村上春樹

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海辺のカフカ

     
      
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 『海辺のカフカ』は『1Q84』をさかのぼること10年前、2002年に
出版された長編小説ですが、今までどういうわけか読まないままでいました。
 
 友人に薦められて読んでみると、3日間ほどであっという間にという感覚で、
引き込まれるように最後まで読み終えました。
 
 それまでの長編からさらに進化し、深い世界まで案内されたような現実を超える非現実の世界として、強いリアリティをたたえつつ、豊かで底知れぬ想像力と緊迫感を最初から最後まで失わない物語。
 
 『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』や『1Q84』にも似た、二つのストーリーが交互に進行する形式。
 奇数章は、母・姉と幼時に別れ、「いつか父を殺し、母と姉と交わる」というオイディプスと同じ予言を受けた15歳の少年が東京の父の家を出て四国へ旅する冒険物語。
 偶数章は、猫と話が出来るナカタさんがジョニー・ウオーカーさんを殺し、イワシとアジとヒルを空から降らせ、若いトラックの運転手星野君とともに、
カーネル・サンダースさんに助けられながら「入り口の石」を開ける話。
 ナカタさんは奇数章の少年の願望を代行して異界巡りの通路を開く触媒の役目を負っていることがわかってくる。
 魅力的なナカタさん、星野青年の人柄は「弱く、時に無批判な空っぽ」ではあっても、一人ひとりが我々を損なうものに「対抗してゆける」存在でありえることも伝わるのだ。
 
 言葉は謎めき、事件は何を暗示するのかわからない展開の数々。
なにやら象徴に満ちた場面が連続して安易に読み進めないように一見感じるが、文章はとても読みやすく、エンターメント性にも富んでいてどんどん先を読んでゆける。
 
やがて高松にある一風変わった私立の図書館に落ち着く主人公田村カフカは、
人との出会いと不思議な体験を通じて内省を深め、やがて再生への足がかりを
つかんでゆく。
 
 心の深い海底に下りてゆくような少年の物語と、奇妙な事件を引き起こしながら周りの人々を癒していく猫と話が出来る老人と、そのコンビの運転手星野
青年のストーリーが対照的で、章ごとに展開が鮮やかであり、最終場面も自然に納得できると感じた。
 
 神話や哲学、小説などの引用も数えられないくらいゆたかであるが、とりわけ音楽の使い方がよかった。
 ブルーカラー層である星野青年が、昔の音楽喫茶のような店で偶然、シューベルトのピアノソナタやベートーベンのピアノとバイオリンとチェロのトリオの名曲「大公トリオ」を聴く場面の温かさやぬくもりの感じなどとてもよかった。
 
 もっと早くに読めばよかったとちょっと残念な気がしたさすがは・・・の
村上ワールドでした。
 
『大公トリオ』の一節を添付しておきましょう。

 
   演奏は、 ピアノ   : ダニエル バレンボエム
        バイオリン : ピンカス ズーカーマン
         チェロ   : ジャクリーヌ デュプレ 
 
   という天才たちです。

 
      

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  季刊誌「考える人」2010年夏号に掲載された、特集「村上春樹ロングインタビュー」を何度も読み返しています。

 The auther should be the last man
to talk about his work.

−作家はたやすく自作について語るべきでない−

と前置きしながら、作家は400字詰め原稿用紙にして340ページに及ぶロングインタビューを「考える人」編集長の松谷仁之氏と、2泊3日にわたり、新緑の箱根で繰り広げました。

 前例のないほど、広範で深い世界を巡る内容であり、率直で誠実でかつ「リスペクト」に満ちた試みは、読者に両手で持ちきれない、薫り高い果実を贈り届けてくれています。

 作家自身とその作品について、ほぼあらゆる角度から語りつくされた印象の対談であり、今後村上氏を語る上での「定点」とされるべき成果に間違いありません。

 個々の内容に言及しようとしてもあまりに膨大かつ深遠であり、すぐには何をどう整理してよいかわかりません。
 その中からひとつ心に残ったことを取り出すと、「卵と壁」のスピーチに関連して、1Q84での主人公青豆と天吾について、「卵」の側としてはっきりと語っていることと、オウムの地下鉄サリン事件の殺人犯たちに対しても同様に、
「卵」の側として、システムに翻弄された存在と位置づけておられることでした。

 そうして、注目の「1Q84」のBook3の続編の可能性については、今は何も考えられず、少なくとも1年間は何もしないと語りつつ、「1Q84」にはその前の物語も、そのあとの物語も存在するだろうと語り、リトルピープルとは何か、天吾の母親はだれに、なぜ、どういうふうに殺されたか解き明かされてしかるべきことはいくつかあること、リトルピープルについては、その存在を確信しており、彼らのいる世界がどういうところか描写することもできると語っていますので、あるいは1年後以降に「Book 0」や「Book4」がわれわれの前に姿を見せてくれるという期待を持っていたいと思いました。

 このインタビューから、多くの読者がインスピレーションを受け、村上氏の「物語」から、または彼が愛読したという世界中の優れた文学作品のどれかを手に取り、そして一人ひとりの新しい物語が綴られてゆくことを想像できる、
尽きることのない泉のような対談であると思いました。

 
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 「1Q84」第3巻に続いて、4巻目があるのかという関心が高まっているようです。
 そのことを考えていると、「アンダーグラウンド」と「約束された場所で」の2冊が気になって、何度か読み返してみました。
 
 ご存知のようにこの2冊は1995年の「地下鉄サリン事件」の被害者たちと、当時のオウム真理教の信者たちに村上春樹氏が行ったインタビューにより構成されたノンフィクション作品で、オウムの被害者側と加害者側それぞれから取材を行った、一対の双生児とも感じられる作品です。
 それまで78年間日本を離れ、ヨーロッパやアメリカに居を置きながら創作を続けていた作者が、自身が言うところの「イグザイル」(故郷離脱)から「日本」への強い関心をふたたび感じ始めたとき、1995年の阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が相次いで発生しました。
 それらふたつの「圧倒的な暴力」がもたらした意味と日本の姿について、肝心なことはなにも伝わらず、被害者の生の苦しみなどが何も知らされない状況に作者が果敢に立ち向かったのがこれらの2作品ということができます。
 
 とくに「アンダーグラウンド」の被害者たちへのインタビュー集はこの度読み返してみてその内容の深さと、多様性がもたらす複合的な読後感に圧倒されました。
 無名で平凡な生活者たちのどこにでもある「日常」の一日が、有無を言わさず突然圧倒的な暴力に交差させられたことのありのままの事実を探るなかで、人々のビヴィッドで飾らないインタビューを通じて我々に迫る一種の、生きることの「けなげさ」とでもいうべき各人の物語が、読者になんともいえない共感と慰めを与えてくれると感じます。
 
 このインタビューは村上氏にとって大きな果実だったのではという気がします。
 
 64名の人々は、オウムに対する感情の濃淡にかかわらず、大人であり、生活者であり、個人的なあれこれをかかえ、しかしそれぞれのスタイルでまだまだ遠いはずの人生のゴールへの一日を「普通に」生きていた・・・というなんでもない事実と、彼らの事件へのさまざまの思いが分厚い一冊に結晶していることの重み。
 
 村上春樹氏にとって、これら64人との出会いは、誤解を恐れずに言えば、彼にひとつの救済をもたらしたのではないか?と感じるほどです。
 
 そういう意味において、「1Q84」に4巻が出るとすればどんな展開になるのでしょうか?
 
 妊娠は天吾の子と信じる青豆の強い思いの陰に、隠された大きな謎が浮かび上がるということならば、次の展開が生まれる余地は十分にありそうに思われます。
 そのとき15年前に作家が巡り合った普通の人々という鉱脈の影響がどのように作品に投影されていくか行かないのかということが私としては興味が持たれ、その点から言うと、ブック4がぜひあって欲しいと考えるようになりました。
 
 
 作家という存在は、その処女作にすでに生涯を通じたテーマを内包させているとよく言われます。
 
 
処女作『風の歌を聴け』で、当時の日本語の言語感覚と隔絶した、翻訳風のバタ臭い文体で出発した作家、村上春樹。
うまく語れない、失語の大きな空白を空白として語ろうとした初期の彼。
 
 
「風の歌を聴け」の最終に近い箇所に次のような印象的な部分があります。
自称犬の漫才師であるDJが、回復の可能性が3%という病気の少女からの手紙を受けとり、番組で読み上げた後、リスナーに向けて語るメッセージ。ちょっと長いのですが、引用します。

 僕がこの手紙を受けとったのは昨日の3時過ぎだった。僕は局の喫茶室でコーヒーを飲みながらこれを読んで、夕方仕事が終わると港まで歩き、山の方を眺めてみたんだ。君の病室から港が見えるんなら、港から病室も見えるはずだものね。山の方には実にたくさんの灯りが見えた。もちろんどの灯りが君の病室のものかはわからない。あるものは貧しい家の明かりだし、あるものは大きな屋敷の灯りだ。あるものはホテルのだし、学校のもあれば、会社のもある。実にいろんな人がそれぞれに生きてたんだ、と僕は思った。そんな風に感じたのは初めてだった。そう思うとね、急に涙が出てきた。泣いたのは本当に久し振りだった。でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。

 僕は・君たちが・好きだ。

 あと10年も経って、この番組や僕のかけたレコードや、そして僕のことをまだ覚えていてくれたら、僕の今言ったことも思い出してくれ・・・。

 
失語と語りにくさから出発した村上春樹は、それから約30年間、文学の最前線で今も謎と魅力に満ちた物語と言葉を紡いでいます。
上記の、処女作での力強い宣言のような言葉は、今も変わらぬ彼の一貫した
姿勢なのであり、これまでその言葉に裏切られることはなかったように思います。
 
 なお「風の歌を聴け」でDJの「犬の漫才師」が最後にかける病気の彼女のリクエストは、エルビス・プレスリーの「グッド・ラック・チャーム」なのでした。
 少女の病は癒え、「僕」は救済され、象はすでに草原に還ったのでしょうか?

  

「1Q84」Book3

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 遅まきながらようやく数日前に、「1Q84」の第3巻を読了しました。
 BOOK1,2はそれぞれ天吾、青豆の物語が交互に語られた24章でしたが、BOOK3は合わせて31章で構成されています。


 作者自身がBOOK1,2発表後にすでに語っていたように、24章はバッハの「平均律クラビーア曲集」を意識して、長調、短調交互に天吾、青豆の二人を主人公としていたのに対し、牛河というあくの強い個性が主役級で登場した結果、今回は「ゴールドベルグ変奏曲」を連想させる31の曲(話)となりました。
 それぞれのピアノ演奏の定番と言われているグレン・グールドによる録音が1982年で、その発売が「1984年」であったことも、作者の念頭には当然あったものと思われます。
 しかし、そのような単純な予定調和は、ささやかな読者への歓迎のサインとしての役割にすぎず、「1Q84」においては、物語はより複雑な経路を辿っていきます。
たとえば作者は初めて統一的な三人称を選んでいますが、昨年のインタビューでは、新しい言語システムを試してみたこと、それにより世界が広がったことを率直に語っていました。
 言語は誰が読んでも論理的に理解可能な「客観的言語」と、言葉で説明のつかない「私的言語」の両方で成り立っているとヴィントゲンシュタインにより定義されていて、今までは私的言語の領域に足をつけ物語にしていくのが小説家だと考えておられたそうですが、あるとき、私的言語と客観的言語をうまく交流させることで小説の言葉はより強い力を持ち、物語は立体的になると気づいたと語っておられます。


 「1Q84」は全体として、現実社会とSFの世界が共存するファンタジーでもあり、その中で三人称はきわめて有効に機能したと作家は考えているようです。
オーウェルの小説の舞台(1984年)は、登場人物が踏み込んでしまった一種のパラレル・ワールド(現実世界に似ているが月がふたつ浮かぶ非現実の世界)の物語となりました。


村上春樹の初期の作品には見られなかった暴力と性が、作家となって作品を重ねるごとに重要な問題となっていったといいます。
地下鉄サリン事件、阪神淡路大震災、そして9・11などによって、現代社会は倫理の意味をつきつけられ、その意味を一面的にとらえることが困難であることに作者は気がつきます。
自分のいる世界が本当の現実世界なのか確信できないような、現実からの「乖離」を誰もが感じるような現代社会としてのシステム全体を小説にすること、それがこの作品のテーマであり、読者ひとりひとりが作中の誰かであってもおかしくないような物語とすることを目指したそうです。


ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」を書いた年齢を超えた村上春樹さんは、この作品に自らのすべてを盛り込み、作品自体がひとつの宇宙であるような小説を目指したように思われます。
ドストエフスキーをひとつの理想としてきた村上氏であるからこそ、BOOK3において、ドストエフスキー的人間を髣髴とさせるような、闇と深淵を抱く福助頭の「牛河」に活躍の場を与えることとなり、彼にあえて悲惨な最期を迎えさせたことは、「牛河」氏には気の毒ながら小説的には納得のいく帰結であったと思いました。


BOOK3を読んで特徴的なことのひとつに、従来はややもすると自作の中で謎を謎のまま放置する傾向のあった村上氏が、ここでは前2巻が提示している巨大な謎たちを、読者のために解き明かそうとしている姿があるということではないでしょうか。


以下、第23章<光は間違いなくそこにある>より。


私はいるべくしてここにいるのだ。
私はこれまで、自分がこの「1Q84年」にやってきたのは他動的な意思に巻き込まれたせいだと考えていた。
何らかの意図によって線路のポイントが切り替えられ、その結果私の乗った列車は本線から逸れて、この新しい奇妙な世界に入り込んでしまったのだ。そして気がついたときには私はここにいた。二つの月が空に浮かび、リトル・ピープルが出没する世界に。そこは入り口はあっても出口はない。
リーダーは死ぬ前にそのように私に説明してくれた。「列車」とはつまり天吾が書いている物語そのものであり、私は抜き差しならないほどその物語に含まれていた。だからこそ私は今ここにいるのだと。あくまで受身の存在として。言うなれば、深い霧の中をさまよう混乱した無知な脇役として。
でもそれだけしゃないんだと青豆は思う。それだけじゃない。
私は誰かの意思に巻き込まれ、心ならずもここに運ばれたただの受動的な存在ではない。たしかにそういう部分もあるだろう。でも、同時に、私はここに
いることを自ら選び取ってもいる。
彼女はそう確信する。
そして私がここにいる理由ははっきりしている。理由はたったひとつしかない。天吾と巡り合い、結びつくこと。それが私がこの世界に存在する理由だ。
いや、逆の見方をすれば、それがこの世界が私の中に存在している唯一の理由だ。

・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私は孤独ではない、と青豆は思う。私たちはひとつに結びつけられているのだ、おそらくは同じ物語に共時的に含まれることによって。
 そしてもしそれが天吾の物語であると同時に、私の物語でもあるのなら、私にもその筋を書くことはできるはずだ。青豆はそう考える。何かをそこに書き添えることだって、あるいはまたそこにある何かを書き換えることだって、きっとできるはずだ。そして何よりも、結末を自分の意思で決定することができるはずだ(以下略)。

 


 しかし、謎としてなお残るものたちも少なくありません。
 本書の最大の謎、リトル・ピープルとは?
 夜ごと山羊の口から出てきて「空気さなぎ」をつくる不思議な小人たちの意味は。
 彼らが牛河の遺体から出てくるというおどろき。
 マザとドウタなるものの意味合い、千倉の病院の安達クミの幻想的なエピソード、天吾の出生の謎と両親との関係。冷酷果断なタマルが持つ魅力と老婦人たちのその後、それにふかえりの行く末などなど。

 BOOK4は書かれるのだろうかと考えるのは、自然なクエスチョンであると思われますが、はたしてどうなのでしょうか?
 春樹ファンとすれば、別の物語となっても、新たな物語の魅力を味わいたいと思える展開であり、よい読後感だと思いました。

 マルキシズムという20世紀の対抗的価値が力を失って、原理主義やグローバリズム、情報化社会といったメガ社会の中で物語を立ち上げようとするとき、カルト宗教という存在の文学的意味に著者は関心を寄せたのでしょう、それはオウムという奇形のもたらした結果の現代性という意味において。
 そこから出てきたのが「リトル・ピープル」なのかもしれません。
 
 作品化された物語の中では、村上氏の作品に特徴的な親密さは保たれ、また登場する若者たちは傷つきやすく美しく描かれます。
 30年を経ても、彼は青春がとてもよく似合う作家であり続けています。

 もともと今年の夏と予定されていた「BOOK3」が、こんなに早く刊行されたのは、さらなる完結編があるのではという期待を増幅させる一因となるものと思われます。
 BOOK4があるかどうか、私は「なし」でよいのではと感じています。
 新たな「1Q84」は、新たな作品の世界の中で読むのがいいかなと。
 と考えつつも、やはりBOOK4も読んでみたいのではありますが・・・。


備考:この記事にあたって、主に昨年の作者のインタビュー記事,それに翻訳家、鴻巣友紀子氏のブログ記事を参考にさせていただいたことを最後に付記しておきます。  

       
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 村上春樹の代表作『ノルウエイの森』は1987年に上下巻が刊行され、20年余りをかけて単行本で上下巻あわせ450万部、文庫本もあわせ現在1000万部を越える発行部数となっている。
 ファンの多い中国で100万部以上が販売されているのをはじめ欧米でも評価が高く、まさに氏の代表作というべきだろう。
 先年『世界の中心で愛をさけぶ』には抜かれたらしいが、長らく小説単行本の第一位を保っていた。

 作者自身が「100%恋愛小説」などと語り、いらぬ誤解を与えたことが絶大な販売実績に寄与したのだろうが、むしろ「100%のリアリズム小説」と呼ぶほうがまだ妥当であろう。
 といってもそこで言う「リアリズム小説」の意味は独特で、主人公、ヒロインの直子、若くて瑞々しい活力に満ちた緑、主人公の幼なじみのキズキ、東京の学生時代の先輩で東大法学部の永沢さん、その恋人ハツミさん、そして重要な役割を担う女性として、ピアニストを目指して挫折し、療養所で直子を支え、主人公にも理解を示すレイコさんという中年の独身女性などの登場人物たちが物語を奏でる時間を、未来のある一点から振り返ることで客観視しようとする構成の、ある意味で感傷的な作品であるといえよう。

 初期の村上の特徴である、動と静、生と死、光と闇、孤独と喪失感が誰にも模倣できないような表現力で迫る名作。
 
 この作品の中の最初のクライマックスは、京都の山奥の療養施設に入院した直子を主人公のワタナベトオルが訪ねるところである。
 
 ・・・京都に着いたのは11時少し前だった。僕は直子の指示に従って市バスで三条まで出て、その近くにある私鉄バスのターミナルに行って16番のバスはどこの乗り場から何時に出るのかと訊いた。11時35分に一番向うの停留所から出る。
 目的地まではだいたい1時間少しかかるということだった。
 僕は切符売り場で切符を買い、それから近所の書店に入って地図を買い、待合室のベンチに座って(直子のいる)「阿美寮」の正確な場所を調べてみた。
 地図で見ると「阿美寮」はおそろしく山深いところにあった。バスはいくつも山を越えて北上し、これ以上はもう進めないというあたりまで行って、そこから市中まで引き返していた。僕の降りる停留所は終点のほんの手前にあった。
 停留所から登山道があって、20分ほど行けば「阿美寮」に着くと直子は書いていた。ここまで山奥ならそれは静かだろうと僕は思った。


 と書かれたこの作品の舞台の場所はどこ?
 色々調べてみるとだいたいの意見は一致していて、出町柳?から出ている、
京都バスの「花背〜下河原」行きのバスの路線であろうという意見が大多数であるようだ。
 この路線の道路はたいへんな悪路で、そのあたりも作品の描写にそっくりなのだという。
 
 てなわけで、お調子者の「電池切れ」としては、三連休に空白の半日ほどの時間などあれば気持は「むずむず」、この目で確かめるほかはありません。

 というわけで、目的地を「花背」と定め、行ってきました。
 標高は約600〜700m、道路は当然一車線で、未舗装の場所がほとんど、片側はたいてい崖っぷちで遠い下のほうに川が流れているという状況とヘアピンカーブの繰り返しです。
 車が来てもすれ違えず、どちらかがバックしないと行き来ができません。
 花背の集落の手前に峠があり、視界が利きませんが、そこから登山道のような、人がやっと通れるほどの山道が奥のほうに向かっている場所がありました。
 きっとこのあたりが「阿美寮」への入り口だろうと想像しました。

             
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 花背はたいへん広い高原のようで、「阿美寮」の場所は特定できませんでしたが、少なくともその地域の性格や雰囲気は肌で感じられました。
 それは山深くて近づきがたいようでありながら、実は京都という独特の雰囲気のある世界に繋がっている、むしろ開放性のある場所と言えるように思えました。
 峠の険しそうではあるが、実は結構人に優しく配慮された道路の様子がそう思わせましたが、直子がいた30年ほど前は、まだまだ孤独や闇に支配されていたのかもしれないなと思いました。

              
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 この作品がお好きな方は、機会があれば一度ぜひ訪れてみられるのも興味深いことだと思います。

 小さなドライブの最後は、「床緑(ゆかみどり)」で今人気の、洛北岩倉の「実相院」で、襖や庭を楽しみました。
 

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