青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

武藤直大の「昭和ひとけた戦中記」

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部隊内で終戦

第12章 部隊内で終戦



やがて8月15日、私達は終戦を部隊の中で迎えた。

その日の正午前、営庭に部隊長から将校、兵士全員が集合。

不動の姿勢で正面に置かれたラジオを聴いた。

天皇の声は雑音が激しく、途切れとぎれで全く聞き取れなかった。

訳が分からず帰って来た内務班で見習士官の隊長から、

「ボツダム宣言受諾、戦争は終わった」と聞かされた。

その瞬間ざわついたが、

最初に私が感じたのは“有難い、これで家に帰れる”だった。

負けた口惜しさとか、

天皇陛下はどうなるのだろうか・・・というようなことは、

ほとんど思い浮かばなかった。

見習士官は、

「これからは忍ばなければならないことが多い。

しかし君達少年が再び立ち上がって、輝かしい世界に誇れる日本にしてくれ」

と結んだ。

私達は緊張した顔はしていたが、内心ほっとしていた。

とに角この場所から出られるのである。

今までに受けた軍国主義教育では、神国日本に敗戦はあり得ず、

こんな事態になったら我われだけでも“米英撃滅”と奮起するか、

「天皇陛下に申し訳ない」とお詫びしなければならないはずである。

しかし、そんな気分には

私を含めて仲間の誰もがなっていないことは表情で分かった。

天皇陛下は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」

と今後の生き方を指示されたが、

私達はその言葉以前に

今のいやな生活から逃れられるという嬉しさが、体中に広がった。

もし、このまま戦争が続いて米軍が青島に上陸していたら、

私達は何の疑いもなく戦闘に参加しただろう。

それは自然の勢いでそうなって、

別に悲壮な覚悟もしないでそのまま突き進んでいったと思う。

なにしろ“自分の命は鳥の羽毛よりも軽い”と信じ込まされていたのである。

現在のイラクの自爆攻撃の少年と変わらない心理状態だった。

しかし、中学3年になったら戦死するのは当然

と思い込んでいた小学校からの軍国教育が、

日本が負けたということでいっぺんに吹き飛んでしまった。

もし太平洋戦争の歴史的意味や目的を自分の頭で本当に納得し信じていたら、

14歳の少年でも別な行動や考えがあったかもいれない。

天皇陛下の言葉によって信念を変える大義名分と機会を与えてもらった。

苦しい時には、周囲の状況が変わって、今現在よりも楽になると分かると、

人間はこんなに簡単に変われるものなのだ。

イメージ 1

↑青島中学第28回生(昭和18年入学)2年生の時。
 筆者・武藤氏は第29回生。




終戦直後の日本人のこのような変化については、

納得のいかない年代もあるようだ。

最近、私は団塊の世代の友人からこんな質問を受けた。

「日本人は米軍に原爆を落とされ、

占領後、基地をつくられてもおとなしく従った。

そして今はイラク戦争にも協力しているし、

牛肉輸入でもアメリカの言いなりになろうとしている。おかしくないですか。

占領に抵抗しているイラク人の方が立派じゃないですか」

彼等は安保闘争や大学紛争を起こしたことで、

自分達にそういう質問をする資格があると考えているのかもしれない。

しかし、実際に軍国主義時代を生き、太平洋戦争を経験した者にとっては、

彼等が行ったと称する闘争などは子供の遊びのように見える。

警官側は、同じ日本人である彼等をなるだけ怪我をさせないように

保護しながら取締まっていた。

彼等が騒げること自体、アメリカに占領されたおかげでもあるが、

そのへんの認識は団塊以後の世代には難しいようだ。

イメージ 2

↑青島中学第26回生(昭和20年卒業)、2年生の時。



話は戻るが、8月15日の午後はいつものように部隊内で教練があり、

兵舎を出て市街を行進もした。いつものように軍歌を歌った。

我われを見る中国人の様子は昨日までと変わりはない。

終戦の大ニュースは一瞬のうちに街中に伝わっているはずだが、

やはりまだ日本軍は恐いのだろうか。

いつもと違ったのは我われの指揮官だった。

道を歩きながら見習士官が軍刀を構えた。

プラタナスの並木の一本に近づきざま、抜き打ちで「エイッ」と斬り上げた。

直径4、5センチの幹が見事に切れてストンと下に落ちた。

薄井伍長も並木に近づいていった。

見習士官の斬った木よりも細い木に狙いをつけた。

銃の先に着けるごぼう剣を抜いた。ピカピカに光っている。

よく砥いでいたようだ。

気合とともに斬りつけたが、コンと鈍い音がしてはね返された。

薄井伍長の間の悪い顔。

しかし笑う者はいなかった。

大人達がどうしようもない敗戦の無念さを、

ぶつけている気持ちが伝わって来たからだ。

イメージ 3

↑青島中学第24回生(昭和19年卒業)、5年生の時。
 (写真はいずれも青島日本中学校校史 より)


その夜は兵舎のわきの空地で、いつまでも火が燃えていた。

書類を焼却処分にしているのだ。

私たち学徒兵はいつ家に帰されるのか、なかなか発表されなかった。

忙しくてそれどころではなかったのだろ。

しかしいずれは帰れる。先はもう見えていたからあせりはなかった。

私たちは、ここで部隊が終戦を認めず、

抵抗して最後まで戦うかもしれない可能性も考えなくはなかったが、

隊内の空気から見て、まあ、それはないだろうと楽天的だった。

翌日、昼食の用意をしておかずもご飯も全部食卓に並べ終わった時、

全員集合のラッパが鳴った。

門から兵舎に続く道に全員が整列した。

やがて外から行進ラッパの音が聞こえてきた。

匪賊討伐に行っていた部隊が帰って来たのだ。

先頭に馬に乗った部隊長。その後に四列縦隊の兵士達。小型砲も続いた。

人も砲も埃にまみれ、ついさっきまで戦闘していたように見えた。

門を入ってくるとき、「歩調とれ」と号令が聞こえて、

膝を高く上げ、軍靴を響かせて来た。

終戦となって戦場からすぐ引き揚げてきたのだろう。

ちょうど24時間後である。

それくらいの近さの場所で戦っていたのかと思った。

私達は不動の姿勢で敬礼して迎えた。

閉じる コメント(16)

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私の父は石巻で玉音包装を聞きましたが、その数週間前までは
機銃掃射もあったようです。

帰国できるのかどうかという不安はなかったのでしょうか?

2008/4/11(金) 午前 10:02 [ kor*k*ro*chi*001 ]

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あの放送の日、日本中が強い晴天に恵まれていたことで、多くの方がそれに触れています。既に米機による伝単でポツダム宣言のことを知っておりました私はすぐ無条件降伏と理解しました。夜になると、アメリカは何をやるか判らないからと、町の多くの人は山の避難場所に泊まりに行きました。翌日から電灯の下で、食事をすることが出来ました。以来日本は米国の傘の下に住み付いているようなものですね。今後をどうするのか、政治家は多いに論じ、国民に方向を示すべきでしょう。時間はそういう時期に入っていましょう。
戦争末期、毎晩夜中にハワイ放送を聞いておりましたが、戦局の不利と、大本営の発表に疑問を感じておりました。多くの日本人はそういった事実を知っていたと思いますが、流れに逆らうことは出来なかったのです。
国民総動員、一億玉砕などと勇ましくも切ないスローガンに急きたてられた国民より、天皇を守るという国体護持の建前。思い反すに悔しさが浮かんできます。

2008/4/11(金) 午前 10:53 [ 相子 ]

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なんか。。

ノムノムが生まれて今まで育った環境と比べると。。不思議です。。

そういう過去があっての今なのですよね。

ノムノムは。。戦争は今後してほしくないなぁ。他に解決策はないのかなぁ。。

いつの時代も争いがある。。人間が居る限り仕方ないのでしょうか?

なんだか考えさせられちゃいました。

2008/4/11(金) 午後 4:00 [ - ]

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korokoroさん、青島は港町ですから帰れないかも、という心配はあまりなかったでしょうね。今後どうなるのか頭の中は真っ白でしたね。

2008/4/11(金) 午後 10:09 bad**uan1*3

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ノムノムさん、日本は戦後60年以上も平和を守ってきたわけですから、これからも国民の力で平和憲法を守っていくことが出来るでしょう。仕方がないのかな、などと弱気になってはいけません。

2008/4/11(金) 午後 10:15 bad**uan1*3

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無条件降伏を告げる天皇の放送は天津の陸軍貨物廠で勤労奉仕中に全員集合して聞きました。その時は雑音多くはっきりとその意味を聞き取る事はできませんでしたが放送が終わった時、部隊の隊長から日本は天皇陛下の命令により連合国との戦争を終結することになった。今後我々はどのようになるか分からないが分かっている事は敗戦国の国民として取り扱われる。真に残念なことではあるが皆動揺しないようにとの訓示があった。奉仕中の我々に対しては直ちに学校に帰るようにと云う事で学校に帰りましたが学校側でもどうしていいのやら分からず取り合えず授業は中止、下校各家庭で待機せよと云うことになった。其の後市中の治安は比較的安全であったのので1週間ほど登校し学校内の整理片付けなどした後、各自在学証明書等をもらい学校は閉鎖され、後は奥地から撤退してきた武装解除された日本陸軍の宿泊地として使用されたとのことである。八里台にあった学校の校舎はのち
中国の○○大学として生まれ変わったと聞いております。

2008/4/12(土) 午後 1:42 [ tadao678 ]

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私が玉音放送を聴いたのは、北京の電気通信学院の中庭でした。意味が分かったのは昼休みが終わって午後の授業のとき、はじめて先生から日本が無条件降伏したことを聞かされました。悲しいとか口惜しいとかそんな気持ちは全くなく、これからどうなるのかという心配で頭の中は混乱していました。早く青島に帰りたい、ただそれだけでした。

2008/4/12(土) 午後 9:56 bad**uan1*3

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ご無沙汰しております。このところ連載していらっしゃる戦中日記、興味深く拝見しております。
私の亡くなった父も昭和一ケタの生まれでして、生前たまに戦中・戦後の苦労話をたまにしてくれました。父は疎開先の長野で終戦を迎えたそうですが、その年の春に空襲で亡くなった妹の仇を討ちたいという思いだけが宙ぶらりんになったしまい、敗戦という事実を素直に受けとめられなかったそうです。
ただ父が亡くなったのは私が10代のときで、もっと当時の話を聞くべきだったとたまに思うときがあります。戦後から30年後に生まれた私にとって、戦中の話はもっと知るべきことだなと思いました。

まだ伯母は健在なので、会う機会があれば当時の話を聞いてみようかと思います。

2008/4/13(日) 午前 8:23 [ ヨウタロウ ]

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ヨウタロウさん、昭和一桁の話、読んでいただきありがとうございます。我々の時代の体験はあまり表面に出ることなく、このままでは陰に隠れたまま消えていきそうです。これからは我々が生きてきた記録をどんどん発表し、残してていきたいと思います。伯母さんが健在なうちにぜひいろいろ聞いて置いてください。

2008/4/13(日) 午後 9:15 bad**uan1*3

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大変に興味深く読ませていただいています。今日はここまででやめることにしますが、わたしの母親は朝鮮からの引揚者ですから他人ごととは思えませんね。

団塊世代が「子供の遊び」「守られた戦い」をしていたとの指摘も事実かもしれませんが、「アメリカが占領してくれたから」のくだりはやはり少し抵抗があります。

現在の私は政治の話はしたくないし、またあまりかかわりたくもないのですが、なんだかさびしい気持ちになるのも正直なところです。

いずれにしても、政治と歴史の現実の中でしか生きられないのですから、しっかりとお互いを検証しあうことも,ひとつの誠実さでしょう。

2010/12/15(水) 午後 1:45 [ ]

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ぜさん、直大さんの戦中記、今読み返してもすばらしい記録で、連載してよかったとつくづく思います。おっしゃるとおり世代を超えて検証し合うことが必要ですね。

2010/12/15(水) 午後 2:39 bad**uan1*3

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そうです。

それは、実は厳しく誠実に自分自身の偏りや、時には過ちさえも発見してしまう道程でもあります。

声高な議論や、皮相な運動のムーブメントではないもの、人間の確かな息使いとでも言ったものを私は、このブログの中で見ています。

まぎれもなく、自己検証と人間の命の切なさは、勿論時には愛犬との交流など生きとし生きるもののを見出している人間の力です。

私は、普段は軽薄そのもの、インチキペテンな暮らしぶりをして来ましたいが、案外一人きりになると正直になるのです。

「世代を超えて」、そうです。
そうです、あらゆるイデオロギーも政治体制も超えて、国と時代を超えて歴史という大河の流れの中での小さな個人の誠実さでしょう。

むしろ、わたしは不倶戴天に見える偏見と偏見が衝突した一瞬の光芒の中に真実を見ます。

2010/12/15(水) 午後 10:38 [ ]

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ぜさん、”不倶戴天に見える偏見と偏見が衝突した一瞬の光芒の中に真実を見ます”というところ、なかなか難しい一瞬ですね。年をとると衝突は避けますからね。

2010/12/16(木) 午後 5:36 bad**uan1*3

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お互いがお互いの生まれ氏育ちを持ち思想やあるいは人間の好みを持っていますから、時にはどうやっても相容れないものになります。

絶対的な真理はないにしても、だからこそ、まず相手に真正面からぶつかってみる。

そのうえで、少なくとも違いは明らかになります。
その違いに拘泥しないで何か共通するもの、共有できる一致点はないかと探ることが一番の寛容の精神の発揮のしどころです。

おっしゃる通り、まず衝突を避ける。
これが一番ですが、ある目的を設定して一緒に共同作業が必要になると、どうしても他方だけが百パーセント正しいわけでもなくまた一部の理屈にも辛抱強く対応しなければ本来の目的そのものが消えてしまいます。

そうは言いながらも、最近は私も少しずる賢くなりましたから、もうそう言う、厳しい利害調節の必要な場に近づかなくなりました。

君子は危うきに近づかず、です。

2010/12/16(木) 午後 5:50 [ ]

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すばらしいお説、ありがとうございます。若いときの衝突が懐かしいです。ぜさんの境地に達するには長い時間と経験が必要ですね。

2010/12/16(木) 午後 8:58 bad**uan1*3

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あは、酒の勢いで書いてしまいました。

最近、ちょっと昼間から飲んでしまます。
いけませんねぇ。

酒は人間を饒舌にしますが、決して賢くはしませんね。

2010/12/17(金) 午後 1:50 [ ]


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