タカオの雑食

とりとめのない映画レビューです。

雑記

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神様と、点と線。

会社で「手塚治虫が生きていたら、どうなっていただろうか」という話になった。
おそらく尾田栄一郎に「僕は、このくらいのマンガ、いつだって描けるんだ!」とケンカを売っていただろうという事で話はついた。
マンガの神様の、神様たる所以はその嫉妬心。
どんな新人でも、目の敵にした。
石ノ森章太郎が、手塚治虫の言葉で、連載を打ち切ったのは有名な話。
水木しげるも言われている。(「ゲゲゲの女房」では手塚らしきベレー帽の人と、談笑してるシーンがあったが、本当は前述したようなセリフを直に言われている。)
狭量と言ってしまえばそれまでだが、そのあくなきハングリー精神は死ぬまで衰えることは無かった。
言っておくが、手塚治虫の仕事は参考にしない方がよい。(できないだろうが)寿命を縮める。

帰り自転車を走らせていたら、信号待ちの時に、横断歩道の向こうに綺麗な色白の女性が立っていた。
明るく脱色されたロングは、色白の肌と相まってその存在を儚げに見せた。
その女性と横断歩道上ですれ違い、そのまま、遠ざかって行った。
そして、次はサラリーマンとすれ違い、主婦とすれ違い、高校生の集団とすれ違い、家にたどり着いた。
その一瞬一瞬、何があったわけでもないが、僕の人生と、彼らの人生がリンクした。
だからと言って、何がどうなるわけでもないが、その一瞬一瞬が、点となり、それを線で紡いで一本になっていくのだなぁとぼんやりと考える帰路であった。
僕の人生はどれだけの点でできるのだろう。
そして、僕はどれだけの人の人生の点となっているのだろう。

戦隊と主張

今日は脚本塾が休みなので、「ゴーカイジャー」の映画を見に行く。
歴代のスーパー戦隊が総出演。ロボもそろって、圧巻だった。
男の子なら、大抵、誰でもスーパー戦隊はどれかは見ている。(ちなみに僕は、ジェットマンで一時期見なくなった。その何年か後に、たまたま見たハリケンジャーのブルーの女の子がかわいかったので、それ目当てに見るようになった。)
さらに、僕らの世代は、学校から帰ると、再放送でゴレンジャーをも見ている。
実際、親子連れが多かったものの、「パパ同伴」が多かったように思う。
上映中、子供の方が劇場内をうろついていたのが印象に残る。お父さん、子供と、スクリーンと忙しいのである。

帰り、天神で反原発デモに出くわす。
軽トラックの荷台に、ドラムセット。カーニバルのように、主張をしている。
飛び入りOKのデモであるが僕は原発についてまだ考えがまとまっていない。
将来的にはなくなって欲しい。
その考えだけでも、デモに参加できそうではあるが、個人的にそれだけでは曖昧。主張にまで至らない。
「代替エネルギー」「現在稼働可能な火力などの原発以外の発電で賄える」「原発を停止すると、電力が足りなくなる」などの問題に、僕は答えを持っていない。
専門知識のない僕は、いくら調べてもそれらに答えを出し、自分の主張とする裏付けをとれない。
だから、デモを見送りながら、少し悔しかった。
勉強しなきゃなぁ。

日記

4/15 道路わきで猫が死んでた。
車に引かれたのだろうか。
一見、寝てるだけにも見えるが、見たとたんにぞくっとした感じ。あの直感が「死」なのだと思った。

震災以降、猫の死体にびっくりした自分のリアクションが軟弱だと思わざるを得ない。
いくら口で言ったところで、僕にとって死は日常ではないのだ。

物思う週末だった。

4/16 脚本塾。今月締め切りのコンペ。遅々として進まない。
例えば、一日10ページを目標に描いてみる。
その日目標を達成する。
翌日見直す。粗が見える。
書き直す。
結局、3歩進んで2歩下がる感じで、トータルで大したページをかけていない。
今回は、去年の作品の「リライト」となるので、いつもと書き方が違うのと言うのがあるが、焦る。
途中までの原稿を持っていった。

デフォルメして強調したキャラ描写や、ヒロインなどの立ち位置から、ある人に「ライトノベル」だと評された。彼からしてみれば、褒め言葉らしいが、僕はライトノベルを読んだことがないのでリアクションに困った。

ただ、僕もひねた人間なので、ひねた褒め方は金輪際やめようと、彼を見ていて思った。

「フェルマーの最終定理」を読み始めた。
「数学は主観がない」という一文を見て、数学と言う学問の潔癖さを垣間見た気がした。
その潔癖と戦った、人間の混沌。
ものすごい人間ドラマに、期待している。

作家の仕事

先日、と言うか、地震以降。
脚本塾で、こういった国が大変な時に、「こんな事をしてていいのか」と言う話題が出ました。

実際、地震があってから、僕も物語を作るのに集中できない時が多々ありました。
そんな中ですので、「こんな絵空事を作ることに、一生懸命になっていいのか」と言うような憂いを持つのも詮無いことかもしれません。

しかし、歴史の中で、多くの表現者が自己表現で戦ってきた訳です。
自分のためだったり、国のためだったり、弱者のためだったり。
ピカソのゲルニカ然り。
戦後の「リンゴの唄」然り。
絵や歌や映画が、その時の人々を元気づけたりした歴史は歴然とあるのです。

意味はあると思うんです。
誰が規制してるわけでもない。
こういう時に創作を自粛する事が、事態を進展させるわけでもなし。

別に「被災者のため」と大それたことを言う必要もないと思いますが、自分の声が少しでも多くの人に届くようにと、未だ卵の僕は手を休める暇はないと思うのです。

夢の姿勢

脚本に限らず、表現を目指している段階では、形のない、「可能性」を追いかけることになるわけで。
たまに、ものすごい不安になったりもする。
でも、それは表現を成すうえでは前提なので、本当はこういうことを言うのはいけないんだろう。

僕は漫画家になれなかった経験を経て、脚本の勉強をしている。
その「なれなかった」と言う経験則は、現在の僕を多少ストイックにした。
「夢がかなわなくなることはやってはいけない」という事だ。
それは、前述した不安要素を払拭するために、行動する動機を与えてくれる。

周りには、面白い脚本が書けるのに、途中で投げちゃうような輩もいる。
そういうのは、なんだか無性に腹が立つ。

書かないと叶わない。
書けば、かなうかどうかは分からないが、確実に夢に近づく。

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