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(写真は9月ごろの第一海水浴場)
青島第一海水浴場を当時の日本人は「忠の海」と呼んでいた。
青島の海水浴場についてはまた別の機会に書きたい。
今回は、海水浴場の近くに「コカコーラ」の看板があったというMさんのメールを紹介しよう。
≪Mさんからのメール≫
「忠の海の海水浴場ですが海の家が並んでいましたね。
電電(華北電信電話株式会社)もひと夏用意してくれ、利用しました。
泳ぐと体が冷えますが、飴湯をふうふう言いながら飲みますと、また元気が出て一泳ぎします。
飴湯は関西の物のようですね。
泳ぎに行くときは一号バスに乗ります。マーチョで何回か行きましたけど。
一号バスは鉄山路と第一公園を結ぶ路線です。便利でした。
忠の海の海水浴場にバスが近づくと
大きな可口可楽の看板が三叉路の所に掲げられており、
その瓶は戦後進駐軍が来たときも全く変わってなく同じでした。
可口可楽の看板は戦時中のことです。
なぜ良く覚えているかと言いますと、私は飲みたくて親にねだったのですが、
その度に「あの中には毒になるものが入っているから」と飲まして貰えなかったからです。」
残念ながら私はコーラの看板は覚えていない。
コーラの存在を知ったのは戦後十数年以上経ってからだ。
日本でコーラの製造が始まったのは1957年(昭和32年)のことだから無理もない。
初期のコーラにはコカインが入っていたそうだ。
「毒が入っている」という、Mさんのご両親のおっしゃることもあながちウソではなかった。
時代が下がって90年代の初め、青島の場末の店にコーラの瓶が並んでいた。
おや、と思った。
青島でのコーラの普及は案外早かったようだ。
ほかに適当な飲み物がなかったせいもあるだろうが、
青島人がコカコーラを受け入れる土壌はすでにあったに違いない。
≪Mさんのメールは続く≫
「青島の路上では露天商が煙草やチョコレートなど売っておりましたね。
家の近所では煙草はラッキーストライクやチェスターフィールド、キャメル、
チョコレートは勿論ハーシー。
中国の煙草では前門とか天壇、第一など。
その他南京豆などを売る店もあり、新聞紙を三角に折って秤った品物を入れてくれます。
この三角の折りかたは私は今も良くやります。便利な使い方です。
お菓子はハーシーのチョコだけでなくミントのガム、
ヌガーやクッキーなどもアメリカ製品が並んでいました。
戦後日本に入ってきたものを見て同じものが多く驚き、
また戦争に負けたのも当たり前だと思ったことです。
敵対貿易も盛んに行われていた事を思えば、
青島に米国製品が並んでいることなど当たり前なことでしょうね。
青島は国際都市として海外からの窓口でしたから尚更だったと思いますね。
父は戦時中青島で映画「風と共に去りぬ」を見たそうで、大変感動したと話しておりました。」
日本の内地では、甘いお菓子などは贅沢品としてすでに姿を消していた。
英語の使用は禁止された。
青島でも子供たちが野球をするとき、
ストライクは、「よし!」
ボールは、「だめ!」
と、コールしていた。
アメリカ映画など、見るすべもなかった時代である。
(2006年1月)
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海水浴の時 空豆を海水パンツのポケットに入れました。 友達とはラムネやぺったんで遊びました。 割り箸につけた水飴を練りながら紙芝居を見ました。 「若い」私と筆者の方々とのわずかな接点です。
2006/1/12(木) 午後 11:20 [ KJ ]
KJさん、ラムネ、水飴ですか。私の少年時代にもそういうものがあったのでしょうか。食べ物に淡白だった(?)ので、記憶があいまいです。買い食いはあまりしなかったように思います。
2006/1/14(土) 午後 11:38