青島満帆

戦争は、勝った側も負けた側もこんな馬鹿馬鹿しいことはない」黄瀛

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青島の邦人教育史概略

青島の邦人教育史概略



1914年(大正3年)11月、対独青島攻略戦に勝利した日本軍は、

同年11月16日、青島入城式を行い、

3日後の19日に軍政を施行しました。

青島攻略戦を指揮した久留米第18師団長・神尾中将が

初代守備軍司令官に着任しました。


神尾軍司令官は、

「小学校ハ軍司令官ニ於イテ必要ト認ムル地ニ之ヲ設置ス」

という青島守備軍小学校仮規則を定めて、

1915年(大正4年)4月、青島小学校と李村小学校を開校しました。

イメージ 1

  ↑青島に最初にできた青島小学校(後の青島第二日本尋常小学校)。
   元ドイツ総督府実科学校跡。




その一ヵ月後の同年5月、神尾軍司令官は転任し、

後任の第二代軍司令官には広島第5師団長の

大谷喜久蔵中将が任命されました。

大谷軍司令官の経歴は、

陸軍士官学校教官をはじめとし、

教育総監の参謀、参謀長、本部長、

陸軍戸山学校校長など、いわば教育畑を歴任し、

教育部門に最も精通した将軍でした。

大谷軍司令官は青島邦人の高等教育の充実に精力的に取り組み、

1915年4月、青島高等女学校の開校(ドイツ高等女学校跡)。

1916年4月、青島中学校の開校(ドイツイルチス兵営跡)。

などを迅速に実現させました。

中学校、高等女学校の開設に当たっては、

広島師団長時代の人脈を生かし、

広島高等師範学校校長、幣原坦氏の意見を参考にし、

教師も広島高師出身の優秀な人材を選抜して迎え入れました。

青島中学、高女の卒業生から多彩な人材が輩出したのも、

これら優秀な教諭陣が揃っていたためであることは言うを待ちません。

イメージ 2

  ↑ドイツ・イルチス兵営。青島中学はここで開校した。




青島中学開校後間もなく大谷軍司令官は離任しましたが、

市内の小学校を二校に増設したほか、

中国人のための教育機関「公学堂」の設立を立案しました。

これは実現を見なかったようですが、

青島守備軍公学堂規則(大正6年6月26日公布)には、

「公学堂ハ支那人ノ児童ヲ教育スル所トス。

(略)其ノ生活ニ必須ナル普通ノ智識技能ヲ授クル以ッテ本旨トス」

とあるように、当時教育を受ける機会のなかった中国人児童にも

平等に初等教育を受けさせようという趣旨でした。

修業年限は5年で、授業料は無料、

授業科目には女子のための「裁縫」を取り入れるという斬新なものでした。


さらに、大谷軍司令官の後を引き継いだ青島軍政署は、

昼間勤務している邦人のために、

支那語夜学校を開校しました。

予科と本科があり、修業年限は共に6ヶ月でした。


青島守備軍の学校建設事業は休む暇もなく、

1918年(大正7年) 4月、第一小学校が武定路に新築移転。

同年          5月、青島高等女学校が黄台路に新築移転。

1921年(大正10年)6月、青島中学校が魚山路に新校舎落成移転。

と続きます。


青島における教育機関の充実はこれだけではありません。

私学に於いても、1916年(大正5年)3月、

鹿児島県出身の教育者・吉利平次郎氏が創設した、

青島英学塾(後に青島英学院)があります。

同校は翌年4月、青島学院(実業学校)と名を改め、

1917年(大正6年)、

第一小学校(館陶路)が移転した跡の校舎を改築して移転。

1921年(大正10年)5月、

青島学院商業学校として発足しました。

1934年(昭和9年)台西鎮単県路に新校舎が落成移転。

青島学院はさらに、1938年(昭和13年)4月、

青島紘宇高等女学校を開校し、

青島邦人の女子高等教育は一段と充実しました。

この学校の最大の特徴は、現地中国人にも広く門戸を開き、

入学前の日本語教育を施す予科を設置したことです。

青島学院と紘宇女学校は、クラスの半分は中国人と韓国人で占められ、

日本人生徒と机を並べて学び合ったのです。

イメージ 3

  ↑単県路の青島学院商業学校跡。1992年撮影。
   現在この跡地には青島第1中学校が建っている。




1922年(大正11年)12月、青島の租借件返還に伴い

青島守備軍は完全に撤退し、

1923年4月から邦人諸学校は居留民団立となります(私学を除く)。


この年、滄口日本尋常高等小学校開校。

9月、第一小学校の四方分校が独立して

四方尋常高等小学校が開校します。

イメージ 4

  ↑四方尋常高等小学校。




そして、1941年(昭和16年)4月、

市内松山路に第三小学校が開校しました。

青島各小学校の教諭は、内地各地から優秀な人材が選ばれ、

生徒の教科目の習得度水準はかなり高いものだったと思われます。


軍政時代の各学校諸経費は守備軍の負担でしたが、

民団移行後の経費は、外務省の特別会計、

つまり、対中国事業特別会計から支出されました。



※前回ブログの記事「青島第一日本国民学校の変遷」に、

つぎのようなコメントをいただきました。

中国語で書かれていますが意味はお分かりだと思いますので、

原文のまま載せます。ご覧ください。


◇  ◇  ◇  ◇


1915年初,日本當局在青島成立兩所小學,

青島第一日本尋常高等小學校,設於廣西路的原國總督府學校。

第二小學則暫設在葉櫻町(今館陶路)一所原國人的倉庫中。

1917年,由日本陸軍省投資,

小山良樹、田原正義和長岡藏平設計的花咲町(今武定路)新校舍完成,

第一小學遷至此處,廣西路的小學又改為第二小學。

早期的第一小學佔地廣大,正門在今武定路上,

學校附設的大運動場則面向平路。

進入正門是一座“コ”字形教學樓,高大氣派,

具有日本近代復興式風格的校舍建築。

按照1919年出版的《青島守備軍步兵第四大隊寫真帖》記載,

這所學校可容納2000名學生。


◇  ◇  ◇  ◇

イメージ 5

  ↑青島第3日本国民学校跡。現青島医学院。




以上の小学校や中等学校のほかに、

1939年(昭和14年)12月12日、東亜医科学院開校。

1941年(昭和16年)10月8日、東亜医科学院新築校舎落成。

という記事が「青島日本中学校校史」の年表に載っています。

東亜医科学院は、1944年(昭和19年)7月31日、

青島医科専門学校に改称されましたが、

この項についてはまだ資料不足ですので

詳しくは次の機会にご報告させていただきます。



また先日、中島道子様より「資料・青島日本高等女学校」を

送っていただきました。

青島高女には

小学校の教諭を育成する全寮制の「専攻科」があり、

中島道子さんも在籍していました。

中国各地(北京、天津、上海、済南など)から学生が集まり、

当時の青島の教育環境がいかに先駆的だったか、

次回にご報告させていただきます。


(※以上「青島日本中学校校史 」「資料・青島日本高等女学校」

をもとに記事をまとめました)

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閉じる コメント(7)

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青島に於ける各種日本人学校の設立が如何になされたかが総てわかりました。すごい資料が出て来た物ですね。特に私が卒業した新設された第三国民学校の全景写真(第1→第3に転入)を拝見して、一気に昔そこで学んだ時期の思い出が胸一杯に拡がって来ました。勿論第1に在学していた時の思いも一緒です。

2010/1/12(火) 午前 10:27 [ ターチャン ] 返信する

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日清戦争の後、三国干渉を手がかりに青島をせしめたドイツですが、それから20年ぐらいの間にいい建物を建ててますね。
我が母校の2小は参謀本部だったと聞いていましたが、実科学校だったんですか。正面階段を上がった先にある樹木は樫類で、秋にドングリがなっているのを、石を投げて落としていました。
建物の内部は、階段の手すりも装飾を施した鉄で、あとから造った新校舎に比べると、暗いけれども重厚そのものでした。

青島学院の歴史も立派ですね。欧米の植民地政策とは違っています。青島が戦後も治安がよかった理由のひとつかもしれませんね。 削除

2010/1/12(火) 午前 11:37 [ 直大 ] 返信する

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本当に感動的なお話です。

無知と野蛮こそが世界の平和の最大の敵です。
私もも同じようなことを、考えて四国の片田舎で小さな私塾を二十年近くやりましたから教育の大切さと同時に難しさ楽しさも知っています。
それにしても建築物として見るだけでも大いに価値があります。内地の薄っぺらさとは大違いです。

2010/1/12(火) 午後 1:08 [ zen*o*hara6* ] 返信する

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tadaoさん、これだけ多くの学校を短期間に建設開校させたことは青島ならではです。特に中学、高女には寄宿舎を設け、中国各地から生徒を受け入れたことは特筆に価すると思います。
資料を調べているうちに、青島を「教育の街」と命名しても恥ずかしくないなあと思いました。
昨年開校された青島日本人学校もすばらしい学校です。「教育の街」の伝統を受け継ぐにふさわしい学校です。みんなで支えていきましょう。

2010/1/12(火) 午後 3:49 bad**uan1*3 返信する

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直大さん、ドイツ建築の素晴らしさが青島の景観を支えていますね。それに負けじと立派な建築物を競った当時の日本人たちの気概もよしとしましょう。
第一、第二小学校の内部公開を市政府に働きかけるよう日本人会にお願いしてありますが、実現すれば第二小学校のドイツ建築の粋が見られますね。それと同時にあの懐かしい第一小学校の中が見られればこんなうれしいことはありません。
青島学院の存在は今後の東アジア諸国との関係を考える上での大事なモデルですね。
これからも青島のよさを広くアピールしていきましょう。

2010/1/12(火) 午後 4:37 bad**uan1*3 返信する

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ぜんそうはらさんの「こころざし」を、われわれみんなのこころざしとして、まず青島からこつこつとはじめましょう。
世界中の心と心が結びつくこと、それはけっして夢物語ではないと思います。
やるか、やらないかです。

2010/1/12(火) 午後 4:47 bad**uan1*3 返信する

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異議なし。

二十歳の一日も八十歳の一日も同じ一日です。若い人には未来と時間はあるなどと、それは統計学。余命がどれだけかの数字の問題でしかありません。

2010/1/14(木) 午前 11:57 [ zen*o*hara6* ] 返信する

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