タカオの雑食

とりとめのない映画レビューです。

た行

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原作は、日本の3D格闘ゲームとしている。
レンタルビデオでこのジャケットを見た途端に、「なんと、中身の薄そうな映画だろう。」と思い、借りるに至った。その際、ケイン・コスギの存在がこの映画のしょっぱさに拍車をかけていた。
ストーリーは、どのヴァン博士によって買いされる格闘大会「デッド・オア・アライブ」に泥棒のクリスティ、女子プロレスのティナ、忍者一族の末裔かすみが招待されて、その大会の裏にある陰謀に迫っていくというもの。
なんとなく、「燃えよドラゴン」を感じるが、主人公はセクシーな女優たちである。僕としては、それだけでこの映画の価値は成立している。
しかし、この映画。主人公がよくわからないのである。
ジャケットのセンターは泥棒・クリスティーナが張っているが、これらのキャラの中で一番掘り下げられているのは、忍者の末裔であるかすみである。
現に、最初のシーンはかすみのいる日本から始まる。
高い頂の上にある屋敷で兄を捜すために屋敷を出ていくかすみ。
一族を抜ければ、「抜け忍」の汚名を着せられて、命を狙われる。そういった危険を冒してまで兄を捜すために屋敷を抜けたかすみのもとに大会の招待状が届く。と言うものである。
言っておくが、このシーンで日本らしいものなどない。見事な「日本の誤解」が画面いっぱいに広がる。
このような事情を持っているうえに、周辺キャラも充実しており、ケイン・コスギ演じるハヤブサはかすみのお付きのようなものだし、抜け忍となったかすみを追うあやめと言う思いきり外国人の忍者も出てくる。それに比べれば、ティナは純粋に格闘目的の参加だし、クリスティはドノヴァンの持っている財宝を盗むのが目的なので、事実上の主人公はかすみなのだ。
そして、ハヤブサ含む4人がベスト4に入ったところで、ドノヴァンの陰謀が動き出し、4人は閉じ込められる。
ドノヴァンは、サングラスのような同地を装着し、(と言うか、サングラスなのだが。)大会中に採集した戦闘データを、その装置にダウンロードすると、怪しい科学者だったドノヴァンが、最強の格闘家になってしまった。
それで生きていたかすみの兄と対戦して、見事に買ってしまうのだ。
どういう機械だ?
ボディスーツのようなものならばわかるが、サングラスのような装置で、相手の動きの予測ぐらいはできそうなものの、筋力や技術がカバーできるとは思えない。しかし、不思議なもので4人がかりでなかなか勝てないのである。
しかし、最後はそのサングラスが外れてしまうと言うしょぼいミスをしてしまい、最後はかすみの針で動きを止められ、研究所の爆発とともに最期を迎える。
このように、最後の最後でドノヴァンの間抜けさに同情の残る作品となっている。
セクシー目的で成立する作品であるが、それでも「芯を忘れてしまった。」感がある。
それは「主人公はだれなのか?」という事に始まり、その他もろもろのキャラクター描写も中途半端である。
別に忍者の構えが、中国拳法のようなものでも構わないのである。
そのようなディテールは、それはそれで楽しむジャンルは現在確立されている。
キャラが成立していないのはやはり致命的で、B級として楽しむ事も難しいのである。

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本作は、「スパイダーマン」のサム・ライミ監督の、復讐に燃えるダーク・ヒーローもので、「スパイダーマン」と違って、原作のないオリジナル・ヒーローである。

人工皮膚の研究をしていたペイトンは、恋人である弁護士のジュリーの仕事の書類を間違って持ってしまったために、マフィアに襲われ、全身を大火傷してしまう。
その一方で、全身の神経が失われたことで痛覚がなくなり、超人的な力を手に入れる。
彼は、自分の開発した人工皮膚を利用して、マフィアに復讐をしていく。

人工皮膚でマフィアになり済まし、一人づつ復讐をこなしていくペイトン。
時に、本人と出くわし、コントのように回転ドアを挟んで相対したりもする。この辺は、コメディっぽくて楽しい。
しかし、人工皮膚は時間制限があるため、計画は迅速に行わねばならない。

これは、恋人と再会するシーンでも失った男の悲しみを強調している。
包帯まみれで現れた時は、自分だと認知してもらえなかったので、人工皮膚で自分の顔を復元し、再会を果たすものの、彼は常に時計を気にせねばならない。
それに加え、ペイトンは感情の制御が困難になっており、恋人の前で人を傷つけ、崩れる人工皮膚の顔を隠しながら逃げていく。

ところで、日本には、「仮面ライダー」という代表的なヒーローがいる。
仮面ライダーの本郷猛は、悪の組織ショッカーと戦いながらも、人間以上の力を持った事に苦悩する孤独な姿が描かれている。

ペイトンは、前述したような悲しみと苦悩を背負いながらも、マフィアの黒幕の存在が恋人の背後に迫った時、戦うのだ。

ラストバトルで、「ここで俺を殺したら、お前は俺よりも悪人になるぞ。お前の良心では殺せないだろう。」と言う台詞を聞き流し、黒幕をビルから落とすペイトンは正義のヒーローではない。
本作で描かれているのは、正義ではないのだ。
正義とは、現実の世界では、自分の正当性をこじつけるための大義名分として語られることが多い。現に、僕自身が正義と言う言葉を信じていない。
特にアメリカは正義が好きな国であるが、本作がアメリカで制作されたことに大きな意味がある気がする。

最後、ペイトンはダークマンとして恋人の前から姿を消す。
彼は最後まで悲しみを背負い、その逃れられない運命を受け入れ、街に消えていく。

良作。見るべし。

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東宝にゴジラがいるのなら、大映にはガメラがいる!

物語は北極から始まる。
日高教授らが、北極のエスキモー集落を訪れ、アトランティス大陸にいたと言う亀の伝説を追っていた。
その最中に国籍不明機が現れ、アメリカ空軍が追跡、撃墜する。
だが、その国籍不明機が核爆弾を搭載しており、墜落した際に北極の氷の中で眠っていた、アトランティスの伝説の怪獣・ガメラを目を覚まし、日本の調査船「ちどり丸」を撃墜し、姿を消した。
その後ガメラは襟裳岬に上陸。自衛隊の攻撃をもろともせずに、北海道を飛び去った。
その後東京に上陸し、コンビナートにて石油を吸収。人類はついに、Z作戦を発動。
ガメラを伊豆大島へと誘導する。

僕は、ガメラは好きだ。
亀がモチーフと言うどことなく力の抜ける感じ。
手足を引っ込めて、回転ジェットとなって飛ぶ能力は、生物の範疇を超えるものである。
その「強引さ」が愛されてやまない。
後年の敵対怪獣のデザインなども、ぶっ飛んでいてよい。

ゴジラと違い、ガメラは「人間の味方」というイメージがある。
しかし、この一作目は人類の敵としてキャラづけされている。
そして、核によって目覚めた点で、ゴジラと共通する。
やはり東宝のゴジラに対するカウンターとしての側面があったのだろう。
だが、ガメラは人類の敵でありながら少年の命を救うシーンがあり、「敵か?味方か?」という問いがある時点でゴジラとの差別化を図っている。

この描写が、ゴジラとの違いを決定づけ、後のシリーズの基盤となり、平成になってからのシリーズでも「人類の味方」というスタンスは守られていくことになる。

だが、特筆すべきはその「チープ感」にある。
ガメラはあまり「立体的」ではない。胴体はかまぼこ板のようで、その胴体から短い手足が生えている。
オープニングでのエスキモーや北極の描写はイメージ優先であり、北極をジープで走り、エスキモーはかまくらに住んでいる。そして大村昆に似ている。
飛行機の飛び方一つでも、素人目に円谷プロの技術との差を感じることができる。
何より、最後のZ作戦の全容である。
ガメラを誘導し、誘導されたガメラは卵のようなカプセルに包まれ、そのままロケットで宇宙に飛ばされる。大がかりな割に、見た目にチープな作戦である。
何を言わんとしているかと言うと、これこそが「平和」なのである。
現代における作劇は、よりリアリズムが求められ、謎があれば回答せねばならず、観客は少しでも矛盾があればすぐに上げ足をとる。それを生業にしているような人もいる。
が、それはドラマの原則では決してない。ビジネスである以上、客のニーズにこたえるのは当然であるが、「ドラマの原則」という一点に絞った場合、謎は決して解決しなくてもいいし、整合性よりも優先すべきものがある場合もある。
それが許されたこの時代は「平和」であった。と言う事である。

だが、それは現代が平和ではないという意味ではなく、制作側が情熱を傾け、伝えるべきメッセージが伝える努力をすれな、物語の細かいディテールを気にせずとも傑作はどんどん生まれるはずである。

そういう意味でガメラが平和の使者としてシリーズになるのは、理にかなっていたのではないだろうか。

大魔神(1966年 日本)

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大魔神は有名な特撮キャラだけど、見たことはなかった。
「大魔神ごっこ」もやったことはあるだろうが、見たことはなかった。
むしろ1966年の作品と聞いて、「俺の世代がなぜ知っているのだ?」と不思議になる。

物語は戦国時代。クーデターにより丹波の国の花房家は、幼い兄妹を残して滅んでしまった。
花房の兄弟は御家再興を機をうかがうために、領民でも滅多に近寄ることのない「魔神の山」に身を寄せる。この山に祭られている巨大な武神像は領民の信仰の的でもあった。
クーデターにより領主となった佐馬の助は、圧政で民を苦しめ、信仰の的である武神像をも嘲笑し、「神罰があるなら見せてみよ」と破壊を命じる。部下が山に入り、美しく成長した妹の子笹がつかまり、武神像の額にくさびが打ち込まれたとき、像から血が滴り落ち、地震が起こり佐馬の助の部下を葬ってしまった。
魔神はその顔を怒りの形相に変え、山を下りていく。
町では同じくつかまった兄・忠文が処刑されようとしていた。そこに魔神が現れ、すべてを破壊していく。

「ゴジラ」や「ガメラ」。テレビでも「ウルトラマン」などが活躍し、特撮が元気だったころだ。
大映の打ちだしたものは「時代劇」であった。しかも、そのスタッフも「座頭市シリーズ」や「眠り狂四郎シリーズ」などを制作した本格的な布陣である。なので、時代劇としても成立している。
注目なのは、大魔神シリーズは全部で3つあるが、すべてがこの1966年に作られている。最盛期の「男はつらいよ」ならいざ知らず、このハイペースは当時の映画産業の元気さをそのまま表す。
そもそも、特撮ヒーローと時代劇は舞台が違うだけで基本フォーマットは一緒である。「悪者が現れて、ヒーローが出現し、それを倒す。」最近のテレビヒーローはストーリーが複雑なものもあるが、大体において、現在でもこのフォーマットは特撮にも時代劇にも共通している。
ヒーローは古くは「鞍馬天狗」などサムライもいることだし、そのまま大人になって未だ時代劇を見ているのである。ただ、見どころがチャンバラ以外に「人情物語」なども絡んできたりするのが好みになったくらいだろうか。
撮影技術的な面で見ても、特撮と時代劇はもはや同じと言ってよい。なので、時代劇が好きな大人は日曜の朝の東映ヒーロータイムを邪魔してはいけない。

この「大魔神」に限ると、他の特撮怪獣などに比べて背が低い。おそらく10メートルあるだろうか?くらいの大きさで、もしこの大魔神が現実にいるとして、この身長はリアルに怖い。その上、怒り顔の目は役者の目であり、表情が生々しくてその恐ろしさを強調している。目があったら泣いてしまうかもしれない。

彼はひとたび怒るとすべてを破壊する。
しかし、注目してみてみると彼の破壊対象は主に建物などで、これは業の深い人間への制裁である。文明を破壊することで、粛清をしている。そのうえで、その業の中心たる人物=佐馬ノ介にとどめを刺し、なおも破壊を続けようとするところを小笹の涙で怒りを納めた。
その徹底した破壊。静と動。大魔神は主役であり、やはり象徴である。そこにカリスマが生まれ、なので僕も「ごっこ」をするほど知っていたのである。


ちなみに大魔神は今年、深夜枠のテレビドラマとして復活を果たすが、観念的な基本フォーマットを踏まえたうえでの別物になりそうなので、ここでは深く触れない。

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今、アクション映画の波は明らかにタイに向いている。
「マッハ!!!!!」以来、ガチンコの超絶アクションで、かつての香港映画のような盛り上がりを見せているのではないかと個人的には思っている。

この作品もそうした作品の一本。

物語は日本のヤクザ・マサシが抗争相手のタイの地元マフィアのボスの女・ジンと恋に落ち、密会を重ねていたところボスの知るところになり、危険を感じたジンはマサシを日本に返す。
その後ジンはマサシとの娘を身ごもるが、生まれたその子・ゼンは脳に発達障害を持っていた。しかし、ゼンには一目見た体術をで会得できる能力が備わっており、近所のムエタイジムやテレビのカンフー映画を見て、知らずのうちにそれらを会得していった。
後に母親のジンが大病を患い、治療費に大金が必要となる。幼馴染のムンがジンが昔お金を貸していた人を綴った帳簿を見つけ、借金を取り立てに行く。最初は渋る相手も、ゼンの強さにひれ伏していく。
そうやって、借金を回収していく二人を町を仕切っていたボスの耳に入ることになる。

主演のジャージャー・ヤーニーは別の映画のオーディションで監督に見初められ、本作品の撮影に至るまでの4年間に基礎トレーニングを。さらに撮影には2年の月日を要している。

90分の映画に、一人の新人女優がこれだけの月日を費やしている。そのアクションは本物だ。

物語は、序盤はジンとマサシとのロマンスを絡めたプロローグでいささかテンポが悪く、ダレた感じがする。中盤で、借金の取り立てを始めたあたりから、「相手のところに行く」→「断られる」→「手下が出てくる」→「戦う」→「本人をやっつけてお金を取り返す」というのが2〜3回続く。
この辺りはファミコンの横スクロールアクションを傍目に見ているようである。えらく、ゲームのうまい友達のプレイを見ているような感じだ。

ここで、アクション映画というものを少し考えてみようと思う。
この作品におけるアクションは、ムエタイやカンフーを主体としたもので、一部ワイヤーアクションを使用しているものの、CGの類は一切ない。そのうえで、日本の時代劇の殺陣のようなカメラの構図を利用したトリックのようなものも使わず、本気で当てに行っているようなガチンコのアクションである。
こんだけのものであるから、それだけで宣伝効果はあるし、客は酔ってくるかもしれない。
だからと言って、ストーリーを邪険にしてはいけないのは当たり前で、この作品の場合、発達障害を持った主人公の母親への思いやりが原動力となって、訴えるものはちゃんとある。
単調なわかりやすいストーリーではあるが、それは批判の対象にはならない。

例えば、「アクションをしたい」と思う。
その時に、「アクションにする理由」をキャラクターに与えねばならない。これは「ドラマ」ではなく、あくまで「キャラクター」に与えなければいけない。これはアクションだけではなく、すべての物語の登場人物の行動原理に基づく。そうじゃないと、話が予定調和になり、都合のいい登場人物とストーリーになってしまう。これが吉本新喜劇や、長期のシリーズものならいいが、短髪の映画にはやってはいけないこととなっている。
それは、観客の多くは映画に限らず、物語に刺激を求めているのであって、それは「意外性」と「説得力」だからである。

この作品では主人公の戦う理由を説得力をつけているうえに、「一度見たものを会得する」という能力で意外性も演出している。
では、なぜ4年の基礎トレーニングを積んで、2年に及ぶ撮影をせねばならなかったのか。
これは監督により違いがあるだろう。映画と言うジャンルへの哲学かもしれない。
CGを使えば、もっと楽に作れた映画だと思う。タイにおける文化への拘りと、誇りかもしれない。そのあたりは日本人の僕にはわからない。日本人の誇りを強く持っている藤岡弘などに聞けば何か分かるかもしれない。
しかし、一つ言えることは「本物の肉体を使ったアクションにこそ、説得力が一番ある。」という思いではなかろうか。
映画と言うフィクションの世界で、本物の肉弾アクションがどれだけの意味を持つのか果たして僕にはまだ測りかねる。エンドロールで流れる流血沙汰のNGシーンは普通に事故に見えるし、それをエンドロールで流すことで「私たちはこんなに大変な思いをして映画を作りましたよ。すごいでしょ?」という匂いもしなくもない。
映画は完成品の身で評価されるべきだ。その裏側を知りたいというのはファン心理であればよい。

そういうことを踏まえ、アクションは映画の中の一要素に過ぎず、それを生身でやろうが、CGでやろうが、見るほうは1800円を払い、同じように評価は下る。つまり、一要素に過ぎない。そう言ってしまえば、「当たり前だ」と罵られそうだが、僕の足りない頭ではここまでしか答えが出ない。ごめんなさい。

とにもかくにも、生身のアクションは一見の価値がある。映像がややくどい気がするが、それもタイ映画ならではの風情だろう。
なんだかんだ言ったが、僕は好きだ。
「女の子が戦う」ってだけで好きなのだ。

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