青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

武藤直大の「昭和ひとけた戦中記」

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三八式歩兵銃の疑問(二)




この時は夢中で聞き流してしまったが、

「僕の使っているのと同じだよ」という言葉が後になって引っ掛かった。

三八式歩兵銃というのは字の通り明治三十八年につくられた銃である。

当時はそれから40年も経っている。

中学校の教練にも使われているような古い銃である。

弾は5発入るようになっていて、一発ずつ撃つ。

そんなに古いものを実戦で兵隊さんが使っていいのだろうか。

兵器というものは年々新しく改良されて性能がよくなっている、

と思うのが常識だろう。

ずっと疑問に思っていたことを最近になって、防衛庁の戦史室で調べることにした。

「日露戦争で出来たような古い兵器の三八式銃を、

どうして太平洋戦争まで使っていたのですか、その経緯を知りたい」

と申し込むと、

「そういう経緯はこちらにはもう残っていませんが、

市販されている軍事関係の本に詳しく載っています。

でも三八式は当時、国際的に見て古くはないんですよ。

第二次大戦ではドイツやロシアでも、もっと古い銃を使っていました。

アメリカだけは特別なんです」

その特別なアメリカが日本の主な敵だったのだから、

もっと新兵器を開発しなければならなかったはずだ。

教えられた光人社の『小銃・拳銃・機関銃入門』『日露戦争の兵器』

『日本陸軍の傑作兵器、駄作兵器』(著者は3冊とも佐山二郎氏)を読んだ。

面白いことが分かった。

三八式銃は明治三十年に出来た三〇年式の改良型で、構造は変わらない。

防塵用に遊底覆いをつけ、照準器を扇転式にした程度である。

弾丸の口径は6・5ミリだが、これは7・6ミリのロシアの銃にくらべて小さい、

破壊力が弱い、それで「不殺銃」と呼ばれた。

日露戦争で日本の軍医が、捕虜になったロシア兵2千人以上を調べたところ、

銃弾の傷跡のある者が多かった。

中には12、3発も撃たれた者がいる。

それでも死なないで傷口も早く治っている。

三〇年式銃はあまりに人道的過ぎるのではないか、といわれた。

しかし、小銃の目的は敵を惨殺するものではなく戦闘力を奪えばいいのであり、

また口径が小さいと弾も小さいので軽いから、たくさん携行出来る。

兵は戦場で身を守るのは弾丸しかないので、

持つ弾は多ければ多いほど心強く思う傾向がある、というようなこともあって、

他にも理由はあったが、三八式でも口径6・5ミリが続けられた。

現代の兵器が敵兵どころか民間人までも

出来るだけ多数を殺すのが目的とされているのに比べて、

こういう話があるだけでも昔の日本軍隊は人道的で情けがあったように思われる。

イメージ 1

  ↑青島の街紹介=八大関の建物。




それにしても40年後の太平洋戦争にも何故この小銃が使われたのか。

アメリカ以外の国もそうだとすると、

軍隊というところは、あまり使用兵器を替えたくないのか。

アメリカの第二次大戦の映画では、

腰に構えた自動小銃で機関銃のように撃ちまくるシーンがよく出てくる。

三八式で一発ずつ撃っていたのではとてもかなわないと思う。

日本で自動小銃は何故つくられなかったのか。

実は創ろうとしていたのである。

欧米で試作されていた自動小銃を参考に昭和7年から13年にかけて開発し、

ほぼ完成しかけていたという。

しかし故障が多く完成の域に達するまでにはまだ時間がかかりそうだった。

それでも昭和12年末の戦闘実験を最後に、

あとは陸軍の判定試験を待つという段階に達していたところに、

13年、国家総動員法が施行された。

国家の非常時に際し、国防上必要なことは一切政府に任せる、

簡単に言えば、戦争のために国民の権利、自由を無限に剥奪する法律である。

支那事変もいよいよ拡大する方向になり、武器もさらに大量に必要になった。

陸軍は自動小銃が完成するのを待っておられなくなり、

既存の三八式銃を緊急増産することにした。

中国軍相手なら、これで間に合うという判断があったのかもしれない。

自動小銃の開発は以後中止となった。

イメージ 2

  ↑八大関の建物



三八式銃は青島とも関係がある。

大正3年、第一次大戦で日本は連合国の要請を受け、

ドイツの租借地である山東省青島を攻略した。

この時、三八式銃が歩兵の主力武器として活躍した。

そういう勝利の経験も影響していたのかもしれない。


教練の授業は校庭だけでなく教室でも行われた。

ある時、教官がこんな質問をした。

「戦闘中に突撃命令が下った。

そのとたん、隣にいた戦友が敵弾に当たって倒れた。

どうしたらいいか」

分かるものは手を挙げて答えるというような形式ではなく、

教官が教室内を睨み回し、誰彼なく指名する。

私はハテ?と考えていたところ運悪く指名された者が答えた。

「はい、至急、止血などの手当てをして、突撃に参加します」

なるほど、軍歌の「戦友」の一節にあった。

(隣におったこの友が、俄かにはたと倒れしを 我は思わず駆け寄って 

軍律厳しき中なれど これが見捨てておかりょうか 

確りせよと抱き起こし 仮包帯も弾丸の中)


「違う。突撃命令は陛下の命令である。

何をおいても直ちに従わねばならない。

一斉に突撃せよとの命令に、ばらばらに出たらどうなるか。

その効果を減じ、時機を逸して勝てる戦も勝てなくなる。

“大義親を滅す”である。

たとえ親兄弟でも、親友であっても、ほっておいて突撃する。分かったか」

こうして青島中学二年生は、

銃の扱い方だけでなく軍人精神まで叩き込まれた。

閉じる コメント(6)

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dui hen luohoude.

2008/3/24(月) 午前 9:19 [ zen*o*hara6* ]

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zensouharaさん、ピンインのコメントありがとうございます。日独青島戦争で活躍した三八式が太平洋戦争でも主役だったということは、私も不思議に思っていました。やっと解明されました。

2008/3/24(月) 午後 10:03 bad**uan1*3

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上級生が学校工場でジュラルミンの部品を作っておりましたので、オシャカという言葉を覚えました。ローズ品ということです。三八銃のことを改めて勉強しました。いろいろ覚えましたね。

2008/3/25(火) 午後 9:59 [ 相子 ]

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三八銃で思いましたが、戦争が押し迫った頃、日本国内では物資不足と船舶などの不足(沈没多々)情況で中国にいる日本陸軍でも武器の調達に苦慮していたと思われます。父が天津に転勤になった理由は領事館の経済課にいたこと、また熊本高等工業学校(現在の熊本大学工学部の前身)卒と云うことで天津の機械工業の会社を纏め兵器の現地生産を進めることにあったのです。その時父は三八銃の生産もやっていると話していました。今になって考えて見ますと無駄なことやっていたもんですね。

2008/3/26(水) 午前 8:50 [ tadao678 ]

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青島日本中学校の教練で使っていた銃が大量に盗まれた事件がありました。「犯人は八路軍だ」などの噂でした。犯人も「何だ!旧式だな!」と失望したかも知れません。内地が物資不足の時代に中学校の教練に旧式でも「現役」の銃が配備されていたのは外地の余裕?でしょうか。 三八式銃より新しいのは竹槍…辛い時代でしたね。

2008/3/26(水) 午前 10:44 [ はっさん ]

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武藤氏の「戦中記」も話題豊富ですが、みなさんのコメントも今までに知られていない情報がびっしりですね。これから昭和史を研究される方、わが「青島満帆」は必読ですよー。

2008/3/26(水) 午後 10:04 bad**uan1*3


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