青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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青島引き揚げ(終)

青島引き揚げ(終)


<この記事は、青島日本中学25期生同窓会誌「魚山」

 29号、30号から転載させていただきました。

 終戦から引揚げまでの青島の状況が詳しく書かれています。

 筆者は当時青島日本中学校の国語教師で、

 文中「彼」と書いてあるのは筆者自身ことです。>

イメージ 1

  ↑引揚者が集合した青島神社(現貯水山公園)。
   写真:青島アカシア会提供「青島写真帳」(昭和8年版)より。




青島引き揚げ(終)
    
           及川作松

いまはもう何よりも早く無事、日本に帰りたいという一念しかなかった。

中学校の職員の出張(残留)命令は1月末になっていた。

だから1月中には職員のほとんどが帰り、

2月をこえたのは2、3名に過ぎなかった。

それが4月ともなったので領事館に行って

その訂正をしてもらわなければならなかった。

領事館も以前のようにたくさんの人はいなかったし、

机その他の道具も少なくなって寂しく感じた。

幸い総領事をはじめ、それぞれの責任者は皆残っていて会えることができた。

総領事はいままで残ってやってくれたことに対して心から感謝しているように

「ご苦労さんでした」と何度も言っていた。

そして、係りの人に手続きを命じ、自ら岩手県知事宛の手紙を書いてくれた。

「このように書いてあげますから」と言って封じる前に見せてくれた。

その内容は、

「責任者として最後までただ一人ふみとどまって

学校の残務整理や民団の終戦処理に尽力し、

完全にその職務を果たして帰る功労者である」

ということ

「岩手に帰ったらよろしくたのむ」と言うことがしたためられていた。

そしてなお

「外務省の方からも県に推薦してやるようにしますから」とも言っていた。


4月の14日、いよいよ引き揚げの日が来た。

許可されただけの荷物をトラックに積んで、

指定の集合場所である青島神社前の広場に集まった。

これがほとんど最後の船で、

あとしばらく間を置いて一回出るというのであったから、

帰る人々は多かった。

民団長も総領事もいっしょだった。

皆で青島神社に最後の参拝をし、それぞれ係員の指示に従って班を編成した。

彼は一つの班の班長に推された。

逐次トラックが荷物と人を埠頭に運んだ。

埠頭の広場には先着の順にたくさんの荷物が並べられていた。

縄をとき中を開いて容易に検査ができるようにさせられた。

そしてその家族はその前に立たされた。

検査官は皆中国側の官吏であるが何しろ荷物が多いのでなかなか来なかった。

行李やトランクの底まで一つ一つ取り出して

細かく調べられるところがあるかと思えば、

ちょっと手をかけて上の方だけ少し見たくらいにして

「よし」というところもあった。

彼のところなども教育者という職業柄、

悪いことはできないと信用してのせいか、

ごく簡単に済みトランクの中にタバコがよけいにあると言って

少しとられた程度だった。

こんなことなら、貴重品をあんなに置き捨ててくるんでなかったと、

にわかに後悔されたが、

しかし禁制品を何一つ隠して持ってないということが態度を落ち着かせ、

堂々と検査をうけたからでもあったろうなどと考えられもした。

身体検査は上着のボタンを全部はずして

両手を肩の高さに水平に左右に伸ばして検査官の前に立たされた。

係官は内ポケットまで一通り調べて見て

何もあやしいものがなければ「よし」といった。

彼はもちろん何もなかった。

女性は子供でも皆カコイの中に入れられるから外部からは見えないが、

検査官は中国の婦人で検査はかなり細かかったらしい。

帯までとかせて調べたということであった。

指輪などしておれば皆とってしまった。

係員の手の指にはたくさんの指輪があったと妻は言っていた。

イメージ 2

  ↑青島埠頭。
   写真:青島アカシア会提供「青島写真帳」(昭和8年版)より。




全員の検査が終わって

いよいよ荷物を船(船と言っても狭いアメリカの上陸用舟艇であった)

に運ばなければならなかった。

彼の一家は妻と娘二人の四人でフトン袋だけでも4個、

それに行李とトランクで8個、

他にリュックサックその他幾つか小さな荷物があった。

リュックサックはめいめいで背負った。

重いフトン袋は多少手伝ってもらえたが、

行李のときは地上には手伝ってくれる誰もいなかった。

自分達で行李を運はなければならなかった。

リュックサックを背負い、重い行李をかついで、

岸壁から船にかけ渡した板の橋を渡るときには

ほとんど生きた心地がしなかった。

よくぞ運びこんだと、いまでも思い出しては身ぶるいを感じる。


荷物は荷物で舟艇の前の方に積み重ね、

人々は大切なリュックサックくらいを持って

船の真ん中を少しあけて向かいあって、

10人くらいずつの一列縦隊をつくって並んだ。

やっと中央にたてに通れる位の通路を残したのみで一杯だった。

しかもそのまま座ってそこがめいめいの座席であった。

だからやっと座ったきりで横になることはもちろん、

身動きも容易でない位だった。

かくて船は湾内にとまったまま日は暮れて行った。


思えば5年前、大東亜建設の声に躍らされ、

尽忠報国を誓って海を渡り、勇躍上陸したこの埠頭、

妻子もろとも身を挺して奮闘したこの大陸、いまはすべて夢となったが、

ああわれ何のかんばせあって故国に帰らんとする。

暮れゆく蒼い海原を眺めて涙は尽きない。

「ボー」という汽笛が泣くがごとく訴えるがごとく

青島の後ろの山々にこだまして響いた。

(完)

閉じる コメント(4)

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及川先生はふけて見えたけど、当時40代だったのかな。文の節々に使命を果たしたプライドが感じられますね。
総領事は喜多さんだったと思います。いいことしてくれたんだなぁ。

重い荷物運び、僕もやりました。思い出すのは、そうやってやっと日本に持ち帰った布団包みを、鹿児島の加治木の埠頭に置いて一夜を明かしたら、盗られてしまったこと。国鉄に届けて、半年後ぐらいにわずかな弁償金を貰いました。まだ忘れてないんだなぁ。

2009/10/31(土) 午前 10:34 [ 直大 ]

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及川先生本当に色々と御苦労様でした。帰国されてから郷里でまたご苦労された事と思いますが・・・報われておられたでしょうか・・。
直大さん、帰国地は加治木だったとの事、私の郷里重富(姶良町)の
隣町が加治木町、帰国後加治木の高校に通学していました。私達家族(父は2年後帰国した)は終戦の年の11月末帰国していたので、もし分かっていれば、加治木港で会えたかもしれませんね、運命の悪戯、鹿児島には青島からの帰国船が何隻も入港していたのですね。

2009/10/31(土) 午後 1:57 [ ターチャン ]

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直大さん、及川先生は自分の果たした役割に十分満足されたことでしょう。総領事が帰国後の配慮をされたこともうれしかったでしょう。この記録を書き残してくれたことで、当時の状況を詳しく知ることが出来ます。ありがたいことです。

重い思いをして折角持ち帰った布団袋が盗まれてしまったとのこと。日本も貧しかったのですね。

2009/10/31(土) 午後 2:30 bad**uan1*3

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tadaoさん、及川先生の戦後はどのようにお過ごしだったでしょうか。気になりますね。

私は佐世保港に上陸しましたが、鹿児島港に回された船もあったらしいですね。佐世保から東京駅まで引揚者専用の列車が出ましたが、大阪あたりで打ち切られそうになり、世話役に選ばれた人が駅側と交渉したりしてたいへんでした。
人間いざとなればみんな助け合いますね。

2009/10/31(土) 午後 8:14 bad**uan1*3


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