三島由紀夫

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 2006年11月18日(土)、同志社大学で行われた「昭和文学会」において傍聴した『NONAJUNN』さんの講演『アメリカという宿痾』大江健三郎『万延元年のフットボール』を視座としてーの取材風記事を書いてみます。

 横光利一の若手研究家として著名な「NONAJUN」さんの講演は、同志社大学今出川キャンパス至誠館22号教室にて満座の聴衆のもと、熱気を帯びて行われた。
 大江健三郎、夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、野間宏、遠藤周作、深沢七郎、三島由紀夫、昭和天皇、など綺羅星の如くの人物が登場した。才気煥発にて、引き締まった表情、彫りの深い顔立ちなどがかっこよかった。
 
 氏はまず、戦後国語教科書において、戦前から戦後にかけて登場回数が大きく変化した作家、作品について目からウロコの印象的なアプローチを展開する。
 夏目漱石では、戦前は「草枕」407回、「吾輩は猫・・・」196回である。いっぽう「こころ」で考えると、教科書への登場は戦前はゼロ、戦後は一転して145回を数える。
 同じく森鴎外では、戦前は山椒大夫95回、高瀬舟「85回」・・など。いっぽう「舞姫」で見ると
戦前は同じくゼロで、戦後は128回となっている。また、芥川龍之介では「蜘蛛の糸」や「戯作三昧」などが多く選ばれていたが、戦後は昭和31年にはじめて「羅生門」が登場し、134回にも及ぶ登場回数を誇っている。「鼻」も戦後登場回数40回と多い。

 その合理的理由、深い内なる戦後の精神性として「戦争からの生き残りの残像」・・・「サバイバーズ・ギルト」つまりひとつの罪悪感が無意識にも通奏低音として存在するせいではないのかとおっしゃるのである、卓抜な分析と言えよう。
 「こころ」も「舞姫」も自らが罪悪感を感じながら生き残る姿、芥川の作品も醜い姿が生き残ってしまうという情景である、いずれも生き残りの「悪」を肯定する、あるいは「できるのか」というポイントがあると言われる。

 肉欲を抱えつつ、引揚げ兵として靖国神社周辺をうろつく姿を描写する野間宏の「崩壊感覚」にも、サバイバーズ・ギルトの痕跡は深い。(うーむ)。

 遠藤周作の「沈黙」は、背教の淵に立たされた人間のうめき声と西洋と日本の思想的断絶、<神の沈黙>という永遠の主題を語るわけだが、「転び者ゆえに教会も語るを好まず、歴史から抹殺された人間を、それら沈黙から再び生き返らせること、そして自分自身をそこに投影していくこと・・・それがこの小説の動機だと作者自身が語る。
 「沈黙」の前身の作品『満潮の時刻』では、はっきりと「生き延びたということを、何かうしろめたいもの、恥ずかしいものと感じるのだった」。と明確に叙述されていた。
 その感覚、そういう意識はサバイバーズギルトそのものと重なってゆく。そして精神分析的には、生き残りの肯定という方向を目指していくのだと喝破される。

 遠藤周作の「沈黙」を激賞した作家の一人に三島由紀夫がいたことも、NONAJUNN氏はするどく指摘する。終戦に「遅れて来てしまった人間」として自らを意識した三島はこの作品に大きく共鳴すものがあったはずで、やがて三島が「英霊の声」を書き出すきっかけとなっているのではないかと言われる。

 深沢七郎の「風流夢譚」では、戦後の昭和天皇ご夫妻の姿として、「ミッキーマウスの腕時計」を身につけた裕仁天皇、英国製の商標がはっきり見えるツーピースのスカートの昭憲皇太后の姿などが書かれることも、その遠因のサバイバーズ・ギルトによって、深沢の意識が理解できると指摘される。
 
 そうして、『万延元年のフットボール』と謎の猿田彦的なアメリカのペリー像、などの中に日本の対米関係、「アメリカのこと」の100年が十分に語られていないことの指摘がなされた。
 作者大江健三郎は、西洋と日本の関係を「アンビバレント・・・抑圧」と「アンビバレンス・・・両義性」に引き裂かれているが、むしろそのことが日本の文化の強みではないかと指摘していることを特筆されていた。

 何を書いているかさっぱりわからんぞとご指摘を受けそうですが、私の記した講義ノートを整理して見るとこのような内容となりました。
 個々の事項については、ブログにおいてもNONAJUN氏は力強くこれらのテーマに対し語り続けておられます、今日的かつ未来への思考回路として、氏のご意見を注目していきましょう。

 また、氏の専門でいらっしゃるらしい、横光利一についてもぜひ卓見を披瀝していただきたいとかんがえるものであります!
(NONAJUNNさん見当はずれな記載となっていましたら、ぜひともご叱責をお願いする次第であります。)

 




 

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苦悩と含羞

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 日経新聞の「私の履歴書」は今月、小松左京さんが書いている。元気いっぱいで騒々しい元共産党で、
なんだか失礼ながらミスキャストじゃないかと思いながら読んでいると、昨日から昭和24年ごろの京大作家集団の思い出が書かれている。そう、現れるのだ、高橋和巳が・・・・この頃からすでに「苦悩教の教祖」と呼ばれ、しかし周りにそのあふれる才能を愛されていた様子が愛情をもって描かれる。今朝の分には活版印刷で創刊号だけが出された「現代文学」という同人誌のことが書かれており、バイタリティあふれる小松左京氏は余技?の漫画作家として収入を得て、資金援助に精を出していた様が紹介された。

 三島由紀夫が自決して半年後の昭和46年5月に、高橋和巳が胃がんのため39歳で亡くなったことは前にも記した。このとき、私は大学に現役入学したばかり。下宿の近くの本屋に雑誌「文芸」の高橋和巳追悼号が並んだのを見つけすぐさま購入した。そのとき小松左京さんが高橋和巳の文学仲間であったことをはじめて知り、少し意外に思った。小松左京、高橋、のちに高橋和巳の妻となられるたか子さんらが写った京大近くでのスナップ写真などが載っていた。遠藤周作、開高健、大江健三郎、埴谷雄高、武田泰淳?小田実、それに大学の恩師である、吉川幸次郎教授らが葬儀に参列していた。吉川教授の深い悲しみに満ちた葬儀委員長の弔辞があり、友人代表として、小田実が「高橋和巳よ、万感の思いをこめて『ほな、さいなら』」と最後に呼びかけた。・・・この雑誌は本棚の奥の方のどこかに赤茶けて眠っているはずである。
 
 時のたつのはまことに一瞬である。「悲の器」を、いつかはもう一度読み返したいものだ。
 今日の日経夕刊には、また、先日死去した元ラグビー日本代表監督、宿沢広明さんの追悼記事も載っていた。宿沢さんは三井住友銀行の取締役専務執行役員であったらしい、すごーい!
 しかし載せられた写真も、また記事での紹介でも、含羞(がんしゅう)をたたえた雰囲気と、誠実な人柄ということが惜しまれているので、私の兄弟が紹介されているように感じる。写真もやっぱり私に似ているので切なくなる。

 うちの職場の、一番年配の係長は人柄がよく、みんなに愛されているのだが、病院で見てもらったところ甲状腺のところにがんが発見され、腰骨あたりにも影があると言われたと、きょう出勤して報告があった。
 生きていくって、なかなかたいへんなことなんでありますなあ。
 連休は釣りに出かけたいが、どうなるかまだ未定。ヘルペスの父もそろそろ退院となるらしい。

 三島由紀夫の「近代能楽集」。何度読み返しても、常に新鮮である。三島の力であるが、同時に古典そのものの力であることを強く感じる。

 

小説家の休暇

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 きようはちょっと遠くまでの日帰り出張だった。なにげなく鞄に放り込んで行ったのが、「小説家の休暇」(三島由紀夫)
 こんな文章、よくまあ、30歳の年齢で書けるものだと舌を巻く。(もっとも10台半ばで、すでに作品を書いていたんだから当然ではあるが・・・)
 「私の小説の方法」では、小説作成の秘伝として、以下のような文章を書いている。

 「真の小説は小説に対して発する<否(ノン)>によって始まる。・・・・『ドン・キホーテ』は小説の中で行われた小説の批評なのだ。」というティボーデの有名な言葉は、いやになるほどたびたび引用されて、読者もよくご承知であろう。小説のこの発生的に孤独な状態は、いつも小説を、絵や音楽のような芸術ーーー間違えようのない芸術ーーーとは違ったものにしている。絵には色彩があり、音楽には音がある。われわれは日常生活においてすら、色彩や音に対しては、芸術的選択をするよう慣れている。しかし小説は言葉、言葉、言葉であって、しかもその言葉は、詩のような音韻法則にも、戯曲のような構成的法則にも縛られていない。
 小説はかくて自由である。どうしようもないほど自由である。・・・・

 といった、具合。これはまだたいへん理解しやすい記述の例であって、『さながら散乱した宝石のようにまばゆく燦然としている・・・』と評される文章(文体?)が、軽々と、かつ延々とどこまでも続いてゆく。また、古今東西、ギリシャ、世紀末ヨーロッパ、古代から江戸までの日本文学のありとあらゆる様相が自家薬籠中のごとく繰り出される。たいていの人は、幻惑され、圧倒され(あるいは私のように、何が書いてあるのか、意味も理解できん!という敗北感もときには味あわされるのである。)叩きのめされるような感じを受けることとなる。
 今日はまだ、エネルギーが横溢していたようなので、出張の長い道中で、知的興奮を味わい、身体の中をアドレナリンが駆け回っていたので、有難かったのではあるが。

 日記体の作品「小説家の休暇」の6月30日(木)の記述には、あまりにも有名になった、三島の太宰治に対する猛烈なる嫌悪が記されている。必読である。
 この時期、30歳にして作家はすでに完成され、自信にみなぎり、ぎらぎらとした才能を太陽光線のように周囲に発しているという一冊である。

 現代の作家、宮本輝さんは、40歳を過ぎると、三島には付き合いきれないと申されているそうである。
 たしかにそれだけのぎらぎらした鼻持ちならなさ、過剰にあふれてはいる。
 
 批判もいろいろあろうが、彼の古典の教養の質・量には脱帽のほかなく、その形成過程そのものもきわめて興味ある研究課題であると思った次第。
 三島由紀夫はその最後のみならず、存在すること自体が、すでにひとつの事件であったといわねばならぬのではあるまいか。


 


 

奈良帯解月修寺

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三島由紀夫の最後の小説『天人五衰』は、7月、梅雨明けの郭公の啼く奈良月修寺の静寂の庭の描写で終わっている。

 「そのほかには何一つ音とてなく、寂幕を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。・・・・・」

 作家はここで筆を置いた。そして、その数時間後に「自決」という衝撃的な形で、生涯の幕を自らの手で降ろした。
 『天人五衰』の静かな終章は作家の死の衝撃の覚めやらぬ師走、雑誌の新年号の誌上で人々に読まれた。
 その時、人々はあの山之辺の道のある帯解の丘陵の懐に抱かれたようなこの奈良の三大門跡寺の静かな庭の情景を、どれほどの鮮明さで思い浮かべることができたであろうか。
 盛夏は奈良大和が静寂を取り戻す唯一の短い季節である。もっとも、春秋の観光の最盛期でも、作中の月修寺、現実の円照寺まで足を伸ばす旅行者はまれであろうし、春の短い一時期を除きこの尼寺は一般に非公開となっている。それだけに円照寺は踏み荒らされることもなく、深い木立の奥に無垢の姿で佇んでいることであろう。
 普門院円照寺は寛永18年(1641)、後水尾天皇の第一皇女梅宮分智女王が京都修学院に結ばれた草庵を開基とする。明暦元年(1655)現在の地に移されて、約350年を経た。
 生涯の最後の作品の終章をこの大和の美しい寺に置いたということは、その死が苛烈で、劇的であるだけに深く心を動かされる。円照寺(作中の月修寺)の描写は死を目前に控えた作家の手になるとは思えぬほど一糸も呼吸が乱れていない。
 盛夏の陽光を浴びた木立の描写、郭公の声ばかりで物音の絶えた夏の庭。三島が最後の一字一字を原稿用紙に埋めていったであろう11月25日の夜明けに思いをいたすばかりである。
 
(写真;普門山円照寺)

1970・11・25

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 コメントをいただくとうれしいのですが、いまだその返事の方法が良く理解できていません。猫町さん
おたよりありがとうございました。とりあえずこの画面でお礼を申し上げます。
 日本、サッカー残念。しかし、ピッチという純粋な場所がこの世にある限り、いつかはきっと、そこに戻れることでありましょう。

 さて、宿題のことをそろそろ思い出してあげましょう。この宿題は難解ですが、そんなにたいしたことはないとも言えます。我々一人ひとりが、人には言えずに抱えている「宿題」に比べたら。
 「国家の品格」という本はそんなに難しいことを主張しているのでないことは、一読すると明瞭なように思います。ただし、その中で筆者が体験して、日本の文化を考えさせられたという外国人のひとつの質問を除いては。
 著者がアメリカに行ったとき、フィールズ賞の受賞者である大数学者が、こんな質問をした。
 ー漱石の「こころ」の先生の自殺と、三島由紀夫の自殺とはなにか関係があるのかね?ー

 いかがでしょうか?

 1970・11・25 のことは良く覚えています。ケネディ暗殺の次くらいに強烈な印象でしたね。
 その日、田舎の高校3年生であった私は、ちょうど期末テストを迎えていました。
 午前中で学校が引けて、正午には自宅に帰ることができました。ここでもTVが登場しますが、正午のNHKニュースで、三島由紀夫が今、市谷の自衛隊本部に立てこもっている。という一報があり、それからしばらくして、盾の会の会員と割腹自殺を遂げたというニュースがあったと思います。大学紛争真っ只中のころ、文化防衛論を唱え、東大で全共闘と論戦したりしてましたが、ノーベル賞に当時もっとも近い文学者と言われているのは知っていたので、なんでそのような行動をするのか理解をはるかに超えていましたね。その2年程前には、男らしい男と女らしい女の模範として、NHKの番組に、男は三島、女性が八千草薫さんで、二人が出ていたことも覚えています。 翌日の朝刊には、血まみれの長官室の床に、介錯された三島の首が目を閉じたまま、置かれている写真が一面に出ました。今ならそんな写真を載せるなどとても考えられないことです。
 謎の死、三島美学の結論など、抽象的な文章が紙面に躍っておりました。 

 あれから、35年です。35年という長さを、感覚的にだいたいこういう感じかなと評価できる年齢になりました。今から35年前が三島の事件。その35年前はというと1935年、昭和10年です。このときは日本では天皇機関説で美濃部達吉博士が糾弾され、ドイツではナチスのヒトラーがベルサイユ条約を破棄して再軍備を宣言しています。戦争の足音が近くに聞こえている時代。そして、その35年前はどんなときだったでしょうか。ちょうど1900年、19世紀最後の年。この年夏目漱石は、英国に英文学研究の国費留学生としてイギリスに到着しています。明治でいうと33年ごろ、それからひどい神経衰弱にかかり、発狂説まで流れたあと、1903年に帰国、一高、東大で英文学を教えたが、前任者のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の人気にははるかに及ばなかったようです。そして、高浜虚子の勧めで、ノイローゼ解消のため「猫」を連載したところ、ようやく大人気となり、国民的作家の道が開かれることとなったと言われています。

1970年の三島自決までの時間が35年、その感覚の物差しで、ふた周り過去に戻っていくと英国留学時代の
漱石の姿に追いつくのであります。遠い遠い昔ですが、我々の知っている35年のさらに2回分というと、決して想像できない昔ではなく、霞がかかっているけれど、地平線よりは少し手前の遠景であって、決して無縁のものでないと感じることができると思います。

 漱石と三島に共通点、関係している箇所がはたしてあるのかないのか、夜がふけてきました。また、
次回にいたしましょう。「夢十夜」のように。漱石の作品にははずれがないとよく言われます。
夢十夜も名作ですね。

 
 
 


 



 

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