独酌独語

大震災や原発事故の被害者に寄添った一日も早い復興を。原子力発電に頼らない日本の実現を。3.11

民家散歩

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見つけた昔


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  これはごく普通の農家です。
  懐かしい茅葺屋根に広い庭
  屋根の上に小屋根がのっているのは養蚕が盛んだった時代の名残りでしょう。
  広い庭は農作業の場所だったのでしょう。
  家を囲むように竹や樹木が、前には梅や柿が、それにお茶も植えられている。
  昔は珍しくない眺めだったが今はなかなか見られない。


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   こちらは屋根を葺き替えたばかりの家です。
   屋根がまぶしいほど日に輝いています。
   今はめったにこのような家に出合うことはありません。

   この家はずいぶん大きいですが昔名主を務めた家だそうです。
   右手に普通の農家にはない玄関があります。
   屋根の上に小屋根が二つあるのはやはり養蚕の影響でしょう。
   葺き替えを終って家の安全を神に祈る幣束が棟に立っていました。

   どちらの家も江戸時代後期のものですが
   大きな方は明治時代中期の姿になっています。

   江戸時代や明治時代には都会の近郊農村だった世田谷区の
   昔を伝えるために保存されたもので、もともとの場所にないのは残念ですが
   後に伝えるには仕方ないでしょう。

   世田谷区立次大夫堀公園民家園にはほかにもいろいろと保存されて
   昔の生活を追体験するさまざまな活動が行われています。
    民家園 ☎ 03-3417-8492






松本の蔵造り



   国宝松本城は山の上ではない平城ですが
   その周辺に広がる街には古い民家があまり見当たりません。
   江戸時代から明治にかけて大火が繰り返されたからと思われます。

   外濠の役割も果たしたと思われる女鳥羽川の近くに
   蔵造りの家が目立つ中町通りがあります。
   城下町を代表する大店が並んだ街でしたが
   明治21(1888)年の大火で大半が焼けてしまい
   蔵造りの街として復興したといいます。
   なによりも火事が恐い時代でした。


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      中町通りに面してひときわ大きな黒壁の家が建っていました。
      杉玉(酒林)があるので造り酒屋だったのでしょう。
      というのは元はもう少し奥に明治の大火後に建てられたのですが
      酒造りをやめた後に市の手に渡り、現在地に移築して
      今は市民が利用できる公民館的な役割を果たしています。


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  中に入ると町屋に共通するのですが、吹抜けの土間がとてもすてきです。
  太い梁を縦横に渡して土間の空間を確保し、その上に細い柱が屋根まで立ち
  それを貫(ぬき)が縦横に整然と繋ぎ、天窓が明るさを補う。
  実に気持のよい見事な空間となっています。

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    中町通りとは川を挟んで反対側に縄手通りがあります。
    狭い道に小さな店がたくさん並んでいますが
    城下町の時代のようすを再現したそうです。

    その通りの一角にパンを焼いて売り、レストランにもなっている店がありました。
    寒かったので入ったのですがおいしかったです。
    パン店の創業は松本では一番古いかと思われます。


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姫路の千年家

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 この民家は兵庫県の安富町(現姫路市)にある古井家で、江戸時代の文献に既に千年家と書かれているくらい古い民家である。江戸時代は1603年に始まるが、現存する建築年代のはっきり分かる古い民家は農家も町家も17世紀前半以降である。しかし16世紀まで遡れそうな古民家がいくつか各地に残されているがその数は10棟に満たないと考えられている。写真の古井家はこうした最も古い民家の一つで大変に貴重な遺構である。

 私がはじめてこの家を訪ねたのは30年ほど前だがいささか思い出がある。姫路から乗ったバスは西国観音霊場の一つ円教寺の建つ書写山の西麓を川に沿って北に向かったが、終点の皆河(みなご)で古井家のおばあさんと一緒に降りる好運に恵まれた。その頃は家の人たちは古い家のすぐ前に建てた新しい家に住んでいたが、古い家の中にもまだ家財がいろいろと残されていたので生活の匂いがした。

 集落は西の山地の裾が斜めに広がった台地の上下に不規則に広がっていた。千年家は見晴しのよい台地の端に建っていたが土地が傾斜しているので部分的に石垣を築いている。弓なりの木を利用した自在鉤のあるイロリのそばにはおばあさんと亡くなったおじいさんがこのイロリ端で新巻鮭を持ってニコニコしている地元のデパートの大きな広告が貼ってあった。おばあさんは、おじいさんの自慢話やこの家のこと、代々伝わる亀石のことなどを話して下さり、土産に手作りのフキノトウ味噌をもらったことが思い出される。

 古井家は軒が低いのでまるで竪穴住居に低い壁がついたような印象を受ける。家の中から外を見ると軒のために視界が遮られるほどである。建物の周囲は壁が柱を塗りこんでしまう大壁で、開口部はほんの少ししかない。まるで穴蔵のような造りである。

 右手の出入口の脇にはトイレがある。広い土間に入ると前後左右に柱が何本も立っている。部屋の部分は表側が横長の広い板の間(オモテ)で裏側に閉鎖的なチャノマ ・ ナンドがある古い型の三間取りで、チャノマ ・ ナンドの床が竹すのこなのは板が貴重だったからだろう。どの部屋にも柱が何本も立っている。これらの柱の多くは建築当初のもので、カンナではなくハマグリのような刃をつけたチョウナで削ってあるので暗い室内ではまるで蛇の鱗のように黒く光って見える。このような屋内の様子は、太い柱や梁を使って邪魔な柱を省略し、カンナを使うようになる以前の古い民家に共通する特色といえる。

 それから20年ほどたって再訪して驚いたのは、すぐ前に建っていた現在の古井家がなくなって姫路市の管理となり周辺が整備されたことで、その分古民家から生活の匂いが消えていた。しかしすぐ近くに家がいくつも建っている様子は変わらないのでやはり火事の心配がある。これまで何度も火事を防いだという亀石のご利益を頼みにするしかないのだろうか。神戸の北の方にあった同じような千年家が1962年に火事で失われた例がある。今は土 ・ 日に公開されているが、この貴重な民家がこれからも長くこの場所で無事に保存されるよう願っている。

函館の蔵造り

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 函館の街を歩いていて不思議な家を見かけた。2階建の高さがありそうながっちりした土蔵とそれにつながっている土蔵のような住居(店?)。そこにも土蔵と同じような屋根が乗りいかにも重そうだ。透しの入った大きな棟、この重い屋根を支えるには家の骨組み(軸部)がよほどしっかりしていなくてはならない。どうしても蔵のようになってしまう(写真上)。蔵の窓にガラスのカバーがかかったようになっているのも珍しい。冬の寒さ対策なのだろうか。同じような蔵が他にもあるので函館では珍しくないのだろう。こちらの蔵は喫茶店に模様替えして利用されていた(写真中右)。

 この蔵つくりの建物に 2階が洋風の建物がつながっているのがまた面白い。洋風の下見板の外壁の上に乗る屋根の軽さ、暖炉の大きな煙突が目立つ。さらに驚くことはそのまた後に現代風の建物がくっついていることで、この建物は 3つの様式がつながったひとつの建物ということが分かる(写真中左)。この建物を眺めながら、これは函館という街の風土をよく示しているのではないかと私には思われた。

 函館に限らず港には山地が海に迫っている地形が多い。だから港の周辺から造られた街は大きくなるに従って建物が高台に広がっていくことになる。函館の場合、函館山に続く高台に街が発展していった。このような地形だと火事になったとき海からの風にあおられて火は瞬く間に下から上へ、街全体に広がる大火になりやすいだろう。街を歩いているとその辺のことがよく分かる。実際に函館は何回もの大火に見舞われている。明治40年には石川啄木の運命を変えた大火があった。だから余裕のある人は建物の防火に心がけたのだろう。

 函館は幕末のペリー来航によって結ばれた和親条約で外国に入口を開いた数少ない港のひとつとして知られている。従って早くからロシアなど外国文化の影響を受けてきた。今も残る大きな公共建造物や修道院 ・ 領事館などにみる洋風建築がそれをよく示しているが、個人の住宅や商店にもその影響は及んだ。そして和洋折衷の独特な建物が建てられるようになった。何回もの大火のために残っている例は意外と少ないが写真下左の太刀川家店舗住宅(明治34年)はそのひとつである。レンガで作った壁を漆喰で塗り固めて前方左右が突き出している。 1階正面の 3連アーチやアーチを支える鉄柱に苦心の洋風意匠が見られる。左となりの洋館は大正 4年に増築された応接間である。この他洋風の家は 1階が和風、2階が洋風といったつくりが多かったようである。先に見た不思議な家はこうした火事と洋風といった函館の風土をよく表現しているように思われる。

 ところで写真下右の住宅は帝国ホテルの設計で有名なF.L.ライトの弟子田上義也の設計になる昭和初頭の住宅である。現所有者の好意で内部まで見せていただいたが、和風住宅に洋風を巧みに取り入れたモダンな感覚が魅力的な住宅となっている。 (2001年11月撮影)

柳生の里

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 柳生の里は奈良市の東北端に位置する地域でバスで約50分かかる。柳生一族の話でよく知られているが、二つの川に沿って集落がおおよそ南北に点在する。瓦葺の民家がほとんどで草葺の民家は少ない。石切峠の茶屋が瓦葺二階建で100年以上経っていると言っていたので、それを信じるならば瓦葺の民家は相当古くからあることになる。とすれば、市街地でもないのになぜ瓦葺なのかといった疑問が生じる。

 それはともかく、ここは大規模な家のようすに特色がある。写真中右は疱瘡地蔵の近くの山脇 で見た家だが、主屋の左右にさらに 2棟の住居が建ち右端に蔵ともう 1棟建っている。かくて敷地一杯に建物がかたまることになる。聞くところによると家族は少なく質素に暮している家が多いとのこと。なぜこんなに建物が必要なのだろうか。写真下左は西に山を越えた南出で見た家だが、同じようにいくつもの建物が並んでいる。こんな例があちこちに見られる。

 写真上は大柳生のバス停近くの家。あまり大きくはないが数少ない草葺のままの家で、瓦葺の下屋(げや、庇)がついている。白壁に囲まれて手入れの行届いた実に気持のいい民家だ。この左隣りの家も同じく白壁に囲まれた大きな家だが、瓦葺の建物がいくつも並んでいる柳生らしい家で隣りとは好対照だ。

 写真中左は石切峠を少し下った上誓多林に建つ家で、勾配の異なる切妻の屋根が組み合わさる大和棟の民家。大きな屋根にはトタンがかぶさっているがおそらく前は草葺だったのであろう。後に見えるのは茶畑で前のほうも茶畑になっている。写真下右は円成寺の近くの家で、トタンをかぶった草葺の屋根に庇がついている。屋根の形が手前は入母屋だが反対側は切妻らしい。もしかしたら小さな切妻屋根の部分がついて大和棟のようになっているのかも知れない(未確認)。入母屋の方から見れば近くの円成寺にある国宝の社殿のような春日造にも見える。 (2006年4月撮影)

     

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