青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

武藤直大の「昭和ひとけた戦中記」

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中学5年のボラ先輩

第3章、中学5年のボラ先輩



湖北路の家から第2国民学校(2国)までは2キロぐらい。

途中、家を出てすぐ近くに緑地帯があり、

両側の道路から下がっているので谷公園と呼ばれていた。

そこを横切って歩きながらよく見かけた中国人たちの光景を思い出した。

クーリー(苦力・日雇い労働者)と思われる男達が

手に手にひばりの籠を持って集まって来る。

その籠を木に掛けて周りに座り込んでいる。

鳴き合わせを楽しんでいるのだ。

ウィークデイだから仕事にあぶれているわけだ。

その日の食事は食べられないかもしれない。

明日だって仕事にありつけるかどうか分からない。

それなのに悠々とひばりの声に聞き惚れている。

当時は子供心に“だから支那人はだめなんだ”と軽蔑した。

しかし大人になった今はそう単純ではない。

日本人だったら、私だったらとてもそうはいかないと思う。

蒼い顔してハローワークに駆け込んでいるか、

知人の間を頼み回っていることだろう。

もちろん当時の中国に「職安」はなかったが、

あの「悠々さ」は何だったのか。諦めなのか、大人物なのか。



その公園を海側に下っていくと、巨大なプラタナスの木が1本そびえている。

高さは30メートル位、横にも20メートル位は枝を伸ばしている。

夕方、チビと一緒に散歩に行くと、その木が騒々しい。

見ると2、30人の中国の若者達が木の中で遊んでいた。

プラタナスの枝は強くてよくしなり、めったなことでは折れない。

頂上近くまで登り、枝から枝へと渡り、飛び移り、

最後は10メートルぐらいの高さから枝の尖端近くまでつたって、

体の重みで枝をしならせながら地上に降りてくる。

ロビンフッドの映画でみたような光景で、

気合を掛け合って、木全体から熱気が発散しているのを感じた。


2国の近くに東方書院という名前だったか、中国の中学校があった。

生徒たちは卒業すると、優秀な者から毛沢東の共産軍の地域、

次に蒋介石の国民政府軍の地域に行き、

残りかすが日本の占領地で働くと言われていた。

それは青島に限らず、中国全体の傾向らしかった。

そんなことが分かっているのに、

学校を閉鎖させないでいる日本は呑気だな、と子供心に思ったことがある。

プラタナスの若者たちの中にも東方書院の生徒がまじっていただろう。

ロビンフッドのような抵抗の気持ちを発散していたのかもしれない。

イメージ 1

  ↑東方書院跡地。現在は東方飯店が建っている。



事実、中国の大学生による反日運動は数年前から起こっていた。

昭和10年12月、北京で燕京大学の学生が街頭デモを行い、

全国学生に波及している。


毛沢東の長征に参加したアメリカ人のジャーナリストで

『中国の赤い星』の著者エドガー・スノーによると、

この時の学生指導者のほとんど全員が、後に共産党員になったという。

当時の北京は中国国民党の統治下にあったが、

満州国からさらに華北侵略の動きを見せる日本軍への反撥は強かった。



イメージ 2



昭和19年、私は青島日本中学校に入学した。

中学生になると、のんびり景色を見ながら通学は出来ない。

下級生はいつどこでも上級生に出会うと、

先に敬礼をしなければならないからである。

兵隊と同じように右手を挙げて帽子のつばに持っていく。

上級生に気がつかないで欠礼すると、どなられて、

ときにはピンタの制裁をくらう。


ある朝、学校に行くのに門を出るとすぐ

怖い5年生(この年限りで、以後は中学校令改正により4年で卒業となる)の

Aさんに会った。

1年生は2年生ににも絶対服従だから、5年生は神のような存在だった。

その上、Aさんは体が大きく校内でも目立っていて、

成績も優秀という噂だった。

由来は分からないが、あだ名がボラということも1年生に知れわたっていた。

パッと敬礼すると、悠々と答礼して手招きする。

歳は四つしか違わないのだから17歳、

しかし下級生にとっては大人以上の権威があった。


「1年生か、もう学校には慣れたかね」


意外に優しい声だ。ちょっとした会話の後、改まって、


「ところで君は青中に入って、将来は何になるつもりだ」

「はい、3年になったら海軍予科練に入り、

戦闘機に乗って戦い、戦死します」


自信を持ってさっと答えた。

そのことは国民学校6年のときに覚悟を決めていた。

担任の原田先生から毎日のように、

日本男児としてやるべきことを聞かされていたからだ。

簡単にいうと、

「日本国民は歴史始まって以来、天皇陛下に大変お世話になっている。

いまここで皆が暮らしていけるのも、天皇陛下のおかげである。

その大きなご恩に報いるためには、国民は一身を捧げてもなお足りない。

今戦局は重大な時期であり、

お前達は一刻も早く陛下のお役にたたなければならない。

早く戦争に行って、戦死することが忠義だ。

その一番の近道は何か、考えなさい」


昭和18年にガダルカナル島を撤退してから戦局は不利で、

各地で日本軍玉砕のニュースを聞く度に、

教室での先生の忠君愛国、滅私奉公の訓話は強烈になっていった。

私たち6年1組の児童は完全に洗脳されていた。

“中学3年になったら、あとは死ぬだけ”と本気で思い込んで、

何の疑問も感じていなかった。

学校でも家でも、友達にも両親にも、そういう決意を話しており、

その決意に反対する者はいなかった。

ところがAさんは違ったのである。


「ええ?そんなことを考えているの。

中学に入ったら予科練よりも他にやることがあるだろう。

もっと大きいことを考えろよ」


私はびっくりした。なんて不忠なことを言う人か!と。

一方で、原田先生の言うこと以外の生き方を考えている人がいるんだ、

と、中学校という世界が新鮮に感じられた。


青島中学からは、毎年、陸軍士官学校、海軍兵学校、

予科練などに入っていく生徒がいて、

朝礼の時に全校生徒の前で壇上に立ち、勇ましく挨拶した。

私が1年のときには陸士に4人合格した。

その時の一人、石橋さんという人が、

平成14年の青島中学の同窓会誌『鳳雛』に当時のことを書いていて、

その中にAさんの話も出ていた。

石橋さんは同級生のAさんの勧めで銃剣道部に入ったという。

銃剣道とは竹刀の代わりに、歩兵銃の先に剣をつけた形の木銃で、

相手の胸を突いて勝敗を争う。Aさんも強かったようである。

石橋さんは陸士に入ってからのことを少し書いている。


陸士には中学から入ってきた者と幼年学校出身者がいた。

幼年学校出は軍事教練がうまいことで優位に立とうとし、

グループを組んで中学校出を差別し、制裁しようとする。

石橋さんは“中学校でもこれまで勤労動員され、

軍需工場その他で働いて国のために尽くしてきた”と思い、

昼食時間に前に出て、

「俺達はここを卒業すると第一線で戦って戦死する身である。

出身別に固まるのは、団結のためによくない」

と発言した。

2、3日後に幼年学校組から呼出しがあり、

もういっぺん言ってみろ、と迫られた。

石橋さんは引かず、殴り合いまでにはならなかったが、

拳で胸を突かれたという。


A先輩については後日談がある。

私を、あと2、3年で死ぬことを当然と信じるほどの

コチコチの軍国少年に育てた国民学校の原田先生の教えに対して、

当時ただ一人、違った生き方があることを話した人である。

たった一度の会話だったがその印象は大きく、

原田先生と共に忘れられない人だったので、その後の消息を知りたかった。

中学の同窓会誌にそのことを書くと、

同級生の方々が手紙や電話で情報を下さった。

その一人、内藤道久さんからのお手紙の一部を次に要約させていただく。


「ボラ君の最近の消息はよく分かりません。

あだ名の由来は、彼が無類のホラ吹きだったことにあります。

彼は中学2年の時、東京の中学から転校してきました。

部活動は、私のいた音楽部に入部しましたが、

その時持っていた楽譜帳やノートの裏に

[学習院中等科]と今までいた学校と自分の名前が書いてあり、

その学習院中等科の部分に線を引いて消していました。

さらに、自分は二・二六事件の時に暗殺された華族の落胤と称していました。

その後だんだんボロが出て全部が嘘だと分かり、相手にされなくなりました。

しかし5年の頃には銃剣道部に入り、配属将校と仲良くなり、

陸士を受験するとも言っていました」


また電話で、


「彼は5年の頃には勉強は出来るほうでした。

戦後すぐ、東京の日比谷公園あたりで偶然会いました。

当時の日本では珍しく外車に乗っていて、

『アメリカ関係の通信社にいる』と、颯爽としていました」


と教えて下さった方もいる。

颯爽として何をしていたかというと、

どうも大人になっても中学時代のくせが抜けずに

ホラを吹いて世間を渡っていたらしい。

しかし、後に仏門に入った、との話を聞いた。


忘れえぬ人のその後の消息はあまりはっきりしないが、

私も銃剣道部時代の彼を見ている。

昼休み時間だったが、

校庭の一隅で防具をつけて練習の息抜きをしていたようで、

その時、教官の配属将校と親しげに笑い合っていた。

1年生にとっては鬼よりも恐い教官だったのに。


ホラ吹きということが友人達にばれても、堂々と肩で風を切って歩き、

青島中学では存在感のある先輩だった。


音楽部から銃剣道部へ移ったというのは時勢に適応しているが、

戦時中に軍国少年の私に対して別の生き方があるという忠告、

ものの見方があることを教えてくれたのは彼一人だった。


僅か17歳である。それで自分なりの人生観を持っていた。

或いはそれもホラの一つだったかもしれないが、

ホラ吹きだからこそ、そういう時代に普通の人が言えないようなことを、

平気で言えたとも解釈できる。

Aさんにその後どんなことがあったとしても、

私にとっては懐かしく憎めない先輩だった。

閉じる コメント(10)

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19年に日本の女学校に入学。「上級生の命令は朕の命令」などと威張られました。女学校ですらそのような時代ですから、中学なら尚のことでしたでしょう。

2008/2/20(水) 午前 9:54 [ 相子 ]

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滅私奉公 七生報国 の中にあって自由闊達な
Aさんのお話はなにやら一幕の劇になりそうです。

2008/2/20(水) 午後 0:12 [ koro ]

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相子さん、koroさん、内地とは一味違う青島での少年少女たちの生活。益々おもしろくなってきます。どうぞご期待ください。

2008/2/20(水) 午後 5:26 bad**uan1*3

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相子さんへ
コメントいつも面白く拝見しています。金口一路の友人の家に行くと2つ年上のきれいな姉さんがいて、私は全く無視されたけど憧れていました。そういうお姉さんも、女学校では「朕の命令」とか言っていたんでしょうかね。

2008/2/21(木) 午前 10:36 [ 武藤 ]

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日本では最近「成人は20歳か18歳か」という議論がありました。Aさんは17歳でも大人でしたね。

2008/2/21(木) 午前 11:17 [ はっさん ]

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武藤さん
内地ではいろいろとあったのですが、青島高女でのそういった話は耳にしておりません。日本の女学校入学式が済み、授業開始の日、生意気と大勢の上級生に怒鳴られました。何も知られていないのにです。支那帰りということだけで苛めに会いました。酷い時代です。教師も苛めに加担していた風で、考えると腹が立ちます。戦争は絶対嫌ですね。人間が堕落します。

2008/2/21(木) 午後 0:19 [ 相子 ]

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ブログに到達しました。
これからゆっくり読みますね。

2008/2/21(木) 午後 0:22 [ スギファミリー ]

昔からひばりなど鳥の鳴き声を楽しんで遊んでいたんですか?
最近の流行かと思っていました。

2008/2/21(木) 午後 3:47 [ jyu*ujy**u12* ]

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スギファミリーさん、中身の濃い読み物です。どうぞご愛読ください。

2008/2/21(木) 午後 10:45 bad**uan1*3

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jyukujyukuさん、下町のほうではあまり見かけませんでしたが、昔から高級な趣味として人気があったのではないでしょうか。

2008/2/21(木) 午後 10:48 bad**uan1*3


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