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 昨日の秋葉原での出来事は歴史的な出来事として記憶に刻まれることだろう。
 国会議事堂を10万人を越える民衆で取り囲み、安保法案反対と安倍晋三に退陣を迫った8・30のデモよりも、わたしは衝撃的な出来事であり、安倍晋三と安倍政治に与えた衝撃は計り知れないものと直観している。
 2014年の総選挙の最終日に、安倍晋三は選挙戦での締めくくりを秋葉原に選んだ。我が儘放題に育てられ、嘘と詭弁と言い訳を人格へと積み重ねてきた幼児性分裂症の安倍晋三の政治的本質を、2014年の秋葉原の演説が見事なまでに浮き彫りにしている。
 これについては、過去にブログに書いているので改めて論じることはしない。興味のある方は読んでいただきたい。
 安倍晋三は森友学園疑獄と加計学園疑獄で瀕死の状態である。
 前回のブログに書いたが、日本の数少ない良心ともいえる、前川喜平氏の覚悟の決起によって、安倍晋三は逃げ道のない窮地にまで追い込まれているといえる。前川氏の決起は、文科省の官僚たちの勇気ある内部告発を誘発するまでになっている。
 そればかりではない。加計学園疑獄によって、安倍晋三とその仲間の国家を私物化している事実が、多方面から明らかになってきている。
 安倍晋三を中心とした安倍政治のおぞましい限りの本質が、炙り出されてきたのだ。だから、どんなにNHKを筆頭とするマスメディアが安倍政権に有利になるように情報操作をし、安倍政権の意向のままに情報を垂れ流しても、安倍内閣に対する支持率の急降下を防げなくなってきているのだ。
 安倍晋三は前代未聞の方法で、共謀罪を強行採決すると、加計学園疑獄から一刻も早く逃げようと、延長することを頑なに避けて国会を早々に閉じている。そして、閉会審査と、憲法に謳われているはずの野党の臨時国会召集の要求を拒否し続けているのである。
 朴槿恵大統領を辞任に追い込んだばかりか、監獄にまで押し込んだ韓国であったなら安倍晋三はどうなっていただろうか。
 韓国に限ったことではない。民主主義がそれなりに根付いた国家であったなら、安倍晋三の政治生命は疾うに絶たれていたはずだ。
 民主主義が根付いているかどうかの判断は、国民一人一人の基本的人権の尊重という民主主義の核ともいうべきものへの自覚と拘りは当然であるが、制度としての立憲主義と三権分立が明確に確立し、社会の木鐸たるジャーナリズムによる権力の監視が正常に機能しているかが重要な要素になるのだろう。

 NHKは昨日の秋葉原での安倍晋三の演説をニュースで流したが、安倍晋三に都合がよくなるようにお得意の芸術的とも言える継ぎ接ぎ編集だけではなく、安倍晋三の演説をかき消す圧倒的な「安倍晋三、辞めろ」の民衆の声を「抹殺」したのである。
 ニュースとは本来は事実を報道すべきものである。事実を歪める恣意的な編集などジャーナリズムであったなら許されるはずはない。NHKは安倍晋三の国会での支離滅裂な答弁と、我が儘放題に育てられた幼児に等しい、国会での傍若無人で醜悪な言動を、いいとこ取りで切り貼りした編集して報道し、ゆがめた事実を国民に垂れ流している。
 ネットで国会中継を観ている者が、NHKがニュースで流す安倍晋三が国会で答弁する映像を観れば、NHKが如何に作為的に編集し、事実をゆがめているか分かるはずだ。NHKがそれを知らぬはずはない。が、NHKはNHKからしか情報を得ることが出来ない、またはしない人々を狙い撃ちしているのである。
 公共放送のはずが、ゆがめられた事実を、意図的に国民に拡散しているのである。それもゆがめているのは公共放送を名乗るNHK本人なのである。何のためか。安倍晋三と安倍政治を守るためであり、安倍晋三と安倍政治の意向のままに、戦前回帰へと国民を導くためである。
 NHKはこの世には存在しない架空の安倍晋三という男の国会答弁の光景を作り上げ、またこの世には存在しない国民受けする安倍晋三という政治家を作り上げているのである。実態としての安倍晋三は、精神的な錯乱状態の幼児性分裂症を絵に描いたような男なのにだ。その男が強大な権力を握り、狂信的ともいえる戦前の日本ファシズム国家体制への憧憬そのままに、日本という国のあり方を破壊し、日本人の生活を根底から破壊しようとしているのだ。そして、国家までを私物化してしまっているのである。その証が森友学園疑獄であり、加計学園疑獄なのである。
 が、NHKはそれを意図的に国民に隠して、情報操作をしている。実際の安倍晋三の国会答弁と、NHKが編集してニュースで流す国会答弁を比較すれば、NHKは、わたしが指摘することを否定できないはずだ。そして、NHKの看板的存在である政治部の岩田明子記者の歯が浮くような安倍晋三ヨイショの解説をみれば、如何にNHKが事実をゆがめて報道しているか否定できないはずだ。

 このNHKが、「安倍晋三、辞めろ」の国民の声を抹殺して報道したことを正当化しているというから驚きである。「安倍晋三、辞めろ」は選挙妨害であり、単なるヤジだからという理由らしい。ふざけるのもいい加減にしろと言いたい。
 それでよくぞ公共放送を名乗れたものだと憤りを覚える。NHKは戦前に何をしたのか。国民を公共放送の名で何処へと導いていったのか。NHKが過去に犯した歴史的大罪を積極的に忘れようと努めているとしか言えないだろう。
 安倍晋三は何をしてきたか。
 国会を嘘と詭弁と言い訳の場に変えたばかりか、自らの精神的錯乱で国会を破壊し、国会での審議が成立し得ない事態を惹起させたのだ。議会制民主主義の破壊である。それだけではない。最高裁判事の任命権と官僚の人事権を掌握し、自分の意のままに操れる体制を敷くことに成功したのだ。小選挙区制度を利用し、自民党は安倍晋三の言いなりであり、独裁体制に近いといえる。つまり、行政権・立法権・司法権をほぼ掌中に収めたといってもいい危機的な状況なのである。三権分立の形骸化である。
 こうした事実をNHKは国民に向けて情報として発信したのだろうか。安倍政権の意向にそってひた隠しにしてきたのではないか。議会制民主主義が破壊され、三権分立が破壊され、憲法が踏みにじられている事態は、日本にとってゆゆしきことであり、日本の未来を閉ざすものである。公共放送を名乗るのなら、先ずは日本国憲法を遵守する旗を掲げていなければならないはずだ。憲法があっての公共放送のはずだからだ。国家権力が憲法を踏みにじろうとすれば、真っ先にNHKが国民に向けて警鐘を鳴らし、国家権力を批判すべきだろう。それが国家権力の下僕にまで成り果てているのがNHKの偽らざる現在の姿だろう。
 
 国会での審議が成り立たないほど国会が破壊され、司法も権力に寄り添って機能せず、官僚も官邸の意のままに操られ、最後の望みである国家権力の番人であるはずのジャーナリズムは安倍政権の忠犬にまで堕落している現状にあって、国民の声は何処で反映されるのだろうか。
 安倍晋三は戦前の治安維持法である共謀罪を阿漕な手段で成立させている。国民の言論の自由を奪う悪法だ。
 秋葉原で「安倍晋三、辞めろ」と国民が叫んだのは、国民に残された当然の権利であり、ここまで国民を追い込んだ、安倍晋三と安倍政治の責任であり、当然の報いなのである。
 どうして幼児性分裂症の詐欺師でしかない安倍晋三だけに、秋葉原で嘘と詭弁と言い訳を言わせる権利を与え、国民が発言する機会が与えられないのか。国民の声が反映されるはずの国会は安倍晋三によって破壊され、司法も機能せず、ジャーナリズムも安倍晋三に飼い慣らされている現状にあって、国民の声を内閣総理大臣である安倍晋三に突きつけられるのは、こうした機会しかないのだ。
 独裁者気取りの安倍晋三に生の国民の声と怒りがやっと届いたのだ。
「安倍晋三、辞めろ」と叫んだ多くの国民の行為を否定する政治家と評論家とジャーナリストよ、恥を知れ!
 お前たちが不甲斐なく、国民の生の声と怒りを形にして安倍晋三に突きつけてこないから、止むに止まれず「安倍晋三、辞めろ」という憤怒の声として結実したのだ。
 だからといって、「安倍晋三、辞めろ」と叫んだ国民は誰もが非暴力を貫いている。暴力に訴えたのは日の丸を手にした安倍晋三の親衛隊と支持者である。

 安倍晋三の恐怖に震えた顔をみるべきだ。
 誰が本当の主権者なのか、我が儘放題に育てられた暴君と化した幼児そのままの男が身にしみて分かったはずだ。
 主権者は国民である。独裁者気取りの安倍晋三ではない。
「安倍晋三、辞めろ」は、独裁者気取りの安倍晋三が、日本をまた再びの地獄絵でしかない戦前回帰へと雪崩れていこうとするのを、必死で止めようとする日本の良心の叫びなのだ!
 この叫びは、前川喜平氏の良心の叫びに呼応するものである!

 NHKよ、他人事ではないと肝に銘じよ!
「安倍晋三、辞めろ」の先に、「NHK、辞めろ」がある。
 ジャーナリズムも他人事ではないだろう。
 いつまでも安倍晋三の太鼓持ちを続ければ、国民の良心は容赦なくジャーナリズムへと向かうはずだ。
 ジャーナリズムは歴史的分岐点の今こそ、前川喜平氏の良心に呼応して決起すべきだ!
 7・1秋葉原を、日本の良心の喚起の日として記憶に刻みつけよう!
 そして、安倍晋三の政治生命を絶つために国民が決起した記念日にしよう!
 日本に良心を蘇らせよう!
 安倍晋三と安倍政治に終わりを告げよう!
 

※余談だが、わたしは丸山真男の弟子である橋川文三から教えを受けている。猪瀬直樹は橋川文三の弟子である。したがって、わたしは猪瀬直樹の後輩に当たる。
 先輩である猪瀬直樹だが、橋川文三の名を汚す大馬鹿野郎だと怒りを覚えていたが、Twitterで「安倍晋三、辞めろ」と叫ばせたのは共産党の仕業だというようなことを言っている。安倍晋三の窮地にあって安倍晋三を擁護すれば、それだけ有り難みが増すというものだ。猪瀬直樹は致命傷を負った安倍晋三が不死身だと思っているようだ。
 そこまでして政治評論家として飯を食っていきたいのか。石原慎太郎の太鼓持ちになったときに終わったと思っていたが、浅ましい限りである。
 肉体労働者のわたしの方が、ずっと志が高い。悔しかったら、肉体労働者として雄々しく生きていけ、惚け茄子が!
 今日は日曜日だったが、雨で休みが多くなり草刈りの肉体労働があった。それでも13時で上りとなり、シャワーを浴びて500ミリリットルの缶ビールを二本空けてブログを書いている次第だ。
 昨日は秋葉原に行っていない。が、ネットで参加し、一緒になって「安倍晋三、辞めろ」と叫んでいた(笑)。
 8・30には国会議事堂前の渦中にいたが、それに勝るとも劣らない高揚感であり、歴史が確かに動いているという思いで胸が熱くなり、思わず落涙してしまった……。秋葉原に結集した方々にお礼をいいたい。ありがとうございました。
 闘いはこれからですね。安倍晋三と安倍政治にさよならを言いましょう!

※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます

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 25日のサンデーモーニング・『風をよむ』のコーナーで、時の人である前川喜平氏の単独インタビューが取り上げられていた。
 前川氏の率直で飾り気がない受け答えに感銘を受けた。これまでの前川氏の発言に接する中で、閃光となって押し寄せてきた直観が間違いではなかったことを確信できた。覚悟の決起だったことを改めて噛みしめた次第だ。
 日本が歴史的分岐点にあり、戦前回帰へと雪崩れて行こうとしている政治的現状を、前川氏は的確に把握しており、そして強い危機感を抱き、どうにかしてこの汚濁に塗れたおぞましい流れを断ち切ろうと、もがいている姿が映像から読み取れた。
 議会制民主主義が破壊され、三権分立も有名無実と化して、安倍晋三を神輿として担ぐ勢力によって、日本は独裁国家へと転落してしまうかどうかの瀬戸際に立っているという現実に、身を捨てる覚悟で決起した前川氏は、国民に向かって警鐘を鳴らしているのだ。
 本来は、一私人が身命を賭して鳴らすべきものではない。社会の木鐸であるはずのジャーナリズムの役割だ。そのジャーナリズムは安倍政権による飴と鞭によって懐柔され、いいように操られている始末だ。だから止むに止まれずたった一人で決起したのであり、だからこそ、前川氏のマスメディアに対する批判は手厳しいのであり、また的を射ているのである。
 わたしはテレビを通して、前川喜平氏から吹いてくる清々しい風を感じた。
 こういう方がまだこの日本にいたのだ、という驚きと共に、前川喜平氏に数少ない日本の良心をみたのである。

 この清々しい良心の風に吹かれながら、東京都議会選挙の話題の中心にいる「都民ファースト」なる党名をみると、余りにもみすぼらしく、ちっぽけで、浅ましいものに思えてしまう。そして、虚偽に満ちた張りぼてだという本質までが透けて見えてくるのだ。
 日本の子供たちと、日本の未来を守ろうとたった一人で起ち上がった前川喜平氏の尊い良心があると思えば、一方では都民さえよければいいという旗を掲げた胡散臭い政党に、拍手喝采している都民が大勢いるのである。
 わたしがこのような皮肉をいうと、「都民にとっては、生きていくための生活基盤をどうやって守っていくかという切実な問題がある。これこそが最優先されて当然であり、明日の暮らしをどうするかという生活に密着した政治こそが大問題なのだ。天下国家や日本の未来を論じるのなどは国政に任せ、都議選は明日の生活をどうすべきかが争点であるべきだ」というような手垢がついた反論が聞こえてくる。
 これまでに、国政と都政は別だという一見するともっともな論理を聞いてきた。
 京都市長選では、あろうことか民進党の福山哲郎議員がこの論理を拡声マイクで叫んでいたくらいだ。あのときに共産党と市民連合が押していた候補が勝利していたら、安倍晋三と安倍政治はどうなっていただろうか。わたしは全く違った政治的状況が現出していたように思えてならないのである。
 国政と地方選とは違うという論理は基本的には正しいだろう。が、政治的な局面によっては誤りであることもある。政治的な局面によっては全く違った意味が生じてくるからだ。
 日本は歴史的分岐点にある。戦前回帰へと雪崩れて行くか、それとも食い止めるかの瀬戸際なのである。ましてや東京都議会選挙なのだ。この歴史的分岐点において、都議選が国政に与える影響は言うまでもないだろう。
 誤解を恐れずにいえば、歴史的瀬戸際においては、個々の政策を争っている状況ではないのであり、個々の政策を争う素地が失われてしまっているといえる。
 独裁者気取りの安倍晋三と安倍政治を考えてみれば明らかなはずだ。安倍晋三は日本を危機的な歴史的瀬戸際にまで追いやった元凶であり、張本人である。安倍晋三が公約した政策に意味があっただろうか。全てが嘘であり、選挙で国民を騙すための空手形であり、日本が危機的な政治的状況にあることを隠すための方便でしかない。安倍政治とは、目的を達成するためなら、国民に対して嘘と詭弁と詐欺を弄することに躊躇もなければ、倫理的な負い目もないのである。そして、国民の耳目を塞ぐために、マスメディアを使って情報操作まで平然とやってのけるのだ。
 こうした政治的な局面において、個々の政策を争う意味があるのだろうか。政策が国民を欺くための嘘であるのに、その政策の是非を問うことに意味などあろうはずはない。

 しつこいようだが、日本は歴史的分岐点にある。この政治的な局面においては、地方選の持つ意味が変わってくるのは当然である。とりわけ日本の首都である東京都議選は言わずもがなだ。
 国政と地方選は別だという論理ではなく、地方選を国政改革のための一里塚にする論理こそが求められるのである。そうでなければ、日本が戦前回帰へと雪崩れて行くのを放置しているに等しいからだ。日本が戦前へと回帰してしまえば、地方政治そのものが死滅するのである。一枚岩的な中央集権的で絶対的な国家主義体制へとなってしまうからだ。つまり、東京都独自の政策など許されないおぞましい社会へとなってしまうのである。
 戦前回帰へと雪崩れていくのを食い止めるには、安倍晋三と安倍政治を葬り去らなくてはならない。
 そのためには自民党と公明党に壊滅的なダメージを与えなくてはならないのである。
 森友学園疑獄と加計学園疑獄で、安倍晋三は瀕死の状態である。安倍晋三を神輿として担ぐ勢力は安倍晋三を守ることに必死である。それだけに、都議選の持つ意味は重大だといえる。
 都議選で自民党と公明党が惨敗すれば、瀕死の安倍晋三にトドメを刺すことになるからだ。だから、自民党と公明党は必死なのであり、なりふり構わぬ選挙戦術に打って出ているのである。公明党に至っては、ネット工作員まで動員しデマと誹謗中傷で共産党を貶める犯罪的な戦術にまで手を染めているのだから驚きである。自ら国民的政党であることを放棄したといえる。
 自民党と公明党は、国政と都政は別だという論理を盛んに叫んでいる。森友学園疑獄と加計学園疑獄による負のイメージを払拭することに必死なのである。そして、都民受けする甘い政策を掲げて騙そうという算段なのだ。
 騙されてはならない。安倍政治においては政策論争は無意味なのである。公約した政策は単なる選挙のための嘘でしかないからだ。これまでの安倍政治が証明してくれている。

 都議選における選択は何か。
 日本を破滅へと導いていく、戦前回帰へと雪崩れて行こうとしている安倍晋三と安倍政治を打倒するか、それとも地獄絵さながらの戦前へと転がり落ちていくのかの選択なのである。政策的な争点が成り立つ以前の本質的な選択だといえる。
 自民党と公明党は、都議選の対立図式は「自民党VS都民ファースト」だとマスメディアを使って宣伝しているが、都民ファーストという胡散臭い看板を掲げる政党は、いわば安倍晋三と安倍政治を存続させるための保険でしかない。当然に、都民ファーストを勝利させては、安倍晋三と安倍政治を葬り去る千載一遇のチャンスを逃すことになる。
 わたしはブログで小池百合子を政治的俳優と書いたが、小池百合子は何にでも化けられる。華々しい政治の舞台で主役を演じ、脚光を浴びることに飢えているのだ。政治的俳優だから、確固とした政治的信念も政治的志もない。あってはどんな顔にも化けられる優れた政治的俳優にはなれないからだ。当然に演じているのだから、小池百合子の言動は舞台でのものであり、全て虚構である。つまり脚本に書かれてあることを、ただそのままに演じているだけなのである。小池百合子にとって問題なのは、その脚本の内容ではない。脚本の善し悪しは、自分が主人公として観客から絶賛され、拍手喝采を浴びることができるかどうかなのだ。小池百合子の恐ろしさはそこにこそある。きらびやかな衣装を身にまとい、片方の手で日章旗を掲げて、もう片方の手には機関銃を持って、日本を戦前回帰へと導いていく支離滅裂な脚本そのままに、ジャンヌダルクを気取ることも躊躇しないのである。
 自分がなした政治的な行動によって生じた結果に対する責任と倫理の不在、いう点では、小池百合子と安倍晋三は似ている。
 安倍晋三が嘘と言い訳と詭弁が人格となっており、嘘と言い訳と詭弁は安倍晋三にとって生きていることそのものなのだから、その生に責任と倫理が介在してしまっては、生きていることを否定しなくてはならなくなるからだ。
 小池百合子は本質が政治的俳優だから、政治的な舞台での行為は演技であり、脚本にそって演じているだけだとなる。したがって、そこに責任と倫理は入り込む余地はないし、責任があるとすれば脚本家ということになる。しかし俳優だとしても、脚本を選んだのは小池百合子本人のはずだから、責任と倫理は発生するはずなのだが、小池百合子にはそうしたことに拘る資質がないのだろう。信念と志があれば、過去の生き方と、現在の生き方と、これからの生き方を、信念と志という基軸で自省し、それぞれの生き方を貫くものがあるのだろうが、小池百合子には元より信念と志がないから、それそれの生き方に一貫性も脈絡性も整合性もなく、デジタル式にバラバラに存在しているのだろう。
 言動に一貫性と脈絡性と整合性がないことも、安倍晋三と小池百合子はよく似ている。が、安倍晋三は幼児性分裂症であるから無自覚なのに対して、小池百合子は本質が政治的俳優だから自覚しているはずだ。小池百合子はしたたかなのである。どちらを操るのが容易いか、つまり操り人形としてどちらが相応しいかといえば、安倍晋三なのだろう。
 しかし、安倍晋三は幼児性分裂症であるから、考えられないような突飛な言動をしてしまうし、権力を握れば、我が儘放題に育てられた幼児よろしく暴君と化して、やりたい放題になるのである。その証が国会での傍若無人で支離滅裂な答弁であり、国会運営なのであり、森友と加計にみられる、呆れかえるほどの私利私欲を剥き出しにした、国家の私物化である。小池百合子は幼児性分裂症の安倍晋三ほどバカではないから、もっと巧妙である。

 二人ともファシストの資質はあるが、安倍晋三は無自覚であり先天性であるのに対して、小池百合子は自覚的に俳優を演じているので、どこまで精神的均衡を保てるかが疑問だ。途中で精神が錯乱してしまうのではないだろうか。そうなると俳優ではいられない。小池百合子にヒトラーほどの強い意志はない。信念と志がなければ鍛え上げた思想もないので、中身は空っぽである。ただ華々しい舞台を用意してくれる権力の匂いを嗅ぎ分け、その権力へと擦り寄っていく才能が秀でているだけである。
 安倍晋三は元々がある意味では精神が錯乱しているので、その心配はない。徐々に錯乱の度合いが増してくるだけなのである。最近では精神錯乱の兆候が顕著にみられる。安倍晋三は精神が錯乱していると国民が気づき始めるまでに酷くなっている。
 が、安倍晋三の精神が錯乱しているのは先天的なのである。嘘と言い訳と詭弁が人格になっているのだから、元々が言動に一貫性も脈絡性も整合性もないばかりか、そのことに人としての倫理的な負い目もなければ、躊躇いもないのである。あるのは祖父と父親に対する知的コンプレックスだけだろう。 

 批判を覚悟で敢えて言おう。
 都民ファーストなる政党に騙され、政治的俳優でしかない小池百合子に浮かれている都民は、救いようがない大馬鹿である。
「何を言うか、都民に密着し、都民の生活を最優先することのどこに誤りがある。思想や主義主張では飯など食えぬ」という批判は承知である。
 しかし、わたしはこの批判には重大な落とし穴があることを指摘したい。「政治か、生活か」という使い古された陳腐な対比によって、コロッと騙されていることに気づかないのだ。わたしからいわせともらうと、単なるイメージと、虚飾でしかない空疎な言葉に惑わされて、肝心要の生活を、安倍晋三や小池百合子のようないおぞましい政治屋に丸投げしていると言いたい。
 これからこの件について、思いつくままに書いていきたい。

 先日、神奈川県にはどうしようもない議員が多すぎるとツイートしたのだが、それなりの反響があり、どういう理由からなのかというリツイートをもらったのだが、そのときに、神奈川県だけでなく大阪府や東京都もそういう傾向がみられるのではないか、とわたしは答えた。東京都については、お祭り騒ぎで小池百合子を都知事にした東京都民を想定してのものだ。
 いずれも大都市圏である。
 わたしが学生の頃は、大都市圏では革新政党が善戦し、地方はいわゆる保守政党の独壇場という様相があった。が、いまや隔世の感がある。むしろ、大都市圏で日本維新の党を代表とするいかがわしい政党が雨後の竹の子のように誕生し、また三原じゅん子のような極右思想(思想ではなく、単なる思い込み)に染まった議員がトップ当選しているのである。それに対して、農村部と山村部で共産党が善戦しているのだ。
 わたしは従来の意味での革新と保守という対立図式が意味をなさなくなったと、何度となくブログに書いてきた。里山主義という言葉の厳密な意味での保守主義を掲げるわたしは、日本共産党を熱烈に支持している。理由は簡単である。主義主張からではない。また難しい思想からでもなく、わたしが愛着を感じ、大切に守ろうとする生活基盤を、わたしと同じように、「明確に」そして「ブレることなく」愛着を感じ守ろうとしている政党は、今のところ日本共産党だけだからだ。
 農村部や山村部で日本共産党が躍進しているのは、戦前に権力が意図的に作り上げた「非国民・赤・危険分子」という共産党へのイメージから徐々に解放されてきたからだろう。そして既成観念という色眼鏡ではなく、ありのままの共産党をみるようになったからだろう。(余談になるが、都議選で公明党が共産党を貶めるための戦術が、戦前の日本のファシズム国家権力がとった手法の焼き直しだということに注目すべきだろう。平和の党などという看板を掲げているが、実際にやっていることは戦前のファシズム国家権力の自由と平等への迫害であり、言論弾圧の踏襲なのである。共謀罪成立に積極的に加担し、極右勢力に乗っ取られた看板だけを自民党と掲げる極右政党の露払い役を担っている公明党の本質がわかろうというものである)

 早い話が、「規制緩和」と「構造改革」という罠を、明確に、そして論理的にはっきりと否定しているのは日本共産党だけなのである。
 規制緩和と構造改革は、あたかも経済成長に絶対的に不可欠のもので、これなくしては経済成長はあり得ず、したがって、豊かな暮らしは成り立たないという幻想にしがみついている政党がほとんどである。
 資本主義をそのまま野放しにしていたら、この世は地獄絵図そのものである。生きている世界が地獄絵図さながらにならないように、資本主義に制限を設けてきたのが資本主義の歴史なのだ。放っておいたら、資本の意思と論理とは果てしなく暴走していくものであり、つまり凶暴性を本質として持っており、やりたい放題なのである。その凶暴な資本の意思と論理に縛りをかけるための、資本と市民との血みどろの闘いで勝ち取った成果が「規制」なのである。人間的な生活と暮らしを成り立たせ、守るものが規制なのだ。公害規制を例に出すまでもないだろう。もちろん利権と結びついた規制もあるが、基本的に規制とは重要な意味があるものだ。
 竹中平蔵が規制緩和と構造改革が経済成長をもたらす打ち出の小槌でもあるかのような、詐欺師のフリードマンの経済理論(新自由主義経済学)を拝借して登場してきたのは、瀕死の重傷に陥った日本の巨大企業がなりふり構わずやりたい放題をするための露払いをする役目を担ってのことである。
 だから資本と一蓮托生の連合が規制緩和と構造改革を絶賛し、民進党も規制緩和と構造改革バンザイなのである。
 わたしは社会構造とは、歴史と伝統と文化が作り上げてきたものであり、その根底には風土との関わり合い方が強く働いていると思っている。だから社会構造の破壊は歴史の否定であり、伝統と文化の破壊に繋がり、暮らし方そのものの破壊に繋がるものである。
 資本主義的な意味での都市は、それまでの社会構造を破壊することで誕生したのではないだろうか。資本主義における都市社会の生活基盤は、それまでの社会構造における生活基盤と違うからだ。
 暮らし方が変わるのだから、当然に価値観も変わり、労働観から幸福観までが変わってくることになる。そして、大衆消費社会の出現である。大量生産された商品を消費することによって、欲望を満足させることが幸福の源泉だとする社会である。

「都市VS農村」若しくは「都市VS地方」という対立図式がある。
 TPPの問題には、この対立図式が入り込んでいる。対立図式を意図的に入れたのは、マスメディアを使った国家権力と巨大多国籍企業なのだが、どういうことかというと、都市の住民にとっては、海外からの輸入品が安く手に入り生活が楽になるのに、地方の農民や酪農家が安価な輸入品に押されて、旧態依然のままの不効率な生産方式で農作物を作っていることを棚に上げて、自分たちの作る農産物が売れなくなり、生産と暮らしが成り立たなくなると反対しているという情報操作をして、「都市VS農村」の対立を煽っているのである。
 企業は外国の企業との競争に打ち勝つために、乾いた雑巾を絞るようにして企業努力を重ね、日々効率化に邁進しているのに、日本の農家と酪農家は補償金と助成金に胡座をかいて、生産の効率化を怠っているという無茶苦茶な論理なのである。
 そもそもが、自然が相手の農産物と工業製品とは本質的な違いがある。そして農産物とは風土と切っても切れない関係があり、だから歴史と伝統と文化にも密接な関係性がある。日本特有の農産物を例に出すまでもないだろう。それだけではない。南北に細長い日本列島だから、気候や自然環境の違いによってその地方でしか栽培しない農作物が多いのだ。日本の豊かで多様な食文化とは、そうした特産品に負うところが大きいのだ。
 TPPとは巨大な多国籍企業の論理なのである。自由で平等な競争原理が貫徹した、グローバルで一元化された単一の市場を求めるものがTPPだが、国によって風土が違い、その風土が育んできた暮らし方が違っており、その暮らしを反映した歴史と伝統と文化が違っているのである。突き詰めれば、暮らし方が違うのだから、価値観も違えば、幸福観も違っているはずなのである。
 そうしたものを無視して、自由で平等な競争原理が貫徹したグローバル市場など空理空論でしかないだろう。構造改革とは、正しく暮らしを支えている歴史的、伝統的、文化的な社会基盤を、経済成長を妨げ、自由で平等な競争原理が貫徹する社会への転換を阻む、諸悪の根源ともいうべき社会構造だとし、徹底的な破壊を美化するものなのである。
 構造改革ほど保守主義と敵対するものはないだろう。が、日本においては保守の旗を掲げた政党が率先して行っているという分裂症的な矛盾がある。構造改革は新自由主義的な発想でしかない。そして経済至上主義であり、経済成長神話に毒され切った思想なのである。
 超国家主義とは、その国に特有な歴史と伝統と文化を絶対化するような印象があるが、それは錯覚でしかない。何処にもない妄想としての国家をでっち上げて、その妄想としての国家へと絶対的に帰依させるために、国民の基本的人権は元より、生きる権利さえも収奪する政治体制なのである。妄想を作り上げるために、歪曲された歴史と伝統と文化を断片的に利用し、いいように飾り立てて、国民の心を国家へと吸い上げるのであるが、やることは歴史と伝統と文化の破壊であり、国民の暮らしの基盤の破壊である。
 ナショナリズムとウルトラナショナリズムとの境界線は、積極的に歴史と伝統と文化を破壊するかどうかなのではないか、とわたしは勝手に解釈している(笑)。
 超国家主義とは、自国の歴史と伝統と文化を絶対化し、守っていくのではなく、歴史と伝統と文化の徹底的に破壊することでしか成り立たないのではないだろうか。何故ならば、何処にもない妄想としての国家だからだ。
 安倍晋三と安倍晋三を影で操る勢力とは、正しく日本の歴史と伝統と文化と、そして日本人の暮らしの基盤の破壊者ではないのか。つまり、超国家主義とは保守主義とは真逆の思想なのである。
 だから安倍晋三には、日本の歴史と伝統と文化への眼差しはなく、愛着もないのである。安倍晋三のいう国家とは、何処にもない妄想が作り上げた国家なのだ。
 我が儘放題に育てられた幼児が、積み木遊びで作ったグロテスクな塔が、安倍晋三のいう国家なのではないのか。その国家に日本国民は幽閉されようとしているのだ。

 いつものことで、筆があらぬ方向へと逸れてしまった。
 疲れてきたので、途中を端折って、結論に移ってしまう(笑)。
 わたしは資本主義は宿命的な病気を抱えていると思っている。分裂症と刹那主義と、思考のデジタル化による言動の一貫性と脈絡性と整合性の破壊である。わたしはこの現象を、現代が抱える「ロマンティック・イロニー」現象と名付けている。
「ロマンティック・イロニー」といっても、ドイツロマン派のロマンティック・イロニーと同じだというのではない。元より自覚的な思想でもない。だから病だというのだ。表面上が、ドイツロマン派のロマンティック・イロニーに似通っているのである。「」で括ったのはそうした意味がある。
 ドイツロマン派のロマンティック・イロニーというと、我が恩師である橋川文三が『日本浪曼派批判序説』(未来社)で、日本浪曼派の保田与重郎の思想を分析しているが、保田与重郎がマルクス主義・ドイツロマン派・国学へと思想的に変遷していった架け橋として、ロマンティック・イロニーをみている。
 橋川文三が解明しようとしたのは保田与重郎の思想である。わたしが言っているのは、資本主義の抱える宿命的な病としての「ロマンティック・イロニー」なのであり、わたしのは単なる思いつきであり、直感にすぎない(笑)。

 分裂症と刹那主義と、思考のデジタル化による言動の一貫性と脈絡性と整合性の破壊、という「ロマンティック・イロニー」現象という病がどうして資本主義は宿命的に抱えなければならないのか。
 テレビのCMを思い起こしてほしい。CMこそが資本主義が宿命的に抱える病を象徴している。
 一つのCMが終わると同時に、次のCMが流れる。これらのCMとCMの間に一貫性はあるだろうか。そして、脈絡性と整合性があるだろうか。中には前のCMと明らかに真逆のCMが流れることも度々である。が、これらのCMを観ている視聴者は、矛盾に気づいたり、疑問に思ったり、思考的な混乱に陥るだろうか。
 一人の人間の言動に、これらのCMのような分裂的な矛盾と、一貫性と、脈絡性と、整合性とを欠いたなら、その人間の精神的な均衡は破壊され、錯乱に陥るはずだ。しかし、CMを観ている視聴者が精神的な錯乱に陥ることはないのである。何故ならば、こうしたCMに慣れてしまっており、怪しむという理性と感覚を失ってしまっているからだ。そして重要なのは、視聴者の思考自体と生き方が、既にCMと同じように、分裂的な矛盾と、一貫性と、脈絡性と、整合性とを欠いたものになっているのではないだろうか。それで精神的な錯乱をしないのは、思考自体がデジタル化し、生き方に対する拘りがないから、極論すれば、昨日の生き方を引きずって今日があるのではなく、昨日の生き方と無関係な今日の生き方を生きているのではないだろうか。明日の生き方は、本人すら分からないし、そのそもが生き方などに興味はないのである。
 CMは消費に繋がる欲望をかき立てるものだ。CMは次から次へと欲望を産み出していく。欲望と欲望との間に一貫性もなく、脈絡性もなく、整合性もない。欲望はデジタル的に産み出されているといえる。その欲望を消費するのだが、その消費にも一貫性はなく、脈絡性もなく、整合性もない。そして資本主義とは、欲望満足に幸福感を見出す社会なのである。何故ならば、拡大再生産を宿命づけられている資本主義は、次から次へと欲望を産み出さない限り存続し得ないからだ。経済成長神話とは拡大再生産を宿命づけられているから、なくてはならないのである。
 
 ドイツロマン派のロマンティック・イロニーという思想は簡単にいうと、西欧近代主義の個人主義的な自由を絶対化し、何ものにも束縛されないで絶対的自由を謳歌するための思想的な方法論であり、一つの言動に拘ることなく、全く無関係の言動や、先ほどの言動と真逆の言動へとヒョイッと飛び移ることで、責任を回避してしまうのである。だから政治的には現状の無限容認という機会主義に陥ることになる。悪魔の思想と言われたり、幼児的な思想と言われたりするのは、言動に対する責任と倫理から自由であろうとする政治的機会主義によるところが大きいのだろう。重要なのは、これは思想であり、自覚的に行われるものだということだ。
 が、わたしのいう病としての「ロマンティック・イロニー」は、資本主義社会が構造的に産み出したもので、病にかかった者は無自覚だということである。そして、社会全体がこの病に蝕まれるということになる。
 思い起こしてほしい。この病は、安倍晋三と小池百合子の資質に通じていないだろうか。
 安倍晋三と小池百合子を生み出したのは、日本の末期症状にまで達した資本主義社会だと、わたしは思っている。資本主義社会が末期症状にまで至ったから、病が深刻化したのである。
 病が深刻化しているから、安倍晋三や小池百合子の耳障りのいい政策や、どぎつい政治的パフォーマンスと、マスメディアによる情報操作で、コロッと騙されてしまうのではないのか。
 何故ならば、デジタル式の思考回路になっており、安倍晋三と小池百合子の断片としての言葉でしかない耳障りのいい政策に、反応してしまうのである。CMに反応するのと同じなのだ。
 思考回路がアナログ式で、生き方と結びつき、昨日までの生き方への拘りがあり、昨日までの生き方を引きずっているなら、昨日の思考と今日の思考に一貫性と脈絡性と整合性があるはずなのだ。
 そうであるなら、安倍晋三と小池百合子が断片としての耳障りがいい政策を連呼しても、安倍晋三と小池百合子の基本的な政策は、大企業優先であり、弱者切り捨てで、どうにかして社会保障を削ろうかという方向性を持っているのに、どんなに耳障りのいい政策を連呼しても、それが嘘でしかないことが分かるはずなのだ。本来は政策とは単独としては成立し得ないのである。
 都議選に入ると、株価が高止まりをしているが、これもCMと同じである。株価が単独で高止まりするはずはないのだ。明らかに日銀と公的年金によって作為的に上げられているのである。株価が上がれば儲かる者がいる。だから安倍政治を肯定するという短絡的な選択をするのだろうが、このような官製株価はいつかは破綻せざるを得ないのであり、破綻すれば莫大な損失を国民が背負うことになる。
 安倍晋三と安倍晋三を影で操る勢力は、CMの手法で国民を騙しているのである。それが可能となるのは、国民の間に病としての「ロマンティック・イロニー」が蔓延しているからだ。この病としての「ロマンティック・イロニー」に経済成長神話が合体するとどうなるのだろうか。わたしは都会において合体傾向が顕著だと考えている。
 だから、大阪で規制緩和と構造改革を掲げた日本維新の党のような、おぞましい政党が拍手喝采されたのだろうし、東京で小池百合子がお祭り騒ぎで知事になれたのだろうし、横浜という大都市を抱える神奈川県で、三原じゅん子のような極右議員がトップ当選したのではないのか。
 わたしは大都市圏ほど経済成長によって暮らしがよくなるような幻想に取り憑かれ、その幻想を追い求めることで逆に、地に足が着いた生活を置き去りにしているのではないかと想像している。そして地方では逆に、経済成長神話から解放されて、地に足が着いた生活へと回帰しているのではないかと直感している。
 若者の心が田舎の暮らしへと回帰していく流れは、そうしたものなのではないだろうか。

 東京都民よ、いい加減にCM的な選挙戦術に騙されるのは終わりにせよ!
 そうでないと、日本は地獄絵の戦前へと転がり落ちていくことになる。都政と国政は違うなどという言葉に騙されてはならない。
 日本は戦前回帰へと雪崩れて行くかどうかの歴史的瀬戸際なのだ。小池百合子が都民の生活をよくしてくれるなどというのは、大馬鹿者のみる幻想でしかない。
 戦前回帰すれば、国民の基本的人権も剥奪されるのに、どうして都民の生活が守られるというのか。政治はテレビのCMではないのだ。またCMであってはならないのだ。一貫性と脈絡性と整合性が求められなければならないのである。
 安倍晋三と安倍政治を終わりにする使命を東京都民は負っているといっていい。
 安倍晋三と安倍政治をこのまま続けさせては日本は間違いなく破滅である。断言してもいい。
 では、東京都民はどういう選択をすればいいか。
 安倍晋三と安倍政治に決定的なダメージを与えるには、共産党の候補に投票すべきだ。選挙区に共産党の候補がいなければ、社民党と民進党の候補にすることだ。
 どうして共産党でないとならないのか。それは公明党が教えてくれている。安倍晋三と安倍政治にとって一番脅威なのは共産党だから、公明党が率先してデマと誹謗中傷で共産党を貶めているのだ。
 良心と良識ある創価学会員にとっても今回の都議選は歴史的分岐点になるだろう。
 公明党と創価学会の執行部にNOを突きつけ、公明党に壊滅的な打撃を与えない限り、創価学会の再生はないだろう。極右政党である自民党の下僕にまで成り果てた公明党と創価学会の執行部は、立教精神から大きく逸脱し、最早宗教とは言えないレベルにまで堕落している。公明党と執行部の利権のために存在する集金マシーンであり、集票マシーンでしかないだろう。
 良心と良識ある創価学会員は、共産党の候補に投票すべきだ。何故ならば、公明党と執行部への一番の批判になるからだ。
 安倍晋三は精神的に錯乱状態にまで達している。安倍晋三の精神と頭が正常だと思えるとしたら、目が腐っているとしか言えない。
 精神錯乱の男に権力を集中させている現状は異常事態なのだ。
 安倍晋三と安倍政治を終わりにせずに、日本に未来はない!
 政治的俳優でしかない小池百合子の演技にマンマと騙された東京都民よ、いい加減に惰眠から目覚めよ! 
 前川喜平氏が吹かせた風を呼び込め!
 都民ファーストなどという看板に拍手喝采するのは、戦前回帰を良しとする大馬鹿者である!

※今日は雨で休みだったが、明日は肉体労働が待っているので、もう寝る。だから推敲はしない(笑)。
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 加計学園疑獄で安倍晋三は瀕死の状態である。
 加計学園疑獄は何を浮き彫りにしたか。
 安倍晋三という人間の醜悪で浅ましい限りの性根であり、腐り切った性根の男に、強大な権力を与えたら、日本という国家と日本人にどういう末路が待っているか、見事なまでに暴いて見せてくれたといえる。
 嘘と言い訳だけに人一倍優れた天性的資質を持ち、詭弁と詐欺で人を欺くことが政治的勝利であり、政治的リアリズムだと勘違いしている、幼稚で支離滅裂で倫理観の欠片もない男は、独裁者気取りなのである。
 嘘と言い訳をすることに倫理的な躊躇がなく、詭弁と詐欺で騙すことでしか政治的勝利はないと信じて疑わない幼稚な男だから、安倍晋三の言動には一貫性もなく、脈絡性もない。そして当然のことに、安倍晋三が発する言葉と言葉を繋いでいるはずの論理的な一貫性も脈絡性もないことになる。驚くべきはそれだけではない。言葉自体の意味をも勝手に変えてしまうのである。
 ヒトラーは意識的に、そして政治的戦術としてこれをしている。安倍晋三の人格へと自己改造するために、ヒトラーは思想的に七転八倒したのである。そしておぞましい真性ファシストとしての自分を作り上げたのだ。安倍晋三は天性のファシストとしての生を授かったといえる。だから無自覚であり、人格そのものがファシストなのである。わたしは岸信介を父とする母親の影響と育て方も大きく関わっていると思っている。想像であるが、安倍晋三の母親は極度のファザコンなのではないだろうか。
 こうした指摘を、わたしはこれまでに何度となくブログに書いてきた。そして、安倍晋三を言葉と論理で反駁しても無意味だとも指摘してきた。安倍晋三の発する言葉には意味すらないのだから、どんなに論理的に矛盾を暴き立てても、嘘と言い訳と詭弁と、意味のない言葉を羅列し機関銃のように延々とぶっ放してその場を逃れてしまうのだ。
 野党は最後まで言葉の意味と論理で、安倍晋三を追及する姿勢を貫こうとしたが、わたしから観ればバカとしか思えない。言葉の意味を破壊された森の中を彷徨い歩いているに等しい行為でしかない。連日、共謀罪反対を叫んでデモをしていた総がかりを代表とする市民連合の行動も同様である。

 安倍晋三という一人の男を葬るならば、そうした野党の行為も有効ではあるだろう。が、安倍晋三とは神輿であり、安倍晋三を影で操る勢力がいるのだ。安倍晋三にして、安倍晋三ではないのである。安倍政治とは、安倍晋三を影で操る勢力と、餓鬼に等しい私利私欲の権化である幼児性分裂症を患っている安倍晋三という破壊された性格の男の合作なのである。
 だから、目的を達成することだけに焦点を絞っている影の勢力にとっては迷惑千万な森友学園疑獄と加計学園疑獄が明るみになったのであり、この二つの疑獄は、操り人形のはずの安倍晋三が勝手に暴走したことによるのだろう。
 面白いのは、操り人形とは権力が強大になればなるほど、操縦不能に陥るということである。操り人形であることに無自覚であり、独裁的な権力を握れば安倍晋三のような男である、抑制が利かなくなり暴走を始めることは頷けよう。その上、支離滅裂であり、言動に一貫性も脈絡性もなく、倫理の欠片もないとなれば、何をしでかすか分かったものではないのだ。安倍晋三の真の怖さはここにある。最早、安倍晋三を影で操る勢力の操縦さえ不能状態に近づいているといっていいのではないだろうか。
 しかし、だからといって安倍晋三が操り人形であることには変わりはない。だから安倍晋三を影で操る勢力は安倍晋三の政治生命が絶たれないように必死なのである。
 そのために如何にしたら森友学園疑獄と加計学園疑獄を有耶無耶のうちに幕引きをするか、そのための戦略と戦術を練りに練っているのだ。学級崩壊に等しい国会を作り上げたのもそうした戦術の一つに過ぎない。
 野党と市民連合には、こうした視点が端から欠落していたのだろう。
 野党と市民連合が見ているのは安倍晋三という人格破壊された男だけなのである。そして、国会で闘っているのは安倍晋三という男だけなのだ。権謀術数に長け、目的のためなら手段を選ばないおぞましい戦術を繰り出す、安倍晋三を影で操る勢力の姿が見えずにいたのだ。だから、言葉と論理で共謀罪を阻止できるというお目出度い国会質疑に終始したのだろう。
 ブログに何度か書いたが、わたしは共謀罪を持ち出したのは安倍晋三を死守するための戦術的な罠だと思っている。森友学園疑獄と加計学園疑獄から野党と市民連合の目を逸らし、国会での追及を出来るだけかわそうとするためである。その上で共謀罪まで成立できれば、敵にとっては願ったり叶ったりなのである。したたかなのだ。

 こうした状況の中で、加計学園疑獄に徹底的に拘り抜いた議員がいる。
 自由党の森ゆうこ議員である。森ゆうこ議員の政治家としての嗅覚は鋭いものがあるといえる。国家を私物化する安倍晋三と安倍政治の本質を加計学園疑獄で炙り出すことができ、また安倍晋三と安倍政治の急所であることを確信したのだろう。
 賞賛すべき政治的感性であり、政治的行動だといえる。当然に、マスメディアを巻き込んで国民の関心を高めた功績は森ゆうこ議員にはある。
 が、安倍晋三を致命的な状況へと追い込んだのは政治家ではない。
 前川喜平氏と詩織氏であり、この二人の市民の覚悟の決起だったのである。二人の決死の決起があったから、マスメディアによる加計学園疑獄の報道が過熱したのであり、国家を私物化する安倍晋三と安倍政治に対する国民の怒りと、徹底した糾明を求める圧倒的な世論を作り上げることができたのだ。
 もう一度言う。
 安倍晋三は瀕死の状態である。
 野党と市民連合は何をなすべきか。
 悲しいことに、野党と市民連合の心は、瀕死の状態の安倍晋三にトドメを刺しに行かずに、都議会選挙へと雪崩れていっているのである。わたしは憤りを感じる。
 安倍を影で操る勢力の戦術にまたしても騙される野党と市民連合は何処に目をつけているのだろうか。
 独裁政治とは坂道を転がっていく雪だるまと一緒で、ドンドンと巨大になり勢いを増して行くのだ。そうなると止めることは不可能になる。
 瀕死の状態の安倍晋三に時間を与えては駄目なのである。
 マスメディアの報道という追い風もあり、国民世論は加計学園疑獄の徹底糾明を求めているときに、どうして都議会選挙へと闘いの舞台を移し、瀕死の状態の安倍晋三に猶予を与えるのか。安倍晋三の背後には、権謀術数に長けた、目的のためなら手段を選ばず、マスメディアを使った情報操作を常套手段とする影の勢力がいるのだ。
 瀕死の状態だからトドメを刺せるのに、時間の猶予を与えては、二度と安倍晋三の首を取ることなどできないと断言できる。

 野党は政党である。当然に野党議員は政党の論理で動くことになる。だから、野党議員の心が都議会選挙へと雪崩れていくことは容易に想像できる。が、市民連合がどうして都議会選挙へと、野党議員と一緒に雪崩れて行くのだ。そんなことが許されていいのだろうか。
 歴史的分岐点なのである。安倍晋三と安倍政治の息の根を止める機会は今を逃しては二度とないだろう。安倍晋三は瀕死の状態なのだ。
 野党議員にも言いたい。党派である前に、一人の政治家として行動していただきたい。
 日本が戦前回帰へと雪崩れて行くかどうかの瀬戸際であり、歴史的分岐点なのである。党派の論理を超えてとるべき行動こそが、歴史が求めているものだ。
 沖縄の辺野古の新基地建設反対運動への活路にも繋がるものだ。
 もう一度言う。
 安倍晋三は瀕死の状態だ。
 安倍晋三にトドメを刺せ!
 安倍晋三の息の根を絶つために決起せよ!
 合い言葉は、「前川氏と詩織氏に続け! 前川氏と詩織氏を見殺しにするな! 安倍晋三を葬り去ることでしか、日本に未来はない!」

 最後に、わたしがこの二日間に上記に関してTwitterでつぶやいたものを記しておきたい。もうこの件についてはいうべきことは言ったつもりだ。小説に全力を傾けたい。


国会を愚弄して権威を失墜させたばかりか、国会の存在意義をも喪失させ、議会制民主主義を決定的に破壊した元凶である安倍晋三を目の前にして、野党と市民連合が死に物狂いで安倍打倒に決起しなければ全てが嘘になる。野党共闘は選挙のためのものではない。日本の未来を守るためのものだ。決起せよ!

諸悪の根源である安倍晋三の即時退陣を掲げた大義の旗を高々と掲げよ! 前川氏と安部昭恵の証人喚問を拒否し続け、動かぬ証拠と証言によって、安倍が国家を私物化した悪党であり犯罪者であることが明確になった。安倍は瀕死の状態だ。トドメを刺すのは今しかない。合い言葉は、前川氏・詩織氏に続け!

次の総選挙などと脳天気なことを言っているのでは、志ある政治家とは認められない。何故に、安倍晋三の首を取りに行くことに全精力を傾注しない。貴方は国会議員ですよね。安倍は国会を愚弄し、国会の権威をどん底にまで失墜させたのですよ。つまり貴方の存在価値が否定された! 何故に決起しない!

政治とはそんな甘いものではないのです。安倍晋三が瀕死の状態の時に、トドメを刺しに行かずに、どうして都議会選挙なのですか。安倍晋三と安倍を影で操る勢力の思う壺です。都議会選へと国民の耳目を逸らし、森友と加計問題を忘却させる戦術なのですよ。民主主義破壊の元凶の首を取るのが最優先だ!

全ての元凶である安倍晋三の首を取ることを何よりも最優先すべき。心ある国民の怒りは沸点に達した。が、この怒りをどう方向付けし、安倍晋三と安倍政治の打倒へとどう収斂させるかが喫緊の政治課題だと思います。政治的戦術と政治的指導力と腕力が求められる。野党は都議会選に現を抜かす時でない筈!

野党と市民連合にはつける薬がない。家が炎上しているというのに、その火を消さずに、増築を考えているのだ。国会を有名無実化し、議会制民主主義を破壊されたのに、その元凶を先ずは全力で葬り去るしかないはずだ。議会制民主主義を破壊した安倍晋三が選挙を破壊しないとでもいうのか。お目出度い限り

森友と加計で舌鋒鋭く問題の核心を抉った野党議員はいた。安倍晋三への打撃も認める。が、安倍と安倍政治を瀕死の状態にまで追い込んだのは、前川氏・籠池氏・詩織氏の覚悟の決起であり、勇気ある文科省官僚たちの内部告発だ。野党は何をしたか。無策に終始。トドメを刺せなければ野党の存在価値なし!

都議会選挙で自民党と公明党に鉄槌を下す、などという脳天気で政治音痴の妄言を吐いているようでは、安倍晋三の首は永遠に取れないし、自分の首を絞めていることに気づかない。安倍と安倍を影で操る勢力は都議会選に国民の耳目を引きつけ瀕死の安倍を死守する戦術。安倍のトドメを刺さずに明日はない!

なりふり構わず議会制民主主義を破壊し、国会の意義を否定し崩壊させた安倍晋三は、国会議員が存在する意味を否定したのだ。独裁国家完成の一歩手前だ。その安倍が選挙制度を破壊しないと何故に言えるのか。存在意味を否定されて、野党は都議会選などと言っている場合か。安倍打倒に決起せねば大嘘だ!

前川氏の証人喚問を断固として拒否する安倍晋三は、自らで加計疑獄で真っ黒だということを証明しているに等しい。安倍は瀕死状態なのだ。議会制民主主義を破壊尽くした元凶が瀕死であるのに、トドメを刺しに行かずに都議会選など言える立場か。前川氏・籠池氏・詩織氏の覚悟の決起を見殺しにするのか!

安倍晋三と安倍政治をこのまま放置していては日本人は、戦前回帰への坂道を転がり落ちていき、おぞましい地獄絵の世界を生きなければならないと思ったから、前川氏と詩織氏と籠池氏は覚悟の決起をしたのではないのか。いわば三人は市民の良心である。市民連合はその良心と共に、安倍打倒に決起すべき!

悲しいことに、野党は政党という組織の論理で動かざるを得ない。だから野党議員の心は都議会選挙へと雪崩れていく。その野党に市民連合が歩調を合わせてどうする。議会制民主主義をえげつない手法で破壊した独裁者気取りの安倍晋三が加計で瀕死状態なのに、何故に安倍の首を取に行かぬのか。後はない!

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 平成の治安維持法である共謀罪が、卑劣極まりない無茶苦茶な方法で、強権的に、そしてなりふり構わずに成立されてしまった。
 安倍晋三と自民党と公明党、そして維新の党に対する怒りは、当然に爆発寸前である。
 わたしは戦前回帰へと雪崩れていくか、それともそれを食い止めるかの歴史的瀬戸際であり、歴史的分岐点だと何度となくブログに書いてきた。
 分岐点とは単に道が二手に分かれていることを意味していない。戦前回帰の道へと踏み出せば後戻りが出来ないという重大な意味が隠されている。だから歴史的分岐点とは重要であり、その後の日本と日本人の歩んでいく方向と歴史を決定してしまうものなのである。
 引き返せばいいではないか、というのは政治というものの恐ろしさを知らず、言葉の厳密な意味で、過去の歴史を追体験していないといえる。歴史は学ぶだけではだめである。想像力を駆使して追体験しなくては、自分の血となり肉となることはないだろう。

 歴史的分岐点にあって何をなすべきか。
 わたしは常にそれを考えてきた。考えてきたというと格好がよく、どことなく知的な匂いがするが、正直に告白すると、わたしは臆病である。臆病だから、歴史的分岐点において何をなすべきか、優先的に考えざるを得ないのである。
 こういうと、わたしが何を言いたいのか皆目分からないと思う。わたしは大学時代に日本政治思想史という新しい方法論の学問を創設した丸山真男の、異端的な弟子であった橋川文三のゼミにいた。一応は橋川文三の弟子である(笑)。
 異端である橋川文三の方法論には、「文学的直観」が深く関わっている。これについては過去に書いているので割愛するが、わたしは橋川文三に四十才を過ぎたら小説を書けと言われている。が、不肖の弟子であるわたしだから、橋川文三の忠告をすっかり忘れていたのである。が、会社人間として挫折し生死を彷徨った体験を経て、何故か橋川文三の忠告を思い出したのである。四十五才を過ぎていたのであるが、思い出してしまったので仕方なく小説を書き始めたのである。そうでないと橋川文三に叱られてしまうからだ。
 筆があらぬ方向へと向かおうとしている。危険である。正しく分岐点だといえる(笑)。
 歩むべき道を間違えると破滅である。わたしは破滅型私小説作家ではない。私小説の方法論など糞食らえであり、蹴飛ばしてしまっている。しかし炎天下の中、7時半から16時まで葛のつるに覆われた広大な土地の草刈りという肉体労働をしてきたのである。63才の身には辛い。が、草刈りは好きである。好きだからやっているのだが、帰ってくるとシャワーを浴びながら500ミリリットルの缶ビールを空ける。ほとんど一気飲みである。これが美味い。生きていてよかったとしみじみ思うのである。
 で、今はシャワーから上がり、もう一本500ミリリットルの缶ビールを飲みながらブログを書いているのだ。
 缶ビールごときで酔いはしないが、それでも老体に鞭打って肉体労働をしてきたので、自制心がきかなくなり、それでなくとも知性と理性とは縁遠いわたしだから、よせばいいのに、嬉々として破滅の道へと歩んでいこうとしているのである。
 橋川文三の文学的直観は神がかりである。
 弟子だからいうのではない。神がかりでないと橋川文三の学問は成り立たないからだ。橋川文三の処女作である『日本浪曼派批判序説』(未来社)は優れて今日的な書物である。これについて書くと果てしなくなるので割愛する。
 わたしが言いたいのは、橋川文三が何故にわたしに四十才を過ぎたら小説を書けと言ったかという意味である。「こいつは学者ではものにはならないが、小説家としての才能があり、日本文壇を背負っていく逸材だ」という文学的直観が、わたしを観察した橋川文三の心を閃光となって貫いたということである。
 橋川文三の直観は間違いだったのだろうか。
 わたしの書いた小説『風よ、安曇野に吹け』は某小説賞で下読みの段階で話題になり「ぶっ飛び」と命名されている。事情があって一次選考で落選したが、某小説賞の編集者により確証は得ている。
 こちらは間違いはないのだが、某小説賞での受賞作が盗作であることが判明して授賞取り消しになった小説がある。この盗作された小説がわたしの『僕の夏よ、さようなら』であるとわたしは確信している。心当たりがあるからだ。
 そのときに絶賛した審査員が何故に口を閉ざしているのか、わたしはその審査員の文学への志を疑っている。だからそのときの審査員の政治的行動をブログで批判しているのではない。政治的行動が所詮はまやかしでしかないからだ。

 とまれ!
 酔っ払ってしまったのだろうか。このまま行くと破滅である。
 歴史的分岐点とは、この比ではない。破滅の坂道を転がり落ちていって、破滅するまで引き返せないのである。
 わたしは臆病だと書いた。そして橋川文三のゼミで日本政治思想史を囓った経験があり、小説を書いている。だから、歴史は学ぶものではなく、想像力を駆使して追体験するものだと思っている。追体験するから、歴史的分岐点で何をするかを誤ると、取り返しがつかなくなり、自分の信じる生き方を貫けるものか、恐ろしくなるのだ。臆病者のわたしは自分の信じる生き方をへし曲げて、体制に迎合していくのではないか、と思えてならないのである。そんな自分の生を生きたくはない。が、生にしがみついて醜い生を生きていくのだろう。そんな惨めな自分の姿が見えるのである。わたしは断固として小林多喜二ではない。また小林多喜二の生を賛美するつもりもなく、小林多喜二の私小説的方法論の小説を否定している。
 自分は小林多喜二になれる、と思える人は幸福である。

 わたしの怒りは、平成の治安維持法である共謀罪を、議会制民主主義を破壊することで成立させた、安倍晋三と自民党と公明党と維新の党へと向かうだけではない。野党と市民連合へも向かうものだ。
 野党と市民連合は口では歴史的分岐点などといっているが、その真の意味が分かってはいないのではないだろうか。だから、わたしからみると暢気なのである。戦前回帰への道へと突き進んだら、破滅の底へと転がり落ちていくだけだという認識がないのである。恐らく歴史を学んだのだろうが、歴史を追体験していないのだろう。歴史的分岐点で戦前回帰の道へと足を踏み入れてもいつでも引き返せると思っているのだ。だから、危機意識と覚悟が中途半端なのである。そして、自分は小林多喜二だと信じて疑わないのだろう。わたしからみれば、お目出度いとしかいえない。

 野党はよくやったという声を聞くが、わたしは野党と市民連合は無策であり、あまりのも幼稚であり、政治的戦略と戦術の重要性をわきまえず、政治的リアリズムとは無縁だとしか思えない。
 野党を応援するのは正しい。しかし、盲目的に野党を応援するのは誤りである。これでは永遠に安倍晋三の息の根を止めることはできないだろう。安倍晋三を影で操る勢力の冷徹で、手段を選ばず、味方まで欺き、また味方の致命的弱みを掴んで脅し捨て駒として使う、おぞましい政治的マキャベリズムの前では、野党と市民連合など赤子の手をひねるに等しい存在でしかないだろう。
 わたしは結果論でいっているのではない。
 ブログで何度となく、学級崩壊状態の国会における審議で、どんなに理路整然と、そして切れ味鋭い論理で共謀罪の矛盾と不備を突いても、そもそも敵は真面目に答弁する気がなく、単なる時間つぶしのための詭弁と論理的すり替えと答弁拒否に終始するのが分かっており、審議に応じることこそが強行採決を了承しているに等しい愚鈍な行為だと書いている。そして留意すべきは、こうした国会での審議風景はマスメディアでありのままに報道はされないという事実である。どんなにTwitterで映像を拡散しても、国民レベルにまで浸透はしないのである。だから、共謀罪への関心と危機感が希薄なのだろう。世論調査に現れている。
 わたしがブログとTwitterでいったように、衆議院で強行採決され共謀罪が成立している。わたしは野党と市民連合の無策を批判した。敵は露骨なまでに、議会制民主主義の破壊行為を始めているのだ。何でもありなのである。その敵に、議会制民主主義を前提した戦術で立ち向かっても勝算があるはずはない。子供でも解ることだ。
 しかし、参議院に舞台が移って野党は何をしたか。衆議院のときと全く同じなのである。学習能力がないのか、それとも端から本気で共謀罪を阻止する気がないのか、正直わたしは分からなくなったのである。
 総がかりに代表されるデモも野党の対応と歩調を合わせ、共謀罪絶対阻止を前面に掲げ続けるのである。わたしは総がかりのデモへの参加を呼びかけるツイートに、バカかとリツイートしている。衆議院で共謀罪成立を阻止できなかったのに、どうして同じ戦術で参議院で共謀罪を阻止できるのか。できると信じることまでは否定しないが、デモを企画し、デモへと国民を動員するからには、信じるだけでは駄目なのである。結果を求めるのが政治である。結果とは、共謀罪成立の阻止だけをいっているのではない。デモの政治的結果とは、国民への訴求効果と、国民を巻き込む「社会的空気」を作り出すことを指している。
 共謀罪阻止を前面に掲げ、共謀罪阻止を叫んで、国民を巻き込む「社会的空気」をどうしたら作り出せるというのか。共謀罪はどんなに危険な法律であり、戦前の治安維持法の再来であり、治安維持法が戦前に果たしたおぞましい役割と、治安維持法がファシズム国家を招き寄せ、日本を破滅の戦争へと導いたことを国民にどうやって説明するというのか。NHKは安倍晋三と安倍政権の宣伝洗脳機関であり、他のメディアとて五十歩百歩だろう。
 どんなにTwitterで訴えたところで、NHKしか観ていない国民には共謀罪など何処の国の話状態なのである。

 この歴史的分岐点において何をなすべきか。
 ここで重要なのは、安倍晋三を影で操る勢力を射程に捉えることだ。そして権謀術数に長け、目的のためなら手段を選ばないおぞましい敵と、政治的に対峙することだ。そうすれば、敵は何をしようとしているか、見えてくるだろう。
 わたしはブログに書いているが、敵は安倍晋三の首を守ることに必至なのである。目的を達成する前に、神輿に担ぎ、また操り人形である安倍晋三の首が飛んでは元も子もなくなるからだ。森友と加計こそが、敵にとっては安倍晋三の首が飛ぶ事案なのである。だから、敵は性急に共謀罪を持ち出し、憲法9条の改悪を持ち出したのである。何故か。野党と市民連合の関心と目を森友と加計から逸らすためである。共謀罪と9条改悪は罠だ、とわたしはブログに書いている。
 マンマと野党と市民連合は敵の罠に嵌まったといえる。
 二兎を追う者は一兎をも得ずのことわざ通り、野党と市民連合は安倍晋三の首をとることは勿論のこと、共謀罪の成立を阻止することもできなかったのである。
 罠である共謀罪を、敵は無茶苦茶な方法で強行採決したが、国民的な世論はどうか。議会制民主主義が破壊された屈辱的な日であり、敵が戦前回帰へと強引に日本という国家と政治を引きずり込もうとしているのに、メディアは平常運転であり、当然のこと国民の意識も昨日のままである。
 無茶苦茶な強行採決をしてもこの程度のことだと敵は踏んでいたのだ。それよりも森友と加計の問題に野党と市民連合が焦点を絞り、戦術的に安倍晋三の首を取りにくることが、敵にとって致命傷だったのである。共謀罪を本気で阻止しようとすれば、安倍晋三の首を取ることしかないことが分からない時点で、野党と市民連合の敗北は決まっていたといってもいい。
  
 森友学園疑獄と加計学園疑獄に対する国民の関心は、共謀罪よりもはるかに大きい。そしてメディアの報道も過熱している。それだけではない。前川喜平氏の覚悟の決起があり、それに続く文科省の官僚たちの勇気ある内部告発まで頻発している。また詩織氏の覚悟の決起も、安倍晋三と安倍を影で操る勢力に与えた打撃は計り知れない。この好機を前にして、本気になって決死の覚悟で、安倍晋三の首を取りに行かない野党と市民連合など存在する意味がないだろう。
 何故ならば、この歴史的分岐点において何をなすべきかといえば、安倍晋三の首を取ることを最優先すべきだからだ。安倍晋三の首を取れなければ、手遅れになり、戦前回帰へと雪崩れていき、二度と引き返せなくなるからだ。
 敵は何をなすべきか熟知している。だから必至になって安倍晋三の首を守っているのである。
 それに対して、野党と市民連合はどうか。都議会選挙と次の総選挙に心が移っているのである。お目出度いにもほどがある!
 安倍晋三が瀕死の重傷なのに、トドメを差しにゆかずに、明後日の方向を向いている野党と市民連合に明日はないだろう。
 前川氏と安倍昭恵の証人喚問を安倍晋三に突きつけ、それを拒絶した時点で、全ての審議を拒否し国会を空転させる戦術こそ有効だったのだ。野党不在で強行採決すれば、それこそ安倍政権の異常さが際立つことになる。どうして審議拒否をしたか、野党はあらゆる手段で国民に訴えれば、前川氏の証人喚問と加計学園疑獄の徹底糾明を求める国民への訴求効果は計り知れないだろう。積極的に加計問題を報道しているメディアも加担するはずだ。そうなれば、安倍晋三は窮地に陥ったはずなのである。自民党内部からの造反者も出ただろう。
 共謀罪の強行採決が不可避の中で、野党と市民連合は余りにも無策である。共謀罪という敵の罠に嵌まり、この歴史的分岐点において何をなすべきか、見誤ったといえる。

 敵は目的のためなら手段を選ばない。
 公明党がここまで安倍政権の言いなりになり、そればかりかえげつない露払いの役目まで率先してやっているのは、公明党にとって利益があるからではないだろう。拒否すれば、公明党と創価学会にとって致命的な弱みを握られているからだとしか思えない。安倍晋三を影で操る勢力とは、味方をも自由自在に操るために飴玉だけでなく、脅しを平気でやるのである。
 民進党の執行部がこれほどまでに無様であり、本気になって安倍晋三の首を取りにいかないのは、野田幹事長と蓮舫が敵に致命的な弱みを握られ脅されているのではないか、とわたしは想像している。そうでないと二人の政治的決断の不在が説明できないからだ。
 
 この際だから市民連合のデモも批判したい。
 戦略性と戦術と演出と効果という視点が欠落していることは言っても無駄だと思うが、最大の問題は、縄張り意識と主催者意識が甚だしいということだ。
 象徴的な光景は、3月に森友学園疑獄の徹底糾明を求めるデモがあったのだが、その日に総がかりのデモもあり、数時間後のそのデモに参加するために国会議事堂前に旗をかざしてきていた人たちが、当然に加わるのかと思いきや、遠くに座ったままあざ笑うかのような視線でこちらを観ているのである。デモが組織化されているのはいいが、そんな精神では安倍晋三の首は永遠にとれないだろう。
 デモに何人動員したか、など競っているのは迷惑なのである。わたしがデモに参加するのは、この歴史的分岐点において何をなすべきか、という思いに突き動かされ、安倍晋三の首を取るためなのである。デモが目的ではない。安倍晋三の首を取ることが目的であり、戦前回帰への道を閉ざすためである。

 明日も肉体労働が待っているので、もう寝る。推敲はしない。
 日給月給の肉体労働者がデモに参加することの重みを考えるべきだ。そして、日給月給の労働者の決起を呼び込むデモこそあるべきデモではないのだろうか。
 共謀罪は成立してしまったが、安倍晋三の首を取れば活路はある。
 本気で安倍晋三の首を取りに行かなければ、野党と市民連合に明日はない!

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 春は追い立てられるようにして足早に駆け抜けていった。
 季節は紛うことない夏である。
 日本の四季が移ろいゆく様は曖昧いであり、微妙であったはずだ。

 秋来ぬと目にはさやかに見えねども
 風の音にぞおどろかれぬる

 古今和歌集に収められている藤原敏行が詠んだ歌だが、日本の四季の移ろいの特徴をよく現している。
 夏の命のなかに、そこはかとない秋という命の気配が息づいているのである。掌を返すようにして夏から秋に変わるのではない。
 アフリカのサバンナで繰り広げられる雨季と乾季の訪れは、正に掌をひっくり返すようにして起こる。雨季と乾季との境界線が目で見えるのだ。そして突如として風景は一変する。茶褐色の大地が、あっという間に緑の草花で覆いつくされるのだ。
 わたしは和辻哲郎の『風土』(岩波文庫)を信奉している。
 風土がそこで暮らしを営む人々の感性を作り出していると思っている。感性とは美意識と密接に関係している。そして暮らしそのものが、風土に適応した姿なのであり、暮らしと美意識とは伝統と文化とは切り離せないものである。すなわち、伝統と文化とは母なる風土が産み出したものなのだ。
 わたしは日本という風土を愛し、日本の風土によって培われた感性を愛し、だからこそ日本の伝統と文化とを愛している。わたしは純粋な意味での保守主義を体現しているつもりだ。
 が、日本の風土を愛するが故に、日本を絶対化するつもりは毛頭ない。和辻哲郎の『風土』を、今西錦司の「棲み分け理論」を通して理解しているからだ。今西錦司の「棲み分け理論」はダーウィンの進化論と真逆の思想である。特異な環境に適応していく過程で姿形が変わっていくのであり、それは競争を回避する方向性をもち、だから棲み分けに繋がっていくという理論であり、その姿形を変えていくことを進歩という意味での「進化」とは捉えていない。
 西欧近代主義の土台にはダーウィンの進化論が根付いている。人間を頂点とした人間中心主義と進歩史観というどぎつい色彩で塗りつぶされているのである。

 夏の真っただなかにあって、ふと頬を撫でていった風に微かな秋の気配を感じ取るという感性は鋭いものがある。目には見えない。しかし、そこはかとなくではあるが、秋の気配を感じ取っているのだ。視覚だけではなく、五感すべてが働き、秋という微かな気配を認識しているのである。
 日本の認識が感覚的認識といわれる所以である。西欧近代主義の認識論とは違っている。
 夏の真っ盛りのなかに、既に滅び行く夏の気配を滲ませ、やがて訪れる秋の命の息吹をひっそりと滑り込ませる日本の四季の移ろいは、だからこそ日本人の感性を研ぎ澄ましてきたのだろう。夏と秋とに境はあってないのだ。夏の命のなかに秋の命が息づき、秋の命のなかに冬の命が宿っているのである。
 湿気が多い日本の大気の影響もあるのだろうが、日本人が茶色に四十八もの名をつけて識別し、鼠色にいたっては百もの名をつけて愛でてきたのは、風土によって鋭い色彩感覚が育まれたからなのだろう。また「おぼろ月夜」のような境が曖昧でぼんやりとした風景を愛でる感性を培ってきたに違いない。

 わたしは小説を書いている。
 そしてわたしには、作家としての野心がある。
 ベストセラー作家になりたいという野心ではない。西欧近代文学に反逆し、日本的な感覚的認識を核とした小説を産み出し、その可能性を論理的に突き詰めたいという野心である。したがってポストモダニズム文学とは明確に違う。ポストモダニズムも西欧近代主義の産物でしかないからだ。
 日本的な感覚的認識を小説に反映しているのは川端康成である。
 志賀直哉の『城の崎にて』の心境小説に、透徹した日本的感性と美意識をみるのが一般的だが、わたしからいわせてもらうと、日本的感性と美意識とは違う。
 新感覚派というと横光利一と川端康成が双璧であるが、何度も書いたので改めて書かないが、横光と川端のいう「感覚」は全く違っている。横光の「感覚」は創作技法と装飾の意味でしかない。横光ほど日本的感性と無縁の者はいない。三島由紀夫の「感覚」と同じである。
 わたしは日本的な感覚的認識に「交感の場」という概念を持ち込んで、その可能性を探るつもりなのであるが、川端の日本的な感覚的認識を描写する技量を凌駕することは不可能だろう(笑)。
 だからわたしは描写ではなく、日本的な感覚的認識の世界を描くことに決めている。日本的な感性でないと描き出し得ない世界をどうにかして創り出したいのである。そしてその世界に「交感の場」を描き出したいのだ。
 それに川端は無自覚である。わたしは無自覚ではない。思想にまで昇華したいのだ。当然にその思想が小説世界に色濃く反映されることになる。

 これまで書いてきた小説でも、こうした目論見を実践してきたのであるが、その集大成として『三月十一日の心』という小説を二年前に書き始めたのだが、途中で止まってしまっている。
 ブログで連載という形にし、プロットなしで書き出したのだが、思想的な世界を濃厚に創り出そうとすることに心が急いて、物語性を疎かにしていたことに気づいた次第だ。
 ミステリ小説とはいかないまでも、謎を意図的に創り出して読者の心を誘導していく手法は重要である。そうでないと読んでもらえない(笑)。
『風よ、安曇野に吹け』と『僕の夏よ、さようなら』の初期の作品に立ち返って、物語としての謎を小説の核に据えることにした。そこで、これまで書いたものは最後の方で使うとしても、まったく違った形で新たに書こうと思っている。
 川端には双子の姉妹を扱った『古都』という美しい小説があるが、川端を真似て『三月十一日の心』を双子の姉妹という題材で書くことに決めた。が、単なる双子の姉妹ではない。『僕の夏よ、さようなら』に通じた謎である。

 そんなわけで、別のブログで公開していた連載小説『三月十一日の心』を非公開にしたのである。
 4月17日に妻と伊豆半島の中央を縦断する山稜の一部を歩いたのだが、午後から雨に降られ早々に下山した。しかし、雨の風景もまた捨てがたい。形を目まぐるしく変えながら、山裾から這い上がってくる雲の姿を眺めていたのだが、そのときに観た光景を小説の書き出しにしようと思っている。
 川端には『伊豆の踊子』の有名な冒頭がある。

 道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。

 この文章を意識して、この描写に挑戦したい(笑)。
 とはいっても、安倍晋三ほどではないが、狂った気候のせいで草の生長に凄まじいものがあり、草刈りの仕事はゴールデンウィークから始まっている。肉体労働である。今年で63才になる身にはきつい。昨日と一昨日は真夏に等しい気温だったから、暑さに慣れていない身体があげる悲鳴がうるさいほどだった。
 今年中には何としても書き上げるつもりだ。そうでないといつ死ぬか分からないからである。わたしは正直、65才まで生きられれば御の字だと思っていたのだが、その年に近づいてきてしまっている。沖縄にも行きたいし、小説をあと10作は書き上げたいし、できれば70才まで生きたいものだと思う今日この頃……。皆様、いかがお過ごしですか?

 このところイライラが募り、胃が痛い。すべては狂った安倍晋三のせいである。
 安倍晋三はわたしと同じ年齢なのだが、わたしの一番嫌いなタイプの男であり、わたしの生き様と対照的だ。
 胃痛は直接的には安倍晋三がもたらしたものであることは確かだが、間接的には野党の不甲斐なさにも原因がある。
 森友学園疑獄が発覚したときからブログで書いているが、安倍晋三の政治生命を絶つには千載一遇の好機であり、これを逃したらもう後がなく、日本は戦前回帰という奈落へと転がり落ちていくだろうと口が酸っぱくなるほど言ってきたのだが、野党もいわゆる市民連合もそうした切羽詰まった危機感がないとしか思えないのである。
 わたしは森友学園疑獄が発覚した時点で、安倍晋三の陣営は間違いなく命取りになると判断したから、急いで共謀罪の狼煙を上げたと思っている。そして、わざと強引な方法で共謀罪を緊急に成立させると派手な花火を何発も打ち上げたのだ。森友学園疑獄から目を逸らすためであり、危機意識を煽って、野党と市民連合の心を共謀罪へと吸引するためである。
 マンマと狡猾な安倍陣営の策略に引っかかったと言える。しかし、安倍陣営の戦術と戦略は巧妙である。一石二鳥を狙っているからだ。森友学園疑獄から目を逸らせ、併せて共謀罪の強行採決まで決行してしまおうとする算段だからだ。
 それに引き換え野党と市民連合は幼稚だとしか思えない。
 国会での論争で共謀罪を廃案にできると本気で考えているからだ。市民連合も世論を喚起して廃案へと追い込めると本気で考えているのだ。
 安倍晋三の国会答弁を観察すれば狂気に取り憑かれているとしかいえない。それが分からないとしたら救いようがない。自民党で独裁的権力を握った安倍晋三の狂気は、そのまま国会をも支配したということを意味する。つまり、国会での正常な審議と質疑など成り立たないのである。その狂気が支配する国会で論争することに何の意味があるのか。自己満足以外にはあり得ない。
 政治とは結果なのだ。
 どんなに華々しい論争を繰り広げたところで、強行採決されたら終わりなのである。安倍政権と与党は端からまともに審議などしようとしていないのは国会の風景をみれば一目瞭然だろう。最初から強行採決ありきなのだ。
 審議と質疑が成立しない国会で、どうして野党は審議と質疑を行うのか。拒否する口実はいくらでもあったはずだ。それを中途半端で再開などすれば、どうぞ強行採決をしてくださいと言っているに等しいだろう。
 それで民主党の執行部は18日に強行採決するのは許せないなどと言っているが、許せないのは強行採決が分かりきっているのに、質疑を続けていた野党の無策だ。
 籠池前理事長が民進党がセッティングしたヒアリングで、新しい決定的な証言をすると安倍晋三は何をしたか。今度は憲法改悪の狼煙を華々しく上げたのだ。
 何のためか。幼稚園児でも分かることだ。窮地に陥った安倍晋三の首を守るために、森友学園疑獄から目を逸らす向こう見ずな爆弾を炸裂させたのである。
 安倍晋三の首を守るために敵は必死なのだ。次から次へと餌をばらまいて誘き寄せ、罠にはめようとしているのに、野党と市民連合はその餌に我先へと飛びつくのである。呆れて物も言えない。
 もう一度言う。敵は安倍晋三の首を守ることに必死なのだ。
 それは何を意味するのか。安倍晋三の首が飛べば、敵の計画が頓挫するからだ。
 逆にいうと、安倍晋三の首を取らなければ、ドンドンと状況は悪化し、破滅への坂道を転がり出すということを意味している。
 共謀罪と憲法改悪は、安倍晋三が権力を握っていることの結果なのである。安倍晋三の首を取れなければ、緊急事態条項へと突き進むだろう。
 共謀罪と憲法改悪を阻止したいのであれば、安倍晋三の首を取るしかないのだ。共謀罪と憲法改悪の阻止など二次的な問題でしかない。それが現実としての政治的現状であり、政治的事実なのだ。そして、安倍晋三の首を取れなければどちらも強行採決されてしまうだろう。
 そうであれば、野党と市民連合がすることはたった一つでしかない。
 どうしたら安倍晋三の首を取るかだ。それも時間的な猶予はない。
 森友学園疑獄でしかその道はないのだが、ではどうしたらそれが可能になるか、戦術と戦略を徹底的に練るべきだろう。
 安倍陣営には希代の戦略家がいるのだ。それに引き換え野党と市民連合には、政治的戦術と戦略の重要性が分かっている者がどれほどいるというのだろう。
 デモをとっても同じことがいえる。
 共謀罪阻止のデモをやるのは否定しないが、そのデモで強行採決を阻止できると本気で考えているとしたら、余程の政治音痴である。
 安保法制の時を想起すれば自ずと分かるはずだ。あの時の国民的盛り上がりと政治的状況からみれば、今の状況は比べようがないほど悪いことは分かるはずだ。
 それに平日の夜にどうしたら全国規模での動員が可能なのか、首をかしげてしまう。組織の旗を掲げて結集するだけでは、どうしようもないのである。未組織の一般の国民をどうやってデモへと結集させるかで全てが決まるのだ。
 安倍昭恵の証人喚問の要求が飲まれなければ、国会審議を全面的に拒否する戦術しかなかったのである。ブログに何度となく書いている。
 その上で大義が野党側にあることを国民に訴え、世論を喚起し、波状的な全国規模のデモをするしか道はなかったはずだ。当然に辺野古と連帯するのだ。
 敵が必死なのだから、こちらだって自ら退路を断って、命がけで安倍晋三の首を取りに行かなければ、希代の戦術家が影で操る安倍晋三の首など絶対に取れないことは明らかだ。

 正直、もう言うのも疲れた。
 小沢一郎が全盛期であり、魔力があったなら、とっくに自民党内を引っかき回し、疾うに安倍晋三の首をはねていただろうが、それを望むべくもない。
 そして、自民党自体がかつての自民党ではなく、安倍晋三が独裁的権力を握る極右政党なのだから、小沢一郎の力も及ぶはずはないのである。そのなかで、石破の反乱は意味がある。
 この反乱が極右政党へと脱皮した自民党を揺さぶることには繋がらないだろうが、自民党員の反乱へと繋げることはできないものなのだろうか。引退した自民党の長老や、安倍政治に批判的なかつての自民党支持者の結集を画策する手はあるはずだ。
 ああー、胃が痛い。
 一刻も早く、安倍晋三の首を取ってくれ!
 安倍晋三の首をはねるための全国規模のデモなら、何処にでもいく覚悟はある!
 安倍晋三の首が飛べば、わたしの『三月十一日の心』は記念碑的な傑作になることを約束する! 

※写真は伊豆山稜と土肥温泉の宿の部屋付き檜風呂

※Kindle版電子書籍は、スマホとPCでも無料アプリで読めます。

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