タカオの雑食

とりとめのない映画レビューです。

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2月の本まとめ

「読書メーター」をつけております。
別に「年間〜冊」とか目標があるわけではないですが、振り返って「うん。良く読んだなぁ〜」と一人調子づくのが好きです。

2010年2月の読書メーター
読んだ本の数:7冊
読んだページ数:1460ページ

■頭の中がカユいんだ (集英社文庫 (な23-21))
散文的で、文学的。ク・ジェ島の夜は笑えた。
読了日:02月24日 著者:中島 らも
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/5103765

■僕に踏まれた町と僕が踏まれた町 (集英社文庫)
なんか、すごい共感した。同じ青春じゃないけど、決してきれいごとじゃない青春に、自分を投影してしまった。今後、俺がらもになれるかどうかはわかんないけど。
読了日:02月18日 著者:中島 らも
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/5015046

■純潔のマリア 1 (アフタヌーンKC)
この人は絵がうまいからジャケ買いしてもうた。内容も綿密な取材に基づいたファンタジー。
読了日:02月15日 著者:石川 雅之
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4979414

■SKET DANCE 12 (ジャンプコミックス)
いつの間にか出てた。不覚。
読了日:02月15日 著者:篠原 健太
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4979403

■ひとり暮らし (新潮文庫)
さすが詩人の書くエッセイは文章が奇麗。ただの日記も文学になる。でも生活は思ったよりも普通。
読了日:02月15日 著者:谷川 俊太郎
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4979337

■寝ずの番 (角川文庫)
抱腹絶倒とはこのことだ。ホントに面白かった。津川雅彦の映画のことも興味深く読めた
読了日:02月08日 著者:中島 らも
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4865942

■女子と鉄道 (光文社文庫)
鉄オタもさまざま。こんなソフトな世界もあるのか。
読了日:02月05日 著者:酒井 順子
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/4823507


▼読書メーター
http://book.akahoshitakuya.com/


先月は中島らもばかり読んでましたね。
レビューでも書いた「寝ずの番」は本もすごく面白かったです。映画のほうがしんみり来るシーンがあるかな。
2冊マンガが入ってますが、実はまだ読了してません。
最近マンガを読まなくなってきました。
漫画家を目指していたはずが、いつの間にか文章のほうが面白くなってしまいました。
内心、「中島らもになりたい」と思っていますが、周囲を心配させるので言えません。

本というものは旅に似てるものだという感覚があります。
ページをめくるたびに違う世界に行けるようなもんです。小説もエッセイも一緒です。
僕が極端にお腹が弱いものですから、旅が苦手なので本で仮想現実に浸るのです。
インドが好きなので、旅行記なども良く読みますが、実際にインドに行ったらどんだけ下痢をするのか恐ろしいです。
インドは人を選ぶと申します。

たかのてるこ著「ガンジス河でバタフライ」のドラマ版のシナリオハンティングで、原作のたかのてること大学の同窓生で脚本家の工藤官九郎(以下・クドカン)がインドを訪問する番組を見ましたが、インドについて早々に日本に帰りたがって、旅行中ずっとテンションの低いままのクドカンを見ていて、「どうしてこんなクドカンがインドに行けて、俺が行けないのだ」と憤りすら感じました。
「ガンジス河でバタフライ」は良い本です。お勧めです。

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今まさに臨終の時を迎えようとしている稀代の落語家・笑満亭橋鶴。
弟子たちは師匠の最後の願いを聞き入れようと、耳を近づけて聞きとったのは「そそがみたい。」
「そそ」とは京都弁で女性のあそこをさす。驚いた一同。しかし、師匠の最後の願いと、弟子たちは橋太の嫁・茂子に白羽の矢を立て、橋太に説得させる。憤りながらも、噺家の嫁として願いを聞き入れ、師匠のベッドをまたぎそそを見せる茂子。それを見た師匠は「わしはそそがみたい言うたんやない。外が見たい言うたんや。」
その3分後、師匠は死んだ。
通夜には師匠ゆかりの人物が次々と弔問に訪れる。弟子たちも酒を飲みつつ、師匠の豪快でいい加減な思い出話を語り合い、寝ずの番は更けていく。

津川雅彦が、母方の叔父で映画監督だったマキノ雅弘の「マキノ」性を継いで「マキノ雅彦」として監督した第一回作品。

僕は原作の中島らもの大ファンで、彼は有名進学校を落ちぶれ、ドラッグやアルコールの中毒を経験し、広告業界や放送業界で活躍した後、劇団やエッセイストや小説家などの様々な顔を持っていて、何を読んでも彼の濃い人生経験を物語っているようで面白い。どちらかと言うと、サブカルチャーな人なので津川雅彦がこの小説に目を付けたのは意外であった。
ちなみに、角川文庫から出ている原作本「寝ずの番」に津川雅彦自身が映画作品について文章を寄稿している。映画の企画段階から、彼の映画に対する姿勢や演出論などが覗けて面白い。

それによると、最初に東映のプロデューサーから渡されて「面白い」と思ったが、東映のお偉いさんが納得してくれず一度ぽしゃったという。
しかも、この作品。冒頭のあらすじを読んでいただければわかるが下ネタ満載なのだ。あきらめきれず出資者を探す津川だったが、この下ネタに敬遠する会社が多かったようだ。そんなとき、あるプリデューサーから電話がかかってきて、「どういう映像を考えているのか?」と聞かれた津川は、「面白い役者がしてくれる面白い演技さえ克明に撮れれば、突拍子もなく面白い映画になるはず」と返事をしたところ、GOサインが出たという。
僕はこれに津川雅彦、もとい「マキノ雅彦」の映画監督としてのスタイルを見た。と思った。

出演は中井喜一を主演に、笹野高史、岸辺一徳、木村佳乃に加え、実兄の長門裕之と豪華である上に「濃い」。
僕はテレビドラマなどでもベテランの役者同士の掛け合いなどは、まるで「闘っている」ように見え、火花が見えそうな時がある。
この映画の場合がまさにそれで、あちらこちらで役者同士が勝負をしている。その本気度を邪魔しないマキノ雅彦の演出は、くせがなく見やすい。ところどころに映像的な遊びはあるが、元気だった頃の日本映画を彷彿とさせる。昨今の新進の監督は個性は強く印象が強い半面、そういったトリックばかりに作品としての評価を求められているようで、見ていて居心地の悪い思いをすることが多々ある。その点、この作品は監督はあくまで「カメラの向こう」で役者をとり続けている。
その上で原作に忠実である。
往々にして原作つきの映画というものは、原作ファンからの批判を生む。それは仕様がない道理というもので、映画と言うものはどうしても時間の制限を受ける。時間も文章にしてしまうと、ほぼ無制限と言ってよい。このジャンルの違いが、小説を映画化する際どうしてもネックになる。「いくらでも撮っていい」と言われればいいのだろうが、大体映画に適当な時間は90〜120分で、三時間の映画などもあるがあれはあれで体力がいる。その制限がある限り、僕は映画とその原作の相違についてはあきらめていたが、この作品はイメージにぴったり合致した。人に勧める際はどちらか一つだけ見て頂けたらいいくらいだ。
下ネタ満載だが、それが平気であるのなら映画としての質はかなり高い。
噺家の通夜を下ネタで笑い、故人の思い出に浸り、そして死を現世に残されたことを実感する。
笑いの中に悲しみがある。

原作の中島らもは、映画化の打ち合わせの半ばで他界している。
関西の有名進学校で落ちこぼれ、クスリやアルコールにおぼれ、鬱病を患い、作家として世に作品をたくさん発表したドラマチックな壮絶な人生の最後は、階段からの転落死であった。アメリカン・ニュー・シネマのようなあっけない死であった。
中島らもの通夜は葬儀会館で行われたため、寝ずの番の必要はなかったという。

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いくつか特撮映画を見ながら、「やはり日本の特撮は素晴らしいな」と思いながら、「だったら海外は?」という疑問符が付き、「海外の特撮はやはりハリーハウゼン!」と思い、この作品を見るに至った。

ストーリーはシンドバッド王子がチャンドラ王国との平和条約締結を結び、チャンドラ王国の王女パリサ姫とバグダッドに帰る途中、海図にはない島で食料などを補給していると一つ目の巨人サイクロプスに追われる魔術師ソクラを救出する。ソクラはサイクロプスから魔法のランプを盗もうとしていたが、失敗した。
シンドバッドに救助されたソクラは、再び島への航海をシンドバッドに進言するが、危険を感じたシンドバッドはそれを拒否。ソクラはパリサ姫を魔術で小さくし、姫を戻すには島に住むロック鳥の卵の殻が必要だとシンドバッドをだまし、シンドバッド一行は再び謎の島を目指す。

作品はシンドバッドを主人公にしながら、「アラジンと魔法のランプ」のテイストも入っている純粋な冒険活劇である。
僕はこの作品を見ながら、これが初公開された当時は子供はみんなわくわくしてドキドキしながら口をポカンと開けてみていたに違いない。と思った。この作品が多くの子供にものすごい影響を与えたかもしれないこてこての冒険活劇。それを彩るのはレイ・ハリーハウゼン制作のストップモーションで動くモンスター達。
一つ目の巨人、サイクロプス。ドラゴン。双頭のロック鳥。骸骨兵士。
それらが、パキパキコキコキと動き、主人公たちと対峙する。男の子ならばドキドキが止まらない。

実は、ハリーハウゼンの映画を丸々一本見るのはこれが初めてだったりする。
専門学校がアニメーションのクラスで、担任の先生がアニメーターだった。
先生は沖縄出身の割に色白で、だけど顔は濃くて…。いや、先生の容姿はどうでもいい。
その先生がハリーハウゼンの大ファンであった。
なので、授業の一環でハリーハウゼンのドキュメンタリーは見たことあったが、映画を見る機会はなかった。

その上、僕はハリーハウゼン本人も見たことがある。
学生時代に行った、「広島国際アニメフェスティバル」という大きなアニメの映画祭の特別ゲストとしてきていた。ハリーハウゼンは特別プログラムが組まれていて、そこでは彼の講演と質問コーナーがあって、先生は人目もはばからず大ホールで手を挙げて何やらしゃべっていたのを覚えている。そのプログラムの後先生は子供の様に感激してサインをもらっていた。
僕は遠目で「大きい爺さんだな」なんか思っていたと思う。優しそうな顔つきだった。

今や、テレビやネットで当時よりもすごい技術の映像が簡単に見ることができるが、当時は今度いつサイクロプスやガイコツ兵士に会えるかわからなかったのだから、瞬きするのももったいなかったろう。穴があくほどスクリーンを見たはずだ。一本の映画でいくらでも夢が見れた時代を馳せた。
僕もカンフー映画を見たら、次の日くらいまでは達人のつもりではいる。

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あらすじ。元FBI捜査官のグレアムはある殺人事件の捜査の依頼をされ、捜査官として復帰する。犯人は裕福な家庭を残忍な手口で崩壊させる異常者であると、その心理を探るため、刑務所に収監されている連続殺人犯のハンニバル・レクター博士を訪ねる。

と、言うように。これは「ハンニバル」シリーズの「レッド・ドラゴン」と同一の物語であるが、別の作品である。無論、アンソニー・ホプキンスのシリーズと一切関係はない。原作を一緒にしているだけである。後年の「レッド・ドラゴン」はこれのリメイクでもない。
その為、この映画は数奇な運命をたどっている。
原題は「Manhunter(マンハンター)」と言い、日本公開時の邦題は「刑事グラハム/凍りついた欲望」と言うものであった。1991年「羊たちの沈黙」の大ヒットにより、「レッド・ドラゴン/レクター博士の沈黙」と邦題を変えることになる。
そういった経緯により、「ハンニバル」シリーズのパチもん扱いもされがちだが、本作の制作年度は「羊たちの沈黙」よりも前である。要は、タイミングと資本の問題である。後、運がなかった。いや、運があるのか?

僕は有名なほうのシリーズは「羊たちの沈黙」しか見たことがない。無論、原作小説を読んだこともないので、この映画についてより素直に語れると思う。
主人公のウィル・グレアムはレクター博士に同質の狂気を見出され、自分の中の常識と異端のジレンマに悩まされる。事件の資料を見ながら、独り言を言いながら犯人の心境に近付き、プロファイリングする姿はどことなく狂気じみていて、レクター博士とリンクする。この作品のレクター博士は、アンソニー・ホプキンスのような如何にもな狂気とカリスマは持っていないが、飄々としている中に狡猾さを覗かせて、「ただものではない」感はある。実際、牢獄の中からグレアムを徐々に追い込んでいく。
殺人犯を追いながらも、レクター博士も絡んできて、物語は複雑に絡み合う。
犯人のパンストを顔半分かぶった姿は、いかにも異常犯罪者然としていてよい。
ただ、本作を見て、有名なほうも見ていて、なおかつ原作小説も読んでいる人は結構酷評しているようだ。主に、ラストシーンの犯人の描写についてだが、本作で描かれていないのなら言う文句もない。

問題は、僕がこの先「レッド・ドラゴン」を見たときに、この作品を先に見てしまっているがために色眼鏡で見てしまわないかと言うことだ。有名なほうのシリーズのグレアムは、エドワード・ノートンが演じている。この作品はウィリアム・L・ピーターセンと言う俳優で、少し南米な顔つきをしている。

不遇な作品は誰かが拾ってあげなきゃいけない。
僕は自分のアンテナがいろんな方向に向いていて良かったと思う。

大魔神(1966年 日本)

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大魔神は有名な特撮キャラだけど、見たことはなかった。
「大魔神ごっこ」もやったことはあるだろうが、見たことはなかった。
むしろ1966年の作品と聞いて、「俺の世代がなぜ知っているのだ?」と不思議になる。

物語は戦国時代。クーデターにより丹波の国の花房家は、幼い兄妹を残して滅んでしまった。
花房の兄弟は御家再興を機をうかがうために、領民でも滅多に近寄ることのない「魔神の山」に身を寄せる。この山に祭られている巨大な武神像は領民の信仰の的でもあった。
クーデターにより領主となった佐馬の助は、圧政で民を苦しめ、信仰の的である武神像をも嘲笑し、「神罰があるなら見せてみよ」と破壊を命じる。部下が山に入り、美しく成長した妹の子笹がつかまり、武神像の額にくさびが打ち込まれたとき、像から血が滴り落ち、地震が起こり佐馬の助の部下を葬ってしまった。
魔神はその顔を怒りの形相に変え、山を下りていく。
町では同じくつかまった兄・忠文が処刑されようとしていた。そこに魔神が現れ、すべてを破壊していく。

「ゴジラ」や「ガメラ」。テレビでも「ウルトラマン」などが活躍し、特撮が元気だったころだ。
大映の打ちだしたものは「時代劇」であった。しかも、そのスタッフも「座頭市シリーズ」や「眠り狂四郎シリーズ」などを制作した本格的な布陣である。なので、時代劇としても成立している。
注目なのは、大魔神シリーズは全部で3つあるが、すべてがこの1966年に作られている。最盛期の「男はつらいよ」ならいざ知らず、このハイペースは当時の映画産業の元気さをそのまま表す。
そもそも、特撮ヒーローと時代劇は舞台が違うだけで基本フォーマットは一緒である。「悪者が現れて、ヒーローが出現し、それを倒す。」最近のテレビヒーローはストーリーが複雑なものもあるが、大体において、現在でもこのフォーマットは特撮にも時代劇にも共通している。
ヒーローは古くは「鞍馬天狗」などサムライもいることだし、そのまま大人になって未だ時代劇を見ているのである。ただ、見どころがチャンバラ以外に「人情物語」なども絡んできたりするのが好みになったくらいだろうか。
撮影技術的な面で見ても、特撮と時代劇はもはや同じと言ってよい。なので、時代劇が好きな大人は日曜の朝の東映ヒーロータイムを邪魔してはいけない。

この「大魔神」に限ると、他の特撮怪獣などに比べて背が低い。おそらく10メートルあるだろうか?くらいの大きさで、もしこの大魔神が現実にいるとして、この身長はリアルに怖い。その上、怒り顔の目は役者の目であり、表情が生々しくてその恐ろしさを強調している。目があったら泣いてしまうかもしれない。

彼はひとたび怒るとすべてを破壊する。
しかし、注目してみてみると彼の破壊対象は主に建物などで、これは業の深い人間への制裁である。文明を破壊することで、粛清をしている。そのうえで、その業の中心たる人物=佐馬ノ介にとどめを刺し、なおも破壊を続けようとするところを小笹の涙で怒りを納めた。
その徹底した破壊。静と動。大魔神は主役であり、やはり象徴である。そこにカリスマが生まれ、なので僕も「ごっこ」をするほど知っていたのである。


ちなみに大魔神は今年、深夜枠のテレビドラマとして復活を果たすが、観念的な基本フォーマットを踏まえたうえでの別物になりそうなので、ここでは深く触れない。


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