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「台西鎮」今昔物語 <この記事は旧青島日本中学25期生同窓会誌『魚山』 第22号(1999年6月)より転載させていただきました> ↑海から見た台西鎮方面(2007年写す) 「台西鎮」今昔物語 君田耕一 「台西鎮?…知ってるけど、行ったことないな−…」。 “在日青島人”もまことにソッケなく話題にもならない。 青島站の裏側から西南部一帯は「台西鎮」と俗称されていた。 当時の青島と言えば 中心は市政府(公署)、領事館のあった海岸線から山東路を北に上がって 市場、大港に至る一帯・・・銀座、丸の内、御堂筋と言う感じで、 特に大正時代に日本人が開発、建設した旧中野町、 女学校、第一小学校付近を中心に 山東路、第二小学校方面に日本人街がコロニーを形成し、 特に開戦後は「戦勝国」として、 軍を後ろ盾として特権を享受したことは否定てきない。 昭和14〜15年(1939〜1940)頃から 在留邦人が急激に増えて住宅難になり、 進出した国策会社がこの地区の民家を買い上げ、 又は借り上げて改造し社宅として利用し始めた。 昭和13〜14年(1938〜1939)頃はまだ余裕があり、 国民政府(重慶)系の要人や高官、財産家の中国人の屋敷を接収したり、 買い叩いてそれに当てていたようだ。 中には数百坪の前庭を持つ瀟洒な洋館を 社宅としてあてがわれていた幸運な家庭もあった。 私が青中時代5年間を過こした台西鎮も 旧時代の面影を残した古い街と都市計画に基づいた 文教・住宅エリアがモザイクの様に混在する開発途上のフロンティア。 街の一画にはスラム化したシナ人街(『城内』と呼ばれていた)が残っていて、 古くて汚いイメージがあった。 ↑古い家が残る台西鎮の風景(2007年写す) それ故か、日本人居留民は数少なく同級生も3〜4人。 上級生、下級生合わせても10人位のマイノリティーであった。 神戸川、登坂、君田、それに台西鎮ではなかったが、 通学路の関係で親しくなった下村、川久保が遊び仲間で、 「西鎮グルーブ」、又は何故か「経済ブロック」と呼ばれていた。 台西鎮は半島状の地形で、岬の突端に「団島」があり、 灯台、砲台跡、海軍の水上機基地があった。 ↑台西鎮の飛行艇基地(2007年) 歴史をたどると、14〜16世紀明朝時代、 約200年間(日本の室町時代に当たる) 猖獗を極めた倭寇の侵犯と密貿易の取締まりのため、 「台東鎮」とともに鎮台(城塞、軍事基地)が設けられ、城下町が形成された。 清朝になり、倭寇の鎮圧と徳川幕府の鎖国政策により、 その役割を失い元の小漁村に戻ったが、 18世紀、乾隆帝(1735〜1796)時代、内国貿易の港湾として復活、 税関が設けられ、小規模ながら沿岸商業都市の形ができた。 これが青島の原型である。 そして19世紀、阿片戦争をはじめ欧米列強の侵略が始まり、 1898年、青島はドイツ帝国の支配下に入る。 ドイツ時代15年、日本の軍政下に8年、 返還後は中国軍閥の支配と入れ替わり立ち代わり転々としたが、 国際色豊かな近代都市として大いに発展した。 『城内』は古代中国の地方都市に迷い込んだ気がしたものだ。 ↑古い街並みが残る台西鎮の風景(2007年写す) それても城門を一歩出ると赤い屋根にパステルカラーの壁、 という青島イメージは守られ、 上下水道、区画整理されて広い道路等が完備し、 学校、公共施設、運動場、中国人中産階級の住宅等々が 戦時中にも拘わらず続々と整備され、面目を新たにしつつあった。 今では超高層オフィスビルを中心に大規模住宅団地が林立し、 かつての面影は全くない。 ↑台西鎮のアパート群(2007年写す) ↑新しいマンションが続々と建築中である(2007年) (この項、次回につづきます)
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青島の街研究
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我々が青島に住んでいた頃(昭和6年〜19年)台西鎮はごちゃごちゃした貧しい中国人の町として知られ、日本人はよっぽどの用事が無い限り足を踏み入れる事はなかったと思います。黄台路に住んでいた頃、両親の革靴を庭に出して陰干しをしていたところ盗まれたことがあり(上等な靴だったらしい)ひょっとしたら噂に聞いていた台西鎮のショウトル市場に出ているかもしれないと父が誰かと一緒に行ったそうです。母のは見つからなかったそうですが、父のは出ていてみつかったとのこと、自分の物なのに代金は値切ったらしいのですが、買わされて帰ってきたと云う笑うに笑えない実話があります。この話、読者の中に経験のある方もおられるのでは・・・盗まれた物はその市場に良く出ていたそうですよ。もう現在はそんな市場は無いと思いまが昔話の一つでした。
2008/10/25(土) 午後 4:45 [ tadao678 ]
私は何も知らずに暮らしておりました。「青島の街研究」は勉強になります。
2008/10/25(土) 午後 6:41 [ はっさん ]
tadaoさん、はっさん、ショートル市場は有名な割にはどこにあったのか、誰に聞いてもよく分かりません。今はびっしりアパートが立ち並んでいます。自分の物をお金を出して買い戻すのは情けない気持ちになるでしょうね。
2008/10/25(土) 午後 7:37
小偸児市場には社会見学と言うことで、父に連れられて何回か行きました。折れ釘や半端な器。チンピとして使うのかミカンの皮。とに角いろいろなガラクタが地べたに並べられておりました。かなり広かったような気がします。戦後の東京池袋の露天市場は青島のあの市場を思いださせて呉れました。物が無いということの凄まじさは何処の国でも同じでしょうね。
2008/10/26(日) 午後 3:56 [ 相子 ]
相子さん、社会見学のために自分の子供をショートル市場に連れて行くお父さんは凄い方ですね。親は常にこうありたいと思います。戦時中の青島、戦後の東京、我々は何時も社会の裏側を見せられて歩いてきたような気がします。
2008/10/26(日) 午後 5:30
父は私を医者にし、中国人の為に尽くすのを願っておりました。そういうことで中国人の日常生活を、出来るだけ見せるようにしていたようです。食べ物も庶民のものを良く食べました。良い経験となったと思っております。坊子の軍の施設にも行かせましたので、下士官の侮れない力を知る機会となりました。当時としてもかなり鍛えられたと思います。
4年生の頃から姑娘をお供に連れて買い物にも行かせられました。怖気ないようにということだったのかも知れません。
2008/10/28(火) 午後 1:42 [ 相子 ]
相子さん、なるほど、父親というのはこうあるべきなのですね。相子さんの活躍ぶりにはいつも感服しておりましたが、この父にしてこの娘あり、ということが納得できました。あの外国で姑娘を連れて買い物に行かせるという教育もすばらしいですね。
2008/10/28(火) 午後 2:27