![]() にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 道北情報へ(ランキング参加中です。ご協力お願いします。) 3年前小林多喜二の「蟹工船」(1929)が若い世代を中心にベストセラーになりました。船員たちの「厳しい労働条件」を描いた「蟹工船」の世界観が「非正規雇用」や「所得格差」などの「経済不安」に通じるものがあったからでしょう。このような「労働者の厳しい現実」を描き「その苦しさからの解放」を訴えた作品は「プロレタリア文学」と呼ばれています。今回はその「プロレタリア文学」の一作品を読んでみました。 「キャラメル工場から」−もうひとつのプロレタリア文学−蟹工船と同時期に発表された佐多稲子の「キャラメル工場から」(1928)も「労働者の姿」をありのままに描いています。作品名の「キャラメル工場」から「チャーリーとチョコレート工場」などファンタジーな内容を想像してしまいますが、実際には作者が幼少期に体験した「少女たちの集団労働」の現場が描かれています。<時代背景> 大正時代以降は大都市に「資本」そして「工業」が集中するようになり東京にもたくさんの労働者が流れ込みました。しかしこのような都市への人口の流入は「貧富の差」を大きく拡大することになったのです。上京した佐多さんの一家もこうした都市への流入者の一家族でした。大正4年「主人公のひろこ」は尋常小学校5年生の11才でした。上京した父親は東京での新しい生活に適応できず自ら仕事を探そうともしません。同居していた父の弟も病気で床についたままでした。母親の内職だけでは暮らしていけず一家は生活に窮していたのです。そしてある晩新聞で「キャラメル工場の求人」を見た父は 「ひろ子も一つこれに行ってみるか。」と思いつきのように言い出しました。父親はひろ子の気持ちなど全く無視して話を進めてしまいます。こうしてひろ子は「一家の窮状」を助けるべく「キャラメル工場」へ「女工」として通うことになったのです。「少女たちの集団労働」の現場からひろ子はまだ薄暗い中、朝ご飯を済ませ急いで仕事へと向かいます。工場には「遅刻」がありません。工場の門が閉められるのは「朝7時」です。少しでも遅れるとれるとその日は否応なしに休まされました。彼女たちの「わずかな日給」から遅刻の分を引くのが面倒だったからです。工場では「すきま風」が遠慮なく吹き込む中で「立ち仕事」が延々と続きました。夕方には足が棒のようにつり、体中もすっかり冷え込み「目まい」や「腹痛」を起こす子もいました。 従順に働く女工たちでしたが、退勤前にはキャラメルを無断で持ち帰らないように毎日チェックを受けました。「袂」・「懐」・「弁当箱」の中を全て調べられたのです。みんなは自分の番が来るのを「吹きさらし」の中、ずっと立って待っていました。 「無計画な父親のために」女工たちは「徒歩」で通える所に「働き口」を探すのが普通でした。しかし、ひろ子の父親が選んた工場は電車で40分もかかる所にあったのです。実は彼女の日給は電車賃を引くといくらも残らなかったので働いても意味がありませんでした。さらに、工場の求人は「13才以上」と定めてありました。ですから、実際は11才だったひろ子は13才と偽って働いたのです。他の女工たちよりも体も小さく幼いため上手にキャラメルを包むことができません。夕方までにみんなはキャラメルを「5缶」仕上げてもひろ子は「2つ半」が限界でした。やがて工場の賃金は「出来高制」に代わり「2つ半」しか仕上げられないひろ子の賃金は「3分の1」に減らされてしまうのです。 それが原因でひろ子はわずか1ヶ月でキャラメル工場を辞めることになりました。 「郷里の学校の先生からの手紙」その晩、ひろ子は「もう働きに行かなくていいんだ」と思いと久しぶりに「安心」して眠りに就きました。ところが、またもや父親の思いつきで今度は「中華料理屋」に「住み込み」で働かされることになったのです。ある日小学校時代の先生から手紙が来ました。その手紙には次のように書いてありました。だれかから、なんとか学費をだしてもらうよう工面して−たいしたことでもないのだから、小学校だけは卒業するほうがよかろうひろ子は仕事中唯一自由になれる「便所の中」に隠れて手紙を読みました。暗い便所の中で何度も読み返しては「涙」を流したのです。この時は既に「住み込み」で働いていた彼女に「学校に戻る道」はほとんど残されていませんでした。自分の道を選べずに、変えられずにどれほど悲しい思いをしたことでしょう。 今から100年前のお話です。日本では「児童労働」が存在し、ひろ子のように小学校にも行けず悲しんだ子供も数多くいたはずです。「少女たちの集団労働」の現実を知り「豊かな今」の「しあわせ」・「ありがたさ」を改めて考えさせられました。
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