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誰か僕を見つけてくれないかな−我路の夏 2012−
BGM♪森田童子「逆光線」
「山間」に息づく小さな「集落」。「不思議」な響きを持つ町「我路」(ガロ)。「美唄市」の市街地から「東へ10km」ほどのところにある。「バス停」の文字は「かすれて」読めないほどだった。
「美唄市」はかつて「三井・三菱」などの財閥系の炭鉱で賑わっていた。「三菱鉱業」が「石炭輸送」のため「鉄道」を敷き、やがて「沿線」にいくつかの「小さな町」が形成された。
「我路」はその沿線上にあった町。往時の「昭和30年代」、「2,500人」がここで暮らしていたと言われている。
バス停は「草木」で覆われていた。背後にある建物は映画館の「映写室」。昭和30年代の「我路」は炭鉱の「好景気」を反映して「映画館」「旅館」「学校」や「病院」もある「一大炭鉱街」だった。 誰もいない我路の町
昭和40年以降「崩落」や「爆発」などの「事故」が続き、ついに昭和47年「三菱鉱業」は操業を「停止」してしまった。「閉山後」人々は次々に町を去り、今の「我路」は、道路沿いに「廃屋」が連なっている「ゴーストタウン」のようであった。
廃屋の「窓ガラス」に写る「青空」が「寂しく」感じられた。
「天井」からぶら下がった「蛍光灯」が見える。「壁紙」の模様に「生活感」を感じる。
家の中には「生活用具」がそのまま残っていた。「家主」が戻ってくることはもうないだろう。
「屋根」の抜け落ちた「蔵」。町の「賑わい」の「名残り」。
もう使われることのない「郵便受け」。「配達」されていたのは「いつ頃」までだったのだろう。
雪の重みで曲がった「テレビアンテナ」。「疲れ」を見せたかのようにうなだれている。
わずかに残る町の息遣い
この町に残った唯一の店「やきとり ガロ」は今も現役で営業中。「年配の女性」が一人で切り盛りしている。
当時の「炭鉱の隆盛」を偲ばせる「大きなレンガ造り」。元の「美唄炭山郵便局」。現在は「簡易郵便局」として地域に根付いている。
郵便局裏の「猫」。どうやら、ここを「住処」にしているようだ。「人なつっこい」様子から僕の「訪問」を「歓迎」しているように感じた。
「神社」へつながる階段。我路神社の「祭り」では町が1年で最も大きな「盛り上がり」を見せた。
階段を上る途中に「祠」が見えた。皆ここで山の「繁栄」と山で働く男たちの「安全」を祈った。
三菱鉱業美唄鉄道の面影
閉山とともに「廃線」を迎えた三菱鉱業の鉄道。今は「サイクリングロード」になっている。旧沿線上にはその「面影」が残っている。これは「鉄橋跡」。この上を「機関車」が通っていた。
「我路」から少し離れた「盤の沢」駅周辺。既に「閉店」して長いときが流れているが、これも「駅前商店街」の名残だ。
道路沿いに点在する「炭鉱住宅」。労働者とその家族が暮らした「長屋」。今も「管理・維持」されているように見える。
ふと山側を見ると巨大な「炭鉱施設」が現れた。森林に埋もれながらも堂々と「存在感」を放っている。
足元に「ジャリッ」とした感触が広がる。「石炭」だ。かつては「黒いダイヤ」と呼ばれ、主要な「エネルギー源」としてもてはやされた。しかし、既に私たちの生活から「姿」を消して、今、こうして僕の「足元」に転がっている。
周囲は山に覆われ「静けさ」に包まれた小さな町「我路」。「炭鉱」を失い「人々」は去り「町」は寂れていく。「誰にも気づかれず」建物が朽ちていく中で「誰か僕を見つけてくれないかな」と囁いているように感じた・・・。 |
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エアチェックの夏休み−新譜は電波に乗って−
80年代の若い人の間では「エアチェック」がブームでした。でもそんな用語を使うと・・・最近は「エアチェック」って何ですか?という声が聞こえてきそうですよね。そう、あの頃「FM番組をテープに録音すること」を「エアチェック」と呼んでいたのです。
今と違って「インターネット」がなかった時代、アーティストの「新曲」はいつも「ラジオ」でチェックしていました。そうです♪ラジオが「音楽」の「最新情報源」だったのです。「カセットテープ」を用意して、お目当ての曲がかかると「録音ボタン」の一時停止を解除!「テープ」が回り始める♪そうやって「オリジナルテープ」を作って繰り返し聴いていました。
Perfumeの新曲がFMで初公開
そして今夜「中高生の頃」のように「ラジオの前」でお気に入りのアーティストの「新曲」を待ちかまえていました。7月26日(木)はPerfumeの新曲Spending all my timeの「オンエア解禁日」なのです。
久しぶりにFMチューナーに「活躍」してもらいましょう♪古い製品ですがまだ「現役」です。薄暗い部屋に点る「オーディオの灯り」!ちょっとした「高級感」があります。
【FM TUNER LUXMAN T-33 (1975年製)】
チューナーのダイヤルを「Air-G(FM北海道)」(76.4MHz)に合わせて・・・準備は整いました。
いよいよ「23:05」!Perfumeのラジオ番組「School of Lock」が始まりました♪
ラジオからテープそしてパソコンへ
カセットテープの音を「パソコン」に取り込んでみましょう。ここが今までのエアチェックとは「違う」ところですね。それを「You tube」に載せてみました。よ〜く聴くと「ラジオ特有の雑音」が背後で鳴っています。Perfumeの新曲Spending all my timeです♪どうぞ(^^)/
今回の曲はいつもと「曲調」がかなり違いますね。CDのレーベルも「ユニバーサルミュージック」へ移籍したことで「海外向け」を意識した曲になっています。歌詞はほぼ全て「英語」。♪Spending all my time と Loving you forever♪の繰り返しです。Perfumeの3人でさえも「これ?本当にPerfume?と思うくらい驚いたでしょう!」と言っていたほど。今回の新譜は「テレビ」では歌わず、これは「ライブ」用の曲と言っていました。どんどん「新しいこと」をしてくれるので彼女たちの「今後の動向」も楽しみです!
FM雑誌が人気だった80年代
かつてはFM放送の「番組内容」や「放送曲目」を詳しく載せていたFM雑誌。音楽ファンの「強い味方」でした。新曲を発表する「アーティストの特集」などなど。翌日学校ですぐに話題になり「○△□は今度、ニューアルバム出すらしいぞ!」と得意気に話す姿もよく見られました。
この本の「最後のページ」にあった「著者のことば」を引用して今回の記事を終わります。
新曲の「初公開」が「FM放送」だったおかげで、久しぶりに「音楽メディア」として「FM放送」を見直したのでした。
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忘却の故郷へ送るレクイエム
BGMは岩代太郎♪Until Dying Day♪
−廃止された中越駅の今−
町境にある「険しい峠」。「森林地帯」を貫く国道。「道路脇」に目をやると、草木の向こうに「小さなコンクリートの建物」が見えた。
JR石北本線「中越駅(なかこし)」。現在は「廃駅」となり「信号場」と呼ばれている。もちろん、停車する「列車」もなく「利用客」の姿もない。
「中越地区」は峠の中腹「標高500m付近」の「山深い」ところにある。今は「住む人」はいない「無人地帯」。暮らしを支えた「林業が衰退」すると人々は次々に山を降りていった。 「人の流れ」もなくなり「駅舎」の周りや「線路」沿いには「雑草」が茂っている。
−旧駅前を歩く−
駅周辺には「生活の跡」がわずかに残されていた。駅前にあった「商店」。草がからみつき「自然」に還ろうとしている。列車が「停車中」ここで「買い物」をした乗客も多かったらしい。
倒壊した家屋の「残骸」。草原に残ったトタンの「屋根」。
ここは「小学校」の跡地。林業で栄えた「昭和30年代」には「80名」もの児童が通っていた。地域住民が力を尽くして建てた学校も今は「記念碑」が残されているのみ。閉校は「昭和48年」。林業の衰退と共に「過疎化」が始まった時期だった。 −2枚の地形図から−
「昭和24年」の中越地区の地形図。民家は「駅周辺」だけでなく「奥地」にまで点在している。明治44年の「入植計画」によって人々はこの「山間部」に移り住んだ。「昭和45年」の地形図。奥地にあった「民家」は消えて、家は全て「駅周辺」に集中している。「神社」と「学校」もあり「小集落」を形成していた。当時は「39世帯」「118人」がここで生活をしている。
この頃「木工場」が撤退して「住民の流出」が始まっていた。林業が最盛期を迎えた「昭和30年代」に「500人」を超えた人口も、昭和40年代後半には急速に衰え「昭和55年」には「37人」そして「昭和60年」ついに「0人」。中越は再び「無人の原野」に戻っていった。
−開拓の足跡を追う−
この橋の向こうにも「開拓民」が家を構えて「生活」をしていた。彼らの出身地は「奈良県」・「宮城県」・「岐阜県」・「青森県」と様々であった。厳しい気候の中で「離脱者」も多かったと聞く。
笹薮の中から「コンクリートの門」が顔を出す。これも遠い昔の「生活の跡」だった。
大正時代に開校した「尋常小学校」の跡地。当時は既に「全戸数27戸」・「人口116人」に至り、開拓民の子息の「教育」が「切実な問題」になっていた。「孤立した山村」にとって「小学校の開校」はまさに「念願」叶ってのことだった。
これ以上は「集落の跡」は何も見つからなかった。僕は再び「駅舎」へと戻った。
−峠を越える列車−
廃駅となった「中越信号場」では列車は「脇目も振らず」に通り過ぎてゆく。足早に通過する「特急オホーツク」。この駅舎に気づく乗客はどれほどいるだろうか。
峠の向こうの町へ向かう「特別快速きたみ」。運行は「1日1往復」のみ。「旭川駅 - 北見駅間」を「約3時間20分」で結ぶ。
古い線路を彩る「ルピナス」。まるで「失われた町」に捧げられた「レクイエム」のようであった。
明治時代の「開拓」で始まり「70年余り」でその「歴史の幕」を閉じた上川町「中越」。今は「駅舎」と「記念碑」だけが残りそこに「人の暮らし」があったことを伝えている。 |
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たまに聴くレコードたち♪−思い出の音楽−
レコードからCDへの「世代交代」はいつ頃だったでしょうか。気づけば「レコード店」の店頭は「CD」で埋め尽くされ「レンタルレコード」は「レンタルCD」に代わっていました。「小さく」て持ち運びが「楽」そして「音が良い」のCDは急速に広がり「音楽の主役の座」をレコードから奪うことになったのです。CDが普及し始めてわずか数年でレコードは「レトロ」な存在になってしまいました。
でも最近では「アナログの音」の方が人間らしくて無性に聴きたくなることがあります。今回は「年に数回」活躍する我が家の「レコードプレーヤー」を紹介します。
でもレコードを聴くときはいつも「緊張感」があった。「傷」が付かないように「丁寧」にジャケットから取り出す。「埃」を慎重に拭いてからプレーヤーに「そっと」載せる。
そして静かに「針」を落とす。「パチ・チリ」というノイズともに1曲目が聞こえてきた時は「来た〜」という喜びが湧いてくる。
音楽を聴きながら「回転」は見るのは「楽しい」。音楽をレコードの音は「中音域」が分厚くてまるで「楽器」のようだ。
LPは「33回転」・シングルは「45回転」・「12インチシングル」というもあった。「12インチ」の音ならCDにも「引けを取らない」かも。
−思い出のレコードコレクション−
クリップが好きな「女性3人組」と言えば「Perfume」ですが遠い昔は「少女隊」でした。デビューアルバムを「米L.A」でレコーディング。既存のアイドルとは違ってけっこう「本格的な曲」が多くて「アーティストっぽい」ところに惹かれました。「重厚なロックテイスト」が気に入っていて今でも聴くときがあります。
ファンにとってはうれしい「カラーレコード」。部屋に飾れるほど大きな「歌詞カード」や「ポスター」も「LPレコードならでは」ですね。「中学1年生の頃」何度も聴いたアルバムです。
途中、メンバーの一人「チーコ」が長期療養で「脱退」。代わりに引田天功の娘「トモ」が「加入」しました。「音楽性」はなかなか高くて「UNTOUCHABLE」というアルバムも聴き応えがあります。
実は・・・この「少女隊」というグループは「30億円」をかけて「派手なデビュー」をした割にはあまり話題にされず売れ行きも「今ひとつ」。「人気低迷」に歯止めがかからず「自然消滅」のような形で「解散」を迎えました。「テレビの露出」を控えた売り方も「歌番組全盛」の80年代には「時期尚早」だったのでしょうね。でもでも・・・今でも僕は「彼女たちの音楽」は「評価」しています♪
「初めて買った」LPはこの人たちでした。「Y.M.O」です:-)「Rydeen・Techonopolis」などなどレコード盤が「すり切れる」ほど聴きました。「小学生」の頃のことです。今でもY.M.Oは僕の「音楽の原点」になっています。
初めて聴いた「洋楽」は「JAPAN」でした。この人たちの音楽は「暗くて」・「大人っぽくて」・「神妙で」自分もこんな「生き方」をしたい!と「中学生」ながらに思っていました。 「夢中」になって聴いたレコードです。このJAPANのレコードを「最後に」僕の音楽ソフトは「CD」に切り替わりました。
レコードでしか聴けない「音と曲」。たまに懐かしくなって聴きたくなるときがあります。「お小遣い」を貯めてやっとの思いで買った「LPレコード」。当時も「2,800円」と高価でした。でも何度も繰り返して聴いて音楽をもっと「大事」にしていたと思います。レコードは一度かけると「最後まで」聴くことが多かったので、あの頃の曲は「心と頭」に深く残っています。
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果たせなかった開拓−失われた集落を追って−
BGM♪Beyond the light♪岩代太郎
果てしなく広がる「無人の荒野」。道北幌加内町「蕗の台(ふきのだい)」。北海道には珍しく「アイヌ語地名」のない地域です。「開拓前」の蕗が群生していた風景が地名の由来になっています。
ここは先住民族のアイヌの人々でさえも足を踏み入れなかった「辺境の地」。しかし、このような「人里離れた地」にも「人々が暮らしていた時代」がありました。
戦後の開拓事業から始まった
戦後の「食糧不足」を救済するために始まった「緊急開拓事業」。日本政府は希望者を募り、多くの人を「開拓者」として北海道に送りこみました。開拓者たちは慣れない北国で一から「農業」に取り組み「食糧増産」に励むことになったのです。この事業によって昭和20年代、北海道では「未開の地」にいくつもの集落が誕生しました。今回、紹介する「蕗の台」(ふきのだい)もその開拓事業によって生まれた町です。
息づき始めた山間の原野
−室蘭市より日鋼開拓団の入植−
室蘭市の「日鋼軍需工場」は戦後、武器や兵器の生産を止めたため大多数の工員を「解雇」する必要がありました。その工員たちの中で農業に転向する者を募り組織されたのが「日鋼開拓団」でした。「昭和22年」開拓団のうち30戸余りが「蕗の台」に入植。こうして「山間の辺地」に多いときで「200人以上」の人が暮らすようになりました。
【昭和35年発行の地形図 地図上の■印が建物】 家屋は駅周辺に密集しているのがわかります。その北側には「学校」・「神社」もあってそれなりの規模の「集落」を形成していたようです。
「日本の鉄道1−懐かしき日本の原風景−」より
完全な「無人地帯」となってから既に40年。しかも蕗の台は「短命に終わった」集落だったので、その「記録」を見つけるのは極めて困難でした。しかし、次のDVDには「昭和30年代」の蕗の台の様子が収められているのです。おそらく、この集落の「往時の姿」を収めた現存する「唯一の映像」でしょう。このDVDから「在りし日の」蕗の台の姿が見えてきました。
深い雪原に佇む「木造家屋」。玄関先にあるのは「スキー」と「かんじき」です。冬場は付近へ移動するにも欠かせないものだったのでしょう。
開拓団の家族。女性の背後に見えるのは「1960年(昭和35年)のカレンダー」。「お正月」を迎えた家族がストーブを囲みお餅を食べています。
壁に掛けられた「書き初め」。よく見ると「昭和三十六年元旦」とあります。上の「学生服のお兄さん」の作品なのかもしれません。先ほどのカレンダーは前年のものなのでしょう。
「もはや戦後ではない」と言われた昭和30年代。日本経済が急成長を迎え「白黒テレビ」・「洗濯機」・「冷蔵庫」が「三種の神器」として宣伝されました。しかし、この地区にはまだ電気も届かず「ランプ」で生活をしていました。
【ランプの灯りで受験勉強をする中学生】
入植の翌年に開拓費で建設された「蕗之台小学校」。最初の入学生は33人。開拓地の子どもたちが集い「文化の灯り」に火が点るようになりました。
「小学校があった場所」は「この辺り」らしいのですが、延々と「笹」が覆い尽くしているだけで、それらしいものは全く見当たりません。「一人きり」で自然に取り囲まれただ「心細さ」が募るだけでした。
蕗の台には駅もあって「駅長」が常勤し、乗降者も年間「10,000人」を超えるほどでした。「廃線ファン」が今でもこの駅跡を訪れていますが、現在は「更地」となり「駅の遺構」はほとんど何も残っていません。
【有人駅時代の蕗の台駅】
【昭和27年の時刻表。上り・下りとも1日3本がこの駅に停車していた。】
蕗の台駅の移り変わり −昭和35年から現在まで−
【昭和35年 駅周辺にはたくさんの民家が並んでいる。】
道路が整備されていない時代、ここは「陸の孤島」でした。「豪雪地帯」を走りぬく列車は集落と街をつなぐ「貴重な足」だったのです。
【昭和60年 駅舎は撤去されプレハブ小屋に代わっていた。】
蕗の台周辺の原野を走る列車。時は既に「平成元年」。「廃駅になる1年前」の風景です。
「2012年」駅の遺構は全てなくなり一帯は「自然に還って」いました。まるで最初から「何もなかった」かのようです。
今も残る蕗の台駅の遺構たち
ここは「旧駅前通り」。集落があった昭和30年代は「両側に建物」が建ち並んでいました。
駅跡周辺を歩くと足下から「ジャリジャリ」と音が聞こえてきました。
「確か、線路の下には小石が敷かれていたはず・・・。」ここは「線路跡」だったのです。
【線路に敷き詰められていたバラスト(小石)】
【地面に打ち付けられた木材。建物の「土台」なのだろうか?】 【線路は放置され草木に埋もれていた。】
【この白い陶器は電線の留め具】
【線路沿いにあったレバー】
【さび付いた枕木の杭】
【この木片は家屋の残骸だろうか】 【駅跡から少し歩くと見える蕗の台橋(昭和49年竣工)。集落が解散してから建てられた。】
果たせなかった開拓
大半が「農業未経験者」で占められた蕗の台の開拓団。「耕馬」も持たず「農機具」は不足。「開墾作業」は困難を極めました。「雪解け」は遅く「降霜」は早い高原地帯の気候は農業には適さず、せっかく育てた作物も「冷害」で「全滅」する有様だったのです。度重なる「凶作」は団員相互の「不信感」を招き「団結感」も次第に薄れていきました。農業では生計が成り立たず「離農者」は増える一方でした。
【地元紙で伝えられた開拓団の解散】
蕗の台へ入植した「日鋼開拓団」は昭和37年に「全戸離農」。集落は「解散」。入植からわずか15年目のことでした。こうして山間部から「人の生活」が消えていったのです。開拓団の解散と運命を共にして小学校も「閉校」を迎えました。
「離農直後」の風景。あちこちに散乱した「農具」や「木材」。この頃はまだ木造の「倉庫」と「家屋」がしっかりと残っていました。時の流れと共に全てが「自然倒壊」して跡形もなく「消え失せて」しまったのでしょう。
「住民」が去った後は風が吹きすさぶ「荒涼とした大地」へと戻っていきました。
「解散から約10年後」の様子。ほとんどの建物は姿を消してしまいました。残ったのは「2軒の家屋」のみ。集落解散後は「3世帯13人」がこの地に残って生活を続けていたと言われています。そして昭和46年「最後の住民」が去り、蕗の台は「無人地帯」となるのです。
【昭和45年発行の地形図】
【グーグルマップより現在の姿】
廃線後に「線路」も完全に「撤去」され「開拓前の原野」に戻っています。「線路跡」と「駅跡」がかろうじて確認できる程度です。
周囲を覆う「うっそうとした森林地帯」そして「深い山脈」。最も近い集落から「10km」以上も離れているため「蕗の台」一帯は「民家」どころか「廃屋」すら見当たらず「人の気配」も全くありません。
そして地名だけが残った
自然を貫く広大な「アスファルトの道路」。この道路沿いに「蕗の台」という町がありました。この道の先は「未開発」で「行き止まり」。通り行く車も「皆無」です。
「苦難の歳月」を重ね切り開いた集落は「解散」。人々は去り、建物は朽ちて、全てが自然に還っていきました。結局、広い荒野に残されたのは「地名」のみだったのです。「駅」・「線路」・「駅前の家屋」「学校」そして「ここで暮らしていた人々」・・・みんなどこへ行ってしまったのでしょう。
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