タカオの雑食

とりとめのない映画レビューです。

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青い

仕事中、ふと浮かんだ言葉をメモしといた。

「孤独は人を殺すが、孤独は決して厳しくはない。むしろ優しい。」
「もし、あの時代、ツイッターがあったら、三島由紀夫は自決の前に呟いただろうか。」
「もし、あの時代、ツイッターがあれば、日航機に乗っていた人たちは遺書を残せたかもしれない」
「作家は本質的にクズなのか?」
「もしあの時、アイツを殴ることでできたら俺の人生は、変わっていたと思う。」

相変わらず根暗なタカオでした。
でも、こういう問いを自分の力にするか、無駄にするかはさじ加減だよね。
今日は、もう、難しいこと言わな〜い。
終わり!

フグタサザエという女

日曜にサザエさんを見ていたんだが、サザエが赤字の家計に色々と節約をするような話で、途中にマスオと波平の「愚痴をこぼしても給料は上がらんしなぁ」というセリフが泣かせるのだ。
サザエとフネは、節約に節約を重ね、育ち盛りのカツオたちのおやつも少なくなってしまった。

サザエ。パートをすればいい。

あのアニメの世界は、男尊女卑で女を働かせないのか。あるいは、女が働こうとしない世界なのか定かではないが、女性が当たり前に社会進出する現代社会で、サザエの生きがいとはなんだろうかと疑問を抱いてしまう。
タラちゃんは、まだ幼いので働かないかもしれないし、家族が生きがいのひとつであることは間違いないが、サザエ自身の個人的なアイデンティティは、どこに存在するのだろうか。
マスオの背広に入っていた、「スナック」と解りやすく書かれたマッチに異様なほど怒り狂う女である。
束縛の強い女なのであろう。
そのうえ、カツオのような狡猾さと、コツ鬼はない経験をもってして、たまに怒られるものの、したたかな面を持つ。

寺山修二をして、「娼婦になるほか、生きる資格のない」とまで言わしめた女。フグタサザエ。
マスオが婿養子同然で同居している理由もその辺にあるに違いない。

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原作は、週刊ヤングマガジン連載の漫画。

自堕落な生活を送っていた主人公カイジが、金融会社の遠藤から、かつて自分が保証人になった借金を突き付けられるも、返済のあてもない。
見かねた遠藤は、一晩で借金一括返済のチャンスが与えられるギャンブル船、「エスポワール」に乗り込ませ、カイジはそこから様々なギャンブルに挑戦し、起死回生を狙う。

ギャンブル主体の映画である。
しかし、その内容は「限定ジャンケン」や「Eカード」などオリジナルのもので、シンプルながら分かりやすく、その中での心理戦。騙し、騙されると言う展開が客を飽きさせない。

そもそもがギャンブルなのだから、描かれるテーマは「欲望」や「勝ち負け」であり、劇中で「勝たねば意味がない!」「金は命よりも重い」などという台詞が、よく出てくる。
カイジと対立する、巨大金融グループ・帝愛グループの利根川はカイジを「今まで努力も積み重ねもせずに、負け続けたくず。」と罵倒する。
これらのセリフは妙な説得力を持ち、たまに「ドキリ」とする。
現代の世の中。ある意味真理ともいえる。

作品自体、原作を知っている人にはツッコミどころ満載らしい。
運よく、僕は原作を一部しか知らないので純粋に楽しめた。
主人公カイジ役の藤原達也は、カイジが借金まみれになり、さらに堕落して、欲に溺れていく様子を見事に演じ、我々の反面教師とも言えるくらいにダメダメな主人公を見せてくれた。

人生を勝ち負けの二元論で語るのは短絡的だが、自分が「負け」だと感じてしまった時、そこで「いやぁ、人生は勝ち負けじゃねぇよ。」と言ってしまえば楽にはなるだろうが、もし、それが現状を打開もせずに、自分を慰めるだけだとしたら、それが本当の「負け」なのではないだろうか。

某金融のコマーシャルを思い出す。
「ご利用は計画的に」
はい。分かりました。

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言わずと知れた、黒沢明監督の名作である。

毎日書類の束にハンコを押すだけの、無気力な日々を送っていた役所の市民課長・渡辺勘治は、ある日、自分の体が胃がんで余命いくばくもない事を知り、残った人生を如何に生きるか。
まさにタイトル通り「生きる」というテーマに真っ向から挑んだ作品であり、同時に、社会風刺も多分に盛り込まれている。
それでいて、説教じみていない。
作家志望が見ると、嫉妬してしまう。きぃ〜。

前半は、病気を知った渡辺が、役所を無断欠勤し、貯金の半分を遊びに使うも心は満たされず、役所を辞めた女性職員の奔放な性格に惹かれ、その女性の一言で何をすべきか奮起し、役所に復帰するまでを描いている。
この間の心情の変化はドラマチックで素晴らしい。

後半は、五ヶ月後。渡辺の通夜で始まり、参列者の言葉から、その後の渡辺の変化を語りあい、その結果、住民の要望であった公園ができたのは渡辺の尽力によるものだと称え、自分達のこれまでの姿勢を反省する。

僕は、この後半の通夜のシーンで、やられた!と思わずにいられなかった。
渡辺自身のドラマは「死」である。
普通に考えたら、死は「起承転結」の「結」であると思いがちであるが、後半を通夜にすることで、渡辺が三人称になり、「なぜ渡辺は変わったのか?」「変わった渡辺は、なぜ、あんなにも精力的になりえたのか?」という作品のテーマに直接かかわる問いを、分かりやすく演出している。

そしてそれは、役所の渡辺の同僚、上司などを自然と登場させ、その体制への批判と、風刺の役割までも果たしている。

そして、主演の志村喬である。
志村喬の大きな目は、前半は生を訴える、飢えるような悲哀を込めたものであったものが、後半、死を自覚しつつ、それよりも「結果を残したい。」という強いものに変わる。
作品で、一貫して無口で口下手なキャラクターを演じている。
分かりやすい強いセリフはないが、志村喬の演技はキャラ毎、強い印象となる。

端的に感想を言うなら、僕は観賞後「はぁ〜…!」と唸った。

黒沢映画は多分にハリウッド的であるが、不特定多数に認められるメジャー作品は、やはり相当な苦労があると思う。
あまりメジャーだからと言って毛嫌いするものではない。
あまのじゃくでは損をする。

劇団関係者の友人に誘われて、珍しく舞台を見に行った。
脚本を勉強しているので、舞台脚本もかけるようになりたいからだ。

100人ほどのキャパの劇場に、和風の家屋の居間と、縁側のセットが組まれている。

田舎を舞台にした物語である。
事故で最愛の夫を伊藤聡美が、それを乗り越えるために岩戸呂村に移住する。
事情を知る村民たちは、聡美を気遣い、優しく接する。
しかし、その優しさは徐々にエスカレートしていき、村民たちは、「傷付いてなきゃおかしい。」「だって最愛の人を無くしたんですもの。」
彼らは、自分達の傷を聡美に押しつけ、悲劇のヒロインを支える善良者になろうとする。

相手に対する優しさは、次第に「優しさを与える対象が、自分の思っているように傷ついていなければならない。」という前提が出来上がり、その様子は見ているものに恐ろしく映る。

僕は、ステレオタイプの優しさは、時に暴力だと感じている。
それは、ドラマや映画、音楽の歌詞に至るまで、不特定多数に届く「平均的な言葉」が氾濫し、優しさの中に個人がいないからである。
「優しさとは、こうしなければならない。」と言う価値観が、人の固定概念を支配している。

メディアの一つの罪だと思う。

この芝居を見ながら、僕は登場人物に対してむかむかしてきた。
これは、この作品のキャラクターが見事としか言いようがないくらいに掘り下げられているということであり、帰りの道中、僕は自分の非力がイラついたほどだ。
見ながらむかむかしてくるだけに、僕にとっては名作だ。

舞台の生の感覚もあるかもしれない。
派手な作品ではないが、予想以上に僕にとっては学びとなった。


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