青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

武藤直大の「昭和ひとけた戦中記」

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第11章 究極の勤労動員、遂に陸軍通信兵



5月7日、ドイツ軍が無条件降伏した。イタリアはずっと前に降伏している。

友達と「日本はたった一人で世界を相手に戦っているんだな」と話し合った。

理由はないが、それでも負けるとは思わない。

国民学校からずっと叩き込まれてきた「必勝の信念」は未だゆるいでいなかった。

家の使用人のボーイやアマや市場の商人など周りの中国人には、

日本の敗戦はもう分かっていただろうが、

私たち在留邦人に対する態度に変化はなかった。

父は領事館に勤めているので知っていたと思うが、

戦況についての話は子供の前では一切しなかった。

たまに警戒警報が鳴り、教室から避難することもあった。

青島港に米軍機が来て小型爆弾を落としていったことがあるが、

損害軽微で市民生活に目に見える変化はなかった。

私は相変わらず釣りを楽しんでいた。しかし偸安の夢も遂に破られる日が来た。

イメージ 2

↑青島中学校の軍事教練



6月に入ったある日、2年生全員が講堂に集められた。

「戦局が緊迫してきた折から、2年生全員は今後授業を止め、

陸海軍、工場に動員される」

というような訓示があり、陸軍組、海軍組、工場組に分けられた。

どういう基準で分けられたのかは私達には説明はなかった。

当然、先生達が相談してそうしたのだろうが、

当時は上が決めたことについて理由を聞くような質問は考えられなかった。

私は陸軍組に入れられた。一番貧乏くじだった。

完全に部隊の中に入って、兵隊と一緒に生活し、訓練を受けるのである。

海軍組もそうだが海軍は陸軍よりもスマートで、それほど厳しくないことを、

海洋少年団(国民学校5、6年)や

海洋学徒隊(中学1、2年)時代の経験で知っていた。

工場組はたとえどんな重労働だとしても、夜は家に帰れる。

朝までの時間は自由である。

私はその自由時間を奪われることが何よりもいやだった。

しかし私達は拒否することは出来ない。

このまま陸軍に入るとなると、まるで赤紙、召集令状と同じである。

海軍の予科練に入って飛行機に乗り、空中戦で戦死する、

という私たちの目標も無視された。

どうして中学生までこんなことになってしまったのか。

実は3月23日の閣議で「国民義勇軍」を組織することを決めていた。

閣議で決まったことは国民の権利を侵害することでも、

国会に諮らずに実施出来る。国家総動員法でそうなってしまったのだ。

閣議決定は、

「兵農一本、国民皆兵の本義に基づき、

一億総武装をもって神州を富嶽の安きにおき、

皇国防衛の責務をまっとうすべき時である。

この危急の戦局を打開するものは、ただ数千年来伝統の一億の底力のみであり、

全国民一丸の火の玉となって、敵に体当たりを敢行するのほかはないのである」

要するに国民は全員、敵に体当たりして死ねということだ。

そうして私達が講堂で組分けされている頃、

大本営陸軍部から

『国民築城必携』『国民抗戦必携』という小冊子が国民に配布されていた。

国民義勇隊がどうやって敵をやっつけるかということを、

具体的に示した本であるということだった。それは、

「敵が上陸して来たならば、そこの住民は率先して軍作戦に協力すると同時に、

軍の指導あるまではいっさい避難せず、

軍交付の兵器または竹槍その他鍬、鳶口等あらかじめ準備せる武器を執って

郷土要塞に立てこもり、国民も徹底的に抗戦するよう教えており、

また遊撃戦法、敵の銃爆撃、砲撃に対する処置法等を詳細に記して

その注意を喚起したものである」(6月10日、毎日新聞)


6月某日、私たち2年生約40名は先生に引率されて陸軍部隊の門をくぐった。

部隊は青島市東側の郊外の競馬場の先にあった。

イメージ 1

↑競馬場全景




入隊式で部隊の正式名称を教えられた。

かなり長くて全部は覚えていないが初めに、

「北支派遣軍独立混成第五旅団」とあって、その後に続く部隊名は忘れたが、

最後は「鈴木通信隊」だった。

私達は学徒班と呼ばれ、通信兵としての教育訓練を受けることになった。

本当に戦闘になったら、それがどういうことを意味するのか、

本人の私達はあまり深刻には考えなかった。

「教えられたこと、命じられたことをやればいいんだ」

という他には何も思いつかない。

しかし新聞を読んでいた先生たちには分かっていたはずである。

沖縄で同じような通信兵が戦闘に加わった実例があった。

6月14日の毎日新聞に

「沖縄本島 十五歳以上の男女すべて戦闘に参加、全県民に防衛召集」

という見出しで、その中の中学生に関する記事では、

「また男子中等学校生の一部は通信兵としての教育を受け、

他の生徒全部は鉄血勤皇隊なるものを編成し(中略)。

かくて敵がいよいよ上陸を開始するや(中略)

先に通信を教育された中学生達は

有線通信、伝令勤務、砲煙弾雨の中を敢然として陣地を死守し、

可憐の乙女といえども持ち場を、死の瞬間まで一歩も退くものはいなかった」

とある。

中学生を通信兵として使うということは、

内地、外地を問わず国土防衛作戦の中の一つとして組み込まれていたようだ。

もし米軍が青島に上陸していたら、

私達は沖縄の中学生と同じ運命をたどっていたことになる。

しかし当時の青島の周辺は余りに平穏で、

私達は戦闘や死の切迫感を全く感じていなかった。
(この項つづく)

閉じる コメント(7)

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青島が沖縄にならなくて本当に良かったですね。それに中国人が
一斉蜂起をしなかったことも幸運でした。東北と違いロシアとも
離れていたのが良かったのでしょうね。

2008/3/27(木) 午前 11:21 [ kor*k*ro*chi*001 ]

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天津は青島ほど日本人のあいだでは戦争の情況に対して深刻な情況になっているとは思っていなかったようでした。軍や工場などに対する奉仕活動は日本国内で皆やっているので此方でもやらざるを得ないと云う申し訳的な程度のものであったようでした。街の中も平穏で生活物資もそんなに困らず豊富に有りました。このような情況ですごしていたところ、終戦近くなって青島から戦火を逃れるため天津に来たと云う人達が何家族もいて、理由を聞いて見ると「青島にアメリカ軍が上陸してくるので」と云う事でした。もうこんな戦況になつていたのかと初めて知りました。

2008/3/27(木) 午後 7:42 [ tadao678 ]

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korokoroさん、やはり終戦と同時に内戦状態になったのが、日本人にとっては幸いしたのかもしれませんね。青島から大連、済南方面に避難した人が一番ひどい目にあったことになりますね。

2008/3/27(木) 午後 9:34 bad**uan1*3

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その頃、父は張家口へ会社から派遣され、暗号の傍受に従事。母は青島に米軍が上陸するというので、20年6月に北京に疎開。そこで運悪くか、運よくか、赤痢になり会社に掛け合い、父を北京に戻して貰いました。8月上旬父は青島に行き、家を整理し、北京に戻ったのが8月6日。家族は揃って15日に北京で終戦を迎えました。
私は千葉の田舎で終戦を迎え、翌日父からの電報で両親が無事だと知らされました。会社は機能していたのですね。それから数ヶ月して、伊達順之助さんと親しかったご夫妻が、寒風の中、館山の駅で私を待ち、両親が無事だと伝えに来て下さいました。あの日の風と風景は忘れられません。暫らく経ってから両親は天津の塘沽から帰国。父は中国語が堪能で、技術者でしたから少し引き止められていたそうです。もう少し両親が帰国しなければ、学費が無くなり、女学校を退学しようと思っておりました。
今、近所に住む羊会の女性は疎開先を朝鮮にしたので、終戦後歩いて南下し、船を雇い脱出して帰国したそうです。彼女は幼いながら頑張って大きな荷物を背負い、兄弟の手を引き帰国したそうです。

2008/3/28(金) 午前 9:39 [ 相子 ]

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終戦時、丁度塘沽の港には江ノ島丸(800トン位)と云う石炭運搬船が入港していましたが、直ちに中国側に接収されていましたが、アメリカ軍が進駐して来た時、江ノ島丸は空船状態あったので接収を解除し、船を日本人の引揚げ船として利用することに決定した。
第一陣として年少の子供5人以上をかかえた家族、病人、奥地から逃れてきて生活を続ける事が困難な家族や人、などが選ばれたようだが、総勢800〜900人位ぎゅうぎゅう詰めの状態で昭和19年11月13日(終戦の年)中国からの引揚げ第1船として日本向け出港した。3日後
九州の博多港に入港、港内には沈没船が点在するなかを縫って岸壁に着岸した。日本ではまだ引揚者の受け入れ態勢の整っていなかったときの帰国で上陸時の検疫?はDDTの白い粉を頭からかけられただけのものでした。上陸した人々は夫々行き先無記名(何処でもOK)の汽車のキップを渡され焼け野が原の博多駅から満員の汽車に乗って帰郷した。
私達家族も父を天津に残し(7人)郷里鹿児島に19日帰りつきました。
江ノ島丸は其の後2回往復した後中国に向かう途中、浮遊機雷にふれて沈没したと言うことでした。

2008/3/28(金) 午後 5:08 [ tadao678 ]

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いやー、みなさんの体験は凄いドラマですね。話は変わりますが、武藤氏が入隊した部隊名ですが、昨年来青したYさんの旧宅がその部隊の近くで、「馬場部隊」と呼んでいたそうです。そのことを武藤氏にお知らせしたところ、「そのような記憶がある」という返事でした。武藤氏の入隊した部隊名は「馬場部隊鈴木通信隊」だった可能性が高いようです。

2008/3/28(金) 午後 5:59 bad**uan1*3

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工場組の私は軍需工場で地雷の鋳型を造っておりました。休憩時間に身振り手振りと片言の日本語で中国人の職人たちと雑談しておりましたが、話題が戦局に及ぶと職人は地面に棒切れで世界地図を描き「米国はこんなに大きい。日本はこんなに小さい。すぐ負ける!」と言い、私は「日本の国土は小さくても戦力は強大だから必ず勝つ!」と反論していました。彼らは生活のために日本の軍需工場で働いておりましたが、中国兵を殺すかもしれない兵器を造りながら日本の敗戦を願っている複雑な心境だったと思います。
1945年8月15日の午前中に初めての鋳鉄を流し込む作業が行われました。正午に重大放送を全員集合して聞きました。雑音の合間に奇妙なイントネーションの日本語が聞き取れましたが「雑音放送」なので意味が判りません。しばらくして先生から日本の敗戦を知らされました。地雷は未完に終わり、数日間は資料の焼却に追われました。

2008/3/28(金) 午後 9:31 [ はっさん ]


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