|
第13章 軍隊生活の後遺症 その日の夕方、8月16日、私たちは部隊から“地方”に返された。 その時、軍隊から二つのお土産を貰っていた。 それは後で気がつくのだが、家に帰った直後にそれとは別な、 私にとって最大の悲劇が待っていた。 喜び勇んで玄関のドアを開けた。 足音を聞きつけたシロが飛びついてくるはずなのに、出て来ない。 さっと不吉な予感が走った。 不安な気持ちを押さえて、家族には先ず部隊から帰るまでの経緯を話した。 それが終わって何気ないように聞いた。 「シロはどこにいるの?」。 母も妹も顔を見合わせて黙ったままだ。 兄が意を決したように答えた。 「実は死んだんだ。この間、直大ちゃんが休暇で家に帰ってきたよね。 その日ずっと泣き止まない。 夜も鳴き続けるんで、一階の風呂場に入れたんだ。 そしたら、ちょっと鳴いていたけど鳴き止んだので、諦めて寝たなと思った。 ところが翌朝、死んでいた。 洗面台の下の水道管に取っ手が付いているよね。 走り回っていて、その取っ手にシロの首のリボンが引っ掛かり、 首が絞まった形になって・・・」 「そう、僕が部隊に帰った日にね。淋しかったんだろうな、可哀相に」 体全体がかっと熱くなったが、努めて平静をよそおった。 「それでどうしたの。お墓は?」 「ボーイに言って、庭の隅に埋めさせた。シロの墓と書いてあるよ」 「じゃあ、見て来る」 と席を立った。 庭に出て涙がどっとこぼれた。 小さく土が盛り上げられている墓の前にしゃがんだ。手を合わせる。 「そんなに僕が恋しかったのか、可哀そうに。 こないだ、たまに帰ってきて、お前に思い出させたのがいけなかったんだよねえ。 休暇で僕が帰らなかったら、こんなことにならなかった。 ごめんね。だけどシロ、お前を抱きたいなあ」 そう思うと“どんな姿でもいい、もう一度抱きたい”とたまらなくなった。 墓を両手で掘り始めた。堀りに掘った。しかしシロの白い姿は出て来ない。 “どうしたんだろう。まだ埋めてひと月ぐらいなのに。 野良犬が来て掘りだしたのかな、それともボーイは本当に埋めたのだろうか?” 墓を元の形に戻して、真相を追究しようと思った。 しかし手を洗っているうちに、そんな気もなくなった。 追求したところでシロが生き返るわけではない。 かえって辛い時間が長引いて、悲しみが増すだけだ。 そのまま海岸に出た。岩場の突端まで行って叫んだ。 「シロ、帰って来いよう」 誰も見ている人はいないし、声は波の音にかき消されて遠くまでは聞こえない。 そこで大声で泣いた。 ↑終戦直前の家族。筆者は軍隊に入っていて不在。シロは妹が抱いている。 シロは父の友達から譲ってもらった。生まれて三ヶ月位。 これ以上ない純白の毛並みで、名前は平凡だけどシロとしか付けようがなかった。 私が受け取りに行って抱いて帰って来た。 当然のように私がいちばん可愛がり、いちばんなついていた。 父にもう一度譲って貰えないか頼んだが、難しいという。 その答えに我慢できなくて、シロを貰った人の家に直接行って頼んだ。 「死なせてしまって済みません。 これから私がずっとついていますから、仔犬がいたら、 もしまた生まれたら、頂けませんでしょうか」 「残念だけど今はいないんだよ。 これから仔犬が生まれるとしても時間がかかるから、 それまでには日本に引き揚げなければならなくなるよ」 と優しく言い聞かされた。 それでも諦め切れなかった。 それではとシロに代わる犬の獲得計画を練った。 家の近くには中国人の裕福な家が多い。 三軒に一軒ぐらいは犬を飼っていて、スピッツやテリヤが流行りだった。 庭に放し飼いにしていて、それが鉄柵の塀越しに見える。 口笛で塀の近くにまで呼び寄せて、 手の届くところまできたら抱き取ってやろう、という計画だ。 そういう悪事にはすぐ乗ってくる友人がいた。家の近くにいた同級生のK君だ。 埠頭会社の社長で元海軍少将の家のお坊ちゃんだが、いたずらは大好きだ。 二人で毎日のように可愛い犬を探しに歩き回った。 獲物はたいてい塀から離れた家の近くにうろうろしていて、 道の近くまでは来ない。 口笛を吹いても見向きもされないか、見向いた時は吠えられた。 「こうやっているうちに慣れて寄って来るかもしれないよ」 「犬を可愛がって呼んでると思うだろうから、泥棒とは間違われないだろう」 と都合よく考えて根気よく続けた。 一度だけ塀の鉄柵越しに触われそうに近づいて来たことがあった。 胸をどきどきさせて手を伸ばしたが、気配を察したのか逃げられた。 「惜しかったなあ」「うん、もう一息だった」と興奮して顔を見合わせた。 そうこうしているうちに、私のシロを失った悲しみも少しずつ薄らいでいった。 ↑金口一路の近所の建物 部隊のお土産の話に戻す。 一つ目は帰宅して翌朝に分かった。猛烈な下痢が始まったのだ。 終わったと思ったらすぐしたくなる。シャーッと水のような便だ。 そのうちに赤いものが混じるようになった。 かなりの下痢だなと思ったが、体力には変わりはなく、だるいわけではない。 寝ているのはもったいないので魚釣りに出かけた。 念のためにちり紙も用意した。 案の定、竿を出しているうちに直ぐもよおしてくる。 我慢し切れなくなって岩陰に隠れてした。 そんな状態が4日も続いた。下痢止めを飲んでもよくなる気配はない。 一日十回以上、あまり拭くものだから肛門がひりひり痛くなった。 これは普通の下痢ではないな、と真剣に考えた。 さかのぼって原因をさぐると思い当たることがあった。 軍隊生活の最後の日、 昼食の用意をしたままで、匪賊討伐から帰った部隊の迎えに出た。 その間、4、50分はあっただろう。 机に並べられて食べるばっかりだったご飯にもおかずにも、 ハエがたかりっぱなしだったはずだ。 それに違いない。 以前に父から、青島で流行ったことのあるアメーバ赤痢について聞いたことがある。 法定伝染病の赤痢ほど重症ではないが、便の回数は多い。 その症状とそっくりだ。 僕が海岸で排便して、それを魚が食べたら、 伝染病だから市内に流行するかもしれない。これは危ない。 父から特効薬があると聞いていた。 自分では治せないと分かって隠しておくわけにもいかず打ち明けた。 父は翌日その特効薬を手に入れてきてくれて、飲むと一発で嘘のように治った。 ↑金口一路の近所の建物 もう一つのお土産はお風呂で貰った。 部隊の風呂は3畳間ぐらいの広さの湯舟だったがいつも満員で、 洗い場も込んでいた。 入り口で「学徒班武藤、入浴に参りました」とどなって入って行く。 「どうだ、もう慣れたか、モールスは覚えたか」 「兄弟は何人いる。お父さんは何してる?」 と周りの言葉は優しかったが、温かいお湯の中で兵隊さんの体から出る黴菌が、 私達の股間に侵入して来ていたのだ。 家に帰って何日かたつと、股の間がやたらにかゆい。 掻いても掻いても止まらない。 そっと触れてみると、かゆい部分の手触りが他の皮膚とちょっと違っていた。 パンツを脱いで鏡に映して見た。袋から股の付け根にかけて色が変わっている。 灰色で小皿ぐらいの面積があって、境界線がはっきりしていた。 何か分からないが皮膚病のようだ。場所が場所だけにぎょっとした。 これも仕方ないから父に話した。 父は直ぐ分かったようだが、それでも母に点検させた。 私が風呂に入っている時に現れた母は患部をよく観察して出て行った。 毛が生えてきたばかりで、見られるのは親でも恥ずかしかったが、 なすがままだった。 通信兵になるところが、これで14歳の子供に戻ってしまった。 翌日、母が買って来たのはインキンタムシの薬だった。 効能書きを読みながら自分ひとりでつけた。 サリチル酸とアルコールが主成分だ。その液体を患部に塗れと書いてある。 その通りにして「アチッチ」と叫んだ。火傷のような熱さと痛さだ。 ジンジンと沁みこんでくる。これだけ沁みたら黴菌も死ぬだろうと我慢した。 孤独な作業を毎日続けて、一ヶ月ぐらいで治った。大変なお土産だった。 ↑昭和19年当時の青島日本中学校教職員(青島日本中学校校史より) 私達中学二年の軍隊生活は二か月位だった。 目的だった通信兵としての技術は、私に関しては入る前と変わらなかった。 モールス符号は海洋少年団で既に習っていたからだ。 それ以上の実践的な技術は教えられないで終戦になってしまった。 それでも日本陸軍の内務班生活を体験したことは貴重だったと思う。 学徒班として特別扱いされていたのだから、本当の軍隊体験とは言えないが、 雰囲気は分かった。 上官の言うことは絶対服従で下の者は何も言えない。 それは中学校でも、先生と生徒、上級生と下級生の間で同じ関係だった。 日本全体がそうなっていたようだ。軍国主義のもたらした結果の一つだろう。 しかし、一般社会の「地方」や「娑婆」にいると、 まだ自分の自由になる時間があった。これが大きい。 もう一つ、日本軍の兵隊さんは全体として体が小さく感じられた。 私が大きかったせい(クラスで一、二番。 当時、身長160センチ台で体重60キロ近い)もあるが、それだけではない。 外地で育った子供は食糧事情がよくて、全体的にすくすく育ったような気がする。 班長の薄井伍長と高橋兵長は兵隊としては普通の体格だったが、 私たち14歳の学徒班の中に入っても、中ごろの身長だった。 いかにも農家の二、三男という感じの素朴な兵隊さんである。 日本の陸海軍は昭和12年に兵役法を改正し、 甲種合格の基準を身長1・55メートルから 1・50メートルに5センチ引き下げた。 採用人員を増やすためもあっただろうが、外地に比べて日本内地では、 子供にあまりいいものを食べさせられなくなったことが大きい気がする。 戦後60年の今、もし甲種合格という基準をつくるとすると、 身長は1・70メートル位ではないだろうか。 戦後60年で身長差20センチ、 食べ物の差とともに時代の差が改めて感じられる。
|
武藤直大の「昭和ひとけた戦中記」
[ リスト ]





足立さん
おはようございます。
足が治りつつあるようで安心しました。また、歩き回って記事をかける日も近いようですね。
今みたいにペットショップがなかったので、よその家の子犬をもらってきてしか方法がなかったですものね、昔は。スピッツ、、今はすたれてしまいましたね。
インキンタムシには笑いましたが、今の世代の人には死語ですよね。
何のこと??ですよね。
こちらは急に暖かくなりました。そちらはいかがですか〜〜?
油断大敵、ご自愛くださいね。
2008/4/14(月) 午前 8:39 [ jyu*ujy**u12* ]
終戦から暫らく経ち、米軍海兵隊が千葉の館山の航空隊にやって来ました。青島で見た米太平洋艦隊の兵士と全く変わらない服装で、これでは負けるはずだと、改めて思いました。反面その姿を懐かしく眺めたことも事実です。軍隊は縦系列の秩序が確りとしていないと、命を守れないということがありますが、内務班というのが曲者だったようですね。長い目で見ますと経験があるという自信にも繋がったことと思います。
2008/4/14(月) 午後 1:14 [ 相子 ]
筆者・武藤氏からのコメントです。
金口一路の付近の家の写真で、最後の家に何か見覚えがあります。一緒に犬泥棒をしたK君の家に似ています。金口一路の10〜20号台の家でした。K君がこれを見ていてくれたらいいんだけど、、、
家族写真を見ると、両親とも今の私より30歳以上若い。私がいないのに撮ったのは、終戦直前で私を待っている間に何が起こるか分からないと考え、記念写真として郷里に送ったようです。我が家のことで恐縮ですが、明治生まれの親の方が私よりしっかりしていた気がします。
2008/4/14(月) 午後 1:45
終戦当時、青中在学中の諸君は本当に辛い経験をされましたね。天津中学では幸運にも? 全く記述されているような体験はありませんでした。地域よって違っていたんでしょうか。ところで武藤さん、青島での御家族の写真が載っておりますが、妹さんの福澤さんは何方でしょうか・・・手持ちの写真と見くらべてみましたが妹さんが多く中々判断がつきません。教えてください。お父さんは領事館に勤められていたとのことですか、何課におられたのでしょうか、私の父も明治生まれで経済課におりました。参考まで。
2008/4/14(月) 午後 5:09 [ tadao678 ]
jyukujyukuさん、足は順調に回復しております、と言ってももう歳ですから少しずつといったほうがいいかもしれません。青島は暖房が止まった5日から寒い日が続いています。桜も満開になるのが遅れているようです。今年は市内の公園がどういうわけか無料公開されているようですが、歩けないのが残念です。
2008/4/14(月) 午後 5:27
tadaoさんへ、武藤氏からのご返事です。
妹の福澤はいちばん右の女の子です。
親父の所属していた課は覚えていませんが、写真の当時は44歳で領事でした。お父上と同じ年頃ではないでしょうか。沖釣り、岩釣りに仲間とよく行っていましたから、ご一緒したこともあると思いますよ。あるいは私もくっついていたかも、、、
2008/4/15(火) 午後 9:32
武藤さんへ。よく分かりました。写真やはりそぅではないかと思っていましたが・・・・一番よく似ておられていると思っていました。どうもありがとうこざいました。父は明治40年生まれです。同じぐらいの歳かもしれませんね。高等官待遇の事務官として仕事をしていたようです。釣り好きの父でしたので若しかしたらご一緒のこともあったかもしれませんね。今後お逢い出来ましたら色々とお話したいものとと思っております。今年の5月の羊会には出席します。よろしく。
2008/4/15(火) 午後 9:53 [ tadao678 ]
シロ。。。
ワンコを愛するノムノムには泣いちゃうお話> <
今日のTVニュースで、被災地での簡易的な支給されたお家ってあるじゃないですか。
そこでペットを飼うのを禁止してるとかなんとか。。
被害にあった人の中にはペットを飼ってる人も居て・・
泣く泣く手放した人も居るそうです> w <
2008/4/16(水) 午前 9:51 [ - ]
ノムノムさん、可愛がっていた犬が突然いなくなるのは辛いことですね。特に子供のときは泣いてしまいます。今の青島も犬を飼っている人が多いです。ノムノムさんちの犬の病気は治りましたか。
2008/4/16(水) 午後 2:54