タカオの雑食

とりとめのない映画レビューです。

雑記

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

映画を味わいつくす

「ものすごい真剣に作っているのはわかるけど、悪いがおかしくて笑ってしまう。」
こういうのは、所謂「B級」と呼ばれる作品群には多い。
こういうものを楽しむ事を「キャンプ」と言う。
僕は主にレンタルビデオで映画を見るが、ジャケットで「お、これは何やら怪しげな匂いがするぞ!」と言うのを進んで選ぶ時がある。
この時、僕の中にはキャンプ的楽しさを期待している心理がある。
どこかしらに漂う胡散臭さと言うか、単に整合性の問題ではない。圧倒的なシュールだったり、ダダイズムに似たものが現れる。
そういうものは計算で出るものではなく、作り手が真剣であればある程、面白くなってしまう。現代ではそういったキャンプ的なものを楽しむジャンルが確立しているが、そこは狙ってしまうと逆に白けてしまう。
映画鑑賞に関わらず、創作物を観賞すると言う事は、言わば作り手と観客の対決である。
僕はそういう点で、どんな作品も敬意を払い、真摯に向き合っている。
キャンプ的なものも、真面目に作っておかしくなってしまっているのだから、こちらもまじめに笑い、楽しむのである。
こう言った姿勢で臨むと、映画はアンコウのように、あらゆる部位を味わいつくすことができるようになると思っている。
「作った人に失礼」という考えが、一番失礼と考える。
もしかしたら、「あそこで笑ってしまった」がゆえに、名作になった作品だってありうるのだから。

制作中の脚本について、先生からアドバイスを頂いた。
僕は、アバンギャルドな作品が作りたいと思っていたが、やはり人には向き不向きがあり、結構古典的な人情物語が僕の持ち味らしい。
なのに、アバンギャルドを気取っていたので、周りの期待を悪い意味で裏切る話になってしまった。
つまり、面白いとは「予定調和から外れる意外性」と「予定調和に収まる安心感」の二種類があり、僕は後者に当てはまるのだ。
アバンギャルドのつもりが、単なるあまのじゃくと言う事だ。
少なからずショックであったので、自分の持ち味を大事にしつつ、目指すべきアバンギャルドは見定めていこうと思う。
創作において、プライドなんか捨てた。
そっちがいいと言うなら、簡単にそっちに行ってやる。
わがままちゃんは引き出しが増えない。

4時48分 サイコシス

今日は、脚本塾はお休みで、講師の先生が他にやっているワークショップの発表会に行ってきました。
「リーディング」っていう、まぁ、台本読みながら芝居する物なのですが、それの発表会です。
演目は「4時48分 サイコシス」という、サラ・ケインと言う99年に自殺した作家の遺作です。
このサラ・ケインと言う人は鬱病で、毎朝4時48分に目が覚め、それから一定の時間、頭がクリアーになって、その時間に執筆していたという事です。
おまけにこの戯曲自体、一般的な脚本のプロセスを踏んでおらず、ト書きやセリフもはっきりとわからず、それなだけに解釈のしようでいかようにもとれる作品で、演出するほうはやりがいのある作品なと言う事です。
明確な物語があるわけではなく、サラ・ケイン自身の内面の言葉にできない感情や、葛藤を、なんとか言葉に紡ぎだして、それでも言葉が足りず、愛されたい、求められたい、なぜ愛してくれない?なぜ?なぜ?と終わりのない葛藤を紡いでいくような、観念的な感じでした。
これはきっと言葉尻一つとって、理屈で理解するのではなく、全体で「なんとなく」わかるものではないかと思いました。
おそらく、これはサラ・ケインの覗いてほしいと熱望した心の中身を戯曲に託した、極めて私的な作品なのではないか。しかし、それはあまりにもプライベートで、他人が理解しようにも、100パーセントは理解できない。その寂しさが、この作品のリアルなのではないか。
そういう感想を持ちました。

しかし、「愛されたい。」「求められたい。」という感情は、時にあまりにも痛みを伴う感情です。
そもそも、愛とは「素晴らしい」で足りるでしょうか?愛の真相は、痛みを伴う気もします。

ほとんど中学生。

昨日職場で、「百夜行」と言うドラマの武田鉄矢はすごかった。という話があった。
僕はそのドラマは未見で、うまく話には入れなかったのだが、そのドラマは東野圭吾原作だったらしい。
何気に調べてみると、東野圭吾はドラマ化が多い。そんだけファンが多くて、映像化もしやすいのだろう。
でも、僕は東野圭吾は「ガリレオ」くらいしか読んだことがない。
なんとも申し訳ないのだが、みんな読んでるから、読まなくていいや。と思ってしまうのだ。
これは僕の悪い癖で、ミーハー嫌いというか。
いや、本当は僕も大いにミーハーなのだが、大衆に迎合したくないというか、不特定多数に入りたくない自分がいるのだ。
実際、僕は毎月のように中島らもを読むのだが、中島らもの読者だって相当なものだ。彼のエッセイに感化されて影響を受けた人物はいくらでもいる。その癖僕は、らもやオーケンやみうらじゅんなどのサブカルチャーの大家を鼻にかけて、マイノリティぶっている。もはや、それらはマイノリティでも何でもないのに。

それは、少数派であることで「周りの人間と違う」という固辞の表れではないかと思うのだ。
これはカッコ悪い。
発想としては、中学生である。
あまり自己分析もほどほどにしないと、自分が未だ中学生である事を発見してしまう。


最近、平日は思いついた事をこまめにメモをとっている。
休日は、何も考えてないので、自動的にメモをとる必要がない。

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事