万太郎を読む

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万太郎を読む 6

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 我が家の裏山のふもとに一本の百日紅があります。
 この百日紅には、昨年はまったく花が咲きませんでした。

 猛暑となったこの夏、木には数え切れないほどの花が咲いています。
 自然の不思議を思います。
 でもその年毎に、これだけ咲き方が違ってくるのはなぜなのでしょうか?
 昨年は日照時間が少なかったのかなあ?とよくわかりません。

 さて、久保田万太郎です。

 おととい、帰宅途中に図書館に寄り道しました。現代詩関係の本数冊と、清川妙さんの「わが心の大伴家持」を見つけました。
「わが心の・・・」は、この数ヶ月間ずっと貸し出し中でした。たまには家持も書こうかと思いましたが、もともとの初恋の人のようなこの本が座右にないとどうもしっくりしないので、書かずじまいでした。ようやく家持さんのところにも近々戻れそうだなと思っています。

 現代詩関係本もあまり食指が動くものが少なかったのですが、別の分類の書棚に偶然、

 辻井 喬さんの『詩が生まれるとき』(私の現代詩入門、講談社現代新書)

を見つけました。
 ぱらぱら頁を繰ってみるとこれは面白そうです。
 まだはじめの方を読み出しただけなので、全体の感想はまだ書けませんが、辻井氏は詩の感動のことを、氏が高校生のときはじめて合唱団に入ったときの経験でわかりやすく説明されます。
 二部三部とパートが分かれていくと、そこにハーモニーが生まれる。そのとき、なんだか自分が今までと違ったとても広い世界に躍り出したように感じた。
 それは初めて海に潜るときやスカイダイビングで空中に浮いたときも同じであろうと言います。

 詩が分かり始めるというのもこういうことなのではないかと書いています。
 そしてそういった感動を与える作品は、高級な作品とかポピュラーな詩かということとは関係がないのだと言います。

 高級でも大衆的なものでも、その作品を読む人の中にどんな「ポエジー」が入ってきたかで決まるとされます。
 そのことをシャンソンの「枯葉」のフランス語の原詩、谷川俊太郎とユーミンの同じ題名の作品「飛行機雲」を比較して説明されます、このあたり分かりやすくとても面白いです。

 辻井さんは俳句のあるものを読んだとき、とくにイメージが喚起されるのだそうです。

 久保田万太郎の俳句の絶唱である、

  湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

 この句は湯豆腐を寂しげにつついている老人の姿が浮かぶと言います。障子にぼんやりと明かりが差して、長年連れ添った奥さんを亡くしたじじむさいおじいさんの姿です。
 実際のこの発句が出来上がった背景もまさにそのとおりなのです。

  神田川祭りの中をながれけり

 これはだいぶ前の下町の風景で、神田川がいろんな塵芥を浮かべてゆっくりと流れている、その黒い神田川が見えてくるようだと書かれています。

 三橋鷹女さんの俳句からは、

 この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉

 を上げ、全山紅葉の風景を背景にした中年の女性の姿が見えてくるとされます。
 紅葉の燃えるような赤さが中年の女の人の胸の中の思いと相乗効果をなして、私はこの木に登ったら鬼になってしまうのではないか、そのような自身の再発見と恐れが紅葉の美と一体化していく・・・したがって、ひとつの俳句から一編の小説を書くことは、ごく簡単にできるような気がすると。

 そうしてポエジーというものは、本当はかなりローカリティの強いものではないかと推論されていきます。
 近代主義の自己批判が西欧で進んだ今、短歌や俳句の伝統的短詩型の問題を掘り下げることが「ポエジーの本質」を明らかにする上で、かなり大きな意味合いを持っているのではないだろうかといったん結ばれているのでした。

 久保田万太郎を読む楽しみ、それは詩のポエジーを感じる深くて本質的な楽しみのひとつなのだと辻井氏は我々を喜ばせてくれているのでした。

 

万太郎の句ー5

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  万太郎の妻、京は静かな人柄だったらしい。
 京との結婚は、両親との折り合いもよく、周囲から京が愛されており幸福なものであったという。

 京の死後に万太郎自身が「婦人公論」に、『結婚して17年、彼女にとってもっとも幸福だったのは震災後の日暮里におけるはじめ5,6年の生活だったろう』と記している。

 昭和6年に万太郎が今のNHKの演劇兼音楽課長になり、勤め人の生活となった。それまでは家で物書きをしていたのに、毎日外に出かけていくだけでも不満は大きかったようで、やがて夕食もとらず外泊もふえてきた。
 そしてさいごには、外の女に妊娠させるという事態となってしまった。

 京は睡眠薬を常用するようになり、ある日薬を飲むからと言って二階に上がった彼女の様子がおかしくなり、いつもとちがういびきをかき呼吸が乱れた。
 医師を呼んだが、ふたたび目覚めることはなかった。
 自殺かどうかは正確にはわかっていないらしい、遺書もなかったようである。

 京の姉のはつは、初七日の法要のあと激しく万太郎を非難して以後の親戚づきあいを断ることを親戚のそろっているところで宣言した。

 <妻死去>

 来る花も来る花も菊のみぞれつつ

 二七日三七日の青木の実

 掃くすべのなき落葉掃きゐたりけり

 ふっつりと切りたる縁や石蕗の花

万太郎の句ー4

 おとといの24日は河童忌だった。芥川は万太郎の俳句にとってもっとも重要な人間であった。
 万太郎自身「一度捨てた俳句を、ふたたび手元に引き寄せるにいたったのも、ひとえにこの時期彼を『隣人』にもったからだと言っている。

 芥川は死の直前、万太郎の自宅を訪れたという。普段は飲まないウイスキーを飲んで、普段は書かない河童の絵を形見として書き残していった。
 芥川の一周忌を迎えた句。

 芥川龍之介仏大暑かな          (昭和3年  『吾が俳諧』)


 万太郎は自ら「自分の人生は逸話の連続」と語ったそうだが、平凡な人間には理解しがたい生き方であって、ことにその女性関係は複雑なものであった。
 大正8年友人の家で家事見習いをしていた元芸者の京と結婚、男児を得ている。

 もち古りし夫婦の箸や冷奴  (大正12年〜昭和2年『三筋町より』)

 しみじみとした夫婦の平和な日常をうたっている。 
昭和初年ごろの万太郎の作品のいくつかを書いてみる。

 さびしさは木をつむあそびつもる雪    (昭和2年『草の丈』)
 
 蜆汁きのふ大火のありしかな       (昭和2〜9年 『もヽちどり』)

 新緑のカジノフォーリーレビューかな   (昭和5年『春泥』) 

 校長のかはるうはさや桐の花       (昭和5年『春泥』)

 あきかぜのふきぬけゆくや人の中     (昭和5年『春泥』)
  (「銀座」と前書きのある句。都会の人ごみの中の孤独。)

 山茶花に昨日のごとく暮れにけり     (昭和2年『道芝』)


そうして、「わが恋よ」と前書きのある句。来るべき悲劇を暗示している。

 寒き灯のすでに行くてにともりたる    (昭和2〜7年『わが俳諧』)


 来る花も来る花も菊のみぞれつヽ     (昭和10年 『ゆきがけは』)

 上の句には「11月16日、妻死去」と前書きがある。妻の死因は睡眠薬自殺。
 原因は夫の浮気。カフェに勤めのちに女優となった愛人は、すでに万太郎の子を懐妊していた。

万太郎の句ー3

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 1923年(大正12年)、安定した生活を営んでいた万太郎に未曾有の天災が襲います、関東大震災です。
 焼け出された万太郎は、日暮里に転居。田端に移ってきた芥川龍之介と交友を深めることとなります。

 1926年(大正15年)には慶大を辞め、日本放送協会に嘱託として勤務。後に演劇課長となります。戯曲、脚色、演出、劇評などの仕事が増えてきます。

 このころになると、我々が知っている万太郎ならではの句が登場しはじめます。大正時代の句をいくつか拾ってみましょう。

 神田川祭りの中をながれけり        (大正14年、文芸春秋)

 したヽかに水をうちたる夕ざくら      (大正15年 文芸春秋)

 新参の身に赤々と灯りけり         (大正11年 「道芝」)

 秋近し底ぬけぶりとなりにけり       (大正14年 文芸春秋)

 ひぐらしに燈火(ともしび)はやき一と間かな(大正12年 文芸春秋)

 白粉(おしろい)の花にさす日となりにけり (大正5年 「藻花集」)

 かまくらをいまうちこむや秋の蝉      (大正15年 「道芝」)

 すぐやみし雨の夜寒となりにけり      (大正15年 文芸春秋)

 冷ややかにふせし茶碗や膳の上       (大正7年「俳諧雑誌」)

 長き夜の二つの時計鳴りにけり    (大正8年「季題別全俳句集」)


 まだまだたくさんありますので、今日はいったんここまでとします。
 気に入った作品はありましたか?
 そして、万太郎の人生はどうなっていくのでしょうか。

 

万太郎の句ー2

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 久保田万太郎は明治22年11月、浅草の商家に生まれている。
 袋物の製造販売を営み、両親とも養子であった。
 祖母に親代わりに育てられ、芝居好きな祖母は幼い頃から万太郎をいつも連れて行ったという。

 府立中学で落第、両親は家業に就くよう迫ったが祖母のとりなしで慶応の普通部に編入となった。
 ハイカラな学友となじめず、この頃から俳句に打ち込み始めた。

 さらに祖母が両親を説得して大学予科に進学すると、2年のとき「文科」の機構改革があり、森鴎外、上田敏を顧問に迎え、永井荷風が事実上の主任教授となって「三田文学」も創刊されることになった。

 大学時代は一時俳句を中断し、三田文学に小説「朝顔」を発表する。
 大正3年大学卒業後も戯曲・小説を執筆したが大正6年から俳句を再開している。
 俳句仲間と放蕩にふけり始めたが、いっぽう家業がかたむき、祖母の病気と死、また火事が類焼して焼け出されるという不幸も次々と襲ってきたのであった。
 大正8年に慶応の講師となり作文を教え始め、この年芸妓をしていた京と結婚、万太郎30歳のときであった。

 

 万太郎のごく初期、まずは明治時代(23歳頃まで)の作品をいくつか上げてみましょう。

 仮名書きのお経と答え朧かな   (明治44年「国民新聞」所収)

 霍乱の人の夢路や波淋し     (明治42年「国民新聞」所収)

 七夕や皆(みんな)妓となる舞の友(明治42年「国民新聞」所収)

 朝寒の鞠はずまぬやあきにけり  (明治42年「国民新聞」所収)

 奉公にゆく誰彼や贏廻し     (明治42年「国民新聞」所収)

 短日や国へみやげの泉岳寺    (明治42年「国民新聞」所収)


 なお、万太郎は約50年間にわたり俳句を続けましたが、その作品数は総数では、8100余りと言われます。先日1800句と書きましたが、それじゃああんまり少ないですよね。

 なお、今日の謎の画像(サムネイル)については、改めて説明いたします。

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