タカオの雑食

とりとめのない映画レビューです。

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ヒット作「ALWAYS 三丁目の夕日」の続編。
古き良き昭和30年代の日本を舞台に、描かれる人情ドラマ。

率直な感想としては、「良くも悪くも前作と同じ」という事か。
それは、僕が昭和30年代に対して、共感も憧憬も持っていないからだと思う。
まして、「昭和30年代こそ、日本人の原風景」みたいな事を聞くと、「だったら、江戸時代はどうなるんだ!ムキ―」となってしまう事に由来する。

物語は、なぜかCGのゴジラが劇中の東京を暴れまわるシーンから始まり、作家の茶川と、鈴木オート一家を中心に進む。

淳之介を預かる茶川の、養育権を巡る淳之介の実父とのやり取りなど、完全に前作の続きであり、新鮮味がない。
むしろ、「前作で決着ついたんじゃないの?」と思ってしまう。
しかしながら、元々お金持ちの淳之介少年の健気な気遣いや、鈴木オートが預かる親戚の子・お嬢様育ちの美香との対比など、人物の相関が絶妙である。

全体的に性善説で描かれているのも前作と同じで、小物や、風景など昭和30年代をCGなどを駆使して表現されているものの、その時代の持つ陰の部分は、ほとんど描かれていない。
当時の社会問題などは描かれず、その時代を生きた人物描写で描かれる。

つまり、これは「思い出としての昭和30年代」であり、「美化された思い出」である。

その時代に生きていない僕にとっては、その手法はいささか「汚い」と感じてしまう。
しかし、見る者にとっても過去は美化された思い出であり、その時点で、作り手と観客のスムーズな関係が実現しているところが、やっぱり汚い。いや、うまい。

同時に、そんなもてはやされる時代を生きた人々を、少々うらやましくも思うのだ。

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言わずと知れた、黒沢明監督の名作である。

毎日書類の束にハンコを押すだけの、無気力な日々を送っていた役所の市民課長・渡辺勘治は、ある日、自分の体が胃がんで余命いくばくもない事を知り、残った人生を如何に生きるか。
まさにタイトル通り「生きる」というテーマに真っ向から挑んだ作品であり、同時に、社会風刺も多分に盛り込まれている。
それでいて、説教じみていない。
作家志望が見ると、嫉妬してしまう。きぃ〜。

前半は、病気を知った渡辺が、役所を無断欠勤し、貯金の半分を遊びに使うも心は満たされず、役所を辞めた女性職員の奔放な性格に惹かれ、その女性の一言で何をすべきか奮起し、役所に復帰するまでを描いている。
この間の心情の変化はドラマチックで素晴らしい。

後半は、五ヶ月後。渡辺の通夜で始まり、参列者の言葉から、その後の渡辺の変化を語りあい、その結果、住民の要望であった公園ができたのは渡辺の尽力によるものだと称え、自分達のこれまでの姿勢を反省する。

僕は、この後半の通夜のシーンで、やられた!と思わずにいられなかった。
渡辺自身のドラマは「死」である。
普通に考えたら、死は「起承転結」の「結」であると思いがちであるが、後半を通夜にすることで、渡辺が三人称になり、「なぜ渡辺は変わったのか?」「変わった渡辺は、なぜ、あんなにも精力的になりえたのか?」という作品のテーマに直接かかわる問いを、分かりやすく演出している。

そしてそれは、役所の渡辺の同僚、上司などを自然と登場させ、その体制への批判と、風刺の役割までも果たしている。

そして、主演の志村喬である。
志村喬の大きな目は、前半は生を訴える、飢えるような悲哀を込めたものであったものが、後半、死を自覚しつつ、それよりも「結果を残したい。」という強いものに変わる。
作品で、一貫して無口で口下手なキャラクターを演じている。
分かりやすい強いセリフはないが、志村喬の演技はキャラ毎、強い印象となる。

端的に感想を言うなら、僕は観賞後「はぁ〜…!」と唸った。

黒沢映画は多分にハリウッド的であるが、不特定多数に認められるメジャー作品は、やはり相当な苦労があると思う。
あまりメジャーだからと言って毛嫌いするものではない。
あまのじゃくでは損をする。

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この映画がヒットして昭和ブームと言うよりも、特に30年代が取り上げられるようになり、「昭和30年代は日本人の原風景」などとぬかすメディアも出てきたものだから、僕は意地でこのブームには乗らないようにしていたのだった。あまのじゃくもいいところである。僕の少年時代の80〜90年代はどうなる!?江戸時代の東海道、中山道は日本人には原風景にはならないのだろうか。

だが実際、この時代を生きた人たちはノスタルジックに浸ると同時に物語に深い感動もできようが、僕(昭和54年生まれ)くらいの世代が、「すごく感動しました」とかテレビCFで言っているのを見ては僕は辟易していた。ブームと言うのは軽薄だ。自分の目でモノを見ねばならん。と、意気込んだ僕はようやっと自分からこの作品を見る気になった。
しかし、動機は実に不純で、「昭和30年代がなんだって?俺が笑ってやるよ!」てなもんである。

ところが、僕のあまのじゃくは持続がない。

物語は昭和33年の東京を舞台に、小さな町工場の鈴木オートに集団就職でやってきた六子と、鈴木オートの家族の交流。駄菓子屋を営みながら純文学を目指す青年茶川と、茶川が酔った勢いで預かることになった淳之介との悲喜こもごもと、その子供を連れてきた居酒屋のおかみ・ひろみとの恋を当時の文化、風俗を細かく再現しながら、「お金はなかったけど、豊かだった時代」を描いていく。

総評としては、良かった。時代のノスタルジィに頼らず、普遍的なテーマを持つエピソードを散りばめたことで、観客を限定せずに老若男女が楽しめるようになっている。悔しいぐらい「うまいな」と思った。

大体、僕はいつもそうで。嫌うつもりで、その理由づけのためにリサーチを行った結果、嫌う理由が見つからず宙ぶらりんになってしまうことが多々ある。
上岡龍太郎が漠然と嫌いだったが、「なぜ嫌いか」をはっきりさせとかないと相手にも失礼と思い、調べた結果、嫌う理由がなくなってしまった。
今日も、会社の近くにできた石窯パン工房なる人気のパン屋に初めて行き、しかし、我が家の前にはおいしいパン屋があるので、日記でケチ付けてやろうと思ったらおいしかった。
僕の牙はでどころがないのだ。

閑話休題。
しかし、この映画。先ほど言った通り、良く言う「お金はないけど、豊かだった時代」を描いている。
それで、同時代を生きた人たちは共感し、それ以外の若い人はファンタジーでも見るかのように憧れるのだろう。
舞台は一つの街に限定して描かれている。当時の時勢などは、劇中のテレビ中継などでプロレスなどは出るが、詳細に出るわけではない。あくまでその町レベルでの風俗、文化が出て当時の日本の抱える問題、高度経済成長の弊害となる公害病や政治的な問題などは描かれていない。僕はこの時代を生きていないので、簡単に調べただけだが「美化」である。もちろんこれが演出によるもので、観客に郷愁を誘うノスタルジーを抱かせるためにそうしてあることはわかっているので、これは文句ではない。
しかし、映画の美化は時に危険である。戦争ものなどが美化されたらたまったもんではない。これは今回のテーマから外れるが。

建設中の東京タワーが印象的に使われている。
東京タワーは昭和を象徴する建造物かもしれない。
ゴジラが壊して、モスラも繭を張った。そうでなくとも、東京タワーの中にはなぜか蝋人形館がって、どことなくいなたい。首都にいながら地方の匂いさえする。あれが仮に昭和の匂いだとしたら、現在建設中のスカイツリーはどのような匂いで、どのような感傷を我々に与えるのか。

今から30年もたてば、僕の少年時代が「ノスタルジー」として映画になるのだろうか。
ビックリマンチョコや、ミニ四駆。たまごっちで遊ぶ子供たち。あのカオスの80〜90年代もなかなかいい映画になりそうだと思うが、どうだろうか?

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カルフォルニアに住む日系三世のエミーは、亡き祖父から日本についてよく話をさせてもらっていた。
そんな憧れの日本へついに留学することになったエミーは、そこがおじいちゃんから聞いていた、美しい国ではなかった。

何かの映画をDVDで見た折に、予告編が入っていてそれで初めて知った作品。
製作総指揮、企画、原案を森田健作が行っているうえに、脚本も連名ながら手掛けている。
森田健作と言えば、「俺は男だ!」などの青春ドラマで知られる俳優で、自身も時代錯誤なまでの熱血キャラでもって、現在は千葉県知事としてそのキャラを発揮している。
まずこのタイトルだ。
「I am 日本人」。訳すと「俺は日本人だ!」となるわけで、「俺は男だ!」から発想が同じである。さすが森田健作。
これは森田健作が溢れだしてくるほどの「森田映画」である。本人の日本に対する愛。現代日本への危惧、そして希望が溢れていて、全体的にNHK制作の道徳映画を見ているようである。
実際、性善説に基づいて描かれており、悪人は一人として出てこない。
その上、留学生のエミーのステイ先は遠縁の親戚である、森田健作演じる健一の家で、そこは八百屋であり、しかも商店街である。
商店街は一世代前の喜劇よろしく個性的な面々がそろっており、森田健作もおせっかいで、世話好きの男の役である。もちろん、剣道もやる。
いやあ、僕のような若輩が見ると、古い。古いには違いないが、見れてしまうのだ。

それはひとえにエミーのキャラクターがうまい。自分の想像とのギャップから、現代の日本へ様々な問題提起をするエミー。大学のゼミではディベートのたびに生徒から疎ましく思われるほどだが、エミーを演じる森本クリスティーナがかわいいのだ。それ故、嫌味にならないし、その一生懸命さに健気ささえ覚える。実際、劇中でも彼女のまっすぐな姿勢は理解者を増やし、みんな友達になっていくのだ。

何気に脇役陣が個性的で商店街の面々に岩本恭生、斉藤暁、小野真弓、浅香光代。大学の先生役の京本政輝はほとんど生徒の声を聞いているだけなのに無駄にかっこいいし、エミーの父親役の藤岡弘はいるだけで存在感がすごい。

とにもかくにも、いい映画だ。若い人は物足りないかもしれないが、いい映画だ。
ただ最後のカットで、作品のテーマがずれてるような気がするのだが、そこはまぁ、実際に目で確かめてほしい。

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僕は青春ってやつが大好物で、十代っていう時期は何にもまして素晴らしいと思ってるのだが、そんな僕にとってこういった「部活もの」は生唾ものである。うひょひょひょ。

物語は主人公のかすみは合唱部に所属していて、歌っている自分が大好き。自分の声も奇麗だし、かおもかわいいと思っている。そんな彼女がひそかに恋い焦がれているイケメンの牧村君に「写真を撮りたい」と頼まれ有頂天になるが、出来上がった写真は自分が想像していた顔とはほど遠く、牧村君からは「産卵中の鮭みたい」と言われてしまい、恋も破れ、歌への情熱もなくなり、夏祭りの合唱祭をラストステージに退部を決意する。
そのステージでかすみのやる気のない態度を見ていた湯の川学園高校ヤンキー合唱部の権藤は、かすみを罵倒する。その湯の川高校の合唱に心動かされたかすみは改めて合唱に向き合う決心をする。

特に前半の夏帆演じる主人公のかすみのナルシストぶりと言ったら徹底していて、イライラしてくること必至。かすみがリアルに勘違い女になっているところがこの映画のレベルの高さを思い知らされる。
「歌っている顔が変」という設定も、僕はゴスペルをやっていたのだが、思いっきり歌おうとすると顔の表情筋が総動員されて、ものすごい顔になると気があるのだ。むろん、うまい人は表情豊かに歌うので、僕は「変な顔で歌えるようになりたい。」と切に願ったものである。
その顔を最初に指摘する、言わば「恋のライバル」レナを演じる岩田さゆりがまたステレオタイプの「嫌味キャラ」を演じていてよい。彼女を最初に知ったのは「3年B組金八先生」であったが、その時は発達障害を持つ生徒役だったのでキャスティングを見るまで気がつかなかったが、よい化けっぷりである。やや芝居がかりすぎたセリフ回しが、キャラクターをより印象付けている。
そして湯の川高校のヤンキー合唱部。色ものキャラだと思ったら、前時代的ではあるが、その古風なヤンキーのキャラクターがほかのキャラやストーリーの対しても説得力のあるものとなっている。部長の権藤演じるゴリはどう考えても高校生ではないのだが、特に作中でふけてる印象もなく、むしろベストキャスティングと言える。

そして「合唱部」の話であるから、曲にも注目せねばなるまい。
前半は童謡などだが、湯の川高校東城のあたりから尾崎豊が使われ、最後にはモンゴル800の「あなたに」。かすみたちが歌うのは映画のためにゴスペラーズが作った曲となっている。
ちなみにゴスペラーズは本人役で審査員として出演している。
地方予選で審査員がゴスペラーズとは、一体どんな予選なのだろうか。

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