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<信房公の死が迫る>
天正
元年 1573 信房、60才。
信玄、岩村城あたりを悉く領有して、三河の吉田を攻め、刑部(静岡)近辺、今切(浜名湖)といった。肥えたよい土地を選んで馬場美濃に縄張りとして支配させ、そこに城が出来次第、同族のものを配置につける態勢を整える。
三河の吉田城を攻めるにあたり、「これから夏になるので、越後勢の防備に入るため、冬の御陣よりは兵力を四千あまりこれに割かれる。けれども、敵も去る十二月には敗走し(三方ヶ原合戦)ていますから、大事には至らず心配ないかと存じます。少しくらいの不安定さは、各々が精を出しさえすれば、直ぐに勝機が開けてくるものですから」と馬場美濃は申し上げるのであった。以上。
(甲陽軍艦)
12月、信玄死去以後のことについて、馬場美濃守の所で将来ことを打ち合わせ。
勝頼公の御書は馬場美濃守が預かることに決定。
九月、武田勝頼は遠州へ出馬、各持城を充実し、さらに家康の掛川城を巡見なされ帰陣、家康はこの機に勝頼を狙うが、馬場美濃守の工夫と思案で、会との境で、逆に勝頼を狙っていた武将を生け捕った。
(甲陽軍艦品51)
2年 1574 信房、61才。
信房と小山田信茂問答。
小山田
「貴殿は信玄公より七歳で、信虎公の時代に十七歳から出陣八年の功績を積まれ、信玄公の御代には七八年、(略)二十一度の経験をつまれ、特に優れた御感状を賜り、これはただごとではない冥加の方と思われます。貴殿におかれての武功をたてられたゆえんをお聞きしたい」と。
3年 1575 長篠の戦
この戦いを、馬場美濃守は内藤・山縣・小山田・原隼人等とともに考え直すように勝頼に進言する。
信房、62才。
『名将言行録』
馬場美濃守、 長篠の戦で戦死。 年62才。
「中にも馬場美濃守手前の働き比類無し」
(信長公記)
4年 1576
5年 1577
6年 1578
7年 1579
8年 1580
9年 1581
10年 1582 武田滅亡、その後武川衆は徳川家康に就く。
柳沢信俊・山高信直
青木信秀・折井次正
曲淵吉景・伊藤重次
曽雌定政・馬場信成
知見寺盛之・入戸野門宗
山寺信政・多田昌綱
徳川家康判物
山本帯刀成氏 2通
山本彌右衛門尉忠房 3通
山本十左衛門尉 2通
甲陽軍艦について
佐渡と甲斐を結ぶ甲陽軍艦と春日惣次郎 春日惣二郎
かって高坂弾正が存生の時に常に言っていたことだが、主君へ逆心するような者は三年と無難ではいられない。との言のように、山城宇治田原(京都)で雑人の手勢を廻されて穴山梅雪の首討ち取られた。家康は無事に国へかえられたのであった。
(甲陽軍艦 品58)
春日惣次郎
この軍艦、書き継いできた我等は春日惣二郎という者である。川中島では悉く皆上杉景勝に仕えたけれども、われ等は甲州が滅亡へと傾いていく頃は越中へ赴いていたから、景勝御とりたての衆とは離れていたのだ。(右へ)
春日惣次郎
軍艦末書巻初端書第一条末
初終、甲陽軍艦惣合末書共に二十三冊の筆者二人は大蔵彦十郎といふさるかく也。今一人は春日惣次郎とて高さか弾正の甥也。
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