青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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霧の中から(完)


<この記事は、

青島日本中学第25期生同窓会誌「魚山」第19号

(平成10年(1998年)5月発行)より転載させていただきました>



◆霧の中から(終曲)

  ロスよ さらば
      
             井上睦三



昭和15年(1940年)4月、

私は青島第二小学校から青島中学校に入学した。

私には2入の兄がいるが、

その年、青中を卒業して東京の大学に行ってしまった。

父の仕事は済南と開封に店があった関係上ほとんど留守だったので、

青島の我が家は、母と私2入の静かな暮らしになってしまった。

父はその事を気にしていたのか、

新聞の広告にシェバードの子犬売ります、

とあるのを見て大を飼うと言い出した。

無論、私は賛成した。

売り主は白系ロシヤ人で、母犬は6匹の子犬に乳を飲ませていた。

その中から一番元気そうな雄を選び連れて帰った。


生まれて2ケ月余りで、

慣れない環境に始めはオドオドして母親の匂いを探すように頭を持ち上げ

悲しげに泣いていたが、

牛乳のお粥を与えると小さな尻尾を振りながら喜んで食べ、

時々菓子を与えて頭を撫でてやると安心したのか、

うずくまって寝るようになったのでホッとした。


名前を色々と考えたが、

ロシア人の所で生まれたのだから

露助・・・ロスケ・・・ロスと名付けた。


   ■   ■

イメージ 1

↑海浜公園(現魯迅公園)楼門。




ロスは初めは名前を呼ばれてもキョトンとしていたが、

次第にロスと言われて反応すると褒められると分かり、

尻尾を振ると食べ物が貰えるし、

ワンと答えると又呉れると覚え、

私を見つけると大急ぎで駆け寄るようになった。

そしてチョコンと座って私を見上げる動作は実に可愛くて、

私も吹第にロスに愛情を深めるようになった。

ロスは日増しに食欲旺盛となり、

グングン成長し生後4ケ月ともなれば体重も15キロ位になり、

散歩の折引き紐を力強く引っ張り出した。

ロスは大小屋に繋がれるよりも、解放されるのが好きだとみえ、

朝明るくなれば甘えるような声を上げて私を呼び、

散歩に行こうと催促するようになった。

お陰様で私は早起きの習慣になってしまった。

イメージ 2

↑莱陽路(2005年)。階段の上に金口一路がある。




私の家は金口一路で、海浜公園の赤門から上の丘にあったから、

散歩道は大概海浜公園の海岸コースだった。

海岸に平行して莱陽路があり、丘の上には赤い屋根の家が建ち並び、

それぞれの住民の国籍・・・英、米、仏、独、伊など

色とりどりの旗が青空に閃いていた。

夏休みになると、ゆっくり散歩ができ楽しかった。

時たま外人の若い男女がパンツ姿の半裸に近い格好で、

戯れるように抱きキスをしながら歩いて来るのに行き交うと目を丸くしたものだ。

男女7歳にして席を同じくせず…の教育を受けた私には唖然とするばかりだ。

なんだこの野郎! 

とばかり、石を拾って2、3発海に向かって投げると、

アイヤ! 

と中国人の男女が岩陰から飛び起きて現れた時には驚いた。

私は自分の嫉妬心とひがみ根性を恥じ、思わず挙手の礼で謝った。

イメージ 3

↑海浜公園(現魯迅公園)の岩場(2005年)。




■   ■

加藤島の沖には白い軍艦が5、6隻停泊していた。

アメリカの極東艦隊で、旗艦の巡洋艦オーガスタと駆逐艦だ。

誰かが彼らは青島に避暑に来ているのだと言った。

そう言えば、毎年夏になると航海してきたように思う。

その他にイギリス、フランスの軍艦も見られた。

艦体の色は白か灰色だった。

それらと対峙して我が一等巡洋艦足柄は黒々と、どっしりと浮かんでいた。

・・・やがて彼等の艦隊と南太平洋で戦火を交える気配が、

じわじわと迫る世情となりだした。

イメージ 4

↑加藤島(現小青島)から海洋博物館(旧海軍基地)を望む。




ロスは益々たくましく成育し、毛の色も艶が出て、

茶色の地毛に背中が黒く耳もピンと立ち、生後1年だが成犬らしくなった。

父と一緒に散歩の折、父がロスを引き留めている内に、

私が遠くに行き岩陰や水族館の建物の陰に隠れて口笛を吹いて呼ぶと、

一目散に飛んで来て近づくと地面を嗅ぎすぐに私を見つけ出した。

ロスは私が登校の折付いて来ることがあった。

私が叱ると立ち止まり、見えなくなると走って来て、

又叱ると電信柱の後ろに隠れて首だけを出して見つめている。

何度か繰り返している内に姿が見えないので安心して歩を進め、

校門で日の丸の国旗に挙手の礼をしている時、

サッとロスが走り抜けたのには驚いた。

朝礼の折、運動場をウロウロしたり、

時には廊下から教室を覗きこみ私を慌てさせたこともあった。

早速帰宅後に、ボーイに

厳重にロスを家の外へ出さないように注意をしたけれど、

上手く抜け出してしまうのである。

中学1、2年生の夏休みは呑気に釣りをしたり、忠の海で泳いだりした。

忠の海の浜は午前中だったら人影も少なく、

海水も綺麗に澄み、海底の砂の波形までハッキリと見える状態だったので、

よく泳ぎに行った。

ロスも付いてきて、私が泳ぐと波打ち際でウロウロしていたが、

私が遠く浮き台まで泳ぎ出すと

後ろの方でパタンパタンと水を跳ねる音がするので、

振り返るとロスが一生懸命首を伸ばして泳いで来だのには驚いた。

岸から5、60メートルはあるだろうか、兎も角ロスを浮き台に引き上げ、

一休みしてまた岸の方へ泳いだこともあった。

イメージ 5

↑忠の海(現第一海水浴場)。



   ■   ■


昭和16年12月8日ついに大東亜戦争が勃発した。

もうノンビリとした時節ではなくなった。

毎月8日は登校前に青島神社に参拝し、武運長久を祈った後、

先生から証明印を貰ってから学校へ行かねばならない。

家から往復6、7キロは歩かなくてはならないので

その日は早起きして寝不足となり、授業中に眠くて困ったものだ。

湛山の陸軍病院の道普請や飛行場の草引き、

大港埠頭で貨物船に石炭やポーキサイトの荷役の勤労動員等々の

炎天下の労働は辛くも懐かしい体験だった。

ことにボーキサイト原石を2人組でモッコを担いで運び、

数千トンの貨物船に積み込むのだが、

全校生徒がドンドン朝から夕方までかかって運んでも目標に達せず、

数日続いたものだ。

誰もが真っ黒に日焼けし、肩はパンパンに板のように凝ったが、

この原石がやがて隼、ゼロ戦になって大空に羽ばたいてくれると信じ、

皆歯を食いしばって頑張り汗を流したものだ。

こんな状態の日常だったので、もうロスとは遊ぶ気分が失せてしまった。

                   (「ロスよ、さらば」次回に続く)

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湛山の陸軍病院に学校から選ばれてお見舞いに行きました。あの道路の道普請は青島中学生がされたのですね。我が家の犬は「デコ」と言いました。名前の由来は顔が凸凹していたからです。雑種でしたが大変利口で、食事を上げるのは私の役目でした。日本に帰るときは別れるのが悲しかったです。

2009/1/11(日) 午前 11:21 [ 相子 ]

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懐かしい写真を見て感激!金口一路から海浜公園への道は何本もありましたが、私はもう少し忠の海寄りの細い道を、釣竿を持って、或いはフンドシ一つで駆け降りたものです。海浜公園の岩場も潮の満ち干で姿を変えるのですが、今回の写真は半ば位の潮時ですね、何百回も見ています。
それにしても井上さんの日常は、私もそっくりやっていたことで、シェパードを飼っていたことまでまでねぇ。
というわけで、これを書いている途中で高松市の井上さんに電話しました。
すると、お元気ですねぇ、電話口にいきなり出てこられて話がはずみました。25期の先輩方は今でもNHK朝ドラの舞台を追ってクラス会をしていて、昨年は篤姫の鹿児島だったとのこと。メールアドレスを教えていただいたので、これからもずっとお話できそうです。

2009/1/11(日) 午前 11:31 [ 直大 ]

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直大さん、25期の井上さんと電話で話が弾んでよかったですね。お互い近所に住んでいてあわなかったのは・・・・不思議ですね。私達の場合も同じ黄台路近くに居て私のようなわんぱく坊主をしらなかったのですから・・・・直大さんあまり周りの人に関心がなかったのでしょうかねぇー。小黄台路と黄台路の交差点近くには青島病院の医師新宮さんの息子さん二人、年は我々と同じぐらいの年の人が住んでいましたが、第2小学校に通学していましたよ。現在お二人とも故人となっています。(兄正久、27期、弟光二、30期)

2009/1/11(日) 午後 1:05 [ tadao678 ]

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相子さん、私も一度陸軍病院まで行きましたが、今思うとずいぶん遠い所だったのですね。どこを歩いたのか覚えていませんが、帰りは丘の上のお伽の国のような家が並んでいる道を通りました。
我が家の犬はメリー。小さいときに飼っていましたが邦人総引き揚げのときに別れました。犬にまつわる思い出は尽きませんね。

2009/1/11(日) 午後 1:40 bad**uan1*3

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直大さん、井上さんとお話が出来たそうで、よかったですね。きっと話が弾んだことと思います。お話の内容は分かりませんが、私までつい感激してしまいます。写真も、あの辺は私も好きな場所でよく撮りに行きました。歩けるようになりましたらまた撮ってきます。25期の方々の記事、これからも載せていきます。ご期待ください。

2009/1/11(日) 午後 1:48 bad**uan1*3

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tadaoさん、子供の頃はすぐ近くに住んでいてもなかなか知り合うチャンスはありませんでしたね。
新宮さんの末弟光二さんとは一度、川村さんのツアーで一緒になりました。私より年下なのに昔のことをよく覚えていましたが、その後間もなく亡くなられたということを聞き驚きました。

2009/1/11(日) 午後 1:57 bad**uan1*3

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光二さんは福岡市の次郎丸と云う所で小児科の病院を経営していました。私が福岡の会社に転勤になった時(昭和53年)福岡の青島会でお互いお会いし、お互いびっくりしたことがありました。兄さんの正久さんも当時宮崎で内科医院を経営していると聞きましたが、二人とも若くして亡くなられたことになります。新宮家の出身地は九州の大牟田?と聞いておりましたが・・・・同じ黄台路の住人だった者としてまた、黄台路住人の内、羊会会員の柳ヶ瀬君、本原君、蜂屋君、の3人も黄泉の人となことは真に残念にな事だと思っています。

2009/1/11(日) 午後 2:27 [ tadao678 ]

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tadaoさん、福岡出身の方は多いですね。お医者さんで、しかも長寿の時代に早く亡くなられるとは、本当に残念です。
先週、私の教室に初級クラスがひとつ増えましたが、その生徒の中に小さいとき黄台路39号に住んでいたという女性がいました。日本語が上手になったら、いろいろ話を聞いてみたいと思っています。

2009/1/11(日) 午後 6:18 bad**uan1*3

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黄台路の住所番号は坂下から左側が偶数番号、右側が奇数蛮号となっていましたので私の住んでいた家の番号が44号でしたから斜め下の近い所に住んでいたと思われます。戦前からか、戦後からか何時頃から住んでいたのでしょうかね。斜め上の向かいには昔から警官の詰め所がありましたが、今でも在るようですね。

2009/1/11(日) 午後 8:08 [ tadao678 ]


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