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第61回を迎えた正倉院展に行ってきました。
正倉院展を実際に訪れたのは初めてのことです。 よいお天気の11月の奈良。紅葉が始まり、公園の鹿たちの姿も秋の行楽本番のせいか、いつもより小奇麗に目に映ります。 東京、福岡で大評判となった興福寺の「阿修羅像」も、お帰りなさい公演よろしく、「お堂で見る阿修羅像展」(?)として国立博物館のお隣で開催されているせいか、奈良公園界隈は鈴なりの人出でした。 奈良国立博物館に着くともう長蛇の列、45分待ちの看板があちこちに掲げてあります。 長い長い行列はそれでも少しづつ進み、看板に偽りなしでほんとうに45分ぴったりで入場できました、さすが国立博物館、群集のコントロールはとてもお上手のようでした。 通勤の途上にふと見かけた「正倉院展」のポスターの美しさに心を動かされ行ってみたのですが、奈良時代の琵琶や螺鈿(らでん)が貼り付けられた鏡などの美しさはこの世のものとは思えないほど、1000年以上の時を超えてその美しさを楽しませていただきました。 ただし館内の混雑ぶりも相当なもので、展示ブースの前までたどり着くのも容易ではありませんでしたが・・・。 光明皇后の直筆の書も展示されていて、なんだか雄渾な筆跡がお人柄を偲ばせているようでした。 さて、展示品の中に、地味ですが意外で興味深いものが出品されているのに気がつきました、それが次の写真です。 正月初子(はつね)の日に宮中で養蚕の事始めとして行われる、蚕室を掃き清めて蚕神を祀る儀式に用いられた箒です。 孝謙天皇が天平宝字2年正月3日に初めて行った行事で、当時の権力者藤原仲麻呂(恵美押勝)の唐風好みが影響していると「図録」には記してありました。 儀式用なので美しく整えられて、枝には濃緑色のガラス玉がいくつも挿し込まれています。 『子日目利箒(ねのひのめとぎぼうき)』と名づけられたこの品は、実はかの大伴家持と深いつながりがあるものだったのです。 写真の箒は実際にその日に使われたもの。万葉集第巻20によると、この宴の出席者には詔勅によって、歌を作り詩を賦すことが課せられていたとありますが、この日諸人が献じた詩歌が現存していないと記す一方で、大伴家持が同日玉箒について詠んだものの、大蔵の事務が多忙だったので奏上できなかったという一首として次の歌を挙げているのです。 始春の初子の今日の玉箒手に執るからにゆらぐ玉の緒 (巻20−4493)。 この「子日目利箒」は、家持が数多い歌の中で題材としたもののうち、現在実際に我々も目にできるものであり、そしてなぜか奏上されなかったという謎を秘めているものなのだと私は感じるのです。 この箒を見ている現代人の目と同じように、1250年前の正月に家持はこの箒を多分眺めていたことでしょう。 なぜ家持はこの歌を作りながら、奏上することはなかったのでしょう? などと考え出すと(勿論帰宅してからのことですが・・・)わからない点がたくさん出てきます。 また先ほどの玉箒の次の歌にも次のような詞書が付属しています。 水鳥の鴨の羽の色の青馬を今日見る人はかぎり無しと云ふ(巻20-4494) 右の一首は7日の侍宴の為に(大伴家持)かねてこの歌を作れり。但仁王會の事により、却りて6日をもって内裏に諸王卿を召して酒を賜ひ肆宴きこしめし禄を給へり。斯によりて奏せざりき。 さらにその次の歌についても「奏せず」と家持は記しています。 巻20以外のところをざっと眺めてみましても、「奏せず」などと書いてあるところは見当たりません。 家持の仕事の重要な部分は、そういった公式の歌を作り、詠むことが大きかったと思われますから、「奏せず」というのは、普通ではない状態だと感じます。 そのときの政治情勢が影響しているのではないかと思ってしまいます。 万葉集の後半、とくに巻17以降は実質上家持の個人歌集だと言われます。 玉箒の歌から23首目が、天平宝字3年春元旦に因幡の国庁にて歌った家持最後の歌 新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重しけ吉事 (巻20−4516) となっています。歌の数からも時間の経過からも、歌人としての家持の姿はもう間もなく見ることができなくなるという時期です。 最後の歌の前の歌二つを見ると、 蒼海原風波なびきゆくさくさつつむことなく船は早けむ(巻20−4514) 秋風のすゑ吹き靡く萩の花ともに挿頭さず相か別れむ(巻20−4515) であり、前の歌は渤海大使を送る宴の歌であるのにこれを誦していません。 公式の場で歌を詠むのは、家持の公務のひとつと思われるのに、奏上や誦することがなされていないのはなぜなのでしょう。 4515の歌は、既に因幡の国守となった家持を送る宴の様子が歌われており、 左遷と思われる転勤が決まった家持を送別する場面になっています。 これらは華やかな初子の玉箒の儀式のわずか翌年の出来事なのです。 橘奈良麻呂の乱(天平宝字元年)では大伴の一族からの造反者が出たこと、
さらに出雲の国守の後には、藤原宿奈麻呂などと謀って当時の権力者恵美押勝の暗殺計画に名を連ねるなどの権力闘争の渦中に身を置いていた家持にとって、この「子の日目利箒」とはどんな色調を帯びていたのか、大伴氏の武人家持と、万葉集の繊細なる歌詠みとしての家持の横顔をどのように見せていたのだろうかと、上品で可憐なこの箒に問いかけてみたいという新しい謎を持ち帰ってきたのでありました。 |

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