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(昨日は 『不平なく』 について書き終らないうちに出かける時間になってしまい中途半端になりました。)
まづはけふも、もの言はぬ日の
暮れたりと、
たそがれの椅子にもたれて、煙草をすへり。
詩歌集 『不平なく』 冒頭の一首です。数ページ後にはこんな歌もあります。
おとなしくなりぬるものかな、−−
言はんとして言はざりしことの
けふも二どありき。
この詩歌集の歌が詠まれた時期、1912年7月には明治天皇が亡くなり
年号が明治から大正に変りました。
この年の暮、陸軍の横暴で西園寺内閣が倒れて憲政擁護運動がおこり
翌年2月には議会の周辺を民衆が取り巻き桂内閣が総辞職しました。
かの夜の群集の叫びの、ふとしては、
耳に湧くなり。
さびしくてならず。
やれ、やれ、と、叫ばんとして、
群衆の
かなしき顔を、眺めたりけり。
といった歌はありますが、亡くなった明治天皇に関する歌はみあたりません。
新聞記者として政治や社会の第一線に触れていた哀果が
こうした時代の大きな変化に敏感でないはずはありません。
『不平なく』 を刊行した直後の1913(大正2)年9月には 『生活と芸術』 を創刊しています。
かつて啄木と計画した 『樹木と果実』 への思いをを実現したと言えます。
啄木の生前には間に合いませんでしたが啄木の第二歌集 『悲しき玩具』 の出版に尽力し
遺族の面倒をみ、啄木を世に出すことに力を尽したのが土岐哀果でした。
詩歌集 『不平なく』 は実は 『不平大いにあり』 の反語的表現ではないかと思うのです。
後に朝日新聞社に移り定年まで新聞人として第一線で活躍しつつ、
短歌や詩などの世界でも戦後まで活動を続けた土岐哀果を知るにつけ
石川啄木がもし同じような寿命に恵まれたならばどのような活動をしたろうかと
啄木に深い関心を持つ私はつい考えてしまうのです。
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本
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古書店で土岐哀果(善麿)の詩歌集 『不平なく』 を見つけました。
春陽堂より大正2(1913)年7月発行
今の文庫本と縦は同じ、横が少し狭い小形本です。
1912年6月から13年4月までの詩歌が収められ
「僕の生活の一部である。哀果生」 と扉の裏にあります。
写真は、左が表紙で右が扉です。
土岐哀果(1885〜1980)は石川啄木(1886〜1912)の晩年の友人です。
明治19年に生まれ、明治の最後の年にわずか24歳の若さで死んだ啄木と同年配でした。
死の前年に読売新聞の記者だった土岐と会って 『樹木と果実』 の発行を計画した仲でした。
雑誌は印刷所とのトラブルで発行されませんでしたが
明治末年の閉塞感濃い社会の現実を見つめて明日の社会を目指そうとするものでした。
ここに紹介したいくつかの歌は
いずれも前年4月に病気と貧窮のうち死んだ啄木を詠んだものです。
いずれも3行書きですが、啄木の歌集 『一握の砂』 も3行書きで知られています。
実は哀果のローマ字歌集 『NAKIWARAI』 の3行書きの方が早かったのです。
哀果の実家は浅草の等光寺というお寺でした。
啄木の母も啄木自身も哀果の計らいで葬儀をし、葬られたのでした。
(後に遺骨は函館に移されました)
(今日は時間の関係でここまでとします。)
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本書の著者大橋一章さんは、早稲田大学で會津八一の弟子にあたる先生に学び、後には同大学で美術史を教えた八一の孫弟子ともいえる方です。
だから、第一章の 「會津八一の美術史学」 で実物尊重と文献重視といった学風について体験的に記したのちに、八一の生涯を早稲田大学の歴史と重ね合わせながら辿ります。
會津八一の孫弟子の美術史学者による評伝といえます。ここに本書の特色があります。
會津八一といえば歌集 『鹿鳴集』 と 「奈良」 でしょう。八一が初めて奈良に行ったのは27歳の1908年、明治41年夏のことです。初めての歌集 『南京新唱』 は1924年に出ました。
本書がこうしたことに触れるのは第八章 「奈良の風光、美術との出会い」 で、本文261ページのうち162ページ以降にあたります。しかも、本文は1945年に早稲田大学を辞して新潟に疎開する前で終り、戦後の會津八一の活動については 「あとがき」 で簡単に触れるだけです。
會津八一の歌と書について関心の深い人にはいささか不満の残る評伝といえそうです。しかしここにこそ本書の特色があるので、歌人・書家であると同時に美術研究者であり教育者であった會津八一がどのような場で、どのような人とのかかわりで育てられ、成長し、人格を形成してきたのかをつぶさに知ることが出来ます。
本書は、會津八一が学位を請求した研究 (法起寺・法輪寺・法隆寺の建立年代) については触れていますが、戦後に出版された 『自註 鹿鳴集』 について触れていないのが残念です。中宮寺についての註が文庫本で5ページに及ぶように、この 「自註」 には八一の研究の成果が込められているので、私としては美術史学者である著者にぜひ触れてほしかったと思うのです。
昨年11月法隆寺の五重塔の近くに八一の歌碑が建ちました。奈良に建つ彼の20番目の歌碑です。會津八一が亡くなってから59年、今なお歌碑が建ち、評伝が出版されるという會津八一の大きさに脱帽です。(中央公論新社、2015年1月刊)
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本当かと思いますが、私も長年山野草の面倒をみているので苔には関心があります。それに家のあちこちに苔が生えています。
ところがさっぱり名前が分かりません。分かるのはスギゴケ・ハイゴケ・ゼニゴケくらいで、あとは名前も分からずに長いこと鉢植などに利用してきました。
旅先でお寺や神社の見事な苔庭に感心したこともしばしばです。しかしそれは自分の日常とは別世界のことでした。
まさか自分の家に苔庭を!と考えたわけではありませんが、もうすこし苔について知ろうと思った時に目についたのがこの本でした。
この本の特色は実践的なことです。「苔とはどんな植物」 といった難しいことは後回しにして、まず 「苔庭で幅を利かせている苔は?」 ということで、ヒノキゴケ・シラガゴケ・スギゴケ・コバノチョウチンゴケ・シノブゴケを紹介します。
次は苔庭で見る目を養うということで、有名な京都西芳寺の苔庭をはじめ全国 70 もの苔庭を紹介します。この本とルーペを持って苔庭めぐりをすれば苔を見る目が深まりそうです。しかし、この本を読んで庭の身近な苔を見てもやはり名前の分からないものばかりです。わが家には苔庭にはない苔ばかりが集まっているのか?
苔の世界は広く深いですね。この本を手引きにして名前を呼びながら苔とつきあっていけるようになりたいものです。(大石善隆、岩波書店、2015年3月刊)
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柿の木は日本の農村風景には欠かせない木で、それだけなじみの深い、食べる以外にも用途があって日本人の生活に縁が深いように思います。春の艶やかな若葉、秋のたわわに実をつけた眺めと葉の紅葉。特に痛んでいない大きな葉の趣のある紅葉は実にすばらしいですね。つまみを盛ったりすると酒がすすみます。
というわけで私は特に柿が好きという訳でもないのですが、著者の名文に惹かれて読み、柿についていろんなことを知ることになりました。
まず書名であり季語である 「柿日和」 は、「柿の熟れたおだやかな秋の日。柿の木の多い村などにゆくと、空が柿色に染まった感じがする。たわわに実った柿は、見ているだけで豊かな気分をもたらす。」(p.180)
柿は KAKI で世界に通用するそうですが、意外なことに日本の生産量は 5% にすぎず、中国が 75% を占め次いで韓国が 10% で日本は3位だそうです。(2010年、p.186)
旅行をするとおけさ柿とか甲州百目とかとその土地特有の柿かと思ってしまうものが、実は名称は違っても同じ柿だったりすることを知りました。たとえば、庄内柿・八珍柿・おけさ柿は平核無柿(ひらたねなしかき)だそうで、その原木は新潟県の旧新津市にあります。また甲州百目・大四郎・江戸・富士などと呼ばれる柿は蜂屋柿といわれる大きな渋柿です(p.201)。若い頃山登りの帰りに中央線塩山駅の近くの店で大きな甲州百目の熟柿を買って食べたことがあり、そのおいしさに驚いたことを思い出しました。
奈良県の五條市には柿博物館があるのですね。ビックリです。(p.151)
しかし私が興味をひかれたのはやはり俳人や歌人と柿とのかかわりにかんするいくつものエッセイでした。それらは読んでいただくとして、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」 で知られた子規の句をめぐって、『柿日和』 では 「御所柿くへば鹿が鳴く」 という題で書いています(p.30以下)。この坪内さんのエッセイに触発されて書いた私のエッセイもありますので興味のある方は読んでみてください。
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