10/17の日曜日に「口銀谷銀山町ミュージアムセンター」に行ってきました。
口銀谷と書いて、くちがなやと呼びます。生野には もう一つ奥銀谷(おくがなや)という地名もあります。
普通は、辞書で「かなや」と引けば 必ず「金谷」が出てきます。銀谷は・・・残念ながら無いですね(苦笑)
それを銀谷と書いて「かなや」と呼ばせる地名が いかにも銀の町らしいと思いませんか
そして「銀山町」という名称も、実は江戸時代からすでに銀山町の名称が使われており
当時では珍しく町の組織も庄屋ではなく 町年寄でした。
ここは 町内では浅田邸という名称で通っていた邸宅です。
長年 カトリック教会として使用されており、現在も敷地内の教会でミサが行われています。
場所は 「井筒屋」のななめ前にあります。

とっても大きなお家で 庭の雰囲気も素晴らしい建物です。

この邸宅の持ち主であった浅田貞次郎氏について

安政2年 神埼郡福本村に生まれる。
明治4年 17歳で地役人浅田家の養子となる。
明治9年 銀山町外11町村戸長になる。(24歳)
明治21年 兵庫県県会議員(36歳)
明治30年 衆議院議員(45歳)
昭和17年 逝去(87歳)
明治時代に 鉱山のような不安定な事業は御料財産として経営すべきでないと、佐渡・生野両鉱山と
付属大阪製錬所の払い下げが決定し、若干のお金を下げ渡すことが帝室経済会議で審議されました。
そして明治29年(1896)、当時宮内省所轄の官営であった生野銀山が、民間へ払い下げられることになります。
貞次郎は町民の永年にわたる協力を政府に訴えるため、町民の代表として上京。
宮内大臣や関係役人と交渉を重ね、生野町に当時としては莫大な金額の六萬九千円が下賜されることに貢献
そのお金を基金にして 生野町は山林を所有するにいたり、財政の基盤を確立しました。
その後も、貞次郎は生野町の発展に力を注ぎます。
交通の近代化なくしては、産業の発展はないと考え、明治29年(1896)に姫路〜生野間に播但鉄道を開設。
官営の山陰線も開通していない当時としては、画期的な事業でした。
さらに、道路の路面補修、教育発展のために育英金や助成金を私財を投じて捻出するなど、
町の振興に多大な貢献を果たしました。その功績を讃え、紺綬褒章・緑綬褒章を授与されました。
又、生野町の発展に多大な貢献をした浅田貞次郎の功績を末永く顕彰するため
姫宮公園に銅像が建立され、昭和10年10月24日の除幕式には町民1500人が参加しました。
この銅像は 今も姫宮公園から生野町を見守っています。
(参考資料 但馬百科事典・日本とともに歩んだ銀山の町 いくの)