私の書斎

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「ブラームス―古典への回帰、その光と翳」 渡辺 茂

 ブラームスの生涯 

 (5月7日)、ハンブルクに生まれる。幼少の頃から、宮廷のコントラバス奏者であった父から音楽を習わせられる。

 チェロやヴァイオリンを習うが、ピアノに興味を示したため、ピアノを二人のの教師に習う。一人目の教師の名前は…で、ブラームスの才能に感嘆し、レッスンがすぐに行えるように、近くに引っ越してきたほど。
 二人目の教師、マルクスゼンは、ブラームスにピアノ、音楽理論、作曲理論を教えた。ブラームスはこのマルクスゼンに感謝しており、最高傑作のひとつである、ピアノ協奏曲第2番を献呈している。


 レーメニーというヴァイオリニストとの演奏旅行で、ハンガリー的なものに惹かれたらしく、このときにハンガリー風の作曲をしている。この演奏旅行は途中断絶され、困ったときは頼りにするようにいわれた、生涯の親友となるヨアヒムのもとに訪れる。


 ヨアヒムはシューマンに会うように強く勧めたため、会うことにする。シューマンの人間性、音楽性に強く惹かれたブラームスは、賛美の言葉を残している。シューマンも新しい音楽家の紹介として、音楽新報という彼が執筆する雑誌?に書いている。しかし半年も師事しないうちに、シューマンは病院に収容されることになる。
 

 クララとブラームスは何らかの関係はあったが、それぞれの方向性が違うため関係は整理され、以後堅い友情で亡くなるまで結ばれることになる。また、ブラームス25歳ごろにアガーテとの恋愛に陥り、誰もが結婚すると思っていた。しかし、ブラームスの自信作、ライプツィヒでのピアノ協奏曲第1番初演が大失敗に終わり、この恋に終止符を打つ事になる。以後何年間かはブラームスは失った恋に苦しむことになる(初演失敗の理由は、シューマンの後継者という事でシューマンばりの甘いロマンティックな作品を期待していた聴衆を裏切ったことが考えられている)。


 批評家ハンスリックに送られたワルツなどを皮切りに、ブラームスは母の死を悼んで作られたドイツレクイエムでの成功をきっかけに楽壇に認められるようになる。交響曲を書く為に「ハイドン主題」や多くの合唱曲を作ったりして機が熟すのを待っていたブラームスは、ついに交響曲第1番へ着手することになる。

 ピアノ協奏曲第2番で得た友人、ワグナー派から逃れてきた、ビューローにより繰り返し演奏されることにより、この交響曲は成功することになる。この後立て続けに交響曲を書くが、イタリア旅行をしてその明るさを得たといわれる第2交響曲が出来上がる。ブラームスにしては明るい作品であり、ウィーンの聴衆からも絶大な支持を得ることとなった。

 

 

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