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 翌日の土曜日(9日)は、うってかわって冬型の気圧配置で朝から風も強く吹いています。
 好天なら上野毛にある五島美術館を訪ねるつもりでしたが、風邪気味ということもあり、あっさり取りやめ。

 そして今回最大の目的である「近衛家1000年の名宝」と銘打たれた、陽明文庫創立70周年記念特別展の、東京国立博物館平成館へと真っ直ぐに向かうこととしたのでした。

 先日NHKの日曜美術館でも詳しく紹介されていた展覧会で、収蔵物の質量とも、想像を絶する内容を誇っています。
 上野公園に入ると様々の看板が立ち並んでおり、自然に胸が躍ります。


      
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 まっすぐに博物館を目指します、どういう訳か中国語を話す10人くらいの団体らしき一団もお目当てが同じ所のようでした。珍しいなと思いましたがその理由は後でなんとなく「そうか」とわかったように思えたのでした。

 展示会のチラシによれば、近衛家は藤原鎌足以来、藤原道長、頼道など連綿と続いてきた藤原氏の嫡流で、摂政や関白の重職を担う五摂家の筆頭の家柄です。
 歴史的な文書、記録、宝物などの文化財は20万点にも及び歴代当主が守り続けてきましたが、首相にもなった近衛文麿が昭和13年に「陽明文庫」という特殊図書館として、京都に設立しました。
 今回は史上初めてその全貌を紹介する展覧会として上野で開かれており、5部構成、200点を超える平安時代から現代にわたる展示物によって、公家文化の粋を見せてくれています。

      
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 館内は寒波にかかわらず多くの人で賑わっています。早めに回ろうとしますがそれでも6室ある展示会場を一通り回り終わったのは優に2時間が経過した頃でした。
 道長の自筆になる御堂関白記や三筆の藤原行成が白楽天の漢詩を書いた「白氏詩巻」をはじめ、小野道風、藤原佐理の書や歴代天皇の直筆、近衛家の当主たちの作品など膨大で時間がいくらあっても足りそうにありません。


 分厚い図録からとくに2,3のものだけをご披露してみます。


 
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 はじめは和歌懐紙「いく春も」です。なんと見事な懐紙でしょう、この緑色の深さ。そしてお歌も素晴らしいです。
 作者は後桜町天皇で、後桃園天皇が幼少のため践祚により即位された女帝。
(1740−1813)。和歌の才にすぐれまた能書家として傑出されていたのです。

 いく春をなを色
   そへよすらき
         の
  よゝのさかへを
    契る松か
         枝



 
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 次は平重盛の書状。平清盛の長男としてその人柄見識により将来を嘱望されるも、若くして病没。この書の他にはわずか一点が筆跡として残るのみ。
 29歳の時の筆跡。書の見事さもさることながら、この掛け軸の表具の華麗さもすごいと思われます。

 近衛家21代当主で万能の天才と謳われた近衛家熈は、書、日本画、音楽などあらゆる分野に才能を発揮したらしい。表具についても能の装束の布や、遠くはペルシャの布地、そして中国の元、明、清の豪華な布を惜しげもなく用いて豪華絢爛な表具を施していて、センスとその財力のすごさに圧倒されます。

 この表具の豪華な展示場に、入り口で一緒だった中国語の人たちが集まっていました。彼らの興味は当時の中国の織物、布地がどのようなものであったのかを陽明文庫の所蔵品によって知ることだったのではないかと、その姿を眺めていてつよく感じたのでありました。


 
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 最後はほのぼのとする玩具類の中から賀茂人形の内裏雛の姿です。
 芥子粒のようなちいさなものから大きなものまで。それはそれは可愛らしい姿です。
 他に御所人形の大名行列などもあり、そのほか刀剣、茶道具、お雛様のために雛道具などに至るまで、1000年の貴族文化の広さと深さにため息をつき、何度も足を運びたいと思った、まれにみる展示会でありました。

 2月24日(日)まで。東京上野公園内、東京国立博物館。

東京美術館散歩 1

 東京で会議が開かれました。
始まりの時刻が早いので前日から泊まり、会議後も一泊して、次の日東京を歩くことにしました。春からは、来ることはあまりない可能性が高いのです。

会議当日の朝、宿泊したホテルから富士山が武蔵野のむこうにくっきりと見えました。

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会議後はいつも、参加者全員でパーティ形式の親睦会があるのですが、今回はなぜか開かれなかったので、会議後はすぐに解散となりました。
金曜日はたいていの美術館が、5時以降も開いています。比較的手近な有楽町の出光美術館に行ってみました。

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重要文化財「伊勢物語絵巻」を中心に、江戸時代初期の俵屋宗達の琳派の絵画など約70点が展示されていました。テーマは題して「王朝の恋」。

伊勢物語は江戸時代になって大いに流行し、絵画も数多く描かれたようです。
宗達の描いた伊勢物語は色紙に書かれた絵で、60点あまりの絵の空白の部分に、のちに所有者となったお歴々たちが自由に詞書を入れており、その自由闊達さも面白く感じられます。「宗達色紙」と呼ばれて、歴代伊勢物語の絵の中でも代表格になっています。

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たとえばこの色紙は「武蔵野」の段(絵)で、許されぬ恋にいとしい女性を連れて逃げる男。武蔵野の草むらにかくれたが、追っ手が追いつき、とうとう囲まれてしまう。野に火を放とうとしたそのとき、嘆きの歌を詠み囚われてしまうのでした。はかなく美しいこの作品は、近代茶道の名人、益田鈍翁の愛蔵となったものだそうです。鈍翁は数多くを所有され、それらは「益田本」とネーミングが与えられているそうです。次の一枚も益田本のひとつ「若草の妹」と呼ばれる作品です。

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出光美術館のレイアウトは前回訪問したときから少し変えられたようで、出口近くには「ルオーの部屋」という洋画の展示室も独立していました。
飾られているのはルオーとムンクであることにはかわりがありません。
ご紹介する一品は、

『受難』30“ここに、一つの世界が幕を下ろして消えうせ、別の世界が生まれる”

と題されたものです。重厚であたたかみのあるキリスト像の他に、このように静謐で抽象性のある作品群も印象的です。


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次回この美術館を訪れることができるのは、いつのことでしょうか?

紅旗征戎非吾事

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 今年は「源氏物語千年紀」と称され、わが国のみやびな文化、和歌や書、源氏物語をはじめとする女流の文学や、平安以来の京都を中心とする貴族文化のすばらしさが再認識される一年となることでしょう。


 源氏物語を千年紀にあわせてじっくり味わいたいと思う、ひとりです。
 源氏に詳しい友人、書の才能のある知り合いも周囲におられるので、助けを借りつつ、夢の世界を探求したいと思っています。


 電池切れのブログのモットーは「藤原紀香」と同じ・・・じゃなかった、「藤原定家」と同じであります、つまり、有名な言葉

 「紅旗討戎わがことにあらず」なのです。

  定家はこれにより、弱肉強食の現実世界を否定し、より価値の高い和歌という「美」の世界の絶対性を主張したのです。
 このような主張が行われる程度には、世界に類のないほど、文化風俗そして芸術が栄え洗練され息づいていたのです。
 そして現代の我々にもその魅力を伝えているのです、いざ!平安の京の都へ時には、タイムスリップしてみましょう。

 先週の土曜日にたまたま訪れたのは、東本願寺別邸の「渉成園」です。
 源融の邸宅「河原院」跡ではないかとの説もある名園です、光源氏の六条院を思い起こさせる広大さと品のよさを持っていました。

 明日から週末まで、会議のため東京方面に行く予定。

 先ごろ、日曜美術館で紹介されていた近衛家収蔵の陽明文庫の品々を中心に、
 美術館などをはしごして参る所存です。
 上野毛の五島美術館も訪ねてみようかと思います。

 「キッチン」とよしもとばななさんの世界はいったんお預けです。
 いいかげんには書けませんので、時間のもてる帰宅後にさせていただきましょう。  
 まだまだ寒さが続きます、風邪にはくれぐれもお気をつけください。草々

藤原公任Vs和泉式部

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 道長の時代、その存在の大きさに匹敵する人物と言えば、権大納言藤原公任を真っ先に挙げるのが順当である。
 当時の最大の教養人にして、和歌、漢詩、音楽さらには典礼にまで他の追随を許さず、かの『和漢朗詠集』の編纂者でもあった。
 道長の父、兼家が公任の学才をうらやみ「わが子たちは公任の影さへ踏めそうもない」とぼやいたという。
 但し、そのとき剛毅な四男の道長だけは、「あいつの影は踏まずとも、面(つら)を踏んでやることになる」と宣言したとも伝えられるが・・・

 政治の風はやがて兼家=道長側に味方して、賢明なる公任は政治向きには道長一族に恭順して、その保身を図る展開となっていった。

 それでも博学多芸で万能の人物とみなされていた公任は、貴族社会のスターの座にあり、また権威でもあった。家持、貫之、公任、俊成へと和歌の批評の第一人者の系譜は、時代とともに受け継がれたのである。
 
1004年春、公任は洛北白河の別邸に滞在していた。道長側に移ってゆく政治の風のみならず、能もないライバルが出世するという噂が喧伝され、欝を散じに別邸に赴いたのである。

そこに一通の手紙が届けられた。上等な紙にあまり上手といえぬ若そうな筆遣いの手紙に和歌が添えてある。

われが名は花盗人とたたばたてただ一枝は折りてかえらむ

 歌は公任の趣味ではないが、差出人の名におどろかされた。大宰帥宮敦道親王とある。
 帥宮がかの和泉式部を自宅に引き入れ同棲を始めた事件は、たいていのことには驚かない宮廷人たちの間でも、ここしばらく大スキャンダルとなっていた。
 
 和泉式部、男らしく才能もある夫を持ちながら、弾正宮為尊親王と恋をし、まもなく弾正宮と死別した。あれから2年も経たないのに弾正宮の弟である、
敦道親王の愛を受け入れ、世間を騒がしているのである。
 公任の脳裏には、和泉式部がまだ16,17歳の頃つくったという一つの和歌が思い出されるのであった。

 くらきよりくらき道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月

 和泉式部の歌は思いのたけを一気に詠みくだすもので、公任の持つ和歌の美学とははるか遠い世界のもののように思われる。
 そうして16,17歳のときのこの歌が、和泉式部という女性の生きる姿を予言していたかのように、ひしひしと伝わってくるようである。
 公任の人気は、和泉式部にとっても少なからず好奇心を呼び覚ますものであろうことを、公任自身も感じている。そしてまた、公任もその妖しい魅力を再認識しながら、この歌にどう応えようかと考えるのであった。

 帥宮の歌に対する数種の贈答の和歌が、公任、和泉式部のそれぞれの作品に残され、今に伝わっている。
 公任の『前大納言公任卿集』、並びに和泉式部の『和泉式部日記』である。
 それらは、微妙に歌の順序や、省略されたものなど異なっている箇所がある。
 異なっていること自体にも、両者の内面の心の動きが投影されているようで
重要な要素だが、ここでは公任の残した贈答の記録を書いてみよう。

 帥宮、花見に白河におはして
    われが名は花盗人とたたばたてただ一枝は折りてかえらむ

 とありければ[公任]、
    山里の主に知らせで折る人は花をも名をも惜しまざりけり

 また宮より[帥宮]
    知られぬぞ甲斐無かりける飽かざりし花に換えてし名をば惜しまず

 返し[公任]
    人知らぬ心の程を知り居れば花の辺に春は住まはん

「花をも名をも」と聞こえ給へりける御返しに付けて、道貞(和泉式部の夫)の妻の聞こえたりける[和泉式部]
    折る人の其れなるからにあぢきなく見し山里の花の香ぞする

 返し[公任]
   知るらめらめやその山里の花の香の尋常(なべて)の袖に移りやはする

 また聞こえたる[和泉式部]
   知らせじと空に霞の隔てては尋ねて花の色も見てしを

 返し[公任]
   今さらに霞閉ぢたる白河の関を強いては尋ぬべしやは

この贈答で、式部がはっきり顔を出す「折る人の」の歌で、「折る人」が誰かがひとつ興味を持たれる。仮に折る人が公任(通説は帥宮を歌ったおのろけ歌で、公任の気を引いている)だとも解され、それであれば「さすがに公任様が折って結び付けられた花だけのことはありましたわ」という意味になる。
 
 公任は「知るらめや・・」の歌で、(あなたはこの私のことがわかるとでも思っているのか。なまなかな人に私という人間がわかるはずはないだろうよ。)とからんでいる内容となり、ある意味で式部の気を引いている歌ということにもなり得るのだそうである。

 和泉式部の公任への心のざわめきと誘い、公任はそれに応えたかのように思わせながら、後の歌でさっと身を引いているのであった。
 スリルに満ちた二つの才能のやりとりと交わされる歌の意味の重層性、和歌の持つ深く繊細で巧緻な世界が展開されていたのであった。

 公任は道長一族の栄華の影で、権大納言の地位から昇進することはなかった。
 和泉式部は帥宮との間に一子を設けるが、ほどなく帥宮も早世。その後一条天皇の中宮彰子に女房として出仕、40歳を過ぎ藤原保昌と再婚し、夫の任地の
丹後に下った。娘の子式部内侍が1025年死去した際はまだ生存していたがその後の詳細は不明。全国各地に和泉式部の言い伝えが残っている。

(大岡信「うたげと孤心」、「人物日本の歴史3−王朝の栄華」小学館他を参考にした一文です。)

道長と紫式部

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画像は、つい先日の明石大橋と明石海峡

 道長が自分の娘の侍女である紫式部を口説いた話は有名である。
 『紫式部日記』によれば、深夜紫式部の住まいを訪問した道長は、扉の中に入れてもらえなかった。つまりフラれたというわけである。
 式部は当代随一の女流作家でもあったので、上記の日記の中に、事実を書かれてしまい、古典となってしまったので、そのことは今日平成の我々にまでも知られてしまったというわけだ。

 江戸時代の儒学者たちは、自分の主人の誘惑も退けたとして貞女の鑑として喧伝し、そのように貞女であったがゆえに『源氏物語』という傑作も生み出せたのだと賞賛することとなった。
 このことに関して、第一次大戦後のヨーロッパの思想芸術に前衛的役割を果たしたイギリスのグループの一員で、独学で日本語を学んで半生をかけて『源氏物語』を全訳したアーサー・ウエイリーという人物がとある冗談を発表した。
 アーサー君がつきあっている女性たちの中で「私は○○君とは性的関係はないのよ!」と、聞かれもしないのにわざわざ告白する女が居た場合、彼女らは必ず事実においては反対のことを実行していた、紫式部も例外ではないであろう・・・というのである。
 また、別の学者の指摘によると『紫式部日記』の記述は、道長を拒絶した日から半年分が、今日のテキストからは脱落しているというのである。
 その脱落部分には、次回は道長のために扉を開いたと記載されていたという可能性は当時の侍女と主人の習慣を考えたとき大いにありえたことだと指摘されている。
 
 当時、後宮を支配しようとして道長は6人の縁者の女を高級女房として後宮にいれ、情報の収集と操作に当たっていたそうだ。そのひとりが中宮彰子の取り次ぎ役の紫式部であり、宮廷官僚との連絡係でもあった。
 そのことは道長の政敵であった実資の日記『小右記』にも記載されている。
 そうして6人のうち5人と道長は明らかに性的交渉があったことが知られるので、式部だけが例外だというのもむしろ不自然であろうと今日では考えられているようだ。
 紫式部は作家のみならず政治的能力も備えた取り次ぎ役として、政敵実資の知られざる言行を、生来の政治的人間道長にくまなく伝達して行ったのだろうと思われるのである。
 当時の最高権力者であり紳士でもあった道長から口説かれ、そうして拒絶したということは並々ならぬ体験であったろう。彼女はそのことを彼女が執筆していたとある作品中で、空蝉という人物に託して告白したのかもしれない、それは言わずにはおれないほどの、女性として生涯最高の思い出となったのかと考えられる。

 なお付け加えると、後宮には道長の娘「彰子」と道長の兄の道隆の娘「定子」がいたが、彰子が定子を押し出すことになるのだが、その際の道長の強引と巧妙さはそうとう露骨だったようだ。
 そのため定子側の女房たちと彰子側の女房たちとの感情的対立も激しく、彰子側の紫式部は『日記』の中で、定子側の女房であった清少納言を、口を極めて罵倒しているのは有名である。
 なお、清少納言はどうであったかというと不思議なことに、敵の主人である道長にはあからさまなほどの好意を持っていたらしく、道長のことばかり何度も口にするので、主人の定子すらとうとう「例のおもひ人」とからかったことが『枕草子』に書かれている。
 

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