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“終戦秘話” 私の八月十五日 ―終戦前後10日間の回想― (一) 内藤道久 <この記事は、青島日本中学第25期生同窓会誌「魚山」第34号から 転載させていただきました。 筆者はこのブログではお馴染みの内藤道久さんです。 ハワイのホテルで聞いたアメリカ陸軍の起床ラッパから、 終戦前後の思い出を語ります。 どうぞご愛読ください。> ◆まえがき 1988年9月上句、アメリカ旅行の帰途ハワイに立ち寄り、 ワイキキビーチに面したホテルに宿泊した時のことでした。 朝、目を覚まして窓を開けると沖合からの涼風が心地よく、 再びベッドに横たわりウトウトしていると、 突然耳に入って来たのが何とアメリカ陸軍の起床ラッパ・・・、 懐かしさの余りにすぐにベランダに飛び出し、 感慨深く聞き入ったことでした。 「しかし、何で?」との疑問が湧き、 朝食前に日本語に堪能なフロントマンに尋ねると、 ハワイには海軍の太平洋艦隊のみならず陸軍の諸部隊も駐屯しており、 ワイキキビーチ南端のダイヤモンド・ヘッド近くにも 陸軍歩兵部隊の兵営があり、 風向きによっては起床ラッハがよく聞こえて来ますよ・・・ とのことでした。 ところで、なぜアメリカ陸軍の起床ラッパが懐かしいのか? 実は払の終戦秘話を語る時、 このアメリカ陸車の起床ラッパは欠かすことのできない思い出なのです。 ↑写真は10年前の北京駅。 1999年、建国50周年で賑わっていた。 ◆ 北京経専に進学、勤労動員へ 昭和20年4月、私は同期の 山口昭雄、佐藤善昭、浜田三郎、吉田文雄の諸兄とともに 北京経済専門学校に進学しました。 理工系志望の内藤がなぜ経専に?・・・とよく聞かれましたが、 青中5年の夏休み、 帰青中の北京大学理学院学生・森川知弥先輩(23期)にお会いして 色々と話を伺い、北京大学工学院への進学を決意し、 8月の入試まで森川先輩の助言に従って 北京経専で中国語の研修に励もうとしたものでした。 経専の寮に入りましたが、 私の机の本立てには数学・物理・化学の参考書ばかり、 それても同室の二人の上級生・・・ その中には青中先輩の小山忠夫兄(24期)もおられました・・・ は大変に好意的で、「頑張れよ」と私の北大受験を励ましてくれました。 既に法文系学生の徴兵猶予は停止され、 さらに徴兵年齢の引下げで3年生の姿は殆どなく、 5月に入ると2年生の出征壮行会が催されてほぼ全員が現地入隊し、 6月上旬には我々1年生にも学徒勤労動員令が下り、 《北支那野戦貨物廠北京支廠》という北支派遣軍の兵帖(物資補給)基地に、 泊まり込みの勤労動員となりました。 この野戦貨物廠とは天津に本廠があり、 兵器・弾薬等を取扱う《兵器廠》に対して糧抹・被服一切を貯蔵・管理し、 これを前線の各部隊に補給する基地でした。 北京支廠は北京近郊の《豊台》という地にあり、 数十万坪の広大な敷地内に体育館のような巨大な木造倉庫20数棟が 50m間隔位に建ち並び、小規模ながら農場・牧場もあり、 その間に鉄道線路が縦横に敷設され、 連日後方各地から貨車便で糧抹・被服類が入荷し、 これがまた貨車・トラック便で前線各部隊へ発送・補給されていました。 支廠長は主計大佐で、 木造平屋の本部事務所はまるで民間企業並の雰囲気、 糧抹等の物資は結局は民間業者の手で集められ、 それを北京駐在の商社マンが売り込みに来ているようでした。 本部の部課長も全員が主計将校ですが、 多くが応召の予備役将校で、 出勤するや腰の軍刀は帽子とともに帽子掛けに掛けっぱなし、 長靴は脱いでスリッバ履き、 事務員・タイピストには《陸軍筆生(ひっせい)》と呼ばれる身分の 妙齢の女子軍属の姿も目立ち、 これが帝国陸軍の野線兵站基地かと思うほど和やかな雰囲気でした。 ここでは、我々は“学徒報国隊”または“報国隊”と呼ばれ、 級友の内、商業学校出身で簿記・ソロバンができる数名の者は この本部に配属となりましたが、 私が配属となったのは糧秣部の現場事務所で、 連日のように貨車便で入荷する糧秣類を、 武装兵士1名の警備のもと20名位の中国兵捕虜を使って 所定の倉庫に運搬・格納する作業の監督代行などが主な仕事でした。 ↑地図:青島から北京へ。当時は列車で24時間の長旅だった。 ◆ 聞き慣れないラッパの音 基地内の生活は、いわゆる内務班生活で新兵同様の厳しい規律でした。 ほぼ80名の級友が三班に分けられ、 各班には伍長か兵長の班長が配属されました。 入隊した翌日の朝、 7時寸前に目が覚め、不寝番の声を今や遅し・・・と待っていると、 遠くの方から起床ラッバが鳴り響き、 それを合図に不寝番の「起床!」の大声が兵舎の中央通路に響き渡りました。 その時です。今度は別の方向から、 全く聞き慣れないメロディーのラッバの音が聞こえて来たのです。 軽快で明るい音色に私の音楽的好奇心が高まりました。 何のラッパだろう? と、その日出勤すると、 私はすぐに大阪出身という直属上司の軍属の係長に尋ねました。 すると全く意外な返事が返って来たのです。 「あれかいな。あれはアメリカ兵捕虜収容所の起床ラッパだよ。 夜も就寝ラッバが鳴っているだろう・・・」。 私は一瞬唖然としました。 貨物廠構内には中国兵捕虜のみならず、 アメリカ兵捕虜も収容されていて、各種労働に従事しているとのこと。 しかし、米英撃滅・鬼畜米英が叫ばれて久しく、 銃後では英語の使用は禁止、 ジャズなど敵性音楽の演奏も厳禁と言う非常時に、 大日本帝国の真髄たるべき帝国陸軍の基地内で、 日夜、敵国アメリカ軍の起床・就寝ラッパが 堂々とマカリ通っているとは!? 陸士出身現役将校のいない貨物廠は何と軟弱(寛容?)なことか? これがその時の率直な感想でした。
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内藤さんは終戦時学徒勤労動員により北京の日本陸軍の北支野戦貨物廠に派遣され、そこで終戦を迎えられた模様ですが、私も青中(29期)から天津中学に転校していて天津の本廠である野戦貨物廠に学校より勤労奉仕として周に3〜4日ほど出向いておりました。偶然にも内藤さんとは北京、天津の違いはあるものの当時同じ貨物廠での勤労奉仕をしていた事になります。天津でも中国人の労働者は働いてはいましたが捕虜だったかどうかは私には分かりませんでした。またその他の外国人には全く域内では合う事はありませんでした。
2009/11/7(土) 午後 2:15 [ ターチャン ]
tadaoさん、天津と北京、内藤さんと同じ野戦貨物廠で勤労奉仕をしていたとは・・・。偶然とは言え、聞いてみればすぐそばで暮らしていた・・・ということはたくさんあるかも知れませんね。
内藤さんの話、続きがまた波乱万丈。おかしくて、悲しくて、ジーンと来るエピソードがいっぱいです。
楽しみにしてください。
2009/11/7(土) 午後 3:53