馬場美濃守信房公の生涯事績

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●<写真は武田信玄書状。隣に馬場美濃守の名前が見える>



馬場美濃守公 諸資料と文献

  「白州台ケ原田中神社馬場八幡社記」

 美濃守信房ノ鎮守ナリ。采地ノ節此社地ノ西ニ居住ス。円中手裁ノ桜同松今朽。信房長篠ノ役自殺ノ遺骸ハ其臣某齎シ来リテ居址或ハ此八幡祠ノ側ニ埋葬セシトソ申伝候。
 社地…竪二十四間、横十間(二百四十坪)

  『巨摩郡北山筋吉沢村太寧寺由緒書』
 再開基 武田信玄之将士馬場美濃守、法号 乾叟自元大居士ニ御座候…  
 …『甲斐 寺記・神社記』   『馬場彦左衛門家記』
 馬場美濃守ノ孫同民部ノ男丑之介壬午ノ乱ヲ避ケ其母ト倶ニ北山筋平瀬村ニ匿ル後本村ニ移居シテ與三兵衛ト更ム。

  『馬場祖三郎家由緒書』

 開基 馬場美濃守源公 法号 乾叟自元居士 

 公七世外孫出家得法同牛込御龍山松原禅寺向陽院惟庸字古同敬書

  信州槙嶋城主甲国武田旧臣新羅后胤馬場美濃守源公諱信房

 始称敬禮 師民部少輔諱政光天正三年乙亥五月二十一日六十三歳、或作四。
 
役于参州拾長篠西北之向瀧川橋場自殺。
 
 従者斎遺骨少帰州 臺原(台ケ原) 墓石朱地或云、武川之白須村於自元寺以佛古又祭法号如前面矣聞自元之神儀弊壊新之贈寺且欲 迎其壊於家而仰鎭護也。
 
 柳營、幕下小臣、居武州豊嶋郡大塚公五世胤馬場喜八郎義長 旧名義教 拜自(これは甲府桜町「開峡櫻」の主人馬場祖三郎氏(当時)の古文書に見える。
 
 馬場祖三郎氏は『馬場彦左衛門家』の家系に繋がる。又自元寺は天保十四年(1843)に現在地に移つる。(棟札)

<この由来書が現在あるもの>

 『自元寺由緒書』末尾

 享保十二年(1727)江戸大塚住旗本馬場喜八郎殿ヨリ被来享保十二年ノ冬御位牌修理補成リ越方金一歩書状等御差添向陽院古同ト申僧ノ状相添被越候此方ヨリ返事礼状仕候喜八郎殿知行四百石余自元寺住職恵光代。

   馬場美濃守信房  号 乾叟自元居士 『自元寺過去帳』
   馬場民部少輔信忠    号 信翁乾忠 居士 『自元寺過去帳』
   馬場民部少輔信義

『参州長篠戦記』
 
 長篠の戦いの戦死者…馬場彦五郎勝行(馬場美濃守の叔父) 

 『甲府市史』     

 五月二十一日三州長篠討死     
 (馬場)伊豆(守)二子 馬場美濃守信房 六十二歳。     

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<信房公の死が迫る>


天正

元年 1573 信房、60才。
信玄、岩村城あたりを悉く領有して、三河の吉田を攻め、刑部(静岡)近辺、今切(浜名湖)といった。肥えたよい土地を選んで馬場美濃に縄張りとして支配させ、そこに城が出来次第、同族のものを配置につける態勢を整える。
三河の吉田城を攻めるにあたり、「これから夏になるので、越後勢の防備に入るため、冬の御陣よりは兵力を四千あまりこれに割かれる。けれども、敵も去る十二月には敗走し(三方ヶ原合戦)ていますから、大事には至らず心配ないかと存じます。少しくらいの不安定さは、各々が精を出しさえすれば、直ぐに勝機が開けてくるものですから」と馬場美濃は申し上げるのであった。以上。
(甲陽軍艦)

12月、信玄死去以後のことについて、馬場美濃守の所で将来ことを打ち合わせ。
勝頼公の御書は馬場美濃守が預かることに決定。
九月、武田勝頼は遠州へ出馬、各持城を充実し、さらに家康の掛川城を巡見なされ帰陣、家康はこの機に勝頼を狙うが、馬場美濃守の工夫と思案で、会との境で、逆に勝頼を狙っていた武将を生け捕った。
(甲陽軍艦品51)

2年 1574 信房、61才。
信房と小山田信茂問答。
小山田
「貴殿は信玄公より七歳で、信虎公の時代に十七歳から出陣八年の功績を積まれ、信玄公の御代には七八年、(略)二十一度の経験をつまれ、特に優れた御感状を賜り、これはただごとではない冥加の方と思われます。貴殿におかれての武功をたてられたゆえんをお聞きしたい」と。

3年 1575 長篠の戦
この戦いを、馬場美濃守は内藤・山縣・小山田・原隼人等とともに考え直すように勝頼に進言する。
信房、62才。
『名将言行録』
馬場美濃守、 長篠の戦で戦死。 年62才。
「中にも馬場美濃守手前の働き比類無し」
(信長公記)
4年 1576
5年 1577
6年 1578
7年 1579
8年 1580
9年 1581

10年 1582 武田滅亡、その後武川衆は徳川家康に就く。
柳沢信俊・山高信直
青木信秀・折井次正
曲淵吉景・伊藤重次
曽雌定政・馬場信成
知見寺盛之・入戸野門宗
山寺信政・多田昌綱

徳川家康判物
山本帯刀成氏 2通
山本彌右衛門尉忠房 3通
山本十左衛門尉 2通

甲陽軍艦について
佐渡と甲斐を結ぶ甲陽軍艦と春日惣次郎 春日惣二郎
かって高坂弾正が存生の時に常に言っていたことだが、主君へ逆心するような者は三年と無難ではいられない。との言のように、山城宇治田原(京都)で雑人の手勢を廻されて穴山梅雪の首討ち取られた。家康は無事に国へかえられたのであった。
(甲陽軍艦 品58)
春日惣次郎
この軍艦、書き継いできた我等は春日惣二郎という者である。川中島では悉く皆上杉景勝に仕えたけれども、われ等は甲州が滅亡へと傾いていく頃は越中へ赴いていたから、景勝御とりたての衆とは離れていたのだ。(右へ)
春日惣次郎
軍艦末書巻初端書第一条末
初終、甲陽軍艦惣合末書共に二十三冊の筆者二人は大蔵彦十郎といふさるかく也。今一人は春日惣次郎とて高さか弾正の甥也。

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永正

11年 1514  『名将言行録』
信房、天正3年5月21日長篠にて戦死。年62才。
1575(天正3年)−62才=1513(永世13年)の生まれ。


12年 1515 信房、2才。
13年 1516 信房、3才。
14年 1517 信房、4才。
15年 1518 信房、5才。
16年 1519 信房、6才。
17年 1520 信房、7才。
大永
元年 1521 信房、8才。
 2年 1522 信房、9才。
 3年 1523 信房、10才。
 4年 1524 信房、11才。
 5年 1525 信房、12才。

 6年 1526 信房、13才。
馬場伊豆守虎貞、8月15日歿。「下部馬場家系図」

 7年 1527 信房、14才。
享禄
 元年 1528
信房、15才。

 2年 1529 信房、16歳。
小淵沢高福寺の開基 馬場外記「過去帳」
 3年 1530 信房、17才。

 4年 1531 信房、18才。
信房初陣。

天文
 元年 1532 信房、19才。
2年 1533 信房、20才。
 3年 1534 信房、21才。
 4年 1535 信房、22才。
 5年 1536 信房、23才。
 6年 1537 信房、24才。

 7年 1538 信房、25才。
馬場美濃守宛、跡部大炊介発給文書。(馬場家系図)

 8年 1539 信房、26才。
9年 1540 信房、27才。

10年 1541 信房、28才。
信房の妻、一ノ宮木工介朝俊の娘、牧野島興禅寺に葬る(馬場家系図)
武川衆の事
青木(名欠)没

11年 1542 信房、29才。
信房、馬場信保の跡目となり、馬場氏を名乗る(武林名誉録)

12年 1543 信房、30才。
13年 1544 信房、31才。

14年 1545 信房、32才。
武川衆馬場民部を抜擢して士大将とし、馬場氏と改め民部少輔と称す。

15年 1546 信房、33才。
信房、教来石民部から馬場民部に改名。

16年 1547 信房、34才。
信房、2月秋山・馬場民部の両侍大将で信州伊那を攻撃。(甲陽軍艦)
5度目の合戦は馬場民部が采配をとる。

17年 1548 信房、35才。
南部下総殿改易の項
山本勘助という大剛の兵は、武運の手柄だけでなく、兵法に優れていた。ある時信州諏訪において、この南部の殿の家臣で石井藤三郎という男を南部殿が成敗しかねて追い回していた。その折勘助が近くにいたのだが、その座敷へ右の藤三郎を斬りつけて追い込んだものだ。勘助は刀を抜いて向かわず、そこにあった心張棒をとって対し、組んで転ばし縄をかけて南部殿へ引き渡した。
手に三ヵ所ほど傷を受けたが、怪我という程ではなかった。二十日内に全治したのでもわかる。
南部下総殿改易の項
この三か条をもって成敗するところだけれども、

18年 1549 信房、36才。
信房等、上州三寺尾合戦で安中越前守などと戦い527討ち取る。

19年 1550 信房、37才。
信房、信州深志城代となる。(現松本城)
馬場民部38才、甘利佐衛門尉十八才、この両人侍大将武篇に優れたり。(甲陽軍艦品30)
信房、御目付派遣について意見を述べる。
信玄は目付については、馬場民部と内藤修理と山本勘助の他は一切秘密にしてあるから、民部が後見となっている小幡山城と弟小幡弥三左衛門に命じようと仰せになった。
(甲陽軍艦)

20年 1551 信房、38才。
信房、村上義清と野々宮に戦う(小笠原歴代記)
3月信州時田合戦の折、馬場民部38才。甘利左衛門尉18才。(甲陽軍艦)
甘利・内藤・馬場民部の三軍で追い返し、越後勢を悉く討ち取る。(甲陽軍艦)

21年 1552 信房、39才。
石水寺物語 年関係なし。
馬場美濃守、穴山信君の尋ねに応じて、戦法や諸侯の情勢について言い聞かした。
(この項別記 甲陽軍艦)
筆註―馬場美濃の地位と実績が評価される記述である。

22年 1553 信房、40才。
信房等、法論で成敗のあった原美濃守を小田原の北条に送った。(甲陽軍艦)

23年 1554 信房、41才。
信房、今川家の助成依頼に信玄が応じて参戦、馬場民部などの活躍で北条敗走。
首級191(甲陽軍艦)
6月、長尾景虎、清野に13、000の軍勢で進軍、馬場民部は350ばかりの兵で清野に居て、景虎の侵入を阻んだ。(甲陽軍艦)

弘治
元年 1555 信房、42才。
武田信玄、信房に信州牧野島城の警護を命じる。

 2年 1556 信房、43才。

 3年 1557 信房、44才。

永禄
 元年 1558 信房、45才。
 2年 1559 信房、46才。

 3年 1560 信房、47才。
信房、諏訪郡茅野氏の軍功の証人になる。(甲州古文書)

4年 1561 信房、48才。
信房、窪田助之丞宛川中島合戦への出陣要請発給。
(東山梨郡史蹟)
信房、勘助とともに戦術に参加、妻女山攻撃隊に加わる。

 5年 1562 信房、49才。
石水寺物語 年関係なし。
山本勘助の記述
大将三つの采配・押太鼓・合言葉(品第四十二)
三河の浪人だった山本勘助という武士は信玄公により、語譜代のように召し使われた。武田家の城取りはこの勘助流である。勘助が馬場美濃守によく伝えておいた。
信玄公が駿河の清水において城を攻めなされたとき、馬場美濃守に言われた。「この城は少ない軍勢では攻め落とせそうにない。そこで多勢で攻めることになったが、馬場軍勢で速やかに城を攻め取れ」と命じられた。他の者はこれを知らなかった。馬場美濃守はいろいろ相伝の上だったから、承服なされた。信玄公は、我らが支配を任されている地だったから命じなされたのだ。と同輩に馬場美濃守は語った。

 6年 1563 信房、50才。
年関係無し。
(甲陽軍艦 品四十三)
信玄公軍法の御挨拶人
一、馬場美濃守は戦いのなされ方について申し上げる。以下略

7年 1564 信房、51才。
牧丘、黒戸奈神社儀神像を奉納(牧丘町誌)

 8年 1565 信房、52才。
信州の丸子三右衛門は馬場美濃の息子となる。
(甲陽軍艦)

 9年 1566 信房、53才。
十月二十八日、信玄公は馬場美濃を呼び、信州牧之島城の城代を命じる。
(甲陽軍艦)

10年 1567 信房、54才。
信州新町牧野島城主となる。(甲陽軍艦 品30)
信房、信玄公の命により新しく要害を築くべく、要地を選定する。(長野市長沼城)(甲陽軍艦)

11年 1568 信房、55才。

12年 1569 信房、56才。
信玄公はあまり戦闘が長いので、家老衆を呼んで意向を伺った。
(略)馬場美濃守は「けらつつき(啄木鳥)が虫を食べる場合、他の鳥と違って穴の後ろを突き、穴の口へ出てくる虫をとるものだと申す」
筆註―川中島合戦で勘助が用いたという「啄木鳥戦法」だが、啄木鳥のことについての甲陽軍艦の記述はこの部分のみである。

馬場美濃守を牧之島に残されたので、信州方面は危なげない。(甲陽軍艦)
相州三益合戦
信房、内藤修理の呼びかけで「謎かけ問答」に応じる。
馬場美濃守大活躍。真田喜兵衛は馬場美濃軍で一番鑓で突進。馬場同心である。(甲陽軍艦)

元亀

元年 1570 信房、57才。
花沢城が墜ちてから、藤枝徳一色(藤枝市東方)も明け渡し後退した。この城は堅固な地にあるとして、馬場美濃守に仰せつけて、馬出しをとって田中城と名付けて、当分城を番して防備に当たる。
駿州江尻城も馬場美濃守の縄張りとする。
清水にも屋敷を構えて馬場美濃守の統治の区域とする。(甲陽軍艦)
韮山・三島の戦い、御旗本は小山田兵衛尉・馬場美濃二将が先陣で、三嶋に向けて進攻する。北条衆を馬場・小山田両軍が六十七の首級を挙げる。
信玄はさらに進軍、明後日は小田原進攻を号令する。
馬場美濃守は戦況についての不安を信玄公に申し上げた。云々(甲陽軍艦)

 2年 1571 信房、58才。
信房、徳が家康と対陣し、家康不利から浜松に引き上げる。
信房、信玄公の御前で進言する。「天竜川の渡河については、かねて絵図によって検討を重ねて参りましたが、河の浅深をしっかり確かめられずにおりました。ところが家康が川を越えて退く所をよく見ていたので、一段と浅い所がわかりました。家康は若武者ゆえに川を越すところを見せてしまったのです」と申し上げたのはもっともであった。
戦いは馬場美濃守の活躍で大勝した。
(甲陽軍艦品三十九)
信房は三河武士の戦いぶりを信玄に申し上げた。「三河の武士の死体はこちらに向いて倒れているものはみなうつむき、浜松に向いて倒れているものは仰向きなって居りました。上杉・徳川の両家は、わが国一番の武勇の誉れあります」云々。

3年 1572 信房、59才。

馬場美濃守信房公の生涯
享禄四年(一五三一)四月
武田信虎、国人層の叛将今井、栗原、飯富らとこれを援けた信州の諏訪頼満、小笠原長時の軍と、塩川河原部(韮崎市)で決戦しこれを破る。諏訪衆三〇〇人、国人衆五〇〇人討死し、栗原兵庫も斬られた。この戦いにおいて板垣駿河守信形、馬場伊豆守虎貞とともに出陣した教来石景政(信房公)は、十七歳にして殊勲の功をなした。 

それ以来駿河出兵、信州佐久攻略などに参加し、出陣のたびに教来石民部景政の軍功が高まり敵軍にもおそれられる若武者に成長していった。
景政を大器に育てた指導者は、文武の道に秀でた小幡山城守虎盛のち出家した道鬼日意入道である。虎盛は景政の非凡な才能を見込んで兵法を授け、実践に必要な武器の操作を仕込んだという。

<馬場伊豆守虎貞>

大永元年十一月
武田信虎、駿河今川の将福島正成の大軍を飯田ケ原、上条ケ原の合戦で破り、敵将福島正成を討ちとり大勝して、甲斐に覇権を確立した。その勇に誇り悪行つのったので、これを憂い馬場伊豆守虎貞、山県河内守虎清などが諌言したが、信虎の怒りふれ諌死となる。

天文十年(一五四一)六月
晴信、父信虎を駿河に退隠させて自立、家督を相続し甲斐の守護職とたる。教来石民部景政も武川衆の一隊長としてその幕下に加わった。(筆者註―これは間違いで、信房公は武川衆の一員ではない<別記>)

天文十一年(一五四二)
瀬沢(長野県富士見町)の合戦、諏訪頼重の上原城・桑原域攻略、高遠の諏訪頼継との安国寺の合戦などに真先に立って諏訪軍や高遠軍と戦った。

天文十二年(一五四三)
晴信の伊那攻略に従軍、

天文十五年
馬場伊豆守の名跡を継いで馬場の姓を拝命、馬場民部景政と改称し、五十騎の士隊将とたる。

天文十七年二月
上田原の合戦、七月塩尻峠(勝弦峠)の合戦に参加、

天文十八年四月
馬場民部少輔、浅利式部を両将として伊奈を攻略、

天文十九年七月
林城(松本)を陥れ小笠原長時は村上義晴を頼って逃げのびた。

天文二十三年六月
上杉謙信、善光寺の東山に陣し、信玄茶臼山に陣す(第一回川中島の戦)、この時謙信一万三千余人、景政三千五百人。謙信は、「山本道鬼が相伝うる必勝微妙の」馬場の陣備えを見渡して早々に軍を引揚げたという。「互に智勇の挙動たりと諸人之を感じる」(武田三代軍記)。

天文二十三年八月
甘利左衛門、馬場民部、内藤修理、原隼人、春目弾正の五士大将をもつて木曾を攻略し義昌を降す。

永禄二年(一五五九)
名を得る勇士七十騎を選び出させ馬場民部少輔景政に預けられる。景政手前の五十騎と合わせ百二十騎の士大将となる。そして晴信の一字を賜わり馬場美濃守信房と称した。部下の中には虎盛の子小幡弥三右衛門、金丸弥左衛門、鳴牧伊勢守、平林藤右衛門、ねごろ鶏大弐(根来法師)ら一騎当千のつわものがいた。

永禄三年十月(一五六0)
信春は牧島域の城代とたる。

川中島大合戦
永禄四年(一五六一)九月十日

第四回川中島の戦の前日、信玄は馬場信春と飯富兵部虎昌を別々に呼んで意見を聞いた。その時兵部は「妻女山に籠る越軍は一万三千、味方は二万、このまま城を攻撃し、包囲すれば必ず勝てる」と進言した。

信房公は、「数の上からは必ず勝てる戦いであるが、なるべき味方の犠牲を少なくするために慎重な作戦をたてるべきである」と進言した。
そこで信玄は山本勘助を招き改めて意見を聞いた。勘助は「味方は二万の軍勢、これを二手に分け、一万二千の兵をもって妻女山を攻撃すれば越軍は勝敗に関わりなく千曲川を渡って撤退する。そこで本隊は、八幡原で待ち伏せ予備隊合わせ八千の兵をもって取り囲み、退路を断てば犠牲を少なくして勝つこと疑いたしと存じます」と進言した。いわゆる「きつつき戦法」である。信玄はこれを採用した。
<筆註―これは後世の創作歴史で「きつつき戦法」な信房公が仲間と戦い方について討議している中で「けらつつき」と題して語っている>

<妻女山攻撃>
妻女山攻撃隊の総指揮は高坂弾正、副将に馬場信房、飯富兵部をすえ騎馬軍団一万二千。八幡原に布陣する旗本隊には信繁・信廉兄弟と山縣昌景、穴山信君、内藤修理など十二隊に分かれて八千の兵で固めた。馬場信房ら妻女山攻撃隊は深夜に出発。
翌十日未明妻女山の麓に到着、朝霧にまぎれて妻女山へ一気に攻め込む手はずだった。
しかし甲軍(武田)の裏をかいた謙信は、武田の攻撃隊が妻女山のふもとに到着する前に全城を抜け出して千曲川を渡り、武田の本陣をついて大激戦とたった。
妻女山攻撃隊は、越軍にだし抜かれたことを知って急いで八幡原に向った。卯の刻(午前六時)から始まった甲・越両軍の戦いは越軍の車懸かりの戦法に圧倒されて、信玄自身に危機が迫ったがやがて妻女山攻撃隊が駆けつけて形勢を挽回した。
甲軍は武田信繁、山本勘助、諸角豊後守などを失い大きな犠牲をこうむった。
午後四時ごろ謙信の退去命令で越軍は退去し、武田軍は勝ちどきの儀式をあげた。そのときの太刀持ちをしたのが馬場信房であったと『甲越川中島戦史』などで伝えている。
このとき信房公は四十七歳であった。その後上州松井田城、倉賀野城、武州松山城などを攻略し、
永禄十二年六月に伊豆に侵攻し、十月には小田原城を包囲した。その帰路、退撃する北条軍と三増峠で戦い、馬場美濃守信房公などの奮戦によってこれを破る。
<信玄の駿河進攻>
信玄の駿河進攻作戦
永禄十一年十二月にはじまり、十三日には今川氏真の居城(駿河城)に乱入した。信玄には城攻めに際し、もう一つの目的があった。氏真の父義元は「伊勢物語」の原本を入手していたように書画.骨董・美術工芸品の蒐集家で知られていた。信玄もその道にかげては造詣が深かったので、その文化遺産を甲州に持ち帰り保存したいという下心があった。
そこで城攻めにあたり「書画・骨董・美術品は何にもまして宝物だ、決して燃やさず全部奪い取れ」と命令した。
城攻めの先達をうけたまわった馬場美濃守は
「たとえお屋形の命令とはいえ、敵の宝物を奪い取るなどもってのほか、野盗か貧欲な田舎武士のやることだ、後世物笑いの種になる。構わぬ焼やしてしまえ」
と、曲輪内に大挙して踏み込み、片つ端から焼やしてしまった。これを聞いた信玄は苦笑し「さすが七歳年上の軍将じゃ、一理ある、甲斐の国主が奪つたとあれば末代まで傷がつくからなあ」とつぶやいたという。
田中城は馬場信房公の縄張りによったものである。
信玄上洛に際しその座城として、清水の縄張りのごとく馬場信房公に縄張り致さすべしといったという(「武田三代軍記」)。
馬場美濃守は築城の名手でもあった。

元亀三年(一五七二)十月
馬場、山県隊の武田軍は徳川方の中根平左衛門正照、青木又四郎広次らが籠る二俣域(天竜市)を包囲した。この城は天然の要害で防備も固く容易に城内に踏み込めなかつた。
馬場信房公は、普通の手段では城は落とせない、城飲用水に使っている天竜川の取り入れ口を破壊し、城内を枯渇させる作戦にでた。水の手を止められた二俣域は忽ち混乱が起きた。
それでも一カ月以上も堪えたがついに十二月十九日夜、域将中根正照は城門を開けて武田軍に降伏した。
この時、浜松城にいた徳川家康は二俣域を援けようとして自ら数千の兵を率いて城に向ったが、武田の包囲陣の現状に、とても勝ち目はないとみて神増村まで来て滞陣していた。
武田勝頼、馬場信房公、山県昌景ら武田の部将は、三方ケ原において徳川軍と戦う。
家康破れて敗走する。武田軍は家康と鳥居元忠ら旗本衆のあとを追撃し、浜松城が問近に迫る犀ケ崖を下って城門近くまで追跡Lたが、家康はやっとの思いで城内へ逃げきった。
家康は「武田随一の馬場美濃に切崩された」と、馬場美濃守の武勇を称讃している(「武田三代軍記」)

<野田城攻め>
翌元亀四年・天正元年(一五七三)二月
野田城を陥れるが、既に信玄の病重く、四月十二日信州駒場の宿陣で逝去する。時に馬場信春五十八歳、不死身の信房にも老いが迫っていた。信房は部下の若老たちに次の戦陣五つの信条を語って聞かせた。

一つ敵より味方のほうが勇ましく見える日は先を争って働くべし、味方が臆とかして見える目は独走して犬死するか、敵の術中にはまるか、抜けがけの科を負うことになる。

二つ場数を踏んだ味方の士を頼りにする。その人と親しみ、その人を手本としてその人に劣らない働きをする。

三つ敵の胃の吹き返しがうつ向き、旗指Lもの動かなければ剛勇と知るべし。逆に吹き返L仰向き、旗指しもの動くときは弱敵と思うべし。弱敵はためらわず突くべし。

四つ敵の穂先が上っている時は弱漱と知るべし、穂先が下っている時は剛敵。心を緊めよ。長柄の槍そろう時は劣兵、長短不揃いの時は士卒合体、功名を遂げるなら不揃いの隊列をねらうべし。

五つ敵悔心盛んた時は、ためらうことなく一拍子に突きかかるべし。
信房が示したこの五つの信条は、信玄の「敵を知り、己れを知らぼ百戦百勝」の遺訓にかたっている。「信房が二国太守の器量人」、といわれたのもこの辺に由縁するのであろう。

天正二年一月
勝頼岩村城付城を陥れ、明知城にも迫り、
二月七日これを抜く、信長なすところなく二十四日岐阜に帰る。この戦いで馬場美濃守は手勢を牧島城に備え置いていたので僅か八百余人をもつて信長一万二千の兵に向った。この戦いの状況を『武田三代記』は、
「唯今打出でられしは当代天下の武将識田信長とこそ覚ゆれ、天下泰平の物初に信房が手並を見せ申さん」、という侭に一万余の大敵に八百余人を魚麟に立て蛇籠の馬印を真先に押立て、真一文字に突懸れば、信長取る物も取り敢えず、馬に捨鞭を打って引返さる、と記している。

天正三年五月
武田軍は、山家三方衆奥平貞昌が兵五百をもつて固める長篠域を包囲して攻めたが容場に城内に侵入することができたかつた。しかし城内は極度に食糧不足を来し危機にひんした。鳥居強右衛門の豪気な働きによって識田・徳川の援軍が来着し、ここに識田・徳川連合軍と武田軍との長篠の合戦が始まった。

<長篠の戦い>

武田勢は長篠城を挾み、勝頼は医王山に本陣を構え、山林をバツクに六隊一万五千で「鶴翼」の陣を敷いて連合軍と相対した。勝頼は本陣で軍議を開いて合戦の方策を練った。馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信らの重臣は「われに倍する敵、それに三重の柵を構えて籠城の体、」(これに向かうことは不利を招くは必定、無謀なることこの上なし。この度は甲州に帰って再機を図るようしと進言した。このとき跡部勝資は「一戦も」交えずに引き退けば武田の武威地に堕ちるとして決戦するに同意して、勝頼側近の軍師長坂長閑もこれに賛同した。勝頼もこの主戦論に同意する。「(武田三代軍記)
<これは間違いとの書状がある>
この戦いで馬場美濃守信房公は敵に命を与え、輝かしい戦歴の幕を閉じる。
長篠の小字「西」という部落を通り抜けて左に寒狭川の流れを見下ろす段丘上に「馬場美濃守信房殿戦忠死の碑」が建てられている。これは明治中期に建てられたもので、以前は素朴な自然石の碑で「美濃守さまの墓」といわれていたという。設楽原の一角新城市生沢谷の銭亀にも信房の墓がある。

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