Clip-Clopの新しい発見

訪問ありがとうです。北海道から「駅・自然」そして「廃線・廃校」など心に残る風景をお届けしています♪ よろしくお願いします♪

旅の中から(廃墟・廃線編)

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

「遠い記憶」  炭鉱の栄華の面影 
−旧炭鉱街 芦別市「頼城」(らいじょう)を歩く− 
北海道のほぼ中央部にある「芦別市」。かつては「三井・三菱」などの財閥系の炭鉱で賑わいを見せました。最後まで操業を続けた三井芦別炭鉱の「閉山」1992年。もう20年近くが経過していますが、市の山間部では「炭鉱街の跡」が今でも静かに息づいています。

 
BGMは♪Andre Gangon「めぐり逢い」♪ごいっしょにどうぞ。
ここは芦別市の山間の町「頼城」(らいじょう)。明治時代「富山県の砺波(となみ)地方」から来た人たちが最初の入植者でした。その砺波地方にある「頼成」(らんじょう)にちなんで「頼城」と名付けられたのです。バス停の向こうには「炭鉱住宅」が並んでいます。 
イメージ 1
 
終着駅「頼城」の旧駅前通
閉山と共に廃線を迎えた「三井芦辺鉄道」。頼城はその「終着駅」でした。かつての駅前では「駅前通り」の名残りを今でも感じることができます。「歯抜け」になってしまった商店街。残ったわずかな店が営業を続けています。
イメージ 4
 
今も地域を支える「小さな商店」。昔ながらの木造の店舗は「炭鉱街の盛衰」をずっと見てきました。店の入り口にある雪かきの「スコップ」「ダンプ」は北国での必需品です。
イメージ 7
旧駅前では「看板」が既に取り払われ「廃屋」になった店がいくつも連なっています。「青空の下」で寂しそうに佇んでいました。
イメージ 8
商店街を盛り上げてくれた「スピーカー」。往時の頃は「クリスマスソング」が流れていたのかもしれません。
イメージ 9
「商店街」としての役割を終えてしまった今「すれ違う人」「通り過ぎる人」もほとんどいません。
 
裏通りで見かけた「炭鉱住宅」閉山後「残った人たち」が今も生活を続けています。
イメージ 10
「炭鉱の衰退」と共に多くの人が町を去り「空き家」が目だつようになりました。
 
雪原の向こうに残る「旧独身寮」
「雪の照り返し」が眩しい雪原の向こうには「コンクリートの建物」が見えました。ここはかつての「独身寮」「冬枯れの木々」が建物を覆い昼間でも「寂しさが漂っています。
イメージ 12
割れた「窓」と崩れ落ちそうな「屋根」。頑丈な「コンクリート」でも「人の生活」が消えた後は意外に「脆い」ものです。
イメージ 11
「自然に制圧」されやがて朽ち果てていくのでしょうか。「空虚」に感じられる青空。
 
繁栄時代を伝える学校たち
三井鉱山の「企業城下町」だった頼城は三井の「全面的な支援」によって「巨大な校舎」の学校が建てられました。この「頼城小学校」「往時の姿」のまま保存され現在は「通信制大学」のキャンパスとして再利用されています。
イメージ 5
最盛期には「2,000人以上」の児童が通っていましたが、閉校時の2002年児童数はわずか「10名」でした。全国で唯一残っている「レンガ造り」の小学校校舎。長大な「100mの直線廊下」もこの校舎をさらに有名にしています。
 
一際目を惹く頼城小学校の巨大な木造「体育館」「周囲は山々」が覆い「雪が深く」降り積もる中で静かに時を刻んでいます。
 
イメージ 2
体育館の壁に取り付けられた「野球の得点板」。長い間使われることがなかったのか、すっかり「さび付いて」います。このグラウンドの「子どもたちの姿」を見守ってきました。
イメージ 6
気づけばもう「街外れ」「冬の寒空」の下でカメラを持つ手も冷たくなってきました。
 
今も残る「緑泉駅」(ろくせんえき)の駅舎
帰り道後ろを振り向くと道路脇に「旧駅舎」が見えました。頼城の隣駅だった「緑泉駅」。三井芦別鉄道の中でも現存する数少ない駅舎で、現在は「民家」として使われています。
イメージ 3
廃線からかなりの年数が経過していますが「駅の様相」を呈していました。雪が重そうにのし掛かり「木造の屋根」「柱」「疲れ」を見せながらも持ちこたえています。

遠い記憶の中で
北海道 芦別市の「山中」に現れる小さな「町並み」。それは炭鉱の栄華の「名残り」でした。自然以外何もない「山深い地」に大手企業が「採炭」を始め、やがてそこに「町」ができました。しかし、「賑わい」を見せたのはわずか「半世紀」ほどの期間です。閉山後この山間の町並みは「廃線」・「廃校」そして「過疎化」一途を辿りました。かつての栄華はもう「風前の灯火」「石炭の隆盛」「賑わい」「活気」に溢れていた姿は、当時を知る人の「遠い記憶」の中に刻まれています。

 

無人の荒野に駅の足跡−森に眠る白樺駅の遺構−

BGMは森田童子♪「G線上にひとり」♪

風に舞う「紅葉」「冬の訪れ」を伝えている。そろそろ紅葉が「落葉」に変わる頃だ。「初雪」が降るのももうすぐだろう。
イメージ 1

「白樺の林」が延々と続く山中。「人の気配」は全く感じられない。しかし、かつてここに「駅」があったのだ。JR「深名線」「白樺駅」「昭和40年代」までわずかな人たちがここで「生活」をしていた。

山中を貫く道路から細い道に逸れると現れる「小さな空き地」。ここが「白樺駅」「駅前の広場」だった。今もその中央には「1本の木」が残っている。
イメージ 2


遠い昔の「白樺駅」の姿
この「無人の原野」にも「昭和30年」には「100名」ほどの住人がいた。白樺駅は戦前戦後にかけて「木材の搬出」で賑い、周囲に「小規模の集落」が形成されていた。昭和35年の「地形図」を見ると駅周辺にいくつかの「民家」があったことがわかる。「木材事業」「国鉄」そして「日通営業所」の職員が暮らしていたらしい。
イメージ 3

当時は「有人駅」「駅構内」もそれなりの規模を有していた。
イメージ 4

駅舎は「国鉄時代」の大きな「木造駅舎」
イメージ 5

「小中学生」「駅員さん」「ふれあい」もあった。遠い昔まで遡るとこの山中に「人の生活と温かさ」があったのだ。
イメージ 6

しかし「白樺地区」「昭和40年代」に入る前に「急速に寂れ」自治区として「消滅」してしまった。ここは「市街地」から遠く離れ、鉄道でしか行けない「陸の孤島」のような場所。世の中が「高度経済成長」を迎えた時期、人々は「便利な生活」に目覚め、この地を離れていったのだろう。周辺が「無人地帯」となった白樺駅。やがて、冬期間は全列車が「通過」するようになった。またの名は「冬眠する駅」であった。

白樺駅の遺構を求めて
この駅は深名線の廃止を待たずして平成2年に「廃駅扱い」となった。あれから「20年以上」が経過した今「駅跡」はどうなっているのだろうか。僕は「駅の遺構」を求めて草木をかき分けて進んだ。すると「駅舎の土台」と思われる「コンクリート」が足下に現れたのだった。
イメージ 7

笹藪の中からは朽ち果てそうな「階段」が見えた。おそらくこの先に「ホーム」そして「線路」があったのだろう。
イメージ 8

ホーム跡に下りると「別の階段」を見つけた。草木が生い茂りホームや線路の姿は見る影もないが、この「階段」「はっきり」とその形を残している。「上の写真」でも確認できる「唯一の遺構」だ。
イメージ 9

これは「転轍(てんてつ)機」の標識。ずっしりと「線路跡」に横たわったままだ。「人や列車の流れ」をずっと見てきた。
イメージ 10

土に埋もれそうな「木材」の残骸。ホームに立っていた「木製電柱」だったのかもしれない。
イメージ 11

駅の設備だった「鉄製の箱」。廃線後は中に「旅ノート」が入っていて訪問の記録が綴られていた。「風雪」にさらされながらずっと「旅人」を待ち続けた。もうすっかり疲れてしまったのだろうか?すでに「原型」を留めてはいなかった。どうやら、その「役目」を終えてしまったようだ。
イメージ 13

旅の者が捨てていった「空き缶」。いつからここにあるのだろう。なぜだか「時の流れ」を感じて「寂しく」そして「心細く」感じた。
イメージ 12

この人里離れた山間部に再び「人の生活」が築かれることはもうないだろう。「枯れ葉」が風でこすり合う音が「サラワラ」・「ザワザワ」と僕を包む。
白樺駅周辺が賑わったのは戦前戦後の「わずか20年ほど」の短い期間だった。山間部の厳しい気候のため「農業を営む者」は現れず「林業が衰退」すると瞬く間に「無人の荒野」と化していった。その後、地図からも「白樺地区」の名前は消えて「駅跡」さえも元の「自然の姿」に還ろうとしている。「幹線道路」から遠く離れたところにあり「目印もない」ため、ほとんどの人がその存在に気づかずに通り過ぎて行くことだろう。駅の「遺構たち」だけがここに残り続けている。
https://localhokkaido.blogmura.com/hokkaido_douhoku/img/hokkaido_douhoku88_31.gif
にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 道北情報へ(ランキング参加中です。ご協力お願いします。)

今も聞こえる町の息づかい−炭鉱街の足跡を辿って−

シューマン「トロイメライ」が今回のBGMです。ごいっしょにどうぞ♪

かつては「石炭産業」で栄えた「芦別市」「往時の人口」「7万人」を超えるほどでしたが「炭鉱の閉山」に伴い人口も激減し、現在では「1万6千人」に止まっています。その芦別市の市街地から山間部に少し入ると、今でも「炭鉱の足跡」を見ることができるのです。ここは芦別市の郊外「西芦別」「三井鉱山」が、石炭を輸送するために作った鉄道の沿線にある町でした。
イメージ 1

駅名は「三井芦別駅」。閉山と同時に廃線を迎え「ホーム跡」には草木が生い茂っています。閉山から20年以上が経過した「駅前の町並み」もひっそりと静まりかえっていました。

いつの頃からか「人通り」もなくなり商店街の「シャッター」も閉まったままです。赤く塗装された壁もくすみ「時間の流れ」も止まっているかのようでした。
イメージ 2

イメージ 3

通りには「当時の賑わい」を偲ばせる看板も見受けられます。「懐かしい」色合いとデザインです。
イメージ 4

イメージ 5

「三井鉱山」の本社の社員が暮らしたこの町には「電気店」や「書店」など「洋服店」など町に必要なものは全て揃っていました。今は閉店してしまいましたが、この「喫茶店」「新聞店」も多くの人が集い、頼りにしていたはずです。
イメージ 6

閉山によって商店街からも活気が失われ次第に「人の流れ」が消えていったのでしょう。「店じまい」を迎えてもうずいぶんと「長い年月」が経とうとしています。
イメージ 7

イメージ 8

商店街の奥にあった「幼稚園」。炭鉱街で暮らす人たちのお子さんが通っていました。雑草に覆われた「水飲み場」も既に役割を終えてもうどれくらいになるのでしょうか。
イメージ 10


それでも商店街の裏通りには「住宅」があり、町に残った人々が生活を続けていることがわかります。人々の「生活の臭い」は絶えることはありません。
イメージ 9

人気のないシャッター通りで現役で営業をしている「理髪店」。駅前通りの「移り変わり」をずっと見てきました。わずかな町の「ともしび」を支えています。この町は「生きている」のです。
イメージ 11

道北の芦別市の郊外に見かける「炭鉱の足跡」。山間部に突然現れる「商店街」は「石炭産業の栄華」の面影を伝えています。閉山と共に、町は住人を失いましたが、今でも静かに生き続けています。緑の山々に囲まれた大地の中で、耳を澄ますとこの町の「生活の息づかい」が聞こえてきます。
https://localhokkaido.blogmura.com/hokkaido_douhoku/img/hokkaido_douhoku88_31.gif
にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 道北情報へ(ランキング参加中です。ご協力お願いします。)

いつか見た町の風景−北母子里駅跡を訪ねて−

道北の「幌加内町」を縦断するように走っていた「深名線」「廃線」を迎えたのはもう16年前のことです。今でも幹線道路沿いにはその「駅跡」「駅舎」を見ることができます。さて夏の終わりの日曜日は深名線の「廃線跡」を追ってドライブに出かけることにしました。人気のない森林地帯を抜けると「小さな集落」が目に入ってきます♪近づいてみましょう♪

その後の「北母子里駅」(きたもしりえき)
ここは幌加内町の「母子里」(もしり)という地区です。駅名にだけ「北」が付いているのは、道東にある「茂尻駅(もしり)」との混同を避けるためだったそうです。かつての「駅前通り」へ向かうと、既に駅舎は解体され、「携帯電話の基地局アンテナ」へと姿を変えていました。「駅の面影」はもうどこにもありません。
イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

無表情に空高くそびえ立つ「硬質なアンテナ」。まるで「時代の流れの冷酷さ」を象徴しているかのようでした。「人の生活」「生活の臭い」は非情にも文明に追いやられ、かき消されてしまったのです。

基地局アンテナの裏側にある「ホーム跡」が唯一の駅の名残です。列車が往来した「線路」や人々が乗降したコンクリートの「プラットホーム」も今では草が生い茂っていて「無人の荒野」と化していました。
イメージ 5

廃線は「町の風景」の全てを変えてしまったのでしょうか。かつての駅前通りは「木造の廃屋」が点在するだけになり、その周囲を「放棄された農地」が覆っていました。駅を失った集落は次第に人の流れもなくなり「静けさ」に包み込まれています。
イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

しばらく使われていない木造の倉庫。大学が所有する「製材実習工場」でした。再び利用される機会はなくても「産業遺産」としてこの地に残り続けて欲しいものです。
イメージ 9


この橋の名は「天使の囁き橋」。寒冷多雪のこの地域では真冬になると「ダイヤモンドダスト」(空気中の氷の結晶)が見られるためその名前が付きました。
イメージ 10

毎年2月には町おこしのイベントとして「天使の囁きを聴く集い」が開かれ、ダイヤモンドダストの観察なども行われているようです。「廃線」「離農」そして「過疎化」を迎え停滞が地域一帯を包んだとしても、今もこの町は生き続けています。町に残った「ともしび」は次の世代へと引き継がれ「母子里」の町を支えていくはずです。
イメージ 4

「郷愁」を誘う地方の風景と「都市の文化」を象徴するアンテナが「青空の下」で同居していた北母子里の駅跡。秋の日差しを浴びて空高くそびえ立つアンテナがとても「印象的」でした。
https://localhokkaido.blogmura.com/hokkaido_douhoku/img/hokkaido_douhoku88_31.gif
にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 道北情報へ(ランキング参加中です。ご協力お願いします。)

峠の樹海に浮かぶ集落−廃校の風景−

ここは道北の市街地から遠く離れた「酪農地帯」。士別市の「上士別」という町です。古くから「稲作」が盛んな地域ですが、山間部へ入り込むと「離農跡地」が目立ち寂しげな光景が続きます。
♪「黄昏のワルツ」(加古隆)がBGMです♪

道路わきに見えたもう何年も使われていない「傾きかけたバス停」。通り過ぎる「ローカルバス」も1日数便のはずです。「錆びついた標識」が住む人のいない「山間部の寂しさ」を伝えています。
イメージ 1

さらに「山の奥深く」まで来たときのことです。峠から麓を見下ろすと「樹海」の中に浮かぶいくつかの建物が目に入ってきました。
イメージ 2

士別市上士別町「大英地区」。ここは戦後「戦争被災者」「満洲引揚者」によって開拓された地域でした。現在ではほとんどの人が町を去り「無人地帯」のようになっています。

幹線道路から外れた小さな通りの先にかつての「大英の集落」があります。しばらく進むと「峠から見た建物」が姿を現しました。「士別市立大英小学校」(昭和25年開校〜昭和45年閉校)の校舎です。日差しを浴びた「緑の草木」がこの「朽ち果てた校舎」を彩っているかのようでした。
イメージ 3

戦後は入植者が急増して学校が建てられましたが、20年後には「離農」「都市への流入」が始まり集落からも人がいなくなったものと思われます。
イメージ 4

イメージ 5

閉校から「40年以上」が経過しても校舎はその姿をしっかりと留めています。「自然に制圧」されながらも、この山間部にあった「人の生活の軌跡」を私たちに伝えています。
イメージ 6

イメージ 7

崩れ落ちた壁の向こうには教室の「大きな黒板」が見えてきました。ここで子供たちが集い「学ぶ姿」があったのですね。でもそれも今から40年以上も前のことです。
イメージ 8

かつて「子供たち」が過ごした校舎も今では「セミの鳴き声」だけがけたたましく響き渡っているだけでした。

校舎の周辺は「荒廃」しており、道路沿いにはわずかな「廃屋」が見えるだけで、草木が「開拓の証」をまるで「最初から何もなかった」かのようにすべて消し去ろうとしていました。
イメージ 9

「わずか20年ほど」でその歴史に幕を閉じた「大英地区」。遠い昔、人々はこの地に集い「開墾」を始め、やがて「集落」が作られました。今でも峠の下には「その小さな町の跡」が森林樹海に浮かんでいます。北海道の「開拓の足跡」として刻まれた「廃校の風景」を訪ねた夏の日の午後でした。

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
検索 検索
Clip-Clop
Clip-Clop
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事