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大震災や原発事故の被害者に寄添った一日も早い復興を。原子力発電に頼らない日本の実現を。3.11

文学散歩

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石碑の運命

石碑は石が壊れなければ1000年も2000年ももつといいます。
漢字の国中国では西安の碑林をはじめ各地に貴重な石碑が遺されています。
しかし場所が移されるのは防ぎようがありません。
昔は道ばたにあった石仏が今はお寺に集められているのをよくみかけます。

私が関心を持つ會津八一の歌碑にも同じような例があります。
法隆寺の近くに住んだ方が自宅に建てた歌碑は、その方が亡くなったのち
遺族によって法隆寺に寄贈されて、今は夢殿の後に建っています。
淡路島の洲本の方が建てた歌碑は、私が訪ねた時は草に埋もれるようになっていました。
建てた方が亡くなったためです。
写真の石碑も同じような運命をたどりました。

碑に彫ってあるのは 「平家物語」 の一節で、會津八一の書いたものです。
「春のくさ暮れて あきのかぜにおどろき 秋のかぜやみて またはるのくさにもなれり」
と読め、新潟市随一の繁華街古町通のお茶の老舗浅川園(写真)のすぐ近くに建っています。

1955(昭和30)年10月の新潟大火でこの古町通が焼けた時に
會津八一は上の 「平家物語」 の一節を書いて浅川園主浅川晟一さんに贈ったのでした。
「春の草が再び萌え出るように店の復活を」 と願い、励ます気持を込めたのでしょう。

「昭和五十六年五月六日、會津先生生誕一〇〇年を記念し、小宅の庭にこの碑を建立、
朝な夕なこの碑をながめ、先生の教えに感謝している今日此の頃である。」 と浅川さんは書いています。

しかし、浅川さんが亡くなると碑は會津八一記念館に寄贈され、さらに新潟市に寄贈されて
今年の2月2日に現在地に再建されたのでした。
碑文を新潟市民に寄せた思いととらえて古町通のゆかりの深い場所が選ばれたのでしょう。

個人が建てた碑が辿った運命の幸せな例といえそうです。
なお古町通の八一の生家跡には歌碑が建っています。

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さてこの日の一杯は古町通のはずれにある 「喜ぐち」 にしました。
この通りにはおしゃれな店がたくさんありますが、喜ぐちは土地の人が気楽に集まる店です。
畳の大きな広間には大小のちゃぶ台が並び、飲のほか食の方もいろいろあります。
私の狙いはもちろん海のおいしいものとおいしい酒です。
この日は奮発して 「のどぐろ」 の塩焼きと新潟の銘酒鶴の友での満足の一夜でした。

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やまばとの

歌人・書家として知られる會津八一の最新の歌碑を訪ねました。
新潟県胎内市中条町の柴橋庵に昨年7月10日に建ちました。

やまばとのとよもすやどのしづもりに なれはもゆくかねむるごとくに
(山鳩のとよもす宿のしづもりに 汝はも逝くか眠るごとくに)

「山鳩の鳴き響くだけの静かな観音堂で私を残して眠るようにこの世を去って行くのか」 と
養女きい子の死に慟哭する八一の悲しみが伝わってきます。

この歌は死の直後に詠まれた挽歌21首の中の一首で、長い序文の一節に次のようにあります。
「村寺の僧は軍役に徴せられて内に在らざるを以て、雛尼を近里より請じ来るに、
その年やうやく十余歳、わづかに経本をたどりて修証義の一章を読み得て去れり」

この尼僧が柴橋庵の渡邉貞乗さんで、この歌碑の建立を楽しみにしていたそうですが
完成を待たずに一昨年亡くなったのが残念です。  (挽歌は歌集 『寒燈集』 所収)

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昭和20(1945)年4月、空襲で東京の秋草堂(居宅)を焼かれた會津八一は
親戚にあたるここ中条町の丹呉家に疎開したのでした。
丹呉家の菩提寺太總寺に歌碑が建ったのは昭和53(1978)年11月でした。

ひそみきてたがうつかねぞさよふけて ほとけもゆめにいりたまふころ
(潜み来て誰が打つ鐘ぞ小夜更けて 仏も夢に入り給うころ)

この寺のすぐ近くにあった丹呉家の観音堂の庫裡を八一ときい子は仮の住まいとしたのでした。
きい子が病死したのは疎開してあまり月日の建っていない7月10日です。
歌は歌集 『寒燈集』 所収の「観音堂」10首の中の一首。

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観音堂のあった場所は今は公民館などの建物が建っていて当時のようすは偲べません。
しかし観音堂は太總寺に移されているのでお参りすることはできます。
下の写真の右手がその跡地で、左の道を行くと丹呉家です。

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中条町は羽越線中条駅下車です。
新発田市の少し北にあたり、新潟市にはちょっと距離があります。
町には歌碑がもう一つ、丹呉家の庭に建っていますが、
町の人たちは近年會津八一の顕彰に力を入れています。

會津八一はやがてこの町から新潟市に移って戦後の本格的な活動を始め、
昭和31(1956)年11月新潟市で亡くなりました。
今年は没後60年になりますが、今も歌碑が建つのはすごいことだと思います。

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『朝日新聞』 が夏目漱石の小説 『門』 を連載中ですが
写真は円覚寺塔頭の一つ帰源院の門です。
漱石はこの石段を登って止宿し、釈宗演に参禅したのでしょう。
境内に漱石の句碑があるそうですが 「漫歩、漫写禁止」 のため見ることが叶いません。
入山料をとって漫歩・漫写を許しているのに 「拝観謝絶」 「非公開」 ならともかく
「漫歩、漫写禁止」 は言葉に棘がありますね。

小説 『門』 では、宗助は悩みを抱いて参禅するが得るところなく退去することになります。
「彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時迄も展望を遮ってゐた。彼は門を通る人ではなかった。
又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、
日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」(21) とありますが、
「宗助は私でもある」 という思いを持つ人がおそらく少なくはないでしょう。

東慶寺の入口に建っているのが 「参禅百年記念碑」 です。
しかし、よく分からない説明ですね。
この参禅体験が小説 『門』 にいかされているのでしょうが
漱石自身にとってどのような意味を持ったのかさっぱり分かりません。

記念碑の上段、釈宗演の書簡はとても読みにくいし、
下段の漱石の文章 「初秋の一日」(1912年9月) も読むのに苦労する。
それでも全集で読むことは出来るが、こんなことがあったということにつきる。

この記念碑の傍のcaféでおいしいコーヒーを飲みながら
この記念碑は結局関係者の自己満足に終わるのではないかと思ったのでした。


二つの句碑

千年の歴史を経て今なお絶大の人気を持ち、多数の信者が集う厄除川崎大師で
二つの立派な句碑に出会いました。

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金色の涼しき法(のり)の光かな 虚子

高浜虚子(1874〜1959)は俳句の巨匠
戦災で焼けた本堂が再建され本尊遷座を記念した句会での句です。
遷座一周年の1959(昭和34)年5月14日に建てられました。
ところが虚子はその直前の4月8日に85歳で亡くなりました。
この句碑の書は虚子の絶筆と、
脇に立つ 「句碑之由来」 という石碑に書いてありました。
虚子の句碑は大変な数でしょうが
この句碑は大きな意味があるのですね。

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朝霧の雫(しずく)するなり大師堂 子規

正岡子規(1867〜1902)は明治時代に俳句・和歌の革新に努力した人
1894(明治27)年11月3日に参詣した折の句です。
大開帳を記念して2014(平成26)年5月1日に建てられました。
句碑の書は子規の直筆だそうです。

55年の歳月を経てこの二人の歌碑が並び建つことになりましたが
二人の深い関係についてなにも触れていないのは残念です。

二人は共に伊予松山の出身で、虚子は子規を兄事
一時は子規庵に同居し
子規の没後はその志を継いで
「ホトトギス」 を全盛に導いたのでした。

それにしてもこの二つの句碑は大きいですね。
もう少し小さい方がよかったのでは
というのは私の感想です。

いしぶみを訪ねて

だいぶ昔淡路島に行った時は
播淡海峡を連絡船で渡りバスに乗って目的地に向かいました。
今はJR三ノ宮駅前から30分おきに出る高速バスに乗れば
洲本に1時間半弱で着いてしまいます。
月並みながら隔世の感ひとしおです。

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今回淡路島に来た目的は、ここ洲本の郊外にある 「宇原文学の森野外文学館」 にある
會津八一の歌碑を見ることにありました。
バスを降りて案内所で場所を尋ねました。
ところが、「今は見学を断っているようですよ」 と思っても見ない返事が返ってきました。
作った人が10年前に亡くなったので荒れているから、という理由でした。
「そうですか」 と簡単に引返すわけにはいかないので電話をお願いして
奥さんから見学の許しをもらったのでした。

タクシーで10分くらい、「碑入口」 とある案内に従って林に入るといしぶみ(石碑)が林立していました。
上の写真は入口の近くに建つ「文学の森」を作った人の大きな石碑です。
どうやら紙に書く感じで石に文字を彫るのが大好きだったようです。

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枯枝を払いながら歌碑を探していると煉瓦の塀があり、
文学の森を作った人がここに眠っていました。自分の作った石碑に囲まれて。
この地で何代も続いたお医者さんでした。

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これがやっと見つけた歌人會津八一の歌碑です。

かまづかのしたてるまどにひぢつきて よをあざけらむとごころもなし

「かまづか」 は葉鶏頭のことで、大意は
「葉鶏頭の赤く照り映える窓に肘をついて、世間をあざけろうなどというしたたかな心など私にはないのだ」
ということです(西世古柳平さんによる)。 葉鶏頭の絵が添えられています。

有名な歌集 『鹿鳴集』 に次ぐ歌集 『山光集』 に収められた歌で1940年の作です。
老境に入った歌人の感懐が伝わってきます。
残念なのは歌はこの地とはまったく関係がないことで、
歌碑を建てた人の思いが伝わってこないことですね。

會津八一の歌碑は、新潟・奈良を中心に全国各地に現在47基あります。
個人宅にあるあと2基をみれば大願成就となるので
私にとっては大きな意味のある淡路島行でした。

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