|
20年前の第一小学校運動場 私と姉が第一小学校へ向かう周村路は、昔と全く変わっていませんでした。 私が小学校へ通う通学路でしたからよく覚えています。 途中、道端で遊んでいた女の子の写真を撮ったりしながら、 小学校の裏門に出ました。 様子は昔とちょっと違っていましたが、 あの大運動場は目の前にありました。 周りのスタンドもそのまま残っていました。 ↑この写真は2005年に撮ったもの。 (20年前に撮った写真は見つかりませんでした) ↑同上。 姉と二人、運動場を半周してスタンドに座りました。 運動場は工事中で中程に砂山が築かれ、 人影はありませんでした。 昔、このスタンドで、ボールを使った鬼ごっこをやりました。 グランドでは「駆逐・水雷艇」という遊びをやりました。 サッカーもしました。 誰にも邪魔されず、思いっきり駆け回りました。 内地の小学生には想像もつかない広い運動場では、 誰も仲間はずれはいませんでした。 ↑私たちが通っていた頃の第一小学校運動場。 始業ラッパ(当時は軍隊式のラッパ)が鳴ると、 グランドから一気に階段を駆け上り、 3階の教室まで息を切らせて辿り着いたものです。 今は、運動場と校舎の間に無計画に建物が建てられ、 あの重厚な校舎はスタンドからは見えません。 この広い運動場を走り回った思い出が、 次から次へと浮かんできて、 私たちはいつまでも、いつまでも、立ち去ることが出来ませんでした。 再び裏門から出て、坂道を登って武定路を左折すると、 小学校の正門前に出ます。 校舎は軍の施設になっていますから素通りします。 もうお昼をちょっと回っていました。 この頃、つまり20年前の青島の街は、食べ物屋があまりありませんでした。 食べ物屋を捜しながら、 私たちの足は、元日本人商店街の「中の町」へと向かっていました。 武定路と上海路の交差点まで来ると、包子(肉饅頭)の店がありました。 ↑ここに包子の店が、ぽつんと一軒あった。 (写真は2004年撮影のもの) 私たちが入って行くと、若者が二、三人たむろしていましたが、 すぐテーブルの上を片付けて、席を空けてくれました。 彼らは、姉がつけていた「日中友好交流団」の札を見て、 私たちが日本人だということはすぐわかったようです。 この店の息子だという若者が、私たちの隣に座って話しかけてきます。 彼は大学で法律を勉強しているインテリのタマゴでした。 突然の日本人の闖入は、この若者の興味を大いに刺激したらしく、 日本人の生活や、姉の家族について色々聞いてきます。 私たちは筆談を交えて何とかおしゃべりができました。 ↑店の息子とおしゃべり。 包子を食べ終わって空腹を満たした私たちは、 さらに「中の町」(聊城路)へと歩きます。
|
想い出の青島
[ リスト ]





あの重厚な小学校のような校舎は今までほかに見たことがありません。経済発展をした日本ですから、どこかに在るかもしれませんね。それでもあのように広い校庭は持てないでしょう。
2008/12/15(月) 午後 0:27 [ 相子 ]
相子さんが云われるように一小のような堂々とした校舎と広い校庭、運動場をもった学校には未だお目にかかった事がありません。又先生方も優秀な方が多かったと思います。三年からは新設の三小に移りましたが、殆どの先生方も一小から移ってこられた先生方でした。こう云う所で又素晴らしい先生方の下で学ぶ事が出来た私は本当に「幸せ者だった」と今でも思っています。
2008/12/15(月) 午後 4:56 [ tadao678 ]
相子さん、校舎も立派でしたが、あれだけ広い運動場は日本では造れないでしょうね。他のクラスの遊びとぶつかることなく、思い切り走り回ることが出来るという運動場はどこにもなかったと思います。
2008/12/15(月) 午後 10:06
tadaoさん、ほんとうにこんな素晴らしい環境で学べたということは幸せでした。
現在の青島も少子化が進み、設備の古い中学校は廃校になっています。
この第一小学校を元に戻して、広々とした小中学校を作って欲しいですね。いい教育が出来ると思います。
2008/12/15(月) 午後 10:15