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「台西鎮」今昔物語(二) <この記事は旧青島日本中学25期生同窓会誌『魚山』 第22号(1999年6月)より転載させていただきました> ↑海から見た台西鎮方面(2007年) 「台西鎮」今昔物語(二) 君田耕一 さて、50年前に話を戻すと 当時の家の造りは中国伝統の「四合院造り」で、 広い中庭の東西南北に平屋の四棟が建ち大家族が同居するスタイルてある。 太平路〜貴州路にかけての海岸に面しては、結構豪邸も立ち並んでいた。 中心部に「青島学院」があり、私の住まいはその近くにあった。 黒い制服・制帽に白いゲートルの学院生の軍団に囲まれ怖い思いもした。 テキは小生意気にジエつけて歩く青中生をからかっているつもりでも、 当方は「白菊」で「グラマン」の群れに遭遇するようなものだ。 イザという時のため、自転車のチェーンをカバンに隠し持ったりもしたが、 チビ、ヤセで気弱な「少年K」は相手にもされず難は免れた。 ↑1992年ごろの青島学院跡(現青島第一中学)現在建物は残っていない。 私の家は中国式家屋(四合院)を改造した華北交通の社宅だった。 各部屋に畳を敷き浴室、トイレを改造した和中折衷型、 防犯のためか門塀がやたら高くバリアが埋め込まれて各部屋にカギが付き、 網入りの二重窓と物々しい感じ、 いま考えるとこの方式はセキュリティの面で大変合理的だ。 昔から外敵の侵寇には自らの一族郎党で守る・・・という伝統が 生きていたのだと思う。 近所の屋敷では武器庫があって 赤い房の付いた槍や青竜刀が保管されているのを見たことがある。 わが家から海岸を西に行くと岬になっていて突端が「団島」である。 ↑団島(岬)の突端(2007年) 団島には海軍の水上機基地があった。 毎日、零式三座水上偵察機が、朝離水し夕方戻ってくるというのが日課だ。 当時から飛行機といえば夢中だった私は、 飛行機の事なら「航空朝日」「海と空」等雑誌を片っ端から読んで 知識欲、好奇心は旺盛だったから、 近くで見たい、できれば乗って見たい、新型機の情報を見聞したいと日参した。 団島は海釣りの名所だったので釣竿をかついでだんだんと近づいて行き、 先任搭乗員や隊長と仲良くなった。 親しくなれたのは家に妙齢の姉が居た(なかなかの美形で当時18〜19歳)故だと思う。 「将を射んとすれば・・・」のウマになったわけ、 休業日ごとに家に遊びに来て食事したり、麻雀をしたり、 皆愉快で凛々しい若者たちだった。 彼らの任務は味方船団の護衛、哨戒、敵潜の撃破だが、 零式水偵は小型爆弾と7・7ミリの機銃一丁、 レーダーもなく鈍足の水上機、敵機に遭えば一巻の終わりと皆覚悟していた。 頼み込んで一度だけエンジン整備の試験飛行に同乗させて貰った。 高度300、エア・スピード150ノット、膠州湾を二回りした。 途中で排気管から黒煙が噴き出し金玉が縮み上がった。 操縦員は「オイル漏れだ、心配はない」と落ち着いて帰投、無事着水した。 このことは固く口止めされたので親兄弟にも明かさなかった。 昭和19年(1944)、敗色濃厚となって、未帰還機が多くなり飛行基地は閉鎖、 偵察機は飛ばなくなり、海防艦「盤手」や水雷艇も姿を消した。 ↑団島(岬)の哨戒機(2007年) 団島は敵の上陸に備えて要塞化されると聞いた。 昭和63年(1988)に魚山会の青島訪問旅行のとき旧わが家を訪れた。 辺り一面再開発の最中で住宅団地が林立していた。 わが家は取り壊しの寸前で外形は昔のまま、 中に入って見ると5〜6世帯が雑居して廃墟と化して幻滅の思いしきり、 「故郷は遠きにありて想うもの…」の感を新たにしたのであった。 いま思えば、我々の知っているチンタオは空間としてはまことに狭かった。 感覚としては東京で言えば千代田区ぐらいではなかろうか。 電車もなく路線バスも少なく、 自転車だって貴重品で遊びに乗り回すわけにはいかない、 行動範囲は徒歩1時間が精々だったと思う。 いまや、青島は「環海経済技術開発区」として急ピッチで変容している。 地下鉄が2本、湾岸高速道路は四方から北上し、 膠州湾を横断し膠州市に至る工事が始まっているという。 (完) (注)中国式家屋(四合院)というのは、青島では「里院」と呼ばれている。 北京の「四合院」は平屋であるが、青島の「里院」は二階建て、三階建てで、 共同の中庭を長屋形式の住宅が四方を囲んでいるというものである。 多くは水道やトイレは共同で、日本の江戸・明治時代の長屋生活を思わせる。 台西鎮をはじめ市内の各地に見られる庶民の住宅である。(青島満帆管理人)
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青島の街研究
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何だか凄い記憶と経験の話。男の子の興味が分りました。青島の団島へは父が時々釣りに行っていたようです。チヌを釣ったと言っておりました。
2008/10/28(火) 午後 1:29 [ 相子 ]
相子さん、面白くて貴重な記録ですね。1年ぐらい前、団島に住んでいるという年配の日本女性二人に会ったことがあります。「団島に住んでいるとはずいぶん”通”ですね」と言いますと、通の男性に誘われて住んでいるとのこと。今どき日本人が見向きもしない庶民の街に住もうという人もいるとは、うれしいことです。
2008/10/28(火) 午後 2:58
学院の近くに華北交通の社員の社宅があったとは知りませんでした。勤め先の青島駅が近かったのでその所為かもしれません。学院の生徒と青中の生徒とは各種対抗試合ではお互い張り合っていたので近くから青中に登校していた筆者にたいして示威行動をとったものとおもわれます。ちなみに学院創立した人は吉利さんと云われ鹿児島出身の人で私の父とは交友があり、終戦まで校長をしていました。しかし、台西鎮に当時日本人の住宅があったこ事、今回の記事ではじめて知りました。
2008/10/28(火) 午後 7:32 [ tadao678 ]
tadaoさん、学院創立者のお名前までご存知とは貴重な証言ですね。華北交通の社員住宅は私の住んでいた近くにもありましたから市内のあちこちにあったのでしょう。台西鎮にもあったというのはあまり知られていませんね。いろいろな事実を掘り起こしていきましょう。
2008/10/28(火) 午後 9:56
この記事の(1)台西鎮グループの中に登坂君の名を発見。二国の6年1組にいたのは本人だったのか弟だったのか。帰国して同窓会で一度会いました。高崎でお布団屋さんをしていました。
我が家からは遠かったので釣りに行ったのは2、3度。釣れる岩場が分からなくて、残念ながら空振りばかりでした。それでも懐かしい。
2008/10/29(水) 午前 10:47 [ 直大 ]
直大さん、同窓生の名前を発見しましたね。この記事の筆者は25期生ですからその弟さんでしょうか。「昭和ひとけた戦中記」に出てくるボラさんも25期生のようです。「魚山」誌には「どんびゃー」や及川先生も出てきます。追々載せたいと思っています。
団島の釣り場では成果がなかったとは残念でしたね。
2008/10/29(水) 午後 4:01
路遥知马力日久见人心。
道遠ければ馬の力を知り、日久しければ人の心を知る。
中日の長い歴史やいきさつの深さを一切捨てて、何やらおっちょこちょいの総理大臣が弱いおつむで、、、、。中国の影響や歴史を否定することは文化的自殺行為です。
2017/5/6(土) 午前 8:43 [ ぜ ]