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「思い出尽きぬわが青島」(西村氏の思い出) ※今回、西村氏より「青島の思い出」を書いていただきました。 どうぞご覧ください。 私は青島で生まれた本当の意味での青島児です。 生まれたところは周村路72号(昭和6年7月8日出生)。 ↑現在の周村路。再開発されて一部分だけ残っています。 4〜6歳ごろまで カトリック教会にありましたマリア幼稚園に通園しておりました。 昭和12年の日支事変勃発時、一時郷里鹿児島に帰国しておりましたが、 昭和13年の2月再度青島に帰りました。 当時父は青島日本領事館に勤めており、 住まいも黄台路44号でした。 当時、黄台路周辺は環境もよく、 多くの日本人がしゃれた洋館建ての家に住んでいたようです。 隣には善導寺があって同級生も結構おりました。 ↑黄台路の西村氏旧宅 昭和13年4月、第一小学校1年3組(古賀先生)に入学、 3年生の春、新設の第3小学校1組(杉野先生)に移り、
↑第3小学校講堂跡。現在も残っています。
昭和19年4月青島日本中学校に入学、↑青島日本中学校。現海洋大学。 その後、父が天津に転勤。 夏休み中の8月、家族全員天津に引越ししました。 従って、青島に住んでいた期間は 昭和6年から19年8月までの約13年間ということになります。 その間、多くの友人(今や亡き人もおりますが)と共に過ごしたわけです。 ことに黄台路周辺に住んでいたガキ友との思い出が多く、 (木原、徳満、進藤、土橋、蜂谷君などなど) すぐ近くに青島神社、裏には若鶴山(貯水山とも言われていた)、 現在の貯水山公園などがあって、結構遊び場があり、 ↑青島神社の小鳥居。 山の木の上に材木など持ち込み、 鳥の巣状の見張り場所を作ってその上でお菓子を食べたり、 本など読んで転がっていたりしていました。 またその頃流行っていた戦争ごっこなどで 山いっぱい走り回って遊んだものでした。 母は、遊びほうけている私たちにあきれて(体力増強につめていたのに?) 「たまには徳満君のように勉強してみては」 と言われたものでした。 その頃から徳満君は秀才と言われていましたよ。 我々遊び仲間では一目おく尊敬すべき友の一人としえ存在していました。 現在でもそう思っております。 小学校5〜6年の頃、海洋少年団、中学校では海洋隊に入っていたので 夏休みを利用してキャンプなど実施され、 カッター競技の練習などでは、しごかれたものでした。 小学校3年の頃から夏場に水泳協会所属の水泳クラブに入会、 練習のかいあって6年の時には遠泳10キロのテストに合格、 小学生としてはクラブが出来て以来の快挙であると 表彰されたことも思い出の一つです。 その後、水泳に関しては ガキ友を含め同級生からも 一目おかれる存在になったことは言うまでもありません。 まだいろいろと 青島神社、第一公園(現中山公園)での 家族ぐるみの桜の花見、 第一海水浴場での海水浴、 海浜公園の水族館などの思い出など思い出すと限りがありません。 毎年開かれている東京での青島羊会で、 いまだに青島の話が尽きてしまわないのは、 七不思議の一つだと言われている所以かもしれませんね。 それ故に、これからもまだまだ 羊会の会合は続いていくのではないでしょうか。 |
想い出の青島
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古賀先生は素敵でしたね。2年生の冬、第一公園(現中山公園)で写した写真に貴方は一番後列に並んでおりますね。青島は本当に素敵な街でした。本原さん、蜂屋さんは亡くなり残念です。
2007/11/24(土) 午前 10:17 [ aik*qi*a*2 ]
懐かしい青島の思い出を有難うございます。私は西村氏のように記憶が鮮明でないので悔しい思いをしておりますが、位置関係の地図が大いに助かります。
2007/11/24(土) 午前 11:32 [ はっさん ]
aikoさんへ、ほんとうに思い出尽きない青島ですね。これからも大いに発展して、いい街になっていくことでしょう。亡くなられた方には申し訳ありませんが、長生きしてよかったと思います。
2007/11/24(土) 午後 10:20
はっさん、いろいろな人に思い出を書いて欲しいですね。地図の書き方をもっと練習して、わかり易い記事にしていきたいと思っています。ご指導ください。
2007/11/24(土) 午後 10:31
青島と日本はこんなにつながってる歴史があった時期があるんですかね、いい勉強になりました。
2007/11/26(月) 午前 11:46 [ isa*iqd ]
isamiqdさん、当時の日本人と中国人は決して対等の立場ではありませんでしたが、私たちは思い出多い少年少女時代を過ごさせてもらいました。中国の青島人のみなさんに感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとう。
2007/11/26(月) 午後 6:26
諸先輩方の歴史を受け継ぎながら真の日中友好を築いていかなくてはならないと思いを新たにいたしました。ありがとうございました。戦後生まれの青島に住む若輩者より
2007/11/27(火) 午後 3:46 [ tessii ]
tessii99さん、アジアの時代を築きましょう。日本人と中国人の若者があらゆる妨害をはねのけて手を結んでください。そのためのお手伝いをするのが私たちの役目です。
2007/11/27(火) 午後 10:09
昨日はとうとう伊達順之助氏の住いを見つけることが出来ましたね。感激しました。和田さんの出会いといい、昨日の出会いは決して偶然ではなく、神がくれた必然の出会いだと思いましたよ。
http://open-heart.jp/ 「理事長ブログ」を12/1をお読み下さい。
2007/12/2(日) 午後 0:31 [ tessii ]
ユングの言う同時性・共時性(意味のある偶然の一致)を強く感じます。私も伊達順之助氏のことでの偶然を経験しております。邸宅の発見をしり、近い内に私のブログでも記してみる心算です。
2007/12/2(日) 午後 4:47 [ aik*qi*a*2 ]
tessiiさん、あまり期待していなかった老夫婦に、孫君が声をかけたのが幸運の始まりでした。これからもえ一緒に行動すればいいことが見つかるでしょう。
2007/12/2(日) 午後 9:43
aikoqipaoさんへ、街を歩けばおもしろいことにぶつかる。青島とはそんなところです。まさに、神がくれた必然の出会いですね。
2007/12/2(日) 午後 9:50
その当時から水族館があったんですか?びっくりです!
中山公園の桜は日本から持ってきた、と聞いた気がしますが(ホントかな?)、もうその当時からあったのですね〜。
写真の桜もとってもきれいです。
2007/12/3(月) 午後 4:41
Makkyさん、水族館は1932年に建てられたものですからかなり古いですよ。海水浴の帰りに寄るのが楽しみでした。中山公園の桜は日本から持ってきたもので、敗戦で一時伐採されましたが、一部保存されていて、その樹を元に今の桜並木ができました。だからまだ若木が多いですね。
2007/12/3(月) 午後 9:34
はじめてコメントさせて頂きます。昨年7月このブログに出会って以来の愛読者ですが、今日久しぶりにブログ開封して、懐かしい写真が出てきたので、思わずペン(?)を執ってしまいました。
終戦の年、青島高女専攻科〔教育部〕二年に在学中だった私は、青島第三日本国民学校に教生として派遣され、五年一組(原田先生)のクラスを受持っておりました。今秋、訪青の予定ですので、その時には是非学校を訪れたいと思っております。
2008/3/12(水) 午後 2:49 [ n_m*cch* ]
n_micchyさん、青島高女に専攻科というのがあったのですか。そういうお話もぜひお聞かせください。今秋訪青の際はご連絡ください。
2008/3/12(水) 午後 5:59
ご要望の安西篤子著『黄砂と桜』を6月2日に航空便で送付いたしましたが…???尼崎の中島道子(大野幸子さんのクラスメートです)弟興三 只今訪青中! 2008年6月24日
2008/6/24(火) 午後 5:36 [ n_m*cch* ]
26,7,8日草津魚山会で、幸子さんと再会しました。本がまだ着かないそうですね。26日無事帰国した弟と、28日草津からの帰路東京で逢い
「『青島満帆』氏とお逢いできなかったけど電話でお話できた」と
言っておりましたので、本の事を話すと「持参すればよかったね」とも言ってくれましたが…
2008/6/29(日) 午後 1:40 [ n_m*cch* ]
中島さん、コメントありがとうございます。2度ばかりメールを差し上げましたが届かないようですね。折角送っていただいた本、一体どうなっているのか、ほんとうに申し訳ありません。
2008/6/29(日) 午後 3:36
二度メールして下さってるとか、未だに受信しておりません。お送りした本で、何等かの関係があるのかも知れませんね。こちらこそ、其の辺の事情も把握しないで、軽軽しく送ったりして申し訳ありませんでした。
2008/6/30(月) 午後 0:59 [ n_m*cch* ]