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今まさに臨終の時を迎えようとしている稀代の落語家・笑満亭橋鶴。
弟子たちは師匠の最後の願いを聞き入れようと、耳を近づけて聞きとったのは「そそがみたい。」
「そそ」とは京都弁で女性のあそこをさす。驚いた一同。しかし、師匠の最後の願いと、弟子たちは橋太の嫁・茂子に白羽の矢を立て、橋太に説得させる。憤りながらも、噺家の嫁として願いを聞き入れ、師匠のベッドをまたぎそそを見せる茂子。それを見た師匠は「わしはそそがみたい言うたんやない。外が見たい言うたんや。」
その3分後、師匠は死んだ。
通夜には師匠ゆかりの人物が次々と弔問に訪れる。弟子たちも酒を飲みつつ、師匠の豪快でいい加減な思い出話を語り合い、寝ずの番は更けていく。
津川雅彦が、母方の叔父で映画監督だったマキノ雅弘の「マキノ」性を継いで「マキノ雅彦」として監督した第一回作品。
僕は原作の中島らもの大ファンで、彼は有名進学校を落ちぶれ、ドラッグやアルコールの中毒を経験し、広告業界や放送業界で活躍した後、劇団やエッセイストや小説家などの様々な顔を持っていて、何を読んでも彼の濃い人生経験を物語っているようで面白い。どちらかと言うと、サブカルチャーな人なので津川雅彦がこの小説に目を付けたのは意外であった。
ちなみに、角川文庫から出ている原作本「寝ずの番」に津川雅彦自身が映画作品について文章を寄稿している。映画の企画段階から、彼の映画に対する姿勢や演出論などが覗けて面白い。
それによると、最初に東映のプロデューサーから渡されて「面白い」と思ったが、東映のお偉いさんが納得してくれず一度ぽしゃったという。
しかも、この作品。冒頭のあらすじを読んでいただければわかるが下ネタ満載なのだ。あきらめきれず出資者を探す津川だったが、この下ネタに敬遠する会社が多かったようだ。そんなとき、あるプリデューサーから電話がかかってきて、「どういう映像を考えているのか?」と聞かれた津川は、「面白い役者がしてくれる面白い演技さえ克明に撮れれば、突拍子もなく面白い映画になるはず」と返事をしたところ、GOサインが出たという。
僕はこれに津川雅彦、もとい「マキノ雅彦」の映画監督としてのスタイルを見た。と思った。
出演は中井喜一を主演に、笹野高史、岸辺一徳、木村佳乃に加え、実兄の長門裕之と豪華である上に「濃い」。
僕はテレビドラマなどでもベテランの役者同士の掛け合いなどは、まるで「闘っている」ように見え、火花が見えそうな時がある。
この映画の場合がまさにそれで、あちらこちらで役者同士が勝負をしている。その本気度を邪魔しないマキノ雅彦の演出は、くせがなく見やすい。ところどころに映像的な遊びはあるが、元気だった頃の日本映画を彷彿とさせる。昨今の新進の監督は個性は強く印象が強い半面、そういったトリックばかりに作品としての評価を求められているようで、見ていて居心地の悪い思いをすることが多々ある。その点、この作品は監督はあくまで「カメラの向こう」で役者をとり続けている。
その上で原作に忠実である。
往々にして原作つきの映画というものは、原作ファンからの批判を生む。それは仕様がない道理というもので、映画と言うものはどうしても時間の制限を受ける。時間も文章にしてしまうと、ほぼ無制限と言ってよい。このジャンルの違いが、小説を映画化する際どうしてもネックになる。「いくらでも撮っていい」と言われればいいのだろうが、大体映画に適当な時間は90〜120分で、三時間の映画などもあるがあれはあれで体力がいる。その制限がある限り、僕は映画とその原作の相違についてはあきらめていたが、この作品はイメージにぴったり合致した。人に勧める際はどちらか一つだけ見て頂けたらいいくらいだ。
下ネタ満載だが、それが平気であるのなら映画としての質はかなり高い。
噺家の通夜を下ネタで笑い、故人の思い出に浸り、そして死を現世に残されたことを実感する。
笑いの中に悲しみがある。
原作の中島らもは、映画化の打ち合わせの半ばで他界している。
関西の有名進学校で落ちこぼれ、クスリやアルコールにおぼれ、鬱病を患い、作家として世に作品をたくさん発表したドラマチックな壮絶な人生の最後は、階段からの転落死であった。アメリカン・ニュー・シネマのようなあっけない死であった。
中島らもの通夜は葬儀会館で行われたため、寝ずの番の必要はなかったという。
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