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第7章 原田先生の戦後 原田先生については懐かしく感じていたが、 帰国して会うことについては、何かちゅうちょさせるものがあった。 あすこまで私達が信じ込んでしまったことについての、 自分自身や先生に対する抵抗感のようなものがあったのかもしれない。 しかし、戦後どうされていたのか、ずっと気に掛かっていた。 青島中学の同窓会の雑誌にそのことを書くと、 私の2年先輩の阿南直浩氏から丁寧なお手紙を頂いた。 私と同じように原田先生から5、6年の2年間教えられて、 しかも実際に海軍の予科練に入隊した人である。 その手紙を掲載させていただく。 ↑新青島風景、青島ヨットハーバー 先生は広島市のご出身で、青島にいつ来られたのかは不詳ですが、 そんなに以前ではないと思います。 終戦後は広島市に帰国、平成8年1月25日心不全で死去されました。 享年82歳(多分)でした。 私は昭和19年7月、中学3年一学期が終わって直ぐ海軍甲飛(予科練)に入隊、 復員後はほとんど学業に専念したことがなく今日に至っていますが、 70歳を越えた今でも、 人生で最も本気で勉強し、学問の基礎が身についたのは、 原田先生との2年間だったと思っています。 当時二国(第2国民学校)には原田、相川、妹尾、藤延という 30歳前後の少壮気鋭の先生方がおられました。 これらの方々は教育熱心であると同時に優秀なスポーツマンで、 特に100メートル競走、400メートルリレーでは 在留邦人の中でも屈指のグループでした。 聞いたところによると、 「当時、海外子女の教育に派遣される小学校教員は、 一等国民に恥じない教育を必要とするため、 師範学校の成績が5番以内でないと行けない」とのことでした。 原田先生は極めて多様な面を持っておられたように思います。 情熱家、直情型、文学青年。 そして思想としては皇道派、国粋主義者であったように思います。 当時少年であった私の目に映った先生の姿ですから、 正鵠を得ているかどうか忸怩たるものがありますが、 私も貴方と同じように非常に大きな影響を受けた方として終生忘れ得ぬため、 どういう人となりだったのだろうか、と考えていました。 貴方は二国を昭和19年卒ですから、その頃には敗戦の兆しが見えていました。 だから先生は 「予科練に行って戦死することが、唯一の報恩の道」 というような極論を言われたのかも知れません。 私が卒業した昭和17年頃までは戦勝に酔っていた時期ですから、 それほどの言葉は聞いた記憶はありません。 しかし、後年よく自問自答したのですが、 私が予科練に入ったのに先生の影響は「全くなかった」とは言えないという程度です。 私自身、少年時代は普通より多感であったようです。 国民学校4年から6年まで海洋少年団、 中学1年から3年までは海洋学徒隊に入って一日も休まず精励し、 海軍が好きでした。 それに5歳の時に母を亡くし、3人の弟妹が非常に可愛くて、 この子達のために死のう、自分の命で少しでも早く戦争が終わり、 この子達が助かるなら、という思いが強かったと思います。 天皇は余りにも遠すぎて離れた存在で、 この人のためなどとは考えていなかったと思います。 先生についての強烈な思い出の一つに、 6年生の時、昭和16年12月8日の開戦の日があります。 その日、青島は快晴で凛とするような冷たい朝でした。 登校する時には私達は既に宣戦布告のことは知っていました。 当日、先生は我われに檄文を配りました。 「晴れたぞ諸君、空は明るい、12月8日の朝はいつものようにやって来た。 だがこの日の朝はいつもとは違っていたのだ。 君も僕も高枕の夢だったその時、 世界歴史はバリバリとすさまじい音を立てて、めくられていたのだ」 という書き出しで始まるガリ版刷りの一枚でした。 60年経った今でもその情景が目に浮かぶのは、 少年の私の気持ちがいかに昂揚し、 また先生の檄文に同感していたかの証のように思います。 ↑青島ヨットハーバー 戦後、先生に二度お目にかかりました。 一度目は昭和45年頃、広島で同窓会をした時、先生をお招きしました。 二度目は昭和57年頃、私が一人で広島市のご自宅を訪問しました。 二度とも先生に笑顔はなく、 本当を言えば、“長居はされたくない”という風情が感じられました。 先生は戦後、教壇に立たれませんでした。 当時のことは何一つお話にならず、意識して避けておられるようでした。 おそらく、戦時中の自分の指導を深く反省し、 まして教え子の中でも、最も早く死にに征った私に対する罪悪感のようなものが あったのではないかと推察されました。 しかし、誰が先生を咎めることが出来るでしょう。 今と違って国民には正確な情報が皆無の状態にあって、 正直で真面目な者ほど誤った報道を信じ、仕事に没頭しました。 国策を無条件に信奉し、国難を憂い、国を愛しました。 それは当時のほとんどの日本人共通の生き方で、 原田先生は特に激しかっただけのことと思うのです。 戦後自らを愧じて教鞭をとることを断ち、 食品会社に勤め、長く役員を務め、全うしました。 穏やかな晩年のようにお見受けしましたが、 一生、重荷を背負われているようにも感じられました。 最後にお目にかかったとき、 心の中で“先生、もうそんなに自分を責めないで下さい”と念じながら、 「私が今日あるのは先生のお陰です」と申し上げました。 先生は少し安堵されたようですが、 心の中で“もう取り返しがつかんよ”と思われていたかもしれません。 阿南直浩 ↑青島ヨットハーバー ずっと気にかかりながら私が会いに行かなかったのは正解だったようだ。 口には出さないが、そういうクラスメートも多いと思う。 原田先生は戦後、潔く教職を辞められた。 しかし生活のために辞められず、先生の職業を続けた人もいるだろう。 その中には、平和教育からさらに 「すべて日本が悪かった」と反日教育に徹した先生も多かった。 軍国教育から手のひらを返すように、どうしてそこまで変われたのだろうか。 軍国主義はもう半世紀以上反省し、 これからもそうならないように警戒している。 その延長線上にあると思われる戦後の反日教育も、 同様に検討されなければおかしい。 特に当時の先生方のそういう心の軌跡も、 追跡し分析する時期に来ているのではないだろうか。 ↑青島五・四広場 |
武藤直大の「昭和ひとけた戦中記」
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原田先生は当時としては国策に沿った立派な先生だったと思います。終戦後の失墜は帰国後も長く続き、其の後の自分の生活に大きく影響されたのではないかと推察されます。私が第1小学校に入学した時の担任は先生は古賀光一先生でしたが、当時の先生としてはとてもモダンなそしてリベラルな方で3年まで担当していただきました。当時の第1小学校は中村校長(中村八大君の父)でしたが・・・・多分中村校長がやめられた時、古賀先生も退職され青島税関に務めめられたと聞いております。段々軍国主義色的色彩が強くなって来た時代の教育と何か関係が有る様な気がしてなのません。また、第3小学校が新設された時、多数の小学生が第1小から第3小に移りましたが、第3小の校長は横山校長先生で担任は杉野政雄先生でした。横山校長は其の当時としては珍しく1年生から6年生まで総て男女共学のクラスとして編成し、男女一緒の教育を実施したと言うことについては何か信念をもっておられたのでしょう。杉野先生も我々にたいした姿勢から見て軍国主義的な教育法には疑念を持っておられた先生ではなかったかと改めて思うことでした
2008/3/9(日) 午後 0:37 [ tadao678 ]
中村先生に戦後直接お聞きしたのですが、青島第一の先生を集めるのに九州全域の師範学校付属に出かけ、優秀な先生に来て頂いたということです。先生方は戦中、戦後とそれぞれのお考えで過ごされたと思いますが、優秀な教師だった方々だけに、悩みも深かったことでしょう。ですが心を切り替え、地域社会に貢献したり、また教育の現場で教育の世界を全うしたり、また人々の見本となるような姿を持たれたと思います。少なくとも無能な教師はいなかったと思います。
2008/3/9(日) 午後 1:16 [ 相子 ]
現在の総サラリーマン化した教師とは比較もできない存在で
あったのだと言うことがよくわかりました。おそらく教師だけでは
なく、戦後の復興を支えていた人たちはみな同じだったのではと
思います。みなさんが築いてくれた礎を守らなければいけない
と考えてはいるのですが、マスコミや教育という厚い壁の前には
あまりにも無力です。せめて子供たちには正しい道案内をしたいと
考えています。
2008/3/9(日) 午後 2:13 [ kor*k*ro*chi*001 ]
「過ちては改むるに憚ること勿れ」。侵略戦争を反省することは反日ではないと思いますが…。
2008/3/9(日) 午後 8:57 [ はっさん ]
1小中村校長の後が桜井校長で私が6年の時、どういわけか桜井校長排斥運動が起こりました。6年2組の立山先生がリーダー格で結局二人とも左遷されて決着したそうです。立山先生はビンタを振るったことはありませんでした。日本が戦後、平和を守り抜いたことは戦後民主主義教育の成果だと言ってもいいのではないでしょうか。
2008/3/9(日) 午後 10:08