茂木 健一郎
脳科学者
人類の不幸の多くは、コミュニケーションがうまく行かないことから起こる。日常のちょっとした行き違いから、地球全体を悲劇へと引きずり込んでしまうような戦争まで。意志の疎通さえうまく行っていれば避けられたはずの齟齬が、私たち人類の魂を根底から揺り動かし、時にその存在さえ脅かす。
コミュニケーション不全からもたらされる悲劇を確実に避ける方法が、実は一つだけある。他人との一切の交渉を絶つことである。そもそも他者とかかわらなければ、傷つくこともないし、動揺することもない。一人でいることは気楽なものである。実際、現代社会にはそのような選択を志向する若者がいることを私たちは知っている。
しかし、人生というものが他人との付き合いを絶つことでは済まないこともまた事実である。一人では生きてはいけないからこそ、私たちは時には傷つけ合ってでも、人と向き合わなければならないのだ。
『バベル』は、つながりが密になり、ますます小さくなっていく世界の中で、人と人とが向き合うことの難しさと、心がかろうじて通じ合った時の喜びを描いた映画である。
他人と向き合うというと、私たちはついつい家族や友人、同じ学校や会社の人々といった、身近な存在を思い浮かべる。近しい人とさえ、心を通わせることは難しい。『バベル』でも、菊地凛子が演じるチエコと、役所広司が演じるヤスジローは、親子であるにもかかわらずなかなか分かり合えない。
『バベル』は、慣れ親しんだ身近な範囲を超えて広がる、容易に想像できないような因果の連鎖を通して、人々がいかに(時には暴力的なかたちで)結びつけられるかをリアリティを持って描く。隣人が父親に銃を売りさえしなければ、兄弟はそれを手にすることはなかったろう。その銃は、もともとはヤスジローが狩猟に訪れた時の置きみやげだった。ブラッド・ピットとケイト・ブランシェットが演じるアメリカ人夫妻が巻き込まれる悲劇。アメリカとメキシコとの国境の砂漠地帯で命の危険にさらされる子どもたち。巻き込まれる者たちの人生を揺るがせるさまざまな出来事が、些細な事件が当事者の意図を越えて結びついていった結果として起こる。
人間の脳は、他人の心を推し測る素晴らしい働きを持つ。前頭葉には、他人の行動を、あたかも「鏡」に映った自分の行動であるかのように受け入れる「ミラーニューロン」と呼ばれる神経細胞があり、決して完全にはわからない他人の心を、何とか読み取ろうとする。そうすることが、生きる上で大切な意味を担うからこそ、進化の過程で「鏡」のように他人の行動や心を映し出す神経細胞が生まれてきたのである。
世界中のどの人からどの人へも、6人程度の友人を経由すればたどり着ける「スモール・ワールド・ネットワーク」が出現していると言われる現在の地球社会。目の前にいる人だけでなく、目に見えないつながりによって結ばれている人々にも、「ミラーニューロン」の想像の翼をのばす必要性が、かつてなく高まっている。
『バベル』に描かれた、思いがけない結びつきがもたらす時としてあまりに暴力的な連関は、最後に、和解へのかすかな希望をいだかせる。小さくなった世界の中での人々の結びつきは、恐怖と不安の種となるのか、それとも希望の糧とすることができるのか。その結末は、私たちの想像力一つにかかっている。
【プロフィール】
1962年10月20日東京生まれ。脳科学者。
ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。
「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究するとともに、文芸評論、美術評論にも取り組んでいる。
主な著書に『脳とクオリア』(日経サイエンス社)、『脳と仮想』(新潮社)などがある。
さらに、PSPゲームソフト「脳に快感 アハ体験!」の監修や、NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』キャスターも務める。
茂木健一郎 クオリア日記:
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/
クオリア・マニフェスト:
http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html
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