永正
11年 1514 『名将言行録』
信房、天正3年5月21日長篠にて戦死。年62才。
1575(天正3年)−62才=1513(永世13年)の生まれ。
12年 1515 信房、2才。
13年 1516 信房、3才。
14年 1517 信房、4才。
15年 1518 信房、5才。
16年 1519 信房、6才。
17年 1520 信房、7才。
大永
元年 1521 信房、8才。
2年 1522 信房、9才。
3年 1523 信房、10才。
4年 1524 信房、11才。
5年 1525 信房、12才。
6年 1526 信房、13才。
馬場伊豆守虎貞、8月15日歿。「下部馬場家系図」
7年 1527 信房、14才。
享禄
元年 1528
信房、15才。
2年 1529 信房、16歳。
小淵沢高福寺の開基 馬場外記「過去帳」
3年 1530 信房、17才。
4年 1531 信房、18才。
信房初陣。
天文
元年 1532 信房、19才。
2年 1533 信房、20才。
3年 1534 信房、21才。
4年 1535 信房、22才。
5年 1536 信房、23才。
6年 1537 信房、24才。
7年 1538 信房、25才。
馬場美濃守宛、跡部大炊介発給文書。(馬場家系図)
8年 1539 信房、26才。
9年 1540 信房、27才。
10年 1541 信房、28才。
信房の妻、一ノ宮木工介朝俊の娘、牧野島興禅寺に葬る(馬場家系図)
武川衆の事
青木(名欠)没
11年 1542 信房、29才。
信房、馬場信保の跡目となり、馬場氏を名乗る(武林名誉録)
12年 1543 信房、30才。
13年 1544 信房、31才。
14年 1545 信房、32才。
武川衆馬場民部を抜擢して士大将とし、馬場氏と改め民部少輔と称す。
15年 1546 信房、33才。
信房、教来石民部から馬場民部に改名。
16年 1547 信房、34才。
信房、2月秋山・馬場民部の両侍大将で信州伊那を攻撃。(甲陽軍艦)
5度目の合戦は馬場民部が采配をとる。
17年 1548 信房、35才。
南部下総殿改易の項
山本勘助という大剛の兵は、武運の手柄だけでなく、兵法に優れていた。ある時信州諏訪において、この南部の殿の家臣で石井藤三郎という男を南部殿が成敗しかねて追い回していた。その折勘助が近くにいたのだが、その座敷へ右の藤三郎を斬りつけて追い込んだものだ。勘助は刀を抜いて向かわず、そこにあった心張棒をとって対し、組んで転ばし縄をかけて南部殿へ引き渡した。
手に三ヵ所ほど傷を受けたが、怪我という程ではなかった。二十日内に全治したのでもわかる。
南部下総殿改易の項
この三か条をもって成敗するところだけれども、
18年 1549 信房、36才。
信房等、上州三寺尾合戦で安中越前守などと戦い527討ち取る。
19年 1550 信房、37才。
信房、信州深志城代となる。(現松本城)
馬場民部38才、甘利佐衛門尉十八才、この両人侍大将武篇に優れたり。(甲陽軍艦品30)
信房、御目付派遣について意見を述べる。
信玄は目付については、馬場民部と内藤修理と山本勘助の他は一切秘密にしてあるから、民部が後見となっている小幡山城と弟小幡弥三左衛門に命じようと仰せになった。
(甲陽軍艦)
20年 1551 信房、38才。
信房、村上義清と野々宮に戦う(小笠原歴代記)
3月信州時田合戦の折、馬場民部38才。甘利左衛門尉18才。(甲陽軍艦)
甘利・内藤・馬場民部の三軍で追い返し、越後勢を悉く討ち取る。(甲陽軍艦)
21年 1552 信房、39才。
石水寺物語 年関係なし。
馬場美濃守、穴山信君の尋ねに応じて、戦法や諸侯の情勢について言い聞かした。
(この項別記 甲陽軍艦)
筆註―馬場美濃の地位と実績が評価される記述である。
22年 1553 信房、40才。
信房等、法論で成敗のあった原美濃守を小田原の北条に送った。(甲陽軍艦)
23年 1554 信房、41才。
信房、今川家の助成依頼に信玄が応じて参戦、馬場民部などの活躍で北条敗走。
首級191(甲陽軍艦)
6月、長尾景虎、清野に13、000の軍勢で進軍、馬場民部は350ばかりの兵で清野に居て、景虎の侵入を阻んだ。(甲陽軍艦)
弘治
元年 1555 信房、42才。
武田信玄、信房に信州牧野島城の警護を命じる。
2年 1556 信房、43才。
3年 1557 信房、44才。
永禄
元年 1558 信房、45才。
2年 1559 信房、46才。
3年 1560 信房、47才。
信房、諏訪郡茅野氏の軍功の証人になる。(甲州古文書)
4年 1561 信房、48才。
信房、窪田助之丞宛川中島合戦への出陣要請発給。
(東山梨郡史蹟)
信房、勘助とともに戦術に参加、妻女山攻撃隊に加わる。
5年 1562 信房、49才。
石水寺物語 年関係なし。
山本勘助の記述
大将三つの采配・押太鼓・合言葉(品第四十二)
三河の浪人だった山本勘助という武士は信玄公により、語譜代のように召し使われた。武田家の城取りはこの勘助流である。勘助が馬場美濃守によく伝えておいた。
信玄公が駿河の清水において城を攻めなされたとき、馬場美濃守に言われた。「この城は少ない軍勢では攻め落とせそうにない。そこで多勢で攻めることになったが、馬場軍勢で速やかに城を攻め取れ」と命じられた。他の者はこれを知らなかった。馬場美濃守はいろいろ相伝の上だったから、承服なされた。信玄公は、我らが支配を任されている地だったから命じなされたのだ。と同輩に馬場美濃守は語った。
6年 1563 信房、50才。
年関係無し。
(甲陽軍艦 品四十三)
信玄公軍法の御挨拶人
一、馬場美濃守は戦いのなされ方について申し上げる。以下略
7年 1564 信房、51才。
牧丘、黒戸奈神社儀神像を奉納(牧丘町誌)
8年 1565 信房、52才。
信州の丸子三右衛門は馬場美濃の息子となる。
(甲陽軍艦)
9年 1566 信房、53才。
十月二十八日、信玄公は馬場美濃を呼び、信州牧之島城の城代を命じる。
(甲陽軍艦)
10年 1567 信房、54才。
信州新町牧野島城主となる。(甲陽軍艦 品30)
信房、信玄公の命により新しく要害を築くべく、要地を選定する。(長野市長沼城)(甲陽軍艦)
11年 1568 信房、55才。
12年 1569 信房、56才。
信玄公はあまり戦闘が長いので、家老衆を呼んで意向を伺った。
(略)馬場美濃守は「けらつつき(啄木鳥)が虫を食べる場合、他の鳥と違って穴の後ろを突き、穴の口へ出てくる虫をとるものだと申す」
筆註―川中島合戦で勘助が用いたという「啄木鳥戦法」だが、啄木鳥のことについての甲陽軍艦の記述はこの部分のみである。
馬場美濃守を牧之島に残されたので、信州方面は危なげない。(甲陽軍艦)
相州三益合戦
信房、内藤修理の呼びかけで「謎かけ問答」に応じる。
馬場美濃守大活躍。真田喜兵衛は馬場美濃軍で一番鑓で突進。馬場同心である。(甲陽軍艦)
元亀
元年 1570 信房、57才。
花沢城が墜ちてから、藤枝徳一色(藤枝市東方)も明け渡し後退した。この城は堅固な地にあるとして、馬場美濃守に仰せつけて、馬出しをとって田中城と名付けて、当分城を番して防備に当たる。
駿州江尻城も馬場美濃守の縄張りとする。
清水にも屋敷を構えて馬場美濃守の統治の区域とする。(甲陽軍艦)
韮山・三島の戦い、御旗本は小山田兵衛尉・馬場美濃二将が先陣で、三嶋に向けて進攻する。北条衆を馬場・小山田両軍が六十七の首級を挙げる。
信玄はさらに進軍、明後日は小田原進攻を号令する。
馬場美濃守は戦況についての不安を信玄公に申し上げた。云々(甲陽軍艦)
2年 1571 信房、58才。
信房、徳が家康と対陣し、家康不利から浜松に引き上げる。
信房、信玄公の御前で進言する。「天竜川の渡河については、かねて絵図によって検討を重ねて参りましたが、河の浅深をしっかり確かめられずにおりました。ところが家康が川を越えて退く所をよく見ていたので、一段と浅い所がわかりました。家康は若武者ゆえに川を越すところを見せてしまったのです」と申し上げたのはもっともであった。
戦いは馬場美濃守の活躍で大勝した。
(甲陽軍艦品三十九)
信房は三河武士の戦いぶりを信玄に申し上げた。「三河の武士の死体はこちらに向いて倒れているものはみなうつむき、浜松に向いて倒れているものは仰向きなって居りました。上杉・徳川の両家は、わが国一番の武勇の誉れあります」云々。
3年 1572 信房、59才。
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