馬場美濃守信房公の生涯事績

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 つぎの生涯記録と新聞記事を比べてください。新聞の記事は紙面の制約もあり、筆者の思いや知識をすべて掲げることは無理であるが、この新聞に掲載された写真は大きな誤伝である。


 教来石家址とされるこの写真は、重なる発掘調査の結果でも、教来石家と断定もできないしその規模も定かではない。この土地は現在の鳥原集落であり、下教来石集落に所属する土地は、ずっと西方に位置する。

 また地域には教来石家の伝承や遺蹟も見えない。一書によると、教来石家は後に土屋家となる、との記述も見える。

 馬場美濃守の墓があるという白州町の自元寺について、位牌は江戸時代に馬場喜八郎が創り直したものであり、本来の馬場信房の継承は、織田に追われた馬場氏は甲府平原の大寧寺付近に移住居して、やがて甲府桜町・朝気町に移り、代々反映してその後裔にあたる馬場ほの家が料亭を経営して、その跡が現在の白州診療所の地にあり、それを先々代の住職が現在のところへ移動したものである。当時の屋敷地は1479坪もあった。

現在の信房の墓は、周囲の名族神主石田備前が馬場美濃守を守り、白須八幡神社を造営、自ら美濃守を代々名乗り、その一部の板碑が現在の墓とされている。

 山門など馬場信房にはなんら関係のないもので、後世の異物であり、誤解を招くから訂正してほしい代物である。伝承と歴史を混同するとこうした結果になる。この地は長い間白須家が住んでいて、その後裔は富士吉田に移住している。現在の自元寺周辺は白須家の所領であった。また自元寺も白須家の檀那寺でもあった。

 歴史とは史実を性格に伝えることが大切であり、それは昨年の「勘助騒動」で」学習したはずである。

 記述の大きな間違いは馬場美濃守が武川衆の一員であったなどの記述。馬場美濃守の家臣を調べてみれば南巨摩郡や山梨市周辺の武将が多く、北巨摩郡は皆無である。

 「いわれている」は史実とは遠い存在であることを明記したい。
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<馬場美濃守信房公の記事>山梨日日新聞掲載

●次の記事で写真記事とも検証する。
 馬場美濃守公は「信春」ではなく「信房」である。これは写真の自元寺も先代の住職が町の歴史書に「信春」と紹介されて困惑していた記憶がある。

 それはそうであろう。位牌にも各地でも「信春」などの名前は見えない。「甲陽軍艦」が信春といっているだけで、確たる書や資料はすべて「信房」なのである。本人も勝手の「信春」などの名を戴いてどんな気持ちなのか。
 
 歴史家は、山本勘助のときもあることないこと書き捲くり、どれが史実なのかまったくわからなくなってしまった。いい加減にしなさいといいたい。また「市川文書」や「高野山信玄画像」など不確かな画像や文書を有料で公開する「県立博物館」の催しなどもあきれ果てる。この施設は県民の生涯教育の場として多額な建設費で半ば強引に建設したものである。イベントの開催より、県民のために子供たちのために役立つ資料つくりなどに勤しむべきである。建設までの経緯をもう一度振り返ることが肝要ではないか。


<検証記事>
山梨日日新聞の記事(20083月29日付け)

勘助の築城技術を受け継ぎ功績

 武田四天王の一人に数えられる馬場信春は、春日虎綱と志もに、その出旨が異例であることで知られる。
信春は、もと「教来石民部」といい、甲信国境の教来石郷を支配した豪族の出身で、この地域一帯を警固する武川衆の一員であった。

 そのため、板垣信方、原昌胤、内藤昌秀、飯富虎昌らのような上級家臣を構成する名門の家柄ではなかった。

 しかし、教来石民部の才能を見抜いた信玄は、いきなり旗本を警固する侍大将に抜擢(ばってき)し、五十騎を預けたという。その際に、武田家の譜代馬場氏の名跡を継がせ、馬場民部少輔畳春と名乗らせた。

 また、彼の才能郁戦陣での用兵だけではないことを看破した信玄は、一計を案じた。信玄は、山本勘助から、城造りの技術と思想についての講釈を受ける際に、馬場信春を必ず傍らに控えさせ、その内容を聞かせたのである。

 それは、勘助が長年会得した築城術の奥義を、信春に継承させ、武田家を支えるための家伝の技法にまで高めたいと願ったからにほかならない。

 信春は信玄の期待に見事に応え、勘助の築城術を自家薬籠中(じかやくろうちゅう)のものとし、勘助の戦死後、武田氏の占領地での築城をほぼ一手に引き受けたのである。

 信春は信濃侵攻作戦で数多くの功績を挙げ、小笠原長時を追放した後に武田氏が築いた深志城(現在の国宝松本城).の城主に任ぜられ、小笠原・村上義清の反攻に備えた。

 その後、信春は、牧之島城主(信州新町)となり、海津城主春日虎綱とともに、上杉謙信の南下に備え、また越中の反上杉勢力である椎各・神保氏らと運携を図る重要な役割を与えられた。

 また信春は、武田信玄、勝頼が実施したほとんどの作戦に従軍した。特に、永禄十二(一五六九)年に信玄が北条氏を攻めるべく、小田原まで遠征した際に、主君を案じた信春は、信濃に残留して上杉謙信に備えよとの命令を破り、「こちらの戦の方が面自そうだ」と独断で従軍した。信春の心情を知っていた信玄はこれを罰せず、軍旅に加わることを許した。

 信春は、小田原攻めの帰途、北条軍との遭遇戦となった三増峠の合戦で、比類なき働きをし、武田軍の危機を救ったという。

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