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第21章 終戦後の中国人 中学1年の時、湖北路からもう一度、金口一路に引っ越した。 前にいた家よりも海に近くて大きい。 欧米人の家だったようで、 どういう経路で総領事館の管理するものになったのかは分からないが、 二階建のベージュ色の壁で、外観も内装もしゃれていた。 それが一因で戦後に災難を招く。 終戦になって学校は閉鎖、中学2年の私は勉強することもないし、 朝起きると今日は何をして遊ぼうかと考える。 しばらくは毎日が天国の生活だった。 日本の軍隊は一般の在留邦人より先に帰された。 民間人は武力なしで置いていかれたのだが、 周囲の中国人の態度は急には変わらなかった。 ボーイやアマの使用人は今までと同じように働いてくれる。 市場に行っても、同じように買物ができた。 ↑現在の自由市場:2007年撮影 10月に入ったある日、私は海岸の岩場で釣りをしていた。 すると周りでカチカチと不自然な音がした。 見ると、小石が飛んできて近くの岩に当たっている。 振り返ると中国人の学生が10人ぐらい、こちらに向かって投げていた。 中学の上級生ぐらいで、皆私より大きい。 波打ち際には小石は無限にあるし、 距離は5、60メートル位あるがもっと近付いて来たら身体に当たるだろう。 ここまでやって来たら、殴られて海に投げ込まれるかもしれない。 “その前に、危なくなったら海に逃げよう”。 私はここで海に飛び込んでも、泳いで何処にでもいける自信があった。 10月の海はまだ暖かくてこごえることはない。 それを基本にして作戦を立てた。 頭は帽子を深くかぶって防禦して、もうすこし模様をみよう。 石を投げるだけで気が済めば、ここまでは来ないかも知れない。 相手にしないで無視しよう。と、平気な振りをして針に餌をつけ、竿を振った。 彼等は何か悪口を叫んでいたが、 子供ひとりをいじめるのは気が進まなかったのかどうか、やがて去っていった。 私が比較的落ち着いていられたのは、 この釣り場から実際に泳ぎ出した経験があったからだ。 この辺はフカが出る恐れがある海である。 数年前、ヨットに乗っていたドイツ人が落ちて食われたことがあった。 だから遠泳で沖に出るときは、人間を網で囲んだりして泳いだ。 私は怖くはあったが、フカは自分よりも大きいものは襲わないと聞いていたので、 ふんどしをはずして一方を足首に結び、だらっと流して泳いだ。 この日はふんどしはしていなかったが、 長袖のシャツを脱いで、ひらひらさせて泳ごうと思っていた。 この頃は子供でも危険に対処する意識は持っていた。 海岸での災難はどうやら逃れることが出来た。 これからは釣りには行かなければ危険はないはずだった。 しかしそれは甘い考えで、次の災難は向こうからやって来た。 ↑海から見た海浜公園の岩場:2007年ユートピア丸から写す 数日後の夜9時頃、門をどんどんと叩かれ、中国語で叫び声がする。 ボーイが門を開けた。 10人ぐらいの男が入って来て、父が玄関で応対した。 銃を持った中国兵が3人いて、腕章をつけた民間人が代表者のようだ。 これは後に「接収」といわれ、めぼしい日本人の家がどんどん取られていった。 誰がどういう権限でしていたのかは分からない。 接収には順番も法則性もなかった。 新しい権力者が、早い者勝ちでやったように思われる。 我が家もしゃれた感じだったので狙われたようだ。 父は玄関でしばらく話し合っていたが、 明日の朝までにこの家を引き渡すことになった。 そして男達は「武器はないか」と部屋の中にどかどかと入り込んで来た。 中国にある日本人の家は普通、一階は靴のままで歩くようになっている。 寝室の二階に来る前に父は猟銃を渡した。 受け取った男は大喜びで仲間に見せびらかしている。 それでひとまず引き揚げて行った。 大急ぎで荷造りして翌朝、トラックで家を出た。 落ち着き先は敷地全体を塀で囲まれた、 二階建の6棟が並んでいる日本人の職員住宅だった。 部屋に荷物を入れ終わってから 大きなトランクを一つ忘れてきたことに気がついた。 急いで取りに帰ったが、家の中にはバスタブ以外は何も残っていなかった。 ボーイに聞くと、接収に来た連中が 戸棚もソファーも絨毯も自分勝手に奪い合うようにして持って行ったと言う。 「ショートル イイアン(泥棒と同じだ)」と吐き捨てるように罵った。 このボーイは庭の一角の1DKの独立した家に夫婦で住み、 50歳前後の無口で愛想のない中国人だったが、 新しい権力者となる同胞に対して、いい感じは持っていないように見えた。 私達の避難先は一、二階で3LDKの狭い家だったが、 やがてそこにまた、家を追い出された人が加わった。 タイピストの二人姉妹が応接間に入って、共同生活となった。 ちなみに接収された金口一路の家は55年ぶりに行ってみると、 一、二階とも3家族ずつ、合計6家族が住んでいた。 壁は薄汚れて、ベランダには二軒分の台所が出来ている。 人口が私のいた頃の10倍以上になっているのだから、大変な住宅難である。 ↑ベランダが二軒分の台所に:99年11月 海岸が遠くなり、それに安全ではなくなったので釣りには行かず、 私の遊びはもっぱら住宅の塀の中だけになった。 雑誌で見た日本の竹馬遊びを思いついた。 竹はどこにも生えていないが、手ごろな雑木は敷地のあちこちにあった。 幹でも枝でも180センチ位真っ直ぐに伸びていればいい。 同じようなのを2本揃えて、足を乗せる台を取り付ける。すぐ上手くなった。 階段の上がり降りも出来るようになり、走ったり、けんけんも出来た。 塀の中には中国人の使用人の家もあった。その子供たちが羨ましそうに見ている。 手招きして足台を取り付ける要領を教えてやった。 やがて日中混成の竹馬部隊が敷地内を闊歩した。 引き揚げるまでのこの期間、何も知らない子供は気楽だったが、 大人の世界はさぞ不安だったことだろう。 青島中学校の同窓会誌に、 危急に際して先生たちの人間性を表すような話が載っている。 青島中学は閉鎖になったので在校生は全員、日本の中学に転校することになる。 先生は全校生徒の成績表などの転校書類を作成して渡さなければならないわけだ。 最後の登校日に出席できた生徒はその書類をもらえた。 しかし、内陸に疎開して青島にまだ帰っていない生徒や、 交通機関が乱れてその日登校できなかった生徒もいる。 また中国人に突然家を追い出されて、転校書類を持ち出せなかった者もいた。 そういう生徒のための事務処理を一人残ってやったのが、 国語漢文担当の及川先生だった。 年齢の割りに顔にしわが多くて、ウメボシというあだなの及川先生は、 温厚で戦争中も生徒を殴ったのは見たことがない。 善良な人だったに違いない。 本来なら学校の責任者である校長か教頭がやるべきその仕事を頼まれて引き受けた。 誰でも危険な外地からは早く引き揚げたい。 校長たちは単身赴任で家族は日本にいるのに、 「心配だから」と初期の引揚船に乗ってしまった。 家族のいるウメボシ先生が最後の引揚船まで残ったのである。 ↑旧青島日本中学校(現海洋大学)玄関:2007年 私はその転校書類で熊本中学に転入出来た。 後で分かったのだが、熊中は進学校で九州でも一、二を争う難関校だった。 学制改革で熊本高校になってからは、 毎年10人から20人の現役東大合格者を出している。 そういう学校に無試験ですんなり入れたのは、 青島中学の当時の偏差値が相当高かったわけである。 私も授業を受けてみて、青中と程度は変わらないと思った。 改めて同窓会誌を見てみると、 戦時中は陸士、海兵や一高など旧制高校の合格者を出していた。 しかし私たち青島中学の入学試験は、 学科試験はなく口頭試問だけで、落ちる者は少なかった。 ということは、 外地の小、中学校の方が内地よりも教育がうまくいっていたのかもしれない。
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武藤直大の「昭和ひとけた戦中記」
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軍人が先に返されたとは知りませんでした。しかしあまり
不安を感じない日々を過ごせたのはなによりです。
青島では中国人と比較的うまくやっていたのですね。
2008/5/17(土) 午後 5:53 [ kor*k*ro*chi*001 ]
確かに外地の小、中学生の方が教育の水準は高かったと思います。戦時中日本国内では学徒動員的な勤労奉仕、工場で或いは農業などの生産増加の為学業以外の作業に多く従事した為、学校での規定の授業教育等が遅れていたのではないかと思われます。確かに私も引揚げ後、外地てはそれほどでもなかった私の成績でしたが鹿児島の学校に転校編入した時、それを感じていました。良いのか悪いのか知りませんがいきなり、成績優秀な生徒?になってしまっていましたよ。そう云う情況でしたね。
2008/5/18(日) 午後 7:00 [ tadao678 ]
第一小学校の赤崎先生は東京を100とすると青島の子供は120位の力があると良く話しておりました。私が受験のため日本に帰ると聞くと帰るなと強く止められました。民団に移った第一の校長だった中村先生は中国人に灯火管制の指示をしなかったということで、即刻帰国命令を受け日本に戻ったそうでうです。先生から直接お聞きしました。当時中村先生は敗戦を知る立場に在ったので自分だけ早く帰国したとの話があったと、栗原先生からお聞きしました。切ない話です。
2008/5/18(日) 午後 7:39 [ 相子 ]
korokoroさん、兵隊を先に帰したのは、中国側としては、何をしでかすか分からない若い兵士を早く帰ったかったのではないでしょうか。青島では日本人も中国人も差別なく暮らしていたと思います。
2008/5/18(日) 午後 9:09
tadao さん。いきなり優等生とは良かったですね。私はそこまではいかなかったけど、、相子さんの言われるように、青島の小学校の先生は、内地より粒ぞろいだったと思います。それは後々、子供の小学校の先生と比べてもね。
2008/5/19(月) 午後 6:38 [ 武藤 ]
武藤さん、笑はないで下さい。本当に優等生になったんですから・・
県立の中学校に転校してから直ぐ、家庭の事情もあってか授業料免除、学校はそのまま学制改革で高校になりましたが、育英資金を貸して頂くようになり大学卒業するまで続けてもらいました。あと返済が大変でしたが20年かかって終了することが出来ました。私が長男で兄弟6人(男3、女3)親も大変だったと思います。一時は祖父母を含め10人家族、今でしたらとても生活はと、思うと親には大変感謝しています。父は96才、母は91才で他界致しました。
2008/5/20(火) 午前 11:11 [ tadao678 ]
世上无难事,只怕有心人。とは言いますが、しかし、なかなか現実は難しいのです。
2017/5/5(金) 午前 0:05 [ ぜ ]