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アゲハ蝶の白地図

 
 
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「アゲハ蝶の白地図」(五十嵐 邁著、世界文化社2008年)は、なんと言えばいいのか、
一言で言うととても誇らしい本である。
 東大卒、大手建設会社に入社、38年間勤務し取締役も務めた。
 幼年時代から蝶に魅せられ、サラリーマン生活のかたわら、蝶の調査研究の夢を失わず、会社勤めのなかで日本鱗翅学会理事を務めながら、日本の蝶研究をアマチュアリズムを通じて世界の一流に高めたとされているという。
 
 そんな方が満を持して刊行された貴重な一冊には、アジアから中東にかけての蝶についての、生涯を通じた長い謎解きの物語が満載されていて、手に取るだけで期待と興奮が湧きあがる、きわめて稀なよろこびと誇りに満ちている。
 本を読む楽しみ、その最高の幸福で満ちていると掛け値なしで言うことができる一冊だ。
 
 奇跡のような蝶の数々、貴婦人のようなブータンシボリアゲハも、獰猛なテングアゲハも、目に沁みるような瑠璃色のオオルリオビアゲハの産卵も、過酷で美しい自然と貧しく心優しい人々の生活を通じて、私たちに世界と人間の意味についてまで語りかけてくるかのようであり。
 幼年時代からの熱狂的な昆虫への耽溺のあまり、周りの人々や社会との不調和、乖離にまで陥ったという著者の人生は、「蝶の白地図」つまり心の空白地帯を求め、探し続ける中で、いつか自然や神や周囲の人々によって大きな収穫を得ることとなってゆく。
 ひたむきであること、純粋であることを正々堂々と貫いてこられた姿に、私たちは世界全体への賛歌をよろこびとともに実感することができるだろう。
 

私の好きな開高健

    
 
 
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 その人に一度だけ会いに行ったことがある。
 世界を釣り歩いていたその人が久しぶりに帰国し、郷里の大阪船場の帝人ホールで講演会を開いたので聞きに(ながめに?)行った。
 
 文豪にして、「釣り大全」を書いた孤独なイギリスの釣り師さながらに、仕立ての良い洋服に身をまとい、背丈はないのにすらりときれいな足が印象的だった。
 
「パニック」や「裸の王様」などで大江健三郎と争い、彼のほうがさきに芥川賞をものにした。そしてそれから深いスランプに陥ったこともあった。
 ベトナム戦争の米軍の従軍記者としてAPだったかと契約を結び現地に入ったまではよかったが、共産勢力(ベトコン)にアメリカ部隊とともに包囲され、200人が殺された闘いの17人のわずかな生き残りのひとりになるという極限状態を体験した。
 
 やがて文豪と呼ばれるようになる開高健は、「輝ける闇」を書かずにいられなかったし、さらにパリでの放縦で自堕落な生活を描いた「夏の闇」も書かずにいられなかった。
 
 そうして自分の居場所を求めて、勤めていた洋酒会社の看板として、世界中を魚との戦いの日々で送る生活をした。それらの紀行は、虚無を感じながらも世界を抱きしめようとした彼の足跡ではないかと感じる。
 
 帝人ホールでの文豪は、世界の釣りの旅の写真を紹介しながらもどこか心ここに非ずのように感じられた。
 不思議に女性にはよくモテたひとだったようだから、自宅のある茅ヶ崎からの遠征は、ちょうどよいアバンチュールになっていたのかもしれない。
 
 文豪が亡くなるまで私は彼のファンだった、その圧倒的な文体は西欧の大理石の文化を思わせ、機関銃のような大阪弁は、その対極の人間臭い面白さであったからである。
 
 彼の作品はどれも好きだが、今は忘れ去られている作品で、秦の始皇帝を題材に人間とそれを圧する強大な力を描いた「流亡記」がもっとも印象深い。
 ここでの文章自体が、砂塵に吹きさらされて風の中に流されそうな類のない文章。
 
 22日、23日にはNHKプレミアムで彼の特集番組をするらしい。
 見てみなくては!
 このように文章で開高さんを偲んだりするのはいいなあと思う。
 その文章と作品の魅力を多くの人に思い出してほしい。
 
 彼が得意だったアフォリズムの
 
数々を、次回に楽しんでみたいと思っています。
 
 そろそろ茅ヶ崎の開高健記念館にも、行けるうちにいったみたいと思っています。
 今回はこれにて・・・次回「開高健のアフォリズム」に続く。
 
 

俳号を持たない俳人

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 丹波生まれの俳人、細見綾子さんのことを書きましょう。
 細見綾子さんは明治40年、現在の丹波市青垣町東芦田の地主の家に生まれ、ともに師範学校出身で読書家だった父や叔父の影響を受けて、本ばかり読んで育った文学少女でした。

 (ちなみに細見綾子さんの実家は、今は毎年節分草祭りが行われる場所のすぐ、目と鼻の先にあるのですが・・・。)

 彼女の文学熱は大正8年に、K高等女学校に入学してからいっそう高まり、その頃初めて出版された藤村詩集や翻訳小説に夢中になり、規則ずくめの寄宿舎生活も苦にならなかったと。
 その後、東京の日本女子大学国文科に入学。大正2年に卒業すると、女学校時代にすでに実家の養子として婚約していた東大医学部助手の大田庄一と結婚します。ところが夫は腸結核に冒されわずか1年10ヵ月後に死去。
 傷心で帰郷すると、今度は3ヵ月後に母までが心臓病で急死してしまったのです。細見綾子22歳。
 不運はそれからも続き、生きる気力を失った彼女自身も秋に肋膜炎にかかり、
寝返りも打てないような生活が始まりました。

 不幸を一身に背負ったような細見を俳句の道に導いたのは、往診に訪れていた俳人医師、田村箐斎(せいさい)でした。
 手当てが終わると、自作の句を読み聞かせては感想を求め、病床の慰めに句作を勧めたのです。
 しばらくして細見がつくりはじめた句を見た箐斎は、優れた感性を感じ取り、大阪に住む師の松瀬青々に紹介します。細見は自由で柔軟な子規門の作風にひかれて入門を決意したのです。入門後は青々が主催する『倦鳥』に投句するようになり、徐々に生気を取り戻していきました。
 また青々の夫人が、かつての女学校時代の同級生という奇縁も細見を元気付けました。
 昭和9年転地療養を兼ねて大阪府池田市に移り句作を続けます。そして昭和17年、処女句集『桃は八重』を出版し、新進の女流俳人として注目を集めることになりました

 この出版直後に細見は、学徒出陣を目前にした東大生、沢木欣一と出会います。沢木も俳句を生涯の目標としていました。
 沢木は細見宅に自作の200句を持ち込み、句集にまとめてほしいと依頼してきました。細見は統制品の紙を探して出版にこぎつけ、句集『雪白』を戦地へと送ったのです。昭和19年のことでした。
 敗戦後、奇跡的に生還した沢木は金沢女子師範の教壇に立つかたわら、俳誌『風』を創刊。細見はその同人になりました。二人の交流は続き、ついに昭和22年結婚、細見はトランクひとつを提げて金沢に向かったのです。
40歳にして新しい人生が始まった瞬間でした。

 昭和25年には長男太郎を出産、主婦生活となった細見さんですが創作活動は休まることは以後ありませんでした。27年第二句集『冬薔薇』を出版し、第2回芋舎賞を受賞することとなりました。
 一人前の歌人として、その存在を俳壇に認められたのです。
 31年東京に居を移してからも『雉子』、『和語』など次々に句集を発表、女性俳人の第一人者としての名声を確立していったのでありました。

 1975年、句集『伎芸天』で芸術選奨文部大臣賞、1979年、句集『曼荼羅』で蛇笏賞、1981年、勲四等瑞宝章を受章。
 そうして日本を代表する女性俳人となりました。


  そら豆は まことに青き 味したり 

  冬になり 冬になりきって しまはずに

  ふだん着で ふだんの心 桃の花

  菜の花がしあはせさうに黄色して

  チューリップ喜びだけを持ってゐる



1996年、90歳で没。

芸術選奨を受賞した句集『伎芸天』には、

「女身仏に春剥落のつづきおり」

という名句があります。彼女はこの仏像にことのほか感銘を受けます。
句集『伎芸天』のあとがきで、「遠いいつからか剥落し続け、現在も今日目の前で剥落していることの生々しさ、もろさ、・・・それらは新鮮そのものだった」と記します。

すべてのものが衰え、無に帰してゆくという摂理に安らぎと美を見出すという独特の世界観は、その半生の前半に遭遇した、相次ぐかけがえのない人たちとの死別が影を落としているのでしょう。

そしてもうひとつ。

ふだん着でふだんの心桃の花   と詠んだことの意味。


細見綾子さんは珍しく、俳号を持たない存在でした。そのことは彼女のルーツに繋がる大きな意味合いを持っているのでした。

「私の居場所は家庭。生活から離れたら、俳句はこしらえごとになる。」と、
あくまでも家庭を大切にしました。
 俳号を持たず、家庭の平穏な日常を大切にした俳人とは、細見綾子その人の
ことだったのでした。



『桃は八重』から『和語』まで、『伎芸天』以前の句集から、気になる作品を
ピックアップしてみました。

ブログ『水無瀬に行こう♪』の静弥さんのところの論考を参考にさせていただきました。静弥さん、お許しを!

静弥さんのブログのアドレスは、 http://blogs.yahoo.co.jp/seiya_1910 です。



『桃は八重』

  春の砂のこぼれやすさよそれに寄せて

  ほの暗く雪のつめたさ帯にある

  菊活けて外に出ないで暮らしてしまふ

『冬薔薇』

      くれなゐの色をみている寒さかな

      いづこより来たるいのちと春夜ねむる

      時計鳴り目あけているは小さきいのち

      亡母(はは)恋し電柱に寄せよごれ雪

      ストーヴにてかがやくことが何処かにある

『雉子』

      ひたひた秋落柿をはきよせもせず

      外套をはじめて着し子胸にボタン

      何をして何を思うも山残雪

      蘭の香はほしいままなるものならず

      十薬が匂う恋しさともちがふ

      母の日や夏みかんの汁子より飛び

『和語』

      紙漉くや雪の無言の伝はりて

      小学帽目までかぶりて蝶つまむ

      餅のかびけづりをり大切な時間
 
      沈丁咲くいつも泥靴ある家に
    

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  <大江礒吉>

 私の住まいする丹波にゆかりの人物について、人物伝のようなものを書いてみたいと思うようになりました。

 まずは「大江礒吉」という人からはじめましょう。
 丹波において明治以降最初の公立の旧制中学校が設置されたのは明治30年、県下ではそれまでは姫路と神戸、それに豊岡に設立されていたのみでありました。
 丹波の旧制中学第2代校長として明治35年に赴任したのが、大江礒吉。
 この名を知る人は今、はたしてどれほどいるのでしょうか?丹波でももはやあまり多くはありません。

 「大江礒吉」1868年、現長野県飯田市生まれ。被差別部落出身であった大江は、厳しい差別と貧困の中に育ちました。他の地区では被差別階層の児童の入学は排斥されていましたが、さいわい入学することができた彼のため、母親は授業料を払うためせんべいを焼き、これを背負って行商に出かけたといいます。
 絶えずトップの成績で下等科4年、上等科4年を見事卒業し、県から成績優勝で賞を授与されます。
 同時に飯田学校の助教に採用されたものの、地域の妬みと出身への中傷のため1年で解雇されてしまいます。
 しかし札幌農学校卒で内村鑑三や新渡戸稲造らと学び、のちに早稲田大学教授にもなる武信由太郎という飯田の県立中学の先生に見出され、県立下伊那中学、県立尋常師範学校、さらに当時の最高学府である高等師範学校(現筑波大学)にすすみ、首席で卒業を果たします。
 人道主義的知識人の武信との出会いや、品行方正で神童の誉れ高い少年に共感した地域の人々の支援が大きな支えとなりました。
 
 やがて母校の長野県尋常師範学校の教師となった大江は頭脳明晰、ハイカラで授業ぶりは鮮やかでありながら温厚で高慢ぶるところがなく敬服に値する先生でしたが、身分差別の感情は周囲に渦巻いていて、夏期講習の会場としたお寺では宿泊をいきなり断られ、畳替えまでされた後さらに塩をまいたと伝えられています。

 こうしてつねに「生まれ」ゆえの迫害を受け、しばらくすると職場から追放されるという繰り返しに遭遇します。大阪府尋常師範学校、そして鳥取県尋常師範学校へ・・・。差別の火の手は同僚教師からだけでなく生徒からも挙がったと言います。
 彼は「あくまで忍べ、力はすべてを解決する。」という信念で生き、差別に抵抗することなくひたすら己の道をまっすぐに進むということを旨としました。

 大阪を排斥された磯吉は1895年、鳥取県の尋常師範学校に着任します。
 そしてこの着任式で教職員や生徒を前にして自分の出身を明かす「部落民宣言」を行ったとされています。
 このことが「あくまで忍べ・・・」の信念に心身をすり減らす日々から、「自由・平等・寛容」の時代精神の具現者として羽ばたいてゆくきっかけとなったのではないでしょうか。

 と書くと、「うん?自分の身分をみんなの前で明かした?」と気がつく方もおられるのではないでしょうか?
 そうです、大江磯吉は島崎藤村の小説『破戒』の主人公、瀬川丑松らのモデルとされているのです。

 宣言後の大江は闊達でおおらかに生き、生徒の生活指導の責任者としても活躍し、鳥取の6年間は彼を師と仰ぐ同僚も多くいたと言われています。
 
 しかし日清日露戦争を経て、日本は国家主義的傾向を強め、彼の自由・平等主義の教育理念も転換を迫られます。富国強兵政策を信奉する新校長と戦い、他の同僚数人と共に休職命令を受けることになってしまいました。

 話が長くなりましたが、こうした経過の後翌年3月31日付で、兵庫県k中学の第2代校長として大江は復職することになったのです。
 大江はk中学で「理想の学校」づくりにあらゆる努力を重ねます。
 徳育、体育を偏重する教育から知育を尊ぶ教育に。
そしてクラブ活動や自治会活動を奨励し、自由平等の思想を根付かせようとしました。学費を半減させ、寄宿舎の経費を補助させ、設備の拡張にも努力し、
「人間性を尊ぶ」教育を目指したのです。

 そして校長就任の1年半後、腸チフスの母を見舞って郷里に帰った途端、逆に自分が感染し、35歳の若さで突然急逝することになってしまいます。
 彼の情熱と高潔は、今に至るまで、惜しまれながら丹波で語り継がれているのです。

 彼の生き方を偶然に伝え聞いた島崎藤村は、彼の没後に小説『破戒』を発表したのでした。


<伝説のテナー>

 大江礒吉のことを思い出すと、必ずかつての合唱部の2年先輩を連想する。
 自由闊達、常に笑顔で屈託のなかったKさん。
 イタリアの青い空を思わせる明るく湿度の少ない高音は、今も「伝説のテナー」という名で呼ばれている。
 てっきり進学されるかと思っていたら、「家業の手伝いだよ。」とだけ言って、
そのまま卒業された。クラブの同窓会で何回かは出会ったが、そのまま顔を見せられることもなく過ぎていった。
 旧制高校の制服のように曲がった帽子やくたびれた上着で神出鬼没に行動していたKさん。なぜか昼食はあまり食べないで、食べてもアンパン一個だけ。
 20年近くが過ぎてから、Kさんが家業の土建業で肉体労働をされていることを知った。
 そのとき初めて、Kさんの家が豊かでなかったこと、そして被差別部落出身だったのだろうと思い至った。
 バンカラ、弊衣破帽も昼食抜きも決して彼が望んでそうしていたことでなかったのだ。
遅まきに気がついて、深く自分自身を恥じた。
 そしてさらにそれから数年して、Kさんが病で亡くなったことも知ることと
なった。まだ、40歳になるかならないかで・・・。
 当時の合唱クラブの人たちはとても優しかったのだ、誰一人そのことについて話題にしたり、あれこれ詮索する人はいなかった。
 団員たちともとてもKさんと親密だったし、分け隔てのない気持ちのいい集団だった。
 今でも、細々と続けている合唱の場で高音部を歌うときは、必ずKさんの顔と、マリオ・デル・モナコばりの美声が響いてくる。
 そして風の又三郎のように、笑い声と神出鬼没な笑顔がひょっと現れるのではないかといつも思うのである。

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  You tube に生前のアンネフランクの動画がと、ヤフーの記事見出しに出て

いますね!

 驚きの映像です、伝説が60数年の時間を経て目の前に現れたのですから!

 動画の中にいるアンネ・フランクは、スターでもなく、当時の有名人でもな

く、ただの10代の普通の女の子です。

 ただ彼女とその一家は、彼らがユダヤ人であったというそれだけの理由で、

ナチスによって捕らえられ、絶滅収容所で生命を奪われました。

 多感で才能に恵まれたアンネは、狭い隠れ家の中で人間らしく、豊かな思春

期を送り、みずみずしい命に溢れた日記を後世に書き残しました。

 それは戦後、世界中の人々に読み継がれ、心を打ってきました。

 そのことと世界の意味、歴史と未来の意味について今も多くの人々が問い続

けて来ました。

 作家、小川洋子さんも、アンネ・フランクについて格別な思いを持たれてい

る方の一人です。

 わずか20秒のこの映像の意味を深く感じる人々は、今も数え切れないほど、

夜空の小さな星のきらめきの数ほどいらっしゃって、アンネという聡明でかわ

いい女の子からたくさんのことを学び、そして考え続けているのです。


 驚きと共に、ともかく21世紀の今、第二次大戦中のヨーロッパに隠れ住ん

でいる天使のような少女と出会えたことを、今夜は奇跡と呼んでみたいと思い

ました。



アンネ・フランクの映像




 


アンネ・フランクの家


   
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