青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

武藤直大の「昭和ひとけた戦中記」

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第16章 延吉の運転手ソースキー



昭和11年、龍井から延吉に移った。

都市の規模は同じくらいだったが、

龍井には総領事館があり、延吉にはその分館があった。

父はその分館長として赴任した。

私は相変わらず兄とその友達の後ろにくっついていたが、

5歳になって体力も幾分ついてきた。

野原を走り回るのにも着いていけたし、

相撲をとってもいい勝負のところにまでいった。

トンボ取りでもバッタ取りでも自分の分はちゃんと取って兄の世話にはならず、

自信がついて得意になっていた。

ところが急に足がおかしくなった。ひざに力が入らなくなって速く走れない。

相撲を取ってもすぐ負ける。脚気になってしまったのだ。

私は厦門にいた頃から肉が大好きだった。

3時のおやつにも海軍さんから貰ったコンビーフを食べていたらしい。

お米のご飯もちゃんと食べていれば、

七分づきでビタミンB類は取れるので脚気にはならなかったのに、

肉ばかり食べていた。

やがて全く歩けなくなってしまった。

気分が悪いことはなかったが、

一歩も外に出られないから家の中をはいはいするしかない。

医者がビタミン注射を打ちにくる時間以外は、家中をはい回っていた。

延吉の家は広かった。分館長といっても一応、帝国在外公館長の官邸である。

恐らく最小の規模だったろうが、

公用の部分と家族の居室がそれぞれ独立してあって分離されていた。

公用部分は応接室、大ホール(食堂)、酒庫、来客用寝室、トイレがあって

暖房はペチカとストーブである。

家族用は廊下でつながっていて家の中で行き来することは出来た。

和室が三つ、それに納戸、食堂があり、暖房はオンドル(床暖房)だった。

調理室は広くて両方につながっていた。

公用部分は滅多に使われなかった。

覚えているのは新年会と、どなたか宮殿下が満州を視察されて寄られた時ぐらいだ。

警察関係者は羽飾りのついた帽子に金モールの派手な礼装が目立った。

私はいつもガラ空きのそれらの部屋をはって回って、

応接室のソファーででんぐり返しをしたり、

食堂の長いテーブルで伝い歩きの練習などをした。

本当は子供はあまり入ってはいけなかったのだが、両親は大目に見ていたようだ。

脚気は三、四か月位で治って、小学校の入学式には間に合った。

しかし学校の思い出は殆どない。

イメージ 1

  ↑青島の街角:恒台路




家には3人の使用人と運転手が一人出入りしていた。

いちばん覚えているのは運転手のソースキーである。

白系露人で帝政ロシア軍の元中尉、ちょび髭を生やして優しい顔だが威厳があった。

領事館の父の公用車の運転手をしていたが、休日にはよくいっしょに猟に出ていた。

年齢は50歳を越えていただろう。

明治34年生まれの父は30代後半に入った頃である。

日露戦争に敗れ、本国からも追われた元将校が日本人に使われて、

どういう気持ちだったのかは子供の私には分からない。

しかし普通の使用人にはない毅然としたものを感じさせた。

礼儀正しいが卑屈ではない。猟に出かけるときは父と友人のようだった。

自分の猟銃を持っていて獲物を競い合っていたようである。

当時の延吉周辺は狩猟天国で、キジやカモを30羽も撃って帰ったり、

時にはイノシシやノロ(大鹿)もし止めた。

キジ撃ちに連れて行ってもらったこともあるが、満州のキジはすれていなくて、

車でかなり近くまで寄っても逃げることを知らなかった。

散弾銃では撃ち放題、取り放題だった。

途中で車が深い雪にはまって動けなくなった。

雪原の中、周囲に人家はなく、市街からは遠く離れて歩いては帰れない。

どうするのか心配だったが、しばらく待っていて朝鮮人の隊商が通りかかった。

馬で車を引っ張ってもらって助かった。

イメージ 2

  ↑青島の街角:恒台路と鉄山路の十字路




一度ソースキーの家に遊びに行ったことがある。

奥さんと母親の三人暮らしで子犬が二匹、

部屋には虎や熊、鹿の皮が敷きつめてある。

自分の獲物かどうかは分からないが、皮の上にまた皮の状態だった。

部屋は暖かだったが、

室内の空気がバターとチーズ、ミルクの匂いで充満しているのに参った。

当時の私達は日本食ばかりで、パンにバターという食事もしたことがない。

それだけに強烈に匂って、二度と行く気にならなかった。

兄と妹も行ったことがある。

この時はおばあさんがにっこり笑って

「アーマイ ゴハンタベマセンカ」

と砂糖をたっぷりかけたご飯の料理を勧められた。

ひと口食べたが甘すぎて、それ以上は無理だったという。

妹はお菓子の入った紙袋を貰って帰った。

イメージ 3

  ↑青島の街角:エビ売り、恒台路と鉄山路の十字路




風呂の水汲みやオンドル、ストーブ焚きの力仕事は

ヤニシエフという八字ひげの見事なロシヤ系らしい中国人がやっていた。

延吉には水道がなくて台所の中の井戸からくみ上げていた。

暇な時には赤ん坊の妹を抱いて、気はやさしくて力持ちのようだった。

このヤニシエフに一度危ないところを助けてもらった。

夕方、納戸に兄と二人で何かを探しに行った。

納戸は電灯がなくて暗いので、兄がロウソクを持っていた。

そのロウソクの火がたまたま置いてあった布団用のむき出しの綿に燃え移ったのである。

ロウソクの火はほんの一部分に触れただけなのに、

その瞬間、ぱっと全体に広がって大きな炎となって燃え上がった。

爆発のようであった。

兄が「火事だあ」と大声を上げた。

ヤニシエフが大きなバケツを持って駆けつけて消し止めてくれた。

綿の表面が黒焦げになったが、小火(ぼや)にもならずに済んだ。

騒ぎが終わって父は兄を「よく大声を上げて人を呼んだ」と褒めた。

そして私は「こんな時は直大も大声をあげなきゃいかん」と怒られた。

私としては、兄が声を上げてそれが皆に聞こえると分かったから黙っていたのだが、

そんな言い訳は通じなかった。

私は綿に火がついて、一瞬のうちに全体が燃えた

その魔法のような火のまわりの速さを報告したかったのだが、

そんな雰囲気ではなかったので黙ってしまった。

イメージ 4

  ↑青島の街角:周村路と鄒平路の十字路(現在は丁字路)




食事は満人(中国人、当時の呼称)のコックが作った。

名前は忘れたが日本料理も上手で、平仮名の読み書きが出来た。

子守りは15歳ぐらいの朝鮮人の女の子がしていた。

いつも妹をおんぶして、

当時流行っていた日本の歌謡曲「夜は冷たい 心は寒い」を歌っていた。

それを妹が真似て回らぬ舌で歌う。

すっかりなついて、転任で延吉から離れる時、

子守りは「悲しい」とずっと泣いていた。


延吉の市内では朝鮮人や満人との関係は悪くなかったと思う。

小学二年だった兄の話ではクラスに満人が二人いて、

年齢は二つぐらい上なので体格がよかった。

友達は「さん」付けで呼んでいたという。

勉強で日本人をリードすることはなかったが、

兵隊ゴッコの時など「ボク、タイソウ(大将)になる」といっていた。

冬の休み時間に外に出ると、遠慮なく日当たりのいい特等席を占領していた。

満州国建設の理想は「五族協和」で日本人も満州人も朝鮮人も平等とされていた。

その理想が立派に実現されている学校もあったわけだ。

朝鮮人は人数が多かったので、そのための学校が設立されていた。

領事館員の家庭に働きに入っていた女性が、

正月には晴着のチマ、チョゴリを着て集まるので美しい眺めだった。

領事館分館の一帯は高い塀に囲まれていた。

門を入った正面に分館があって、その右手に我が家の分館長官舎がある。

館員の家族の家もあった。

塀の外にも日本人は大勢住んでいて、本屋や八百屋の商店もあった。

御用聞きに来ていたが電話を掛けると届けてくれた。

野原も林もあって私たちは自転車で遊びに行ったが、

あまり塀から遠くまでは行かなかった。

生活するには、今の日本より便利で快適だったかもしれない。

しかし高い塀に囲まれていたのは、

もし万一、反日の騒ぎが起きたときは、

在留邦人はこの塀の中に集まるようになっていたのだろう。

閉じる コメント(5)

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五族共和という理念と欧米からの解放と言う理念は矛盾しません。
どこで道を間違えたんでしょうか....

2008/4/23(水) 午前 10:48 [ kor*k*ro*chi*001 ]

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korokoroさん、司馬遼太郎は「日露戦争まではまともだった」と言っていますから、その辺りからおかしくなったのでしょうか。日独青島戦争などは野心が見え見えですからね。これからは「東アジア共同体」の時代です。

2008/4/23(水) 午後 9:43 bad**uan1*3

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ついつい。。どんな車が走ってるのかな?
って写真が気になっちゃいました> w <

車は少ないのですね?

ノムノムこういうトコあるいて美味しいの探すの好きですよ♪


地元の人は何買ってるのかなぁ。。。

2008/4/24(木) 午前 9:51 [ - ]

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ノムノムさん、載せてある写真は青島の下町の街角風景ですから車は少ないですよ。青島も車の氾濫で各所で渋滞が始まっています。路上で売っているのは白菜(冬)など野菜とか海産物です。美味しいものがあるかなあ。

2008/4/24(木) 午後 4:54 bad**uan1*3

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白系露人は青島にも沢山いたのでしょう。ウールの反物を担いで売り歩いている男性の中には白系露人もいたと母から聞きました。パン屋さんもいたと思います。日本では東京の神田駿河台下にあったバラライカはスタルヒンの奥様が開いたそうです。白系露人だったと聞きました。

2008/4/27(日) 午後 11:23 [ 相子 ]


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