは人類を導く希望の光であり、ある意味では新たなる「神」であったのかもしれない。だから社会主義への絶望が、ニヒリズムの闇をより深めたのだろう。
 マルクス主義は「宗教」になぞらえられたりしたが、確かに、マルクス主義の運動には、宗教に通じる倫理の匂いのようなものがあったのも事実だろう。
 わたしは不思議でならなかったのだ。
 社会主義という壮大な実験が失敗に終わったのにもかかわらず、それでも未だに、日本共産党からは倫理の匂いが漂ってくるのだ。底なしの政治的ニヒリズムの闇に飲み込まれ、どす黒い刹那の欲望にむさぼりついて、奈落へと転がり出した日本の政治的現実の中にあって、凜として前を向いて立っている姿は眩しくもある。
 安倍政権とは断末魔の資本主義のどす黒いニヒリズムそのものだろう。そして、資本主義のイデオロギーとしての「自由主義」が剥き出しにしたおぞましい正体なのだ。

 日本共産党は不感症なのか(笑)。
 だから社会主義という壮大な実験の失敗に気づけないのだろうか。
 そうではない。日本共産党は社会主義の失敗を認めていないのだろう。失敗したのは自分たちの追い求めている社会主義ではなく、自分たちが追い求めている社会主義は未だに実現されてはいないのだから、その評価は、実現された後になされるべきだ、と考えているのだろう。日本共産党という旗印を頑なに守り、今なお高く掲げ続けているのがその証しだろう。
 社会主義の壮大な実験の失敗を受けて、社会主義の看板を掲げていた社会党が、社会民主主義という看板に変えて社民党へと変身したのとは対照的だ。
 日本共産党が掲げる社会主義は、世界のどこにもない「独自」の社会主義といえるのかもしれない。
 独自を括弧で括ったのには理由がある。独自を強調したいからだ。
 どうして独自を強調するのか。
 『里山主義』という保守主義を掲げるわたしの心が、どうして日本共産党へと向かうのか、その謎を解く手掛かりが「独自」という言葉の中に隠されているように思うからだ。そして、この「独自」が紙智子の歴史的演説を産み落としたと確信しているからだ。
 わたしの想像であるが、日本共産党自身が「独自」を明確な形として捉えるまでには至っていないのではないだろうか。
 未だに世界のどこにも実現されていない社会主義の社会と、その先に展望する共産主義の社会を追い求めているということは、明確に、日本共産党は自覚しているだろう。が、はっきりとした形で具体的にその社会を描き切れているかというと、わたしは疑問である。白い霧に包まれた「独自」が、ぼんやりとその輪郭をみせてくれている、といった状態なのだろうか。
 わたしはこの「独自」に希望を託しているのである。そして可能性を見出しているのだ。
 社会民主主義とせずに、日本「共産党」の旗印を掲げ続けていることは、わたしにとって重要な意味をもつ。
 日本共産党は野党共闘の中心にあって、常にぶれることなく、議会制民主主義と基本的人権と立憲主義の旗を高く掲げて堅持している。それならば、社会「民主主義」とどこが違うのか、と疑問が頭をもたげてくるのだろうが、わたしはこの違いを重視している。
 どこが違うのか。
 日本「共産党」は、資本主義のイデオロギーとしての「自由主義」は徹底的に批判するという立ち位置であり、資本主義のイデオロギーとしての「自由主義」が本質としてもつ悪魔性を自覚的に見据えており、社会主義と自由主義を合体(社会民主主義)させただけでは、「自由主義」の本質を引きずったままで、根本的な解決にはならないと考えているのだろう。
 資本主義のイデオロギーとしての「自由主義」を乗り越えた先で、議会制民主主義と基本的人権と立憲主義の旗を掲げているのだろう。
 『里山主義』という保守主義を提唱するわたしも日本共産党と思いは同じである。イデオロギーとしての「自由主義」を自覚的に乗り越えた先でつかんだ議会制民主主義と基本的人権と立憲主義、そして自由と平等のつもりだ。
 それを自由主義と呼ぶことを否定はしないが、わたしは西欧近代主義の「自由主義」とは違うと明確に意識している。その違いは本論で述べるが、わたしと日本共産党がまったく同じかというと自信はない。
 ただいえることは、現在の日本共産党が、ごりごりのマルクス主義理論を盲目的に信奉していないことだけは確かだ。そうでないと議会制民主主義と基本的人権と立憲主義、そして自由と平等を口にしたりしない。ここら辺りが日本共産党の「独自」性なのだろうが、わたしが提唱する『里山主義』のいう議会制民主主義と基本的人権と立憲主義、そして自由と平等と同じ意味なのか、というと分からないというのが正直な感想である。「独自」が薄ぼんやりとしていてはっきりと見えないからだ。
 が、紙智子の歴史的な演説は、わたしに日本共産党のぼんやりとした「独自」がどういう姿をしているのか、見せてくれたのだ。見せてくれたというのは正確ではない。直観としてつかませてくれたというのが正しいだろう。当然にこれについては本論で述べる。
 
 日本共産党の「独自」について、別の視点から更に論じてみたい。
 規制緩和と構造改革とTPPを前にして、日本共産党と、いわゆるリベラルがどういう行動をしたか思い起こしてもらいたい。
 いわゆるリベラル政党はあっちへ行ったりこっちに来たりと、揺れ動いたのが事実だったのではないだろうか。一貫して反対したのは日本共産党である。
 どうして日本共産党が一貫していたかというと、上述したように、規制緩和と構造改革とTPPが、資本主義のイデオロギーとしての「自由主義」が導く必然的な政策であることを見抜いていたからだ。「自由主義」の本質を常に見据えているから、「自由主義」の甘い言葉に欺されないのである。
 さて、ここからが日本共産党の「独自」の核心に迫る考察である。そしてこの核心は、紙智子の歴史的演説に深く関係するものでもある。
 規制緩和と構造改革とTPPはグローバリズムが反映したものだ。
 西欧近代主義を母にもつ資本主義には、その核に、おぞましい貌をもつグローバリズムがある。何故ならば、資本主義は永遠に拡大再生産を続けなくてはならない宿命があるからだ。宿命と言うよりは、資本の本能と言った方がいいだろう。
 では社会主義はどうだろうか。
 西欧近代主義を母とする社会主義の核にもグローバリズムがある。プロレタリア・インターナショナリズムだ。
 西欧近代主義の核にあるグローバリズムは、剥き出しの姿を晒せば、コスモポリタニズムだと思う。厳密にいえば、プロレタリア・インターナショナリズムも基本的にはコスモポリタニズムだろう。
 日本共産党の「独自」の社会主義はどうなのだろう。
 わたしは勝手に日本共産党の「独自」性に可能性を見出しているので、反グローバリズムだと想像しているのだが、マルクス主義を掲げているのだからプロレタリア・インターナショナリズムを捨て去っていないのだろうか。
 プロレタリア・インターナショナリズムと「プロレタリア」を取り去ったインターナショナリズムでは意味が違う。
 ここで、保守主義と西欧近代主義を分ける境界線を考えてみたい。
 わたしは境界線を個別主義か普遍主義かの違いにみている。
 普遍主義は優れて一神教的な発想であり、個別主義は多神教的な発想だと思う。
 普遍主義の発想はどうしてもグローバリズムに繋がってくるだろうから、世界が普遍へと向かって一つに収斂していくという考えに染まるのだろう。西欧近代主義でいえば、その普遍性が「西欧的近代化」になるのだろうし、普遍に向かって世界が歩んでいくことが「進歩」とされるのだろう。だから遅れた地域に武力で侵攻し、「西欧的近代化」を強引に推し進めることが「進歩」だと正当化することに躊躇がないのだろう。
 多神教的な発想が基本にあれば、地域間で異なる風土と自然と人との共生が織りなす個別的な伝統と文化と慣習と暮らし方を尊重し、愛着をもつ心に繋がるのだろう。個別主義の世界には、真っ直ぐに普遍へと向かって突き進んで行く「進歩」という時間感覚ではなく、循環する時間感覚が息づいているのではないだろうか。個別性を尊重する心には、普遍主義のいう「進歩」を、個別的な伝統と文化と慣習と暮らし方を破壊する身勝手な思い込みとしかみえないだろう。
 わたしは保守主義と西欧近代主義の境界線を個別主義と普遍主義にみているが、一神教であるキリスト教とイスラーム教が精神的土壌となっている地域と、日本のような多神教的な精神土壌がある地域では、個別主義の現れ方も違ってくるし、また時間感覚も違ったものになってくるのだと思っている。
 西欧近代主義をどう乗り越えるか、というのが、これまでのわたしの拙い思索の旅であり道程でもあるのだが、だからこそ、日本の多神教的な精神風土に可能性を見出してもいるのだ。
 
 ついでだからこの際寄り道をして、日本の国家主義(=右翼)と保守主義の違いを、わたしなりに考察したい。国家主義と保守主義とを混同してしまっている風潮を嘆いているのだ。
 国家主義は普遍主義なのか、それとも個別主義なのか。
 一見すると日本の伝統と文化とを重視するのだから個別主義にみえるだろうが、紛れもなく普遍主義である。そもそもが国家主義とは西欧近代主義の産物なのである。国民国家という概念が生まれ落ち、それによって国民と国家との契約という発想が生まれ、更に国民主権の観点から国家権力の暴走を縛る立憲主義が生まれたのだが、その時点で、国民主権と国家主権との綱引きが始まったといえるのではないだろうか。民主主義と国家主義との綱引きと対立と置き換えてもいいが、いわゆるリベラルは国家主義が民主主義に敵対する反動だから保守主義だと主張するのだろう。そして、国家主義が伝統と文化を巧みに利用して声高に叫んでいるから、余計に保守主義と見分けがつかなくなっているのだろう。
 どうして国家主義は個別主義ではなく普遍主義なのか。
 上からの近代化革命がなった明治維新から戦前までの歴史を辿れば一目瞭然だろう。西欧のキリスト教を模して急ごしらえで虚構した一神教的国家神道は、正しく西欧近代主義の悪しきものまねであり、日本の国家主義の本質が普遍性にあることは、これ一つをとってみても明らかだろう。
 韓国を併合したらどうしたか。日本語を強要し、もちろんのこと一神教的国家神道を押しつけたのである。一神教的国家神道は天皇が唯一にして絶対の神だからだ。その神の前に跪くことを強要するのは当たり前だ。韓国の個別性など認めないのである。
 個別主義のはずが、日本の個別性を世界に強要し、日本の個別性で世界を一色に塗り潰そうというのだ。これを個別主義というのは無理がある。日本の個別性を普遍とし、それに向かって世界は進歩していくのだという考えなのである。
 陸軍中将であり軍事思想家だった石原莞爾に『世界最終戦論』というのがある。フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』が、資本主義と社会主義による世界最終戦だとすれば、石原莞爾の『世界最終戦論』は、欧米とアジアの盟主である日本との世界最終戦だというのだ。欧米vs東洋という図式になるのだろうが、考えようによっては、キリスト教vs一神教的国家神道(=天皇)ともいえる(笑)。この『世界最終戦論』には明らかに普遍主義の発想が核にある。ついでだからいうと、戦前のいわゆる「近代の超克」はこの系譜に連なるのだろう。
 戦前の日本の超国家主義とナチスのファシズムを持ち出すまでもなく、右翼の国家主義とは、個別主義のようで本質は普遍主義なのだ。文化と伝統を熱狂的に叫ぶが、個別的な民衆の暮らしと慣習と、そして、その暮らしと慣習を支える自然とを平気で破壊してきたのは国家主義なのである。暮らしと慣習こそが伝統と文化の礎のはずが、そんなことは知ったこっちゃないのだ。国家の発展のためなら国民の暮らしがどうなろうが、自然がどんなに破壊されようがお構いなしなのである。
 足尾銅山の鉱毒事件で田中正造が国家に反旗を翻したが、田中正造は左翼でもなければ右翼でもない。正真正銘の保守主義である。たとえ国家だろうが、郷土の自然を破壊し、その自然と共にあって生きている民衆の暮らしが破壊されることが我慢ならなかったのだ。国家ではない。郷土である。ナショナリズムではない。パトリオティズムだ。
 国家主義と保守主義の違いを考えるときに、田中正造は象徴的存在だといえる。そしてナショナリズムとパトリオティズムとの境界線も重要だろう。
 
 幼児性分裂症の安倍晋三は、もちろん保守主義ではない。
 安倍晋三には心の故郷はない。あるとしたら、ゴルフ場の殺伐とした風景の中だろう。安倍晋三にとっての心の原風景とはゴルフ場なのかもしれない。
 口では伝統だの文化だの言っているが、日本という特異な風土の中で生きる民衆の暮らしが作り上げた原風景になど、これっぽっちの愛着もない。だから美しい大浦湾の海に赤土を投入する暴挙に及ぶのだ。伝統と文化の土台である民衆の暮らしと自然を破壊している張本人が安倍晋三なのである。安倍晋三にとっての文化と伝統は、明治維新政府がでっち上げた一神教的国家神道でしかないのである。一神教的国家神道は虚構の伝統であり文化でしかない。思えば嘘が人格である安倍晋三だから、キリスト教の模造品であり、捏造品である一神教的国家神道に引き寄せられるのだろう。以前のブログで紹介したが、一神教的国家神道が急ごしらえの捏造品であることを、生みの親である伊藤博文が告白している。
 安倍晋三は保守主義ではない。括弧付きの「思想」だが、頭に「超」がつく国家主義だ。その上で広義の「自由主義」(新自由主義は立派な自由主義であり、赤裸々な資本主義の本質だといえる)なのである。矛盾していると思うかもしれないが、矛盾してはいない。安倍晋三は、カビが生えた一神教的国家神道の亡霊に取り憑かれ、その復活を画策して戦前の日本ファシズム国家を夢見るおぞましい勢力だけではなく、巨大資本にも担がれた神輿でもある。帰るべき国と故郷とをもたない根無し草の多国籍企業が、安倍晋三を神輿に担ぎ、国家という盾と矛でやりたい放題をしているのである。やりたい放題をするには国民の主権を取り上げ、強権的な国家にするのが手っ取り早い。その点で一神教的国家神道の亡霊に取り憑かれた勢力と同盟できるのだろうが、日本の巨大企業が国家を後ろ盾にしないとどうにもならないほど凋落しているのも一因なのだろう。
 いや日本の巨大企業だけではない。世界規模でいえるのだろう。新自由主義が世界を闊歩しているのがその証しだ。新自由主義とは、資本主義が自らを存続させるために、一端は隠したはずのおぞましい貌と牙を、形振り構わず剥き出しにしたものであり、資本主義が産声を上げた、法の規制と拘束とがない、利潤を求めて自由勝手にやりたい放題だった原初の姿へと、祖先帰りをしようとするものだ。これが資本主義とそのイデオロギーである「自由主義」の本性でもある。

 保守主義と国家主義との混同を助長した責任は左翼にもある。当然に日本共産党も例外ではない。
 マルクス主義を信奉する左翼と日本共産党の目には、歴史が社会主義へと向かって発展していく必然性に抗う頑迷な反動と映るのだろう。だから保守反動と一括りにしまう過ちを犯したのだ。
 国家主義と保守主義との間には、越すに越されぬ川が横たわっているのである。国家主義が立っているこちら側が西欧近代主義のエリアで、川のあちら側が西欧近代主義に疑いをもっているエリアといえるのだろう。社会主義と資本主義は西欧近代主義を母とする二卵性双生児だから、当然に川のこちら側になる。
 間違えてはならないのは、国家主義は資本主義と社会主義と別個のものとしてあるのではないということだ。資本主義と社会主義が裡に抱きかかえるものであり、資本主義の中で国家主義が極端となって、ある一線を越えれば(ファシズム革命)、ファシズムとなる。プロレタリアートによる社会主義革命を完全に成就させるために、暫定的とはいえ、プロレタリアート独裁と共産党の一党独裁を謳うマルクス主義を体現した社会主義が、国家主義的な色合いを強めるのは頷ける。全体主義の問題は、資本主義も社会主義も等しくもっているのだ。
 北一輝が構想した国家社会主義は示唆的だろう。この思想は右翼として括るべきなのか、それとも左翼として括るべきものなのか。どちらにも当てはまる思想だというのが、社会主義と資本主義とが西欧近代主義を母としてもつ二卵性双生児だという証拠だと思う。
 体制の変革を左翼は革命と言い、右翼は維新と言うが、西欧近代主義の本質は、絶えざる破壊を発展と呼び、進歩と呼んでいるのではないだろうか。わたしは西欧近代主義の本質は破壊にあると思っているが、この観点からいうと、保守主義にも重大な誤解がある。社会主義の専売特許となっている革命という言葉によって、社会主義を破壊と結びつけて嫌悪しているが、実は、資本主義こそが常態的に破壊を繰り返しており、いわば破壊常習者であることに気づいていないのだ。
 安倍政権をみれば明らかだろう。伝統と文化を熱狂的に叫びながら、矛盾したことに、日本人の心の原風景を破壊し、宇沢弘文のいう社会的共通資本を破壊し、日本人の暮らしを根底から破壊しているのが安倍政権と自民党である。沖縄県民の民意を無視し、法律をも蹴飛ばし、問答無用で赤土を投入する行為は象徴的だといえる。
 しかし、素朴な保守主義者は、欺されても欺されても、欺され続けても、性懲りもなく自民党こそが保守党だと思い込んで投票してしまうのだ。保守主義的な感情を生きる農民と漁民は特にこの傾向が強いのではないだろうか。また、戦前の国家権力による日本共産党に対する洗脳教育の影響が、未だに農村や漁村には根強く残っているのだろう。
 一方で、素朴な保守主義の感情を生きる農民や漁民を突き放してみている側面が、マルクス主義にあるのも確かだろう。何故ならば、社会主義革命を担う先鋭的で主体的な階級はプロレタリアートでしかなく、農民と漁民は反革命勢力の一翼として捉えられているからだ。戦後長きに渡って、農村と漁村で日本共産党が拒絶されていたのはこの辺りに理由があるのではないだろうか。
 日本共産党の「独自」は個別主義なのか、それとも普遍主義なのか。
 この問いは日本共産党にとっては重大な問題だろう。マルクス主義は普遍主義の思想であり理論だからだ。
 個別主義か、それとも普遍主義か、という問題は、グローバリズムとも密接に関係するものでもある。そして、表題である紙智子の歴史的演説の意味を考える上で、重要な鍵となるものである。この件については本論で考察したい。

 マルクス主義が「宗教」になぞらえられたりすると言ったが、宗教をアヘンとして断罪したマルクスを想うと皮肉ではある。
 資本主義と社会主義は西欧近代主義という母の胎内から生まれ落ちたものだ、というのがわたしの持論であるが、どちらも一神教であるキリスト教の精神的土壌に花開いたものである。だからだろう、発想方法に驚くべき共通性がある。
 自由主義を代表する経済学者であるアダム・スミスは自由で平等な競争を前提とした経済的市場に「神の手」をみていたが、アダム・スミスの「神の手」と共通した発想がマルクス主義にもみられる。静態的か動態的かの違いはあるが、わたしは発想に共通性を感じてしまうのである。
 マルクスの理論によれば、歴史の発展は社会内部の生産力と生産関係との矛盾によって推進されるとしている。生産用具の改良や機械の発明、技術革新などに直結し飛躍的に発展していく社会的な生産力と、制度的に固定された生産関係との間に齟齬が生じ、社会的な生産力の発展を妨げる生産関係を変える必然的な作用(革命)が起こり、このメカニズムによって歴史は発展していくというものだ。このメカニズムをアダム・スミスの「神の手」に引き合わせて考えるのは無謀だろうか。わたしはどちらにも一神教であるキリスト教の匂いを感じてしまうのだ。市場と歴史という違いはあるが、唯一にして絶対なる神の意志が働いているとみているといえないだろうか。
 マルクスはマルクス以前の社会主義を「空想的」社会主義といって批判し、唯物弁証法哲学を土台とした経済理論としての社会主義に「科学的」という形容詞をつけてその正しさを強調しているが、わたしにはこの「科学」という言葉が信じられないのである。
 西欧近代主義は人間だけが神から与えられたとする「理性」を、神に代わって神棚に祭り上げたが、わたしはこの「理性」もまた諸手を挙げては信じられないのである。理性が絶対的に正しいとしたら、この世に原発など出現してはいないだろうし、原子爆弾など作られることもなかったはずだ。どちらも科学の発展による結果なのである。しかし、貪欲に真理の探究へと向かう科学の結果だとしても、原発を作って事故が起きたらどうなるか、それを判断するのは「理性」であるはずだ。原子爆弾を作って使用したらどうなるか、それを判断するのも「理性」であるはずだ。ところが「理性」は、原発と原子爆弾を作ってしまったのである。
 わたしは「科学」と「理性」への盲目的な信仰は西欧近代主義の不治の病だと思っている。神に代わって「理性」が神棚に座ってしまったのだから当然の帰結なのだろうが、理性信仰は言葉を換えれば人間中心主義であり、人間至上主義でもある。「理性」とは、唯一にして絶対なる神が人間「だけ」に与えた真理に至るための手段であり、神に通じる道だからだ。「理性」は神の意志といえないだろうか。一神教であるキリスト教の精神土壌においては、神の意志である「理性」は絶対にして正しいものであり、唯一でなくてはならないのだろう。西欧近代主義によって発見された「理性」が唯一にして絶対的に正しいとするならば、西欧以外の地域に住む住民は未だ「理性」に目覚めぬ「野蛮人」だという意識が芽生えるのは自然の成り行きだろう。西欧近代主義こそが正義なのだという思い込みが暴走を始めるのである。
 保守主義と自由主義との決定的な対立は、「科学」と「理性」に懐疑的であり、科学信仰と理性信仰から自由だということだろう。そして、西欧近代主義を母とする社会主義も科学信仰と理性信仰とが土台にあり、保守主義は自由主義と同様に、社会主義とも決定的に対立している。
 科学信仰の末路はどうなるか。。
 わたしが傾倒している、良質な保守主義の体現者であるハンナ・アレントの『人間の条件』(ちくま学芸文庫・志水速雄 訳)から長くなるが抜粋してみよう。

「現代の科学的な世界認識の『真理』は、たしかにそれを数式で証明し、技術的には立証できるのだが、もはや普通の言葉や思想の形で表現できない。(中略)
 私たちは今、地球に拘束されていながら、まるで宇宙の住人であるかのように活動し始めており、そこで本来は理解できる物事も理解できなくなるかもしれないし、考えたり話したりすることが永遠にできなくなるということもありうる。そうなると、私たちの思考の肉体的・物質的条件となっている脳は、私たちのしていることを理解できず、したがって、今後は私たちが考えたり話したりすることを代行してくれる人工的機械が実際に必要となるだろう。技術的知識という現代的意味での知識と思考とが、真実、永遠に分離してしまうなら、私たちは機械の奴隷というよりはむしろ技術的知識の救いがたい奴隷となるだろう。そして、それがどれほど恐るべきものであるにしても、技術的に可能なあらゆるからくりに左右される思考なき被造物となるであろう」

 草刈りの肉体労働で半年ほどブログから遠ざかっていたので筆が遅くなってしまったようだ。頭の方はまだ錆び付いてはいないと思うのだが、もどかしい限りだ。慣れというのは恐ろしい(笑)。
 それに年末は何かと忙しい。これから大掃除しないとならない。妻の命令である。
 命令に逆らうと酒をとりあげられるだろうから、するしかない。それにわたしは平和主義者なので、妻との諍いは極力避けるようにしている。火がないのに、自分で放火して通報し、マスコミに大騒ぎさせて韓国との諍いを焚きつけている安倍晋三とは真逆なのである(笑)。
 そんなわけで、今日はここで終わりにしたい。今年中には完結するつもりだ。

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 https://www.youtube.com/watch?v=6mgmhHrCnss (農水委員長の解任決議案に対する賛成討論)

 12月7日、参議院本会議で日本共産党・紙智子議員による『農水委員長の解任決議案に対する賛成討論』が行われた。
 YouTubeでこの演説を観たわたしは、これは歴史的な意味を持つ演説だ、と直観した。
「歴史的な意味を持つ」という形容は決して大仰ではない。
 いつの日にか、日本共産党の議員の誰かが、今の世の中を支配する価値観とはまったく違う価値観が息づく未来の世界へと通じる扉をこじ開ける演説をするはずだ、とわたしは首を長くして待っていた。紙智子氏(以下敬称略)のこの演説こそが、わたしが待っていたものなのである。
 紙智子は、1955年に北海道札幌郡豊平町の農家の四人兄妹の末っ子として生まれている。1954年生まれのわたしとは一才違いになる。
 北海道の農家の四人兄妹の末っ子という生い立ちは象徴的である。ウィキペディアによれば、実家は自民党支持(保守主義)だったようだが、これもまた象徴的だ。紙智子の身体には、北海道の農民の血が色濃く流れているのは間違いないだろう。そして紙智子には、北海道という風土の中で、土と格闘し自然と向き合いながら暮らしてきた農民としての心と感性とが地下水となって流れているのも間違いないだろう。この地下水こそが、言葉の厳密な意味での良質な保守主義の心と感性だ、とわたしには思えてならない。
 紙智子は日本共産党の常任幹部会委員であり農林・漁民局長であるが、紙智子ほどこの役職に相応しい人材はいないといえよう。
 誤解を恐れずに言えば、「日本共産党」の「紙智子」だから、今の世の中を支配する価値観とまったく違う価値観が息づく、希望という名の未来の世界へと通じる扉をこじ開けることができたのではないだろうか。
「日本共産党員」でなかったら、そして北海道の農民の血が流れる「紙智子」でなかったら、歴史的意味を持つ演説として結実することはなかったのではないだろうか。
 日本共産党だけでは不可能だった。日本共産党員にして北海道の農民の血を受け継ぐ紙智子だから可能だった。そうわたしは確信している。
 では、どうして紙智子の演説が歴史的な意味を持っているのか、そして、今の世の中を支配する価値観とまったく違う価値観が息づく未来の世界の扉を開けたとはどういうことを指しているのか、それを論じる前に、わたしが本論で述べることを少しでも理解してもらうために、わたしの基本的な立ち位置を予め説明しておきたい。直截に本論に入っても理解してはもらえないと思うからだ。いつものように少し長くなってしまう(笑)が、辛抱して読んでいただきたい。

 わたしはJCPサポーターである。が、『里山主義』という、言葉の厳密な意味での保守主義の思想を掲げている。学生時代はマルクスを信奉していた。が、今では否定的だ。
 今のわたしは労働を神聖視することはない。労働それ自体の中に歓びが内在しているとも思っていない。労働は悪だと思っており、できれば労働をせずに生きていきたいものだとも思っている(笑)。労働観でいえば、わたしは労働を神聖なものとしたサン・シモンではなくフーリエを支持している。
 マルクスの労働観はサン・シモンの系譜に連なるものだ。そして、西欧近代主義における労働観はサン・シモンの労働観が土台にある。
 何故ならば、西欧近代主義と不可分に結びついている資本主義とは、それまでの共同体から引き剥がされ、生きる基盤を奪われて、資本家に自分の身体そのものである労働力を売って賃金を得る以外に生きる手立てがない労働者を絶対的に必要としたからだ。そのためには、労働にきらびやかな衣装を着せて、労働を祭り上げなければならなかったのであり、自然のリズムに合わせて生きてきた自然的人間を、時間に縛られながら機械とともに規則正しく働かなければならない工場労働に適応するために、機械的人間へと変える必要性があったのである。作業効率の徹底的な追及の果てに、一秒単位で作業動作まで管理された現代の工場を思い浮かべれば、わたしが言っている意味が分かることだろう。
 わたしのように労働は悪だなどという価値観が蔓延していては、資本主義は成り立たなかったのである。人間を人間たらしめているのは労働であり、労働こそが人間の本質であり、神聖なものであるという考えは、資本主義を誕生させた西欧近代主義によって民衆の頭に刷り込まれたものでしかない。西欧近代主義の社会がこの世に出現する以前の労働観はまったく違ったものだったのである。
 労働を神聖視することなく、労働は悪だと思っているわたしだから、労働者に幻想など抱いてはいない。また、労働者を一つの階級として捉えて歴史的な可能性をみるなどという幻想も持っていない。
 労働には人間をあるべき人間たらしめ、人間として生きていく喜びと倫理と共同性とを再生させる力が内在するものなのだが、資本主義という制度が労働を疎外してしまっているから、労働の本来の姿が歪められているという考えは、わたしからみれば誤った思い込みだと思う。
 労働者階級が権力を奪取し、資本主義の制度の頸木から労働を解放したとしても、根本的な問題は残り続けるのではないだろうか。
 労働それ自体には、醜悪な資本主義の社会をあるべき理想の社会へと、制度的にも、そして倫理的にも、蘇生させる本質的な力はないだろう。資本主義の頸木から労働が解放されたとしても、労働は依然としておぞましい姿のままなのである。何となれば労働は悪でしかないからだ。悪でしかない労働をどんなにきらびやかな言葉で飾り立ててみたところで本質は悪なのだから、労働が資本主義の頸木から解放されて自由になったとしても、労働それ自体は変わり様がないのである。
 労働者階級が権力を奪取し、制度としての資本主義を変えたとしても、土台としての価値観が同じならば、新たに出現した社会が資本主義の社会と本質的に異質なものだとはいえないのではないだろうか。
 わたしは本質的には同じだと思っている。この世に誕生した社会主義国家は、純粋な意味での労働者階級による支配とはいえないのかもしれないが、実体としては資本主義国家と五十歩百歩であり、中には独裁的な国家だったり、全体主義的な国家であったりもして、資本主義国家よりもおぞましい貌を晒したのが歴史的事実だったのではないのか。
 マルクスによれば、社会主義とは資本主義の矛盾を発展的に止揚したものとして捉えているので、当然に土台としての価値観は資本主義と共有していることになるのだろう。だから、わたしは社会主義を資本主義と同様に否定するのだ。土台としての価値観が同じままなら、虐げられてきた労働者がヘゲモニーを握ったとしても、その社会に希望を見出せないからだ。疎外から解放されたはずの労働もまた、資本主義社会における醜悪な姿をした労働のままだろう。どんなに制度を変えても、土台としての価値観が同じならば、社会の本質は変わりようがないからだ。

 連合という労働組合をみれば明らかだろう。
 歩むべき方向は経団連と寸毫も変わらない。一心同体であり、運命共同体だといえるのではないだろうか。だから資本と手を結ぶことに躊躇はないし、時には資本の手先となって市民の連帯を潰したり、果ては、資本主義のおぞましい究極の姿である新自由主義の先兵隊となったりするのだ。
 連合という組織は労働貴族にまで堕落したからだという指摘は当たらないだろう。自分たちが虐げられた「労働者」という立場のときは、資本と先鋭的な対立と闘争を繰り広げてきたが、分け前が増えて待遇が改善されれば、嬉々として資本と手を結んできたのが総評の歴史だったのではないのか。同盟などは、資本の犬になって争議潰しにいそしみ、労働者の団結の分断と阻止を買って出ていたほどである。
 労働組合は資本と対立しているようにみえるが、実体は、分け前(利潤)の分配の問題(賃金)だったり、労働環境の改善といった問題でしかなく、本質的な対立とはいえないのではないだろうか。現在のような超格差社会にあっては、賃金と劣悪な労働環境は、人間として生きる尊厳を脅かす由々しき問題であることは確かである。そして、格差を是正するために虐げられた労働者たちが団結して闘うことは重要ではある。が、誤解を恐れずに言えば、それでもわたしには皮相的な問題であり対立だとしかみえない。
 批判を覚悟で敢えて言おう。労働者は何にでも化けられるのだ。
 独裁化し腐敗しきった国家権力を転覆させて、民主主義を取り戻す中核的な存在にもなれば、極右勢力を熱烈に支持して排他的で暴力的な差別主義者となり、ファシズムの旗振り役にもなれるのである。
 だからといって、わたしは虐げられた労働者が団結することを否定しはしない。団結することは重要である。労働者が団結しなければ戦前のファシズム国家へと暴走している眼の前の安倍政権という敵を倒すことはできないからだ。が、労働者の自由に任せて団結さえすればいいかというとそうではない。どういう方向で団結していくかが重要になってくるのは言うまでもない。虐げられた労働者と労働者階級は常に正しい方向に歴史の歯車を推し進めて行くというのは悪しき妄想でしかない。こうした妄想に囚われるのは、労働を人間の本質であり神聖なものとしたサン・シモンの思想に引きずられてしまっているからだ。
 労働者ばかりではない。人間はどうにでも化けられる。だから優しい家庭的な父親だったはずが、戦場にあっては夜叉へと化けて、女子供をも平然と殺すことができるのだ。

 以上のように、わたしが掲げる『里山主義』とマルクスの思想とには労働観において決定的な相違がある(わたしの労働観についてはバタイユのいう消費に絡めてブログに何度か書いている。興味があれば、そちらを読んでほしい)。
 決定的な相違は労働観だけではない。
 一言でいえば世界観の相違だ。
 より具体的にいうと、世界を形作っている時間軸の捉え方と、世界を支配している土台としての価値観との相違だ。当然に時間軸は歴史観と密接に結びついてくるし、価値観は幸福観と、そしてあるべき生き方とは何かという根源的な問いとも関連してくる。
 西欧近代主義においてはどういう時間軸と時間感覚が息づいているのだろうか。それを象徴するのがダーウィンの進化論だといえるだろう。時間は進歩しながら前へと向かって進んでいくという暗黙の意識に支配されている世界なのである。わたしは、こうした意識が生まれる土台と一神教であるキリスト教の存在とを重ね合わせてみている。
 一神教とは神は唯一にして絶対なるものなのであり、それ以外の神はあってはならないものなのだ。布教活動とはその唯一にして絶対なる神の存在を人々に認知させ、神の前にすべての人を跪かせるための道程であり、唯一にして絶対なる神の存在を受け入れた者が当然に背負わなければならない責務なのではないだろうか。全世界の人々が唯一にして絶対なる神を崇める輝ける日に向かって、時間は進んで行くのである。唯一にして絶対なる神を崇める人々が増えていくことが人類にとっての進歩なのである。正しく世界を一つの色で染め上げ、単一化し画一化した世界を創ろうとする悪しき意味でのグローバリズムだろう。
 西欧近代主義の土台には一神教であるキリスト教の精神風土が色濃く反映していることは間違いないだろう。
 しかし、一神教であるキリスト教の精神風土だけでは西欧近代主義はこの世に生まれ落ちてはいない。皮肉なことに西欧近代主義は、唯一にして絶対なる神を棚上げすることで産声を上げたのだ。神を棚上げして隅に追いやった代わりに何を発見したのか。自然権をもつ個人と、人間だけに神が与えてくれた理性である。
 どうして自然権をもつ個人が発見されたのか。
 この問いは重要だろう。自由主義の問題を考える上で不可欠のものだからだ。
 マルクスの理論によれば、経済的な関係性という土台としての構造(下部構造)が、政治的な制度や法律、そして思想や風俗や慣習、また文化まで(上部構造)をも規定するとしているが、マルクスの理論をなぞれば、下部構造が既に資本主義段階に達していたので、資本主義を正当化するために、上部構造において自然権をもつ個人の発見という啓蒙思想が誕生したということになり、啓蒙思想は資本主義の要請によるもので、資本主義と一体となったものだといえるのだろう。
 一方で、自然権をもつ個人の発見と社会契約説は不可分のものだ。社会契約説によって国民と国家の関係性が明確に意識され、それによって初めて国民国家という概念が生まれたのだろう。現代において言われている国家とは、西欧近代主義によって誕生した国民国家のことなのである。安倍晋三などは国家の意味をまったく理解していないといえる。現代において認識されている国家という概念が、あたかも太古からそのままの形で存在していたかのような錯覚をしているが、開いた口が塞がらない。

 マルクスは自由主義を資本主義と一体とみている。つまり、自由主義は資本主義のイデオロギーなのである。
 そして、資本主義は制度的な内部矛盾を抱えており、その内部矛盾が頂点に達するとそれを止揚する形で社会主義革命が起こり、共産主義社会の移行過程としての社会主義国家が生まれる必然性を説いた。
 ここで重要なのは、マルクスは資本主義と同様に、自由主義にも鋭い懐疑の目を向けていることだろう。いわゆる自由主義陣営(リベラル)にはこの視点が決定的に欠落している、とわたしは思っている。
 わたしは社会主義は否定している。が、自由主義を無条件に支持もしていない。いわゆるリベラルと日本共産党との違いは、自由主義の負の側面という視点を常にもっているかどうかの違いにある。これは日本共産党の可能性を考える上で重要な問題であり、合わせて、どうして日本共産党と言葉の厳密な意味での保守主義とに共通性があるのかという謎を解明する手掛かりでもある。この点に関しては本論で述べたい。
「自由主義か、それとも社会主義か」という対立図式でみるか、「自由主義か、それとも保守主義か」という対立図式でしかみれないのが、いわゆるリベラルなのである。
 自由主義そのものを謙虚に疑ってみる目を失ってしまっているのである。自由主義は何が何でも正しい。だから資本主義も絶対的に正しい。こうした思い込みに雁字搦めになっているのだろう。こうした思い込みに毒されきっているから、日本共産党を排除する感情が生まれたりしてしまうのではないだろうか。これは病気である(笑)。信じられないような知識人やリベラル議員までが、この病に冒されているから救いようがない。
 いわゆるリベラルが闘っている敵は何か。わたしの目に映っているのは、社会主義ではない。ましてや保守主義でもない。リベラルが闘っているのは「自由主義」であり自分自身なのである。リベラルによる滑稽な独り相撲でしかない。
 安倍晋三の幼児性分裂症の「思想」を括るとしたらどの範疇に入るのだろうか。思想を括弧にしたのは思想と呼ぶにはあまりにもお粗末だからだが、敢えて思想として括るとしたら保守主義では絶対にない。奇異に思うかもしれないが、安倍晋三の「思想」は広義の自由主義である。
 これは動かしようがない事実である。が、いわゆるリベラルはこの事実が理解できないのだ。当の安倍晋三自身もまったく理解していない。安倍晋三を崇拝するいわゆるネトウヨも同様である。
 自由主義という思想を理解するのは難しい。鵺のような得体のしれない思想なのである。
 自由主義とはどのような思想なのか。
 まだ序章の段階なのだが、脇道に逸れて、自由主義と保守主義について触れてみたい。
(つづく)

 紙智子さんの歴史的な演説から十日以上も過ぎてしまった。草刈りの肉体労働が休みになる雨の日にでもブログに書こうと思ったが、書き出してみると、サラッと書ける内容ではないことに気づいた次第だ。歴史的演説だからそれだけの重みがあるのだ。序章の段階で、これだけ長くなってしまった理由である。
 草刈りの肉体労働は20日で目出度く終了し、5月まで冬ごもりになる。この自由な期間で書きかけの小説『三月十一日の心』をどうにか書き上げるつもりだ。
 21日に前立腺癌を摘出してからの定期検診に行ったが異常はなかった。安心して冬ごもりができる。
 去年から登山を再開した。単独行ではなく妻と二人連れだ。仙丈ヶ岳と北岳と赤岳と燧ヶ岳に登り、小説『矢ぐるまそう恋歌』の続編で書こうと構想していた蝶ヶ岳と常念岳にも登った。もちろん帰りには安曇野の碌山美術館に立ち寄り、駅前の『田舎屋』で味噌煮込みうどんを食べた(笑)。思い出の詰まった味だった。
 どれもテント泊である。妻の分の食料も背負っているので30㎏は超えている。登山についてはいつかブログにするつもりだが、小説『三月十一日の心』に反映されることは確かだ。山で息づく感覚は、平地での感覚とは違う。
 小説『三月十一日の心』は、『里山主義』という思想を小説にしたものだ。どういう小説になるか、興味がある方は是非とも読んでいただきたい(笑)。
 紙智子さんは、ご自身のTwitterによれば、臨時国会が終わってから直ぐに骨折されたようである。わたしよりも一つ年下だが、還暦を過ぎてからの骨折が完治するのには時間がかかるのだろう。そういえば、志位和夫委員長が骨折したのも今年だった。精力的に読書をするとツイートしているが、忙しい紙智子さんにはじっくりと腰を据えた読書ができる貴重な時間になるのではないだろうか。更なる飛躍を期待したい。どうかご自愛ください。
 このつづきは近日中に書くつもりだ。
 リベラルは混迷し袋小路に陥っている。リベラル自身が自らでこの袋小路から抜け出せるとは、わたしには到底思えない(笑)。袋小路から抜け出せるとしたら、日本共産党の道案内が必要となるのだが、それすらも気づくには至っていない。何故ならば、リベラル自身が混迷を深め袋小路に陥っていることを自覚してはおらず、安倍晋三さえもが「自由主義」なのだという厳粛な事実と真摯に向き合っていないからだ。細野豪志も前原誠司も橋下徹も等しく「自由主義者」なのである。
「自由主義」とは「資本主義」と一心同体だという当たり前の事実に目をつぶっているのだ。誤解を恐れずに言えば、「資本主義」の鬼子であるファシズムも「自由主義」の産物なのである。
 枝野幸男は、リベラルと保守主義は対立しないなどと言っているが、こうしたレベルに留まっていては、永遠に混迷と袋小路からリベラルは抜け出せないだろう。己自身と向き合い、己自身の中に巣くう悪しき宿痾を乗り越えなければ未来はないだろう。このままいけば資本主義は間違いなく人類を破滅へと導くだろう。それは「自由主義」が導いたものでもある。
 安倍政権の暴走は、資本主義と「自由主義」の末期症状であり、破滅へと転がり出した証しだ……と衝撃的なことを最後に言って今回は終わりにしたい(笑)。
 つづきを乞うご期待!


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