|
「遠い記憶」 炭鉱の栄華の面影 −旧炭鉱街 芦別市「頼城」(らいじょう)を歩く−
北海道のほぼ中央部にある「芦別市」。かつては「三井・三菱」などの財閥系の炭鉱で賑わいを見せました。最後まで操業を続けた三井芦別炭鉱の「閉山」は1992年。もう20年近くが経過していますが、市の山間部では「炭鉱街の跡」が今でも静かに息づいています。
BGMは♪Andre Gangon「めぐり逢い」♪ごいっしょにどうぞ。
ここは芦別市の山間の町「頼城」(らいじょう)。明治時代「富山県の砺波(となみ)地方」から来た人たちが最初の入植者でした。その砺波地方にある「頼成」(らんじょう)にちなんで「頼城」と名付けられたのです。バス停の向こうには「炭鉱住宅」が並んでいます。
終着駅「頼城」の旧駅前通
閉山と共に廃線を迎えた「三井芦辺鉄道」。頼城はその「終着駅」でした。かつての駅前では「駅前通り」の名残りを今でも感じることができます。「歯抜け」になってしまった商店街。残ったわずかな店が営業を続けています。
今も地域を支える「小さな商店」。昔ながらの木造の店舗は「炭鉱街の盛衰」をずっと見てきました。店の入り口にある雪かきの「スコップ」や「ダンプ」は北国での必需品です。
旧駅前では「看板」が既に取り払われ「廃屋」になった店がいくつも連なっています。「青空の下」で寂しそうに佇んでいました。
商店街を盛り上げてくれた「スピーカー」。往時の頃は「クリスマスソング」が流れていたのかもしれません。
裏通りで見かけた「炭鉱住宅」。閉山後「残った人たち」が今も生活を続けています。
「炭鉱の衰退」と共に多くの人が町を去り「空き家」が目だつようになりました。
雪原の向こうに残る「旧独身寮」
「雪の照り返し」が眩しい雪原の向こうには「コンクリートの建物」が見えました。ここはかつての「独身寮」。「冬枯れの木々」が建物を覆い昼間でも「寂しさ」が漂っています。
割れた「窓」と崩れ落ちそうな「屋根」。頑丈な「コンクリート」でも「人の生活」が消えた後は意外に「脆い」ものです。
「自然に制圧」されやがて朽ち果てていくのでしょうか。「空虚」に感じられる青空。
繁栄時代を伝える学校たち
三井鉱山の「企業城下町」だった頼城は三井の「全面的な支援」によって「巨大な校舎」の学校が建てられました。この「頼城小学校」は「往時の姿」のまま保存され現在は「通信制大学」のキャンパスとして再利用されています。
最盛期には「2,000人以上」の児童が通っていましたが、閉校時の2002年児童数はわずか「10名」でした。全国で唯一残っている「レンガ造り」の小学校校舎。長大な「100mの直線廊下」もこの校舎をさらに有名にしています。
一際目を惹く頼城小学校の巨大な木造「体育館」。「周囲は山々」が覆い「雪が深く」降り積もる中で静かに時を刻んでいます。
体育館の壁に取り付けられた「野球の得点板」。長い間使われることがなかったのか、すっかり「さび付いて」います。このグラウンドの「子どもたちの姿」を見守ってきました。 気づけばもう「街外れ」。「冬の寒空」の下でカメラを持つ手も冷たくなってきました。
今も残る「緑泉駅」(ろくせんえき)の駅舎
帰り道後ろを振り向くと道路脇に「旧駅舎」が見えました。頼城の隣駅だった「緑泉駅」。三井芦別鉄道の中でも現存する数少ない駅舎で、現在は「民家」として使われています。
廃線からかなりの年数が経過していますが「駅の様相」を呈していました。雪が重そうにのし掛かり「木造の屋根」や「柱」が「疲れ」を見せながらも持ちこたえています。
遠い記憶の中で
北海道 芦別市の「山中」に現れる小さな「町並み」。それは炭鉱の栄華の「名残り」でした。自然以外何もない「山深い地」に大手企業が「採炭」を始め、やがてそこに「町」ができました。しかし、「賑わい」を見せたのはわずか「半世紀」ほどの期間です。閉山後この山間の町並みは「廃線」・「廃校」そして「過疎化」の一途を辿りました。かつての栄華はもう「風前の灯火」。「石炭の隆盛」で「賑わい」と「活気」に溢れていた姿は、当時を知る人の「遠い記憶」の中に刻まれています。
|
旅の中から(廃墟・廃線編)
[ リスト | 詳細 ]
![]() にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 道北情報へ(ランキング参加中です。ご協力お願いします。) 今も聞こえる町の息づかい−炭鉱街の足跡を辿って−シューマン「トロイメライ」が今回のBGMです。ごいっしょにどうぞ♪かつては「石炭産業」で栄えた「芦別市」。「往時の人口」は「7万人」を超えるほどでしたが「炭鉱の閉山」に伴い人口も激減し、現在では「1万6千人」に止まっています。その芦別市の市街地から山間部に少し入ると、今でも「炭鉱の足跡」を見ることができるのです。ここは芦別市の郊外「西芦別」。「三井鉱山」が、石炭を輸送するために作った鉄道の沿線にある町でした。 駅名は「三井芦別駅」。閉山と同時に廃線を迎え「ホーム跡」には草木が生い茂っています。閉山から20年以上が経過した「駅前の町並み」もひっそりと静まりかえっていました。 いつの頃からか「人通り」もなくなり商店街の「シャッター」も閉まったままです。赤く塗装された壁もくすみ「時間の流れ」も止まっているかのようでした。 通りには「当時の賑わい」を偲ばせる看板も見受けられます。「懐かしい」色合いとデザインです。 「三井鉱山」の本社の社員が暮らしたこの町には「電気店」や「書店」など「洋服店」など町に必要なものは全て揃っていました。今は閉店してしまいましたが、この「喫茶店」や「新聞店」も多くの人が集い、頼りにしていたはずです。 閉山によって商店街からも活気が失われ次第に「人の流れ」が消えていったのでしょう。「店じまい」を迎えてもうずいぶんと「長い年月」が経とうとしています。 商店街の奥にあった「幼稚園」。炭鉱街で暮らす人たちのお子さんが通っていました。雑草に覆われた「水飲み場」も既に役割を終えてもうどれくらいになるのでしょうか。 それでも商店街の裏通りには「住宅」があり、町に残った人々が生活を続けていることがわかります。人々の「生活の臭い」は絶えることはありません。
人気のないシャッター通りで現役で営業をしている「理髪店」。駅前通りの「移り変わり」をずっと見てきました。わずかな町の「ともしび」を支えています。この町は「生きている」のです。 道北の芦別市の郊外に見かける「炭鉱の足跡」。山間部に突然現れる「商店街」は「石炭産業の栄華」の面影を伝えています。閉山と共に、町は住人を失いましたが、今でも静かに生き続けています。緑の山々に囲まれた大地の中で、耳を澄ますとこの町の「生活の息づかい」が聞こえてきます。 |
![]() にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 道北情報へ(ランキング参加中です。ご協力お願いします。) いつか見た町の風景−北母子里駅跡を訪ねて−道北の「幌加内町」を縦断するように走っていた「深名線」。「廃線」を迎えたのはもう16年前のことです。今でも幹線道路沿いにはその「駅跡」や「駅舎」を見ることができます。さて夏の終わりの日曜日は深名線の「廃線跡」を追ってドライブに出かけることにしました。人気のない森林地帯を抜けると「小さな集落」が目に入ってきます♪近づいてみましょう♪その後の「北母子里駅」(きたもしりえき) ここは幌加内町の「母子里」(もしり)という地区です。駅名にだけ「北」が付いているのは、道東にある「茂尻駅(もしり)」との混同を避けるためだったそうです。かつての「駅前通り」へ向かうと、既に駅舎は解体され、「携帯電話の基地局アンテナ」へと姿を変えていました。「駅の面影」はもうどこにもありません。 無表情に空高くそびえ立つ「硬質なアンテナ」。まるで「時代の流れの冷酷さ」を象徴しているかのようでした。「人の生活」・「生活の臭い」は非情にも文明に追いやられ、かき消されてしまったのです。 基地局アンテナの裏側にある「ホーム跡」が唯一の駅の名残です。列車が往来した「線路」や人々が乗降したコンクリートの「プラットホーム」も今では草が生い茂っていて「無人の荒野」と化していました。 廃線は「町の風景」の全てを変えてしまったのでしょうか。かつての駅前通りは「木造の廃屋」が点在するだけになり、その周囲を「放棄された農地」が覆っていました。駅を失った集落は次第に人の流れもなくなり「静けさ」に包み込まれています。 しばらく使われていない木造の倉庫。大学が所有する「製材実習工場」でした。再び利用される機会はなくても「産業遺産」としてこの地に残り続けて欲しいものです。 この橋の名は「天使の囁き橋」。寒冷多雪のこの地域では真冬になると「ダイヤモンドダスト」(空気中の氷の結晶)が見られるためその名前が付きました。
毎年2月には町おこしのイベントとして「天使の囁きを聴く集い」が開かれ、ダイヤモンドダストの観察なども行われているようです。「廃線」・「離農」そして「過疎化」を迎え停滞が地域一帯を包んだとしても、今もこの町は生き続けています。町に残った「ともしび」は次の世代へと引き継がれ「母子里」の町を支えていくはずです。 「郷愁」を誘う地方の風景と「都市の文化」を象徴するアンテナが「青空の下」で同居していた北母子里の駅跡。秋の日差しを浴びて空高くそびえ立つアンテナがとても「印象的」でした。 |
![]() にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 道北情報へ(ランキング参加中です。ご協力お願いします。) 峠の樹海に浮かぶ集落−廃校の風景−ここは道北の市街地から遠く離れた「酪農地帯」。士別市の「上士別」という町です。古くから「稲作」が盛んな地域ですが、山間部へ入り込むと「離農跡地」が目立ち寂しげな光景が続きます。♪「黄昏のワルツ」(加古隆)がBGMです♪ 道路わきに見えたもう何年も使われていない「傾きかけたバス停」。通り過ぎる「ローカルバス」も1日数便のはずです。「錆びついた標識」が住む人のいない「山間部の寂しさ」を伝えています。 さらに「山の奥深く」まで来たときのことです。峠から麓を見下ろすと「樹海」の中に浮かぶいくつかの建物が目に入ってきました。 士別市上士別町「大英地区」。ここは戦後「戦争被災者」や「満洲引揚者」によって開拓された地域でした。現在ではほとんどの人が町を去り「無人地帯」のようになっています。 幹線道路から外れた小さな通りの先にかつての「大英の集落」があります。しばらく進むと「峠から見た建物」が姿を現しました。「士別市立大英小学校」(昭和25年開校〜昭和45年閉校)の校舎です。日差しを浴びた「緑の草木」がこの「朽ち果てた校舎」を彩っているかのようでした。 戦後は入植者が急増して学校が建てられましたが、20年後には「離農」・「都市への流入」が始まり集落からも人がいなくなったものと思われます。 閉校から「40年以上」が経過しても校舎はその姿をしっかりと留めています。「自然に制圧」されながらも、この山間部にあった「人の生活の軌跡」を私たちに伝えています。 崩れ落ちた壁の向こうには教室の「大きな黒板」が見えてきました。ここで子供たちが集い「学ぶ姿」があったのですね。でもそれも今から40年以上も前のことです。 かつて「子供たち」が過ごした校舎も今では「セミの鳴き声」だけがけたたましく響き渡っているだけでした。 校舎の周辺は「荒廃」しており、道路沿いにはわずかな「廃屋」が見えるだけで、草木が「開拓の証」をまるで「最初から何もなかった」かのようにすべて消し去ろうとしていました。
「わずか20年ほど」でその歴史に幕を閉じた「大英地区」。遠い昔、人々はこの地に集い「開墾」を始め、やがて「集落」が作られました。今でも峠の下には「その小さな町の跡」が森林樹海に浮かんでいます。北海道の「開拓の足跡」として刻まれた「廃校の風景」を訪ねた夏の日の午後でした。 |



